第二百九話:花の咲かせ方
桜の間まで桜姫を運んできた龍は椅子の上に彼女を下ろすと、血に染まった真っ白な足袋を脱がせて傷口を確認した。
「東天空太子様! 御召し物が汚れてしまいますから離してください!」
「残念だが医者としてそれは出来ない。それにこれは刃物の傷だろう? きちんと手当しておかないと感染症を引き起こすこともあるんだからな」
そういって消毒液を足の裏の切り口に当てて治療を開始する。さすがに滲みるのか桜姫は小さな声を漏らした。
「すまないが少し我慢してくれ。すぐに終わらせるから」
慣れた手つきで治療を施していく龍をただ申し訳ないという気持ちで見ていると、軽食を持って沙南姫が桜の間に入って来た。
「殿下、傷の具合はどう?」
「沙南姫様!」
「あっ、立たないで! いま立ったら殿下に怒られちゃうから」
その反応に龍は苦笑するが、実際にそうだということを自覚して欲しいものだと沙南姫は思う。
しかし、桜姫はかなり身分が上である二人の前で本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません……」
「気にすることないわよ。えっと……」
「あっ、私に名前はございません。私は花の女神の一女官に過ぎませんから」
「そうなの? 殿下が掻っ攫っていった美姫だって宴の席では噂になってるのわよ?」
悪戯な笑みを浮かべる沙南姫に、何となく嫌な予感がして龍は尋ねる。
「……沙南姫様、まさか」
「うん! あの堅物の東天空太子がついに側室を」
「冗談でも言わないで下さい!」
「ふふっ、ごめんなさい。だけど名前がないなら殿下が付けてあげたら?」
「沙南姫様!」
「いいじゃない。足袋の中に刃物を仕込んで躍らせるようなところにいるより、殿下に仕えた方がいいに決まってるもの」
何よりこれから啓星一人では龍の補佐も大変だろうと提案するが、龍は首を横に振った。
「沙南姫様、名を与えるということは、天空族にとってはそう簡単でもないんですよ」
「えっ? そうなの?」
「はい。彼女を自分の従者にしてしまうことになります。そして啓星達と違い彼女には力が存在しない。そんな彼女に戦場を味わせるわけにはまいりません」
それは死を意味することだからと言わなくても理解できた。
「だけどこんなひどいことする人達の元に彼女を返したくないな。殿下だってそうでしょう?」
「まあそうだが……しかし、断りもいれないわけには……」
どうしたものかと二人して名もなき自分のために悩ませている。ただの一女官のためにここまで考えてくれる王族もいたのかと思えるほどにだ。
「あの……私は大丈夫ですから。お心遣い、感謝致します」
「だけど……」
「本来なら御目通りすることすらおこがましいこと。ですがお二人の優しさに触れ私は幸せでございます。今宵のこと、一生忘れません」
そして桜姫は立ち上がると深く頭を下げた。その時だ、桜の間の障子が開けられ多くの女官を引き連れた女神が一歩部屋に入ってくる。
「ここにいましたか」
桜姫はピクリと体を震わせ、すぐその場にひざまづいた。当然、龍も沙南姫もその反応に気付かないはずがない。
しかし、当の主はそれに気付かずうっとりした表情で龍に挨拶した。
「お久しぶりです、東天空太子様」
「お久しぶりです、花の女神殿」
「そして……」
妖艶な笑みを浮かべて花の女神は沙南姫にも頭を下げる。
「沙南姫様、ご機嫌いかがですか?」
「よくはないわ」
「あら、なぜかしら?」
クスクスと笑う花の女神に沙南姫の機嫌が悪くなっているなと龍は感じる。きっと傷付いた女官に言葉一つかけないことに苛立っているのだろうと思う。
だが、実際のところはまた違う意味の怒りも含んでいる。この目の前にいる花の女神は沙南姫を恋敵にしているため、何かしら嫌がらせを働こうとするのだ。
まあ、かといって自然界の女神である紗枝より格下の女神ということもあって、そう大きなことができるわけでもないが。
するとあくまでも龍に対する印象はよくしようと、花の女神は礼節を重んじるような態度で恭しく頭を下げた。
「東天空太子様、私の女官が大変な無礼を働き申し訳ございません。二度とこのようなことが無いよう、この者にはきつく」
「きつく言う前に労ってはいかがですか!」
沙南姫の鋭いツッコミに龍は心中でやれやれと苦笑する。彼も全くの同意見だったからだ。
ただし、柳泉の親友でありながらおしとやかさというものとは少々離れた姫君は、秀と同じで容赦ないときはとことんない。
「沙南姫様、このような身分のものが天空王様に御目通りすることなど」
「だったらあなたも下がりなさい! 殿下は傷付いた女官に労りの言葉一つかけられない者には嫌悪感しか抱かれません。
特に貴女のような花を枯らすものなど以っての外です!」
「なっ……!」
「それともしばらくの間、夜天族と何かを企んでるうちに花の女神ともあろうものが花の咲かせ方すら忘れたのですか?」
「くっ……! 太陽の姫君、私を侮辱するおつもりですか?」
「そのように聞こえませんか?」
「このっ!!」
あまりにストレートな言い分に花の女神は沙南姫を平手打とうとしたが、その手首を龍が掴んで止めた。
「あっ……」
「殿下……」
「悪いが沙南姫様に手をあげることは許すわけにはいかない。そして花の女神殿、彼女に処罰を与えるというのなら私も医者として帰すわけにはいかない」
「うっ……!」
少し手首を強く握ったのは警告だった。明らかに形勢は沙南姫の方に傾いている。
だが、それを止めたのが桜姫だった。
「東天空太子様、お止め下さい! すべて私の責任です! どうか……!」
ひざまづいて頭を下げられては龍も離さないわけにはいかなかった。花の女神に一言謝罪するとすっと膝立ちになる。
「頭を上げてくれ。俺は患者に辛い思いをさせることはしたくないんだ」
あくまでも医者としての立場を龍は重んじる。そんな龍の背後で沙南姫が穏やかな笑みを浮かべているのが桜姫の視界に入った。
彼女が龍に恋い焦がれている事実とその理由がよく分かる表情だ。
「しばらく安静にするように。そして今度は天宮で舞ってくれ。うちの部下達は後ろにいたにもかかわらず、何故か君のことが気になってたみたいだからね」
「……ありがとうございます」
桜姫はもう一度頭を深く下げると、花の女神の引き連れている女官の一人としてその場から去っていった。
「……殿下」
「なんですか?」
「帰すべきじゃなかったのかしら……」
不安そうな表情を浮かべる沙南姫に龍は首を振って答えた。
「きっと沙南姫様が止めても彼女は帰ったはず」
「えっ?」
「ただ、彼女に名を与える主であればと悔やまれますが……」
「殿下……」
沙南姫は少し不安そうな表情を浮かべた。恋や愛といったものを龍と桜姫の間に感じた訳ではない。
しかし、初対面にもかかわらず二人の間に何かを感じてならない。
その答えはすぐに明かされることになるが……
龍と桜姫の初対面ってこんな感じだったようです。
まあ、このあとの儀式で桜姫は龍に名付けられるわけですが……
だけど沙南姫様は結構ストレートな言い分を花の女神にぶつけてくれました!
おしとやかにしたくても、どうも出来ないのは仕方がないご様子。
しかし、龍はそんな沙南姫様に苦笑してしまう程度ですませてます。
というより楽しいみたい(笑)
そんなこんなで二百代前のお話はもう少し続きます。