第七十八話:甘い罠
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
トイレがなかなか見つからず、上階から下りて来た幼い少女は柳と階段で別れた。話を聞けば、どうやら迷っていたようで一階に下りれば見つかると入った場所にもやはりトイレはなく、柳を頼ったとのこと。
一緒に親の元まで行こうか、と尋ねれば、階段を上がってすぐのレストランに親がいるとのことで彼女は手を振ってレストランの中に入っていった。
そして、彼女も一行がいる場所に戻ろうと後ろを振り返れば、今夜一夜限りの婚約者殿は相変わらず綺麗な笑みを浮かべて柳に近付いて来た。
「柳さん」
「あっ、秀さん」
「ダメですよ、いくら子供といっても一人で出歩いては」
「ごめんなさい」
「まあ、そこが柳さんらしいんですけどね」
秀はくすくす笑った。いかにも柳らしいという表情に、彼女はもう一度すみませんと謝る。
「さっ、では行きましょうか」
秀は柳の手を取り階段を上り始める。その行動に柳は首を傾げ、不思議そうな目を向けて尋ねた。
「あの、秀さん、どこに行くんですか?」
「少し付き合っていただけますか? 連れていきたいところがあるんです」
「でも……」
「言うことを聞いてください、婚約者殿」
にっこりと笑う秀だが、どこかいつもと違って違和感のある笑い方だと思う。
しかし、強く握られた手に逆らう力など柳にはなく、少し歩きにくいなと思いながらも、引っ張られるままに柳は付いていった。
それからエレベーターで上階に上り、柳はホテルの一室に連れて来られた。しかし、明かりも点けずに秀は柳の背中をとんと押してにっこり微笑む。
「すみません、少しの間ここにいてください」
「どうしてです……!!」
尋ねようとした口は塞がれる。薬だ、と思った瞬間、彼女は意識が遠退きその場に崩れた。
それから秀は柳がはめていた指輪をすっと抜き取ると、いきなりその体は変形し柳とうり二つになる。その様子を監視カメラから見ていたものは形のよい笑みを浮かべた。
一方、柳が帰ってこないので、どうしたんだろうと末っ子組が騒ぎ始め、高校生達は探しに行こうかと提案し、沙南が秀に探してきなさいと命じたところへ丁度柳は戻って来た。
「あっ、柳姉ちゃんおかえり!」
「遅かったね、お姉ちゃん」
「うん、ちょっとね。あの、秀さん」
「何でしょうか」
柳が少し不安そうに秀の名を呼ぶ。それは何かあったときの顔だと妹達はすぐに感づいた。
「その……、少し気になったことがありまして、ついて来ていただけますか?」
本当に何か気になってるのだと悟ったのだろうか、秀はすっと席を立ち上がった。
「……分かりました。沙南ちゃん、悪童達のことよろしくお願いします」
「ええ」
行ってきます、と告げて柳はすっと秀の腕に手を回した。今日は婚約者として振る舞うように秀から言われていると全員が知っているので、誰もが当たり前だと思う行動ではあるが、沙南は何となく違和感を感じているのかう〜んと考え込み始めた。
「どうしたんだ、沙南ちゃん」
「えっと、何て言うのかな、柳ちゃんから秀さんの腕を掴むなんてことまずないような気がしない?」
「そうですね、いくら婚約者として振る舞うように言われても姉さんの性格上、秀さんに触れるなんてことまず出来ませんよね」
いつも秀にからかわれ触れられ、さっきエスコートされているときも顔を真っ赤にして腕を組んでいた柳が取った行動。
秀の作戦を遂行するためだろうか、とも思うが、頬に少し朱みが増す程度で自分の感情を抑えられるほど、柳は器用じゃないと紫月は思う。
「だけどさ、あの指輪って秀兄貴が柳姉ちゃんにプレゼントしたものなんだろ? それで本当に付き合うことになったとか?」
「プレゼントとは違いますよ。確かに秀さんのことですから面白がって薬指にはめたとは思いますけど、あれは発信機付きの指輪です。
翔君だって今回はミス・セディが秀さんと姉さんのことを調べてるって聞いてるでしょう? ああやって秀さんがやけに姉さんに構ってきたのも作戦のうちの一つなんだと思いますが」
紫月の言うことは確かに一理あるとは思う。
ここ最近秀がやけに柳に構っていたのは事実だし、それに啓吾が見事なまでのシスコンを披露してくれてもいたわけだ。もちろん、シスコンは本心だろうが……
しかし、それでも翔は疑問に思っていた。
「そうかなあ? だいたい秀兄貴ってさ、敵をより不快にさせるために厭味をたっぷり含んだ回りくどいことをする性格してるけど、いくら柳姉ちゃんとのことを調べられてるからって、柳姉ちゃんを利用するとは思えないんだけど?」
むしろ柳姉ちゃんにそんなことやってたら俺でも殴り飛ばしてるね、と続けて紫月ははっとした。
彼女は急いで鞄の中からコンパクトを取りだし、そういうことだったのかと秀の策略を理解する。
「翔君、ありがとうございます。あなたが秀さんの弟でよかった」
「えっ?」
「どうやら私達全員、秀さんに一杯食わされてたみたいです」
紫月はニッと微笑を浮かべた。
柳に連れられてエレベーターに乗り込んだ秀は、腕を組んで来る柳に平然として尋ねた。
「柳さん、僕をどこに連れていってくれるのですか?」
「屋上です。その……、秀さんと二人きりになりたくて……」
「……柳さんらしくないですね。ハワード内にいるというのに」
「ごめんなさい……」
柳が顔を赤くして俯く。そんな彼女を見て秀はその頬にすっと手を添えて顔を近づけると、彼女はさらに赤くなって俯いてしまう。
そして、秀は微笑を浮かべてまるで誘うかのように甘く囁いた。
「柳さん、さっき僕が耳元で囁いた言葉言ってくれます?」
「えっ?」
「柳さんだって僕と同じこと言ったんですから構わないでしょう?」
親指が唇をなぞる。ひどく甘く、まるで蕩けてしまいそうな空気が二人を包み込む。
「もう一度聞かせてください、君の声で」
「……愛してます、秀さん」
それに満足した青年は最上階の部屋につくなり柳の手をぐっと引っ張り、それは艶やかな笑みを浮かべて囁いた。
「……そうですか、だけどその言葉は本人に自発的に言わせたいですね」
「なっ!!」
次の瞬間、柳の片手は捻り上げられる。何事かと柳の表情は歪んだが、まるで射抜くような視線と言葉が彼女に刺さり出した。
「いけませんね、柳さんと同じ顔で同じ身体をしていても、やっぱり彼女から言われないと僕は全く嬉しくないようです!」
「秀さん、痛い!」
「容姿を変えてもらえますか? 本物の彼女が汚れてしまう!」
「ああっ!!」
さらに強く捻り上げると柳と全く同じ声の苦痛が響き、ちっと舌打ちして彼女を突き飛ばした。
するとその容姿は崩れただの人の形をした人形へと変わり、指にはめていた指輪がころころと転がっていく。
そして、その転がっていった方を向いて秀は語り始めた。
「よく御聞きなさい。僕はホテルの控室で柳さんにこう言ったんですよ。『この部屋は盗聴されています。私も愛しています、秀さんと答えてください』と。
今回は僕達のことをやけに調べられて非常に不愉快でしたからね、ですからおそらくあなたが一番嫌がる方法を取らせていただきましたよ。そこに隠れてないで出て来てはいかがですか? ミス・セディ!」
女は地面に転がった指輪を細長い指でそっと拾い上げる。
そして、ついに秀と向き合うのだった……
さあ、いよいよ秀さんの毒舌と超が付くほどの性格の歪みがどんどん出てきますよ!
にしても、柳ちゃんを婚約者に仕立てた理由がセディがおそらく嫌がるからという理由でですか!?
そりゃ沙南ちゃんや翔がちょっとひどいといいそうですが、まだこれは理由の一つにすぎません。
そしてその秀の本当の狙いに紫月ちゃんが感づいたみたいで一杯食わされたと……
一体秀の狙いってなんなんだろう??