第六十一話:翔の疑問
いつになく沙南の笑顔は全開だったが、龍の表情は苦笑いといったところ。ただ、沙南は僅かな時間でも龍に会える口実が出来て嬉しいのだ。
「はいどうぞ、忘れん坊さん」
「すまない、助かったよ」
祭の翌日、沙南は龍の忘れ物を届けに聖蘭病院を訪れていた。
いつもなら秀が車で訪れているのだが、本日は秀がバイトなので変わりに沙南が届けに来たのである。
「意外と抜けてるところあるんだな、龍先生も」
「啓吾先生は意外と抜けてないわよね?」
「おい……」
確かにちゃらんぽらんな性格をしている割には啓吾はしっかりしている。そのやり取りに龍は相変わらずだな、と思いながら沙南に頭を下げた。
「以後気をつけます」
「あら、龍さんの白衣姿なかなか見られないもの。時々忘れ物してくれた方がレアな感じがするけど?」
悪戯っぽい表情を浮かべる沙南に、龍は本当にこの少女には頭が上がらないなと思う。いつだって彼女の切り返しは本当に鮮やかだ。
「だけど啓吾さんが白衣来てるのが一番不思議かなぁ?」
「よく言われるよ。見た目は医者っぽくないからな」
「気にしてました?」
「いいや、ただ沙南お嬢さんが研修医として来たときビシバシ鍛えてやろうかと……」
「ああ〜っ! ごめんなさい、啓吾先生っ!」
周りが温かい笑いに包まれてさらに賑やかになる。医者を、特に心臓外科を目指そうという沙南にとっておそらくこのまま啓吾が聖蘭病院に勤務していれば、彼が指導医になる可能性は高い。
そう遠くない未来、この医局に沙南が研修医として働いてるところを龍と紗枝は想像するのだった。
「それじゃあ私、そろそろ帰るわね」
「ああ、本当にどうもありがとう」
「気をつけて帰れよ」
「またいらっしゃいね!」
医者達に見送られ、沙南は手を振って医局を後にした。
それから廊下を歩き、医院長室の前に差し掛かり、父に会おうなんて考えすら持たず通り過ぎようとした時、彼女の進行方向からカツカツというヒール独特の音をさせてスーパーモデル級の美女が歩いて来た。
「えっ?」
思わず声が出る。それは沙南が夢で見た妖姫と同じ顔をした美女、セディだったからだ。
そして、セディは沙南を目にするなりニコリと微笑んで挨拶して来る。
「こんにちは」
「あっ、こんにちは」
沙南は慌てて頭を下げる。いくら夢の中で柳泉を泣かした妖姫と同じ顔をしていても、目の前にいる美女には何の関係もない話だ。
しかし、沙南の態度を少し疑問に思ったのか、セディは優美な声で尋ねる。
「私の顔に何か付いてるかしら?」
「いえ、海外のお客様なんて珍しいなと思って……」
「そう? だけどこの病院はアメリカ帰りの医者が多いと聞いているわ。ドクター龍がいるのでしょう?」
クスクス笑うセディを見て、とりあえずかわせたかな、と沙南は思う。初対面の人の表情を凝視することは礼儀に反するに違いないのだから。
それからセディは笑いをおさめ、綺麗な表情を浮かべて沙南に告げた。
「まだお話したいのだけれど、そろそろ時間なの。また会いましょう、サナ・オリハラ」
「えっ? 私の名前」
どうして知ってるの、と尋ねる前に医院長室の扉が開き、ふわりとした香水の匂いが沙南の鼻をくすぐって、セディは医院長室に入っていった。
そして同時刻、ようやく漢字のプリントを全てやり終えて机に突っ伏してしまった翔に、柳はニッコリ笑って麦茶と水羊羹を出してやった。
「はい、お疲れ様」
「柳姉ちゃ〜ん、俺もう本気でペン持てなくなりそうなんですけど……」
「ふふっ、紫月のスパルタから解放される宿題なんて、漢字の書き取りと読書感想文しかないものね」
全くである。夏休み三日でここまで宿題が終わったことなんてまずない。
紫月がいる時は難しい問題を、いない時は自分が出来ることをさっさと終わらせなさい、と実に効率の良い宿題のやり方を命じられてしまえば、翔はそれに従うしかないのである。
そんな彼女は本日、秀と喫茶店でバイトだ。テスト終了日に翔とランチを食べに行った喫茶店のマスターにスカウトされたのである。
ただ、いくら顔見知りの喫茶店で働くことになったとはいえ、紫月の性格を考えれば少しだけ翔は心配だった。
「だけど、あいつに接客業なんて勤まるのかなぁ?」
「大丈夫よ。紫月、昔に比べて大分笑えるようになったもの。これも天宮家のおかげかな」
啓吾と一緒であまり人と関わることが好きじゃなかった紫月が、前に比べて人に心を開くようになっている。姉として妹の表情が豊かになっていくことは本当に嬉しいものだ。
そして、ニッコリ笑う柳に、翔は数日前から少し気になっていたことを尋ねてみた。
「それより柳姉ちゃん、紫月って実は年上の彼氏がいたりする?」
「紫月に?」
「ああ。この前の夜、紫月と一緒に歩いてる彼氏を見たって」
柳は少し考え込んだ。この数日、紫月が夜に外出していたのは一度だけだ。
「……夜、だったら秀さんじゃないかな?」
「秀兄貴?」
「ええ、あの二人すごく仲がいいでしょう? 紫月は秀さんのこと慕ってるから、あの喫茶店で一緒にバイトするって決めたみたいだし」
確かにどこか入りづらい雰囲気を二人は作り出している。それこそ恋人にも間違えられそうな雰囲気だ。クラスメートが勘違いしてもおかしくはない。
それから翔はさらに疑問に思っていたことがあった。
「だったら、紫月は秀兄貴が好きなのかなぁ?」
「それはないと思うわよ?」
「どうして?」
随分とあっさり答えられて翔は目を丸くした。
「う〜ん、何て言ったら良いのかな。昨日秀さんに射的で紅い簪をプレゼントしてもらったみたいなんだけど、それを大事にしてるってわけじゃないのよね。
普通、好きな人から貰ったものってちゃんとしまっておいたりすると思うんだけど、紫月は何かそれを有効活用しようとしてるのよ……」
しかもプレゼントした秀もそれには大賛成のようで、今日紫月は秀と何やら相談しながらバイトにいったという……
それを聞いて翔はグビッと麦茶を飲んで何となくホッとした表情を浮かべた。
「……そっか、だったらいいや」
「翔君、嫉妬してたの?」
「違うよ! もし紫月が変な奴と付き合ってたら啓吾さんが出て来てまずいことになるだろうし、秀兄貴のことが好きだったら、柳姉ちゃんがいるから失恋決定じゃんか!」
「翔君、秀さんは私のことなんか」
「好きに決まってる! 秀兄貴はプライド高過ぎるから気付いてないんだ! じゃないとあの超低血圧が起こしに来いなんて言うもんか!」
「えっ? 秀さん低血圧なの?」
柳は信じられないという表情を浮かべた。何度か秀を起こしに行ってるが、朝から秀はいたずらモード全開であり、とても低血圧なんて思えない。
「そりゃもう、俺が起こしに行った日なんか朝から八つ当たりされるし、龍兄貴や沙南ちゃんには当たらないけど暫くぼーっとしてるみたいでさ。
兄弟の中で一番寝方に問題があるのは純だけど、寝起きは秀兄貴が最悪だね」
そう語る翔にそれでもやっぱり信じられないなぁ、と柳は言うと、翔は低血圧の秀に会わない柳の方がすごい、と返した。
「だけど、柳姉ちゃんが秀兄貴の嫁に来てくれたら俺達の食生活は維持されるんだよな」
「翔君っ!」
「だってさ、龍兄貴は純が成人するまで結婚しないなんて言ってるんだぜ? 下手したら沙南ちゃんが愛想尽かして龍兄貴は捨てられちまうよ。
だったら、柳姉ちゃんが秀兄貴の嫁に来てくれれば弟としては大歓迎だね」
多分純も同じこというと思う、と言えば柳はさらに赤くなるのだった。
沙南ちゃん心臓外科希望なんだ……
そして啓吾兄さん、心臓外科専攻で救命にも借り出されるすごいドクターだったりするんだ……
さて、今回は翔の嫉妬がちょっと解消されました。
最近、兄の秀に紫月ちゃんを取り上げられていたので(笑)
だけど当然、紫月ちゃんは秀さんを慕ってますので翔君のことなんかお構いなく裏社会に浸っています。
そして赤いかんざしで何をしようと企んでるんだ紫月!
今日もう一話アップできるか微妙なので、出来なかったらすみませんm(__)m