第二百七十話:医者組の会合
シュバルツの元に集まっていた医者達と大学生組は、龍達が参加するはずだった学会の論文に目を通していた。
シュバルツは龍と紗枝に彼の経験と技術を踏まえて、今後の治療の在り方を説いているが、啓吾は未来の教え子が読んでいる論文に注目する。
「何だ、沙南お嬢さんロス手術に興味があるのか?」
「興味というより心臓外科医を目指すなら覚えておくべきなんでしょう?」
医療の現場で分からないはタブーだ。知識を詰め込み、患者の治療に全力を尽くす。龍をずっと見て来たからこそ、それが医者の在り方だと沙南は思っている。
「なるほどな。だが、この術式は俺も龍もあんまり切らないものだな」
「長期の再手術回避率は良好みたいだけど……」
「ああ、だけどこいつは自己肺動脈弁を用いて大動脈弁置換術を行うだろ。つまり大動脈弁への置換術に加え、摘出した肺動脈弁位にも人工弁を植え込まなければならない高難易度のオペになるわけ。
まっ、いろんな術式は頭に詰めとくのと詰めとかないのじゃ、現場に出たときに全然違うけどな」
そして、啓吾の視線は秀に向く。高難易度のオペに取り組むのは執刀医だけの力で乗り切れるものではない。執刀に集中させてくれる存在の技量も当然問われて来るのだ。
「それにこのオペをする時にはボンコツな麻酔科医じゃ話にならないぜ、次男坊」
明らかに挑発した態度で告げる啓吾に秀の柳眉がピクリと動く。いかにも応酬が繰り広げられそうな空気だが、まだ医者にすらなっていない秀は啓吾を見返すことは出来ない。
しかし、それが分かっているからこそ言えることも努力することも出来るのだ。
「いいですよ、数年後には啓吾さんの執刀が悪いと言ってやりますから」
「ああ、精々俺を執刀だけに集中させろよ?」
啓吾はニヤリと笑った。これは助手になったら大変だな、と沙南は思うが、この二人に一番悩まされるのが龍になることは言うまでもない……
そんな二人のやり取りを見ながら、紗枝はくすくすと笑った。
「あの二人、組むことだけは決まってるのね」
「ああ、似た者同士だからな。いいオペすると思うよ」
ただ、同じ医局には絶対一緒にいない方がいい、とは敢えて言わないが……
そして、もう一人の未来の医者は兄と恋人の応酬を聞き流しながら夢中で論文を読んでいる。その姿は好奇心旺盛な少女のようだ。
「柳ちゃんは内科医志望だったかな?」
「はい、兄さんが外科だから内科っていう理由からだったんですけど、のめり込んじゃって」
少しはにかみながら告げる柳に龍達は穏やかな気持ちになる。この空気は患者にとってもきっと有り難がられるに違いない。
まあ、秀があれだけ穏やかな笑みを浮かべるぐらいなのだから、天性の才能なのかもしれないが。
「だったら、柳ちゃんは俺が指導医になるかな」
「龍さんがなってくれるんですか!」
「ああ、臨床に興味があるならいくらでも積ませてあげたいし」
「わあ〜、ありがとうございます!」
柳はそれはまばゆいばかりの笑顔になった。しかし、龍がそう申し出る理由がある。柳を他の誰かに任せるといろいろな意味で病院が混乱する気がするからだ。
折角柳が一生懸命頑張っていても、下手な環境を与えて才能を潰してしまうのは惜しい。
だが、潰すつもりで鍛えたいという医者は自分の相棒だったりする。その顔は様々な思惑に満ちている。
「次男坊は俺がみっちり鍛えてやるからな!」
「おことわりします!」
「何言ってやがる。うちの病院は研修医時代はいろんな科を経験出来る仕組みだろうが。それに指導したい研修医は希望を出せばこっちから指定できるし」
「パワハラなんて御免です!」
「ああ、心配すんな。患者に迷惑かからない程度にしかやらねぇからよ」
あくまでもやる気満々らしい。いつか聖蘭病院が潰れるんじゃないかと、龍はそれは深い溜息をついた。
しかし、秀の指導の話となればシュバルツも申し出る。それは初対面の時から彼が考えていたことだ。
「だがその前に秀、来年私のもとに来るか?」
「シュバルツ博士」
「こっちには優秀な麻酔科医が揃ってるからな。啓吾も龍も麻酔一本に集中したことはないだろ?」
「そりゃ、麻酔科医じゃねぇからな」
「それで僕の指導医になるつもりだったんですか!?」
「その辺の外科医よりは詳しいに決まってるだろ。何回オペしてると思ってるんだ」
ただ、専門にしていないだけで自分でかけてオペすることだってあるのだ。それは龍も同じである。
そして、シュバルツは一旦自分が開いていた論文をテーブルの上に置き、ソファーに浅く腰掛けて語り出した。
「医者が足りないように、麻酔のスペシャリストは世界的にも不足している。特に高齢化を迎える世の中で若い医者は育たなければならないにも関わらず、日本はそういった環境が少ないだろう?」
シュバルツの言う通り、医者を育てることに関して日本の環境は整っていると言い難い部分はある。龍達もアメリカで臨床経験を積んでいたからこそ、つまらない医者にならずに済んだと思うことだってあるぐらいだ。
秀もそれは思うところがあるらしく俯いた。実際に聖蘭病院も患者には全く関係ない派閥の所為で、龍達がよくオペの交渉に難航しているぐらいなのだから。
医者は切らなければ伸びない、生前祖父がよく言っていた言葉が最近秀も考えさせられるようになっていた。
「秀、龍や啓吾に追い付きたければ私の元へ来い。いや、少しぐらい二人を慌てさせるぐらいがいいかもな」
ニヤリと龍達に笑いかけると彼等は苦笑した。成長するなら自分達を追い越す勢いでも構わないと思うのは確かだ。もちろん、そう簡単に抜かれてやるつもりもないが。
しかし、シュバルツの表情が突然師匠としての顔に変わる。そして、二人に恐怖を抱かせるようなことを言い出した。
「だが啓吾、それに龍。お前達もすぐに日本に帰れると思うな」
「へっ?」
思わず上げてしまう間抜けな声。それから始まるのは説教だ。
「お前達のこの前の緊急オペの離脱時間が遅すぎる! 一体どれだけサボってたんだ?」
「いや、あれは……なあ、龍」
「ああ、銃創は滅多にやらないオペだしな……」
「問答無用っ! 聖蘭病院に連絡は入れておいた。お前達が勘を取り戻すまでERにぶち込んでやるから覚悟しておけ」
死亡フラグが立った、本気で二人はそう思った。しかし、紗枝にはとても穏やかな表情を浮かべて指導と一緒に買い物に行く約束を取り付けている。
半分紗枝と遊びたいがために二人を監禁するような気がしてならないが、尋ねれば間違いなく肯定してくれるだろう。
「どうやら今年の夏休みはアメリカ旅行で終わっちゃいそうね」
「本当。でも沙南ちゃん、私はこんなに思い出いっぱいの夏休みなんて初めてよ」
「私も。柳ちゃんのおかげかな」
「私も沙南ちゃんのおかげよ」
女の子の友情にほのぼのとした空気が漂う。こんな穏やかな日々を守りたいから自分達は戦うのだと、龍は改めて思う。そして、その未来も……
沙南を穏やかな目で見ていることに啓吾と紗枝は気付いて、何やら互いに同じようなことを思ったらしく微笑を浮かべた。それに気付いた他のメンバーも何やら同じ意見らしい。
啓吾は立ち上がると、すっと紗枝の手を取った。それには紗枝も目を丸くするが、とりあえず付き合えという表情に抗議することはやめる。
「啓吾?」
「龍、今夜は部屋に戻んねぇからお前の好きなようにしろ。次男坊、全員に今夜は龍の部屋に立入禁止と伝えとけよ」
「はい、分かりました。シュバルツ博士、留学の件、もう少し詳しく話していただけますか? 柳さんも踏まえて」
「ああ」
そう言って一行は部屋から出ていく。当然沙南にはそこにいろと言い残して……
しかし、いきなり出て行った一行に沙南は首を傾げた。
「皆どうしたのかしら?」
「決戦の前だから恋人同士で過ごしたいんだろうね」
「なるほど。じゃあ龍さん、柳ちゃんを取られちゃって今夜は寂しい主に付き合ってくれる?」
あくまでも冗談っぽく沙南は言う。ただ、そう告げる内心はドキドキが止まらないのだけれど。
そして、いつものように家来として龍は付き合ってくれるのだと思ったが、今日は少し雰囲気が違う。笑ってすぐに了承してくれない龍に沙南は不思議そうな表情を浮かべた。
「龍さん?」
「沙南ちゃん、今夜話したいことがあるんだ」
いつになく真剣な表情に鼓動は高鳴った……
医者組の会合ってことでしたが、本当指導熱心な医者達です。
ただ、柳ちゃんの指導医が龍というのは作者も正解かなと思います。
他の誰かに任せると、間違いなくシスコンと腹黒が黙ってませんからね(笑)
だけど啓吾兄さん、秀の指導医にもなりたいんだ……
間違いなく先輩として扱き倒す気満々だ……
そりゃ龍が気苦労しそうな感じが……
ん、だから柳ちゃんの指導医を願い出たのか?
そして……!
ついに、今度こそついに龍と沙南ちゃんのラブストーリーが展開されるのか!!
その答えはイエスです!!
ただ、どこまで書けるのかが問題なだけですが。
あっ、でもまたいつも通りになったらすみません(笑)