第四十四話:二人の距離
時計の秒針がカチカチと部屋に響くほど天宮家は静かだった。時刻は午前二時、末っ子組を除く全員が家長と沙南の帰還を待っている。
車で迎えに来る場所というなら多少距離のある場所に連れていかれたのだろうと予測出来るが、こうも遅いとなると何かがあったのではないかと不安は募るもので……
そんな中、ただ待っているのも暇だからと単行本を一つ借りて読み耽っていた啓吾はついにそれを読み終え、チラリと掛け時計に目をやった。
「二時か……」
静かに啓吾は呟くと立ち上がり、いきなり翔と紫月の身体は浮かび上がった。
「啓吾さん、何するんだよ!?」
「兄さん!?」
「高校生の夜更かしはここまで。多分そろそろ龍が戻って来るだろうからお前達はもう寝ろ」
問答無用と言わんばかりに二人の身体はリビングの外に出され、階段を浮きながら上っていく。
「訳わかんねぇよ! 下ろせっ!」
「私達はまだ平気です!」
「ここまで遅いと大人の事情も絡んでくるもんだ。だから部屋で大人しく寝てろ」
さすがにそれだけはまだ未成年者が知るには早いと、それぞれの部屋に二人を重力の力を使って閉じ込めた。何か騒いでるが、すぐに諦めるだろうと啓吾は一つ溜息を吐き出して階段を下りていった。
行きに数時間車でかかっても帰りは走って数十分。それが天宮龍のスピードだった。啓吾が高校生二人を部屋に閉じ込めた直後、龍は沙南を抱えて帰って来た。
「兄さん!!」
「服ボロボロじゃない! 大丈夫なの龍ちゃん!?」
「沙南ちゃんは無事ですか!?」
秀、紗枝、柳は龍の元に駆け寄った。龍は静かに頷いて秀に命じる。
「秀、すぐにネオスチグミン持ってこい」
「…分かりました」
その薬の名を聞いて全員が納得した。沙南が媚薬を打たれているということに……
そして啓吾は階段から降りて来て龍と視線が合う。何となく龍が帰って来る前から龍がおかしいという気配を感じ取っていたのだ。
「啓吾、悪いが今夜俺の部屋で沙南ちゃんを」
「ああ、患者優先だ。俺はソファーで寝るなり次男坊の部屋に転がり込むなりするから構わん」
「すまない」
それだけ会話を交わして龍は自分の部屋に沙南を運んでいった。
全ての処置が終わり、ようやく一息着いたのは一時間後だった。和室で眠っている末っ子組の健康な寝顔を見て龍はホッとする。
きっと彼等も自分達を心配してくれたのだろうなと思い、柔らかな髪を撫でてやった。
「ほら、龍」
「サンキュー」
啓吾から冷えた缶ビールを差し出され龍はそれを受け取る。そして二人は縁側に移動して腰掛けた。夜風がやけに心地好かった。
「おつかれ」
「ああ」
本来なら楽しい酒宴になるはずだったのに静かに二人は乾杯することになる。ビールを一口飲んで啓吾は尋ねた。
「沙南お嬢さん、けっこう強力な媚薬打たれてたな」
「ああ……」
医者の目はごまかせない。自分の様子と沙南の様子で何があったかなどきっと予測がついてるのだろう。
「抱いたのか?」
「抱けなかった……」
「…やっぱりヘタレだな」
「だと思う……」
声が静かに夜に溶けていく。龍はもう一口ビールを飲んで語り始めた。
「正直参った……薬物中毒の患者なんていくらでも診てきたのに、沙南ちゃんに抱いてくれって言われたとき理性より本能が動き出すとこだった。医者失格だな……」
「んなことねぇだろ。恋愛感情なんてものは医者云々じゃないだろ」
「ああ、だけどあのまま抱いてたら絶対後悔してた」
医者としての自分と男としての自分、その間で揺れることがこんなにきついことだったのかと思い知らされた。
大人といっても恋愛初心者である龍にとってそれはあまりにも衝撃的な事だったのである。きっと情けない顔を沙南に見せていたのだろう。
「龍ちゃんがそう思うなら正解なんじゃない?」
「紗枝ちゃん……」
缶ビールを持って紗枝も龍の隣に座った。ここからは大人に任せなさい、と秀と柳を部屋に押し込んで来た後だった。
「女の立場から言わせてもらうと龍ちゃんは正しいと思う。
きっと抱いて楽にしてあげたとしても沙南ちゃんは責めはしなかっただろうけど、まだ十八だもの、悩みはしたと思うな」
確かにそうかもな、と二人の男はぼんやり思う。女心を少しは勉強しなさいね、と微笑を浮かべながら紗枝は付け加えた。
「正直、医者なら身内に何か起こったときでもすぐに助けられると思ってたんだがな……」
「そう万能でもないだろ。薬は反則技だ。お前なんだかんだで沙南お嬢さんが大切なんだろ?
だったら今回は医者としての自分を責めるより男として考えろ。そっちの方が納得いくことだってあるさ」
龍と紗枝は目を丸くした。何だが啓吾かららしくない言葉が出た気がする。
そんな何も反応を返してこない二人に啓吾は尋ねる。
「どうした?」
「いや、なんかな……」
「ただの節操無しだと思ってたのに……」
二人は思い思いの言葉だけを口にすると啓吾は微妙な表情を浮かべて紗枝に反論した。
「おい紗枝、最近俺に対する認識節操無しになってないか?」
「あら、だったら龍ちゃんの前で全部バラしとく?」
「いや、それもどうかと……」
「口止め料は何料理にしようかしら」
二人の応酬が始まる。それが非常に心地好い。こんな仲間を持っていて良かったと龍は思う。口元にスッと笑みを浮かべて龍は二人の名を呼んだ。
「啓吾、紗枝ちゃん」
「ん?」
「なぁに?」
「…助かる」
「どういたしまして」
啓吾と紗枝は少し元気を取り戻してくれた龍に笑みを向けた。この分ならきっと明日はいつも通りだ。
それから啓吾は残りのビールをグッと飲み干して立ち上がった。
「んじゃ、今夜の看病は龍に任せるとして俺達も寝るとするか」
「そうね。じゃ、おやすみ龍ちゃん」
「ああ」
三人は解散していった。
龍が自室に戻ると沙南は目を覚ましていた。龍は少し戸惑いながらも医者の顔をしてベットの脇に腰を下ろす。
「龍、さん……」
「…気分はどうだい?」
「随分楽よ……」
「なら良かった」
スッと額に手を当て熱をはかる。薬が効いてきたのか大分落ち着いていた。
これなら大丈夫だと龍は沙南に笑いかける。
しかし、彼女の表情は曇っていた。
「龍さん…軽蔑した?」
「しないさ、沙南ちゃんは沙南ちゃんだろ?」
すぐに龍は答える。薬の戯言など気にする必要はないよ、と優しく髪を撫でてやる。
「だけど顔合わせるの辛くない?」
「どうして?」
「何て言えば良いのかな……悲しく見えたんだ、龍さんの表情」
ああ、やっぱり自分は情けない顔を見せてたんだなと龍は思う。そしてさらに沙南は続けた。
「龍さん、私家に戻った方が」
「ダメだ」
「えっ?」
龍の髪を撫でてる手が止まる。真剣な目が沙南に向けられていた。
「沙南ちゃんが家にいてくれないと困る」
「…コーヒーが飲めなくなるから?」
「それもあるけど、俺は……ずっとこの家に沙南ちゃんがいてくれるのが当たり前だってそう思ってるらしい」
龍にとっては上出来な言葉だった。医者としてより天宮龍という個人の気持ちだった。
それでも沙南には充分過ぎる言葉だった。傍にいることも出来なくなるほど、微妙な関係になってしまうのではないかと内心不安だったから……
「…仕方ないなぁ。コーヒー一つまともに煎れられないんだもんね」
「面目ないね」
穏やかな笑みをお互い向け合う。この距離が二人なんだと改めてそう思う。
龍はすっと立ち上がり沙南に告げた。
「さっ、ゆっくり眠ったらいいよ。それに何かあったら言ってくれたらいいから」
「ふふ、スーパードクターを独占なんて患者冥利に尽きるわね」
やっといつもの調子に戻って来た。二人はこれが一番なんだとそう思いながら沙南は眠りについていった……
龍と沙南ちゃんの恋愛事情はいかがだったでしょうか?
きっとぬるい!と苦情はきそうですが、まだ完全にくっつけるのは早いかなぁとやめときました(笑)
ちなみに薬の名前、たしか媚薬の解毒剤の一種だったかなぁと思うのでそのままスルーしといてください。
ちょっと薬名が出ると医者っぽいですよね(オイ!)
次回は彼等は反撃に転じるのかお楽しみに!