第二百二十七話:親心と未来
シュバルツ博士から解放されたのは一日が終わろうとしていた時刻だった。
「龍……生きてるか……」
「ああ……」
ぐったりして壁に背中を預けて倒れ込んでいる長男組は、鶏肉相手に有り得ないほど神経を研ぎ澄ませて医療機器を握っていた訳だが、この疲労感が嫌いじゃないと思っていた。
いや、寧ろ久し振りの感じに医者としての本能がくすぐられたというべきか。
「情けない。やはりしばらく現場から離れていたツケが回って来ていたようだな」
「ああ……以後気をつける……」
そしてフラフラになりながらも啓吾は立ち上がる。
「師匠……」
「なんだ」
「ありがとう」
そう告げて部屋から出ていった啓吾にシュバルツは目を丸くした。少なくとも啓吾が医学生でいたころは礼を言われた記憶がない。いや、正確に言えば言う前に伸びていたのだが……
しかし、そんな僅かな変化をもたらしてくれた原因が龍だということはわかる。シュバルツは立ち上がりコーヒーを煎れ始めた。
「……龍」
「はい」
「あいつの過去を聞いたか?」
「……はい」
それはあまりにも重過ぎる過去。幾度も生死を駆け抜けてきた、そして時には人の命を奪って生きてきた事実すらある。そんな過去をこの青年に話したということはそれだけ心を開いているということ。
シュバルツはコーヒーを龍に差し出しながら切り出した。
「初めて啓吾と会った時、あいつは今みたいな目をしてなかった。だが、医者として生きることを決めて少しは丸くなっていったが、私に完全に心を開いてくれたこともなかった……」
「ですが、啓吾が日本に来た理由は博士を守るためだとも」
「龍、血は繋がらなくとも私は啓吾達を実の子供だと思っている。だが、子に守られるしかない親というのも辛いものだ」
何となくその気持ちは理解出来る気がした。啓吾は身内にも遠慮することがあるのは付き合って来た中で感じていたから……
「GODが啓吾達を狙ったのはお前達に関わりがあるからとも聞いてはいる。だからといってお前達を責めるつもりはない。だが、一つだけ頼まれてほしい」
「はい……」
その顔は親の顔だった。シュバルツは心からの願いを告げる。
「あいつを死なせないでやってくれ」
それは啓吾自身もということだと龍はしっかりと受け止める。そして静かに頷くのだった。
一方、当人は一度沙南の様子を覗いてきっと夜更かししているだろう、悪童達をきちんと注意しておくかと一行の元へ向かう道中、沙南の部屋から出てきた紗枝とはち会った。
一応、恋人で互いに思いを確かめてから数時間ほど経ってはいるのだが、恥じらいも何もこの二人の間にはない。いや、医者ということが最優先されてるからだろうが。
「よぉ、沙南お嬢さんの熱は?」
「大丈夫よ。熱もだいぶ引いて来たみたいだし、龍ちゃんが戻って来るまで桜姫が付き添うからって」
「ふ〜ん。って、桜姫の奴いつ寝てんだ?」
「さぁ? だけど今夜はゆっくり寝られるから私は啓吾を労ってくるようにってね」
「へぇ、だったらどうやって労ってもらうか……」
「その頭の中の思考は止めなさいね」
ニッコリ笑う紗枝の裏の顔が有り得ないぐらい冷たい気がするのは、きっとそういった表情だからだろう。
しかし、ちゃんと啓吾のツボを抑えているのも紗枝である。
「だけどここのホテルのバー、結構いい感じのお酒が置いてあるのよね」
「のった! やっぱりうまい酒を堪能しねぇと人生損するもんな!」
「まったくよね。本当は龍ちゃんと三人で飲みたいところだったんだけど……」
「ああ、確かにこっちきて三人で論文読みながら飲み明かしたかったところだが……」
二人は深い溜息をつく。そしてせめて論文ぐらいすぐに手に入らないものかと考え始めるわけだが……
「だけど紗枝」
「何?」
「これから先も日本にいるか?」
「えっ?」
突然の問いに紗枝はキョトンとする。
「まぁ、今すぐって訳じゃないが……俺さ、もう一度師匠のもとで鍛えられるのも有りだと思ってる」
「うん、確かにそうよね。啓吾は心臓外科医だし、こっちで最先端の医療学ぶのも悪くないわよね」
やっぱりそう言うかと思う。人に自分の人生を左右されるのは嫌いな方だが、望む未来があるのも事実だ。
「で、お前も来るか?」
「えっ?」
「腕はさらに磨きたいんだろう?」
随分あっさりと言ってくれるものだと思う。確かにシュバルツ博士のもとなら医者としては誰もが望む指導を受けられる。小児外科医としてもこれ以上ない環境も求められるが……
「……まぁね。だけどすぐには決められないわ」
「ん? 別にアメリカが嫌だって感じはしないが?」
「そりゃそうだけど、何て言えばいいのかしら……」
「研究に夢中になりすぎるとか?」
「それもだけど……、聖蘭病院にいて啓吾や龍ちゃんと過ごす毎日も好きなのよね」
「こっちでは確かに厳しくはなるかもな」
「うん、完全に専門の道に走るだろうから会うことも厳しくなるかしら」
元々、休みなんてあってないのが医者の宿命なのかもしれないが、それでもあの病院で充実した毎日を送っていた訳で、それがなくなるのは少し寂しい気もしているのだ。
「だけど啓吾、こっちに来るなら柳ちゃん達はどうするの?」
「そりゃ連れていくに決まってるだろ?」
「付いていくかしら?」
紗枝の問いに啓吾は考え込む。予想されるのは夢華は純と離れたくないと駄々をこね、紫月は一人で戻れと冷たくあしらい、柳に至っては秀がこれ幸いと同棲するとか言い出しかねない。
「……やっぱ、出張ぐらいの方がいいのか?」
「何言ってんの! ちゃんと行くなら学んで来るべきでしょ!」
「いや、あいつらに変な虫が……」
「変じゃないわよ。それに柳ちゃんが大学卒業したら間違いなく秀ちゃんから婚約報告ぐらいあるんじゃない?」
啓吾の脳裏にあの腹黒の笑みが浮かぶ。間違いなく数年以内の現実だ。
「馬鹿野郎! そんな未来許せるかっ!!」
「シスコンもほどほどにしときなさい。愛想尽かされるわよ」
「その前に叩く!」
どうやらその点に関しても近い未来で見そうな光景である。
「あっ、だけど俺達は?」
「何が?」
「結婚」
「…………はっ?」
「なんだよ、その間は……」
啓吾がそうつっこむのも無理はない。それだけ紗枝はピンと来なかったらしい。
「いや、啓吾からそんな言葉が出るなんて熱でもあるのかと……」
「あるかっ! 一応、師匠がいるんだからお前のこと言っとかないわけにはいかないだろ?」
「散々遊んでたから安心させようと?」
「……なんでその辺妬きもせずに受け入れてるんだよ」
「この先浮気はしないのでしょう?」
そう言ってカラカラ笑う紗枝にやっぱり尻に敷かれる未来なのかと啓吾は思う。しかし、それだけ惚れてるなら仕方がないかと苦笑した。
「紗枝」
「何?」
後頭部に手が回ったかと思えばそのまま唇が重なる。いきなりの不意打ちに紗枝は赤くなった。そしてそれはすっと離れると啓吾は楽しそうな顔をしていて……
「なっ……!」
「ほら、さっさと飲みに行くぞ。それとも違う酔わされ方したいか?」
「啓吾っ!!」
こういうところは本当に普段の余裕がなくなるんだなと啓吾は笑いを堪える。だが、すっと紗枝の手を握ればちゃんと握り返してくれる。そんな彼女だからこそ好きになったんだと思う。
「とりあえず明日、ちゃんと博士に会わせるよ。寝過ごすなよ?」
「その顔寝せる気あるの?」
「いや、ないな」
こうして一日は終わっていった……
さすが啓吾兄さん、恋愛上級者……
この人赤くなったことあったか??
紗枝さんと結婚することは決めてるみたいで……
はい、だけど啓吾兄さんがここまで丸くなったのは間違いなく龍や紗枝さん達のおかげ。
シュバルツ博士も感謝の気持ちでいっぱいなようです。
だから幸せになってもらいたいのでしょう。
とりあえず紗枝さんの事はどのように紹介するのか……
そしてその場に龍も同席してしまいそうな感じがするのは気の性か……?