第二百二十九話:走り出した恋
一日も終わった頃、沙南が眠っている部屋に龍が近付いてきた気配を感じて桜姫は立ち上がるとドアを開けた。やはり主と従者の関係だった性か、相手の気配を感じることが可能らしい。
「主、お疲れ様でした」
「ああ、桜姫も休んでくれ。ありがとう」
「いいえ、もったいないお言葉です。失礼致します」
お邪魔だろうからとは敢えて言わず、桜姫は頭を下げて部屋から出て行った。そして龍は眠っている沙南の額に触れて一言呟く。
「……三十七ジャストか。下がって良かった」
「……どうして触っただけで体温が分かるの?」
ゆっくり目を開けながら沙南は疑問を投げ掛けた。本当に狂いもないあたりこの医者は恐るべきというべきか。
「沙南ちゃん、ゴメン、起こしたかい?」
「ううん、ずっと眠ってたから起きちゃっただけ。それより龍さん、私は大丈夫だから眠って。疲れてるでしょう?」
患者だというのに彼女の気遣いには恐れ入ってしまう。ただ、そこが彼女らしさであり、良いところなのだから仕方ないのだけれど。
「大丈夫だよ。俺は医者だからね、患者は最後まで診たいんだ」
「ふふふ、やっぱり変わらないよね。龍さん昔っから私が風邪引いたら傍にいてくれるんだもん」
「そりゃね。沙南ちゃんが風邪引く時は大抵うちの誰かが無茶させた時だろう? あいつらの保護者は俺だし、沙南ちゃんを診るのは俺の役目だからね」
「あっ、じゃあ今のうちに我儘いっぱい言っておこうかしら?」
「お手柔らかにね、お姫様」
龍は苦笑を浮かべた。とはいっても、どんな無理難題でも叶えてやりたいと思ってはしまうが。
「う〜ん、まずは元気になったらデートしてほしいな」
「ああ、好きなところに連れていってあげるよ」
「じゃあ、マンハッタンの夜景を見ながら豪華なディナーで!」
「……さすがに豪華とはいかないけど」
「大丈夫! 龍さんならカジノで負けるはずがないから!」
全てお見通しなのよ、という表情に龍はまいったなと思う。さらに洋服に靴に化粧品にと女性らしいリクエストを冗談まじりに並べてくれる。
「よく出てくるな」
「あら、女の子は欲深いのよ? それに龍さんに我儘言えるのは世界で私だけの特権だもの。それを活用しなかったら逆に失礼でしょ?」
「ははっ、それなら仕方ないな」
「でしょ? それにそんなおいしい思いを他の女の子に渡したくないくらい龍さんは素敵なんだもの」
「こら、持ち上げて何を要求してくるんだい?」
「ふふっ、やっぱりバレちゃった?」
悪戯な笑顔にまた頬が緩む。しかし、沙南は一呼吸おいて彼女の思いと願いを口にした。
「……あとね、指輪が欲しいな」
「指輪?」
「うん。昔、龍さんがガチャガチャでくれた指輪はさすがに入らなくなっちゃったからね」
「ああ、そういえば小さい頃、沙南ちゃんにねだられたっけな」
「そうよ。それに大きくなったら本物の婚約指輪くれるって約束だったでしょ?」
「確かに言われたな。『龍ちゃんは沙南の家来なんだから命令は絶対よ!』って」
龍は色々思い出したのか苦しそうに笑いはじめた。あの幼き日の沙南の一言一句には本当に考えさせられた。ただ、それと同時に愛しさも覚えたのは確かだ。
だが、どうしてここまで言って雰囲気の一つ甘くもならず緊張もしないのかと沙南は思う。啓吾達がいたら鈍いにもほどがあるだろうとツッコミだらけに違いない。過去の自分に赤くなりながら沙南は抗議した。
「もう! 少しは本気にとりなさい!」
「うん、主に口説かれるのは光栄だね」
「龍さん!!」
「ははっ、すまない……!」
そう謝りつつも涙を浮かべて笑っているあたり全く反省も何もあったものじゃない。それに沙南はやっぱりこうなるのかといつものように言葉を返した。
「だったら主の命令として思いっきり高いのねだっちゃうわよ!」
「ああ、構わないよ」
「えっ?」
その辺答に沙南はキョトンとする。しかし、龍はいつもの調子で続けた。
「だけどそれならしっかり働かないとね。純が独り立ちするまであと十年はかかるし」
「えっと、龍さん……?」
「なんだい?」
「今のって……」
すると龍は少しだけ朱くなって彼にしては上等な言葉を紡いだ。
「……沙南姫と約束したからね。だけどまずは沙南ちゃんが元気になってからだ」
「もう元気! だから!」
「まだ完治してないからゆっくり寝ること。これは医者からの命令」
「……今なら熱が上がったって構わないのに」
「コラ、職務放棄を促さないでくれよ? 患者はあくまでも患者なんだから」
そういうところはいつまでも堅物なのかしらと思うが、たったそれだけで舞い上がってしまうのは恋する乙女としてはどうにもならないなと沙南は思う。
「仕方ないな。じゃあ、龍さんからのプロポーズは指輪と一緒に気長に待っておくわね」
せめてもの仕返しと少し頬を染めながら沙南は龍を動揺させようとしたが、龍はいつになくしっかりと答えた。
「ああ、頼む」
反則だと本気で思った。滅多にそんなこと言わないだけ本当に心臓に悪い。しかし、やはり沙南は沙南である。動揺する心を隠しながらもいつものように切り返した。
「期限は短いわよ? 早くしてくれなかったら他の宝石に惑わされちゃうんだから」
「ああ、じゃあ急がないといけないから早く元気になってくれよ?」
「うん、覚悟しててよ? おやすみ」
「おやすみ。何かあったらいってくれたら良いから」
そして龍は立ち上がると近くのソファーに腰を下ろして小さな明かりの中で読書を始める。
沙南の心臓はかつてないほどドキドキしていた。龍が普段そんなことを言わないだけ今の言葉が本気だとしたらと考えると、とても眠れそうにない。
『……柳ちゃんの気持ちが分かるな』
秀ほどストレートじゃなくとも、むしろそうじゃないからこそドキドキさせられるわけで……
早く龍の気持ちを聞きたいなと、自分から言わなくちゃなと思っていた決心も今では消えてしまっていた……
ついに……!
なんだかようやく進展しそうじゃないですか、龍と沙南ちゃん!
天空記の中でありえないぐらい進まない二人の間はどうなるのか!!
それにしても、龍はやっぱり医者なので患者第一です。
普通に考えたら女の子の部屋で寝るのもどうなのかと思いますが、なぜか龍は問題ない気が……
おかしいなぁ、龍も男性なんだけど……
とりあえず、次回からまたお話は動きます。さあ、今後は!?