第二話:天宮家と篠塚家
バス停からゆっくり歩いて約十分、豪雨が少しずつ弱まって来る中、兄弟の会話は先程の出来事から変わることはなかった。
「それにしても綺麗なお姉さんだったなぁ」
「うん、しかもすごく優しい人だったね」
「それに変わった兄さんだったよなぁ」
「うん、翔兄さん以上だね」
末っ子の無邪気さと鋭いツッコミは反比例している。悪意の欠片すらない分だけ性質が悪くなることもしばしば。
しかし、兄が寛大で言葉を深読みしない性か、弟が天使でおっとりしている性か実に仲の良い兄弟だった。
そうこう話をしているうちに二人は自宅に辿り着く。立派な家の門をくぐり、二人は玄関の前で顔を見合わせる。
「さて、覚悟を決めるか」
「うん」
息を飲んで玄関のドアを開けた途端、視界に飛び込んできた人物の恐ろしさに翔はすぐに扉を閉めたいという衝動にかられたが、ドアに足を入れられ満面の冷たい笑みで迎えられた。
「おかえり、悪ガキ諸君」
「うっ!? 秀兄貴っ……!!」
翔が門限を破って帰った日、二番目に出会いたくないのが優美、冷徹な天宮家次男坊の秀である。長男が雷だとすれば、次男坊は楽しそうに水を標的にぶっかけておくタイプだ。
「あれほど早く帰れと言っておいたのに、いつから時間も忘れるほどの大ボケになったのですか?」
「すみまひぇん……」
容赦なく翔の頬を抓り上げる。そして、長く繊細な指で翔の額に強烈なデコピンを打ち込み、翔が声も出ないほどの痛みに縮こまった後、末っ子には穏やかな笑みを浮かべて甘い言葉をかける。
「とりあえず、純君は風邪を引いてはいけないのでシャワーを浴びていらっしゃい」
「うんっ!」
トタトタと軽快な足音を立て、純はシャワーを浴びに向かった。そして、その隙に逃げようとする弟が一歩踏み出す前に秀は次なる試練を言い渡す。
「翔君は着替えて早く兄さんに謝ること。相変わらず静かにキレてますよ?」
翔の顔の血の気が一気に引いた。静かにキレてる=爆発寸前という方程式が天宮家では証明されているからだ。
しかし、その仮定説を少しだけ否定する式もこの家にはあった。
「……沙南ちゃん、まだ帰って来てないのか?」
「レポートの締切前で少し遅くなるようなので、後から兄さんが迎えに行くようです。今日は弁護士がいないので観念しときなさい」
バッサリと切り捨てられ、翔はぐうの音すら出なくなった。どうやら本日は素直に前者の方程式を解いていかねばならないようだ。
リビングの横に併設される畳の部屋。そこには夕刊に目を通す長兄が威風堂々と座っていた。
「ただいま……」
「やっと帰ったか」
視線を向けられただけで背筋がピンと伸びる。目の前の長兄から発せられる威圧感は正直言って並大抵のものではない。
堅物で古風、さらにはどこかの王のような威厳すら感じさせる天宮家の家長である龍は、ただ静かに自分の前に正座するように促した。
先程、秀が静かに怒っているといったことはあながち嘘ではない、いや、下手をすれば間違いなく殺られる!
「さて、今日は夕方から雨だから早く帰れと言っておいたはずだが、門限三時間破りとはどういうことなのか言い訳ぐらい考えられたか?」
本人はただ理由を聞くために尋ねているだけに違いないが、その風格と声質の性なのかこちらは威圧される。
ここで遊び過ぎました、などと下手なことを言った日には間違いなく来月のお小遣はない。
だが、今日は彼にとっては遊びの部類に入っても、一般的にはそう取られない理由はあった。
「……ないです。ちょっと遊び過ぎました」
龍の顔を見ずに言い訳をしない日は必ずちゃんとした理由があると龍は分かっている。それを責めるほど龍は叱りはしない。
それから龍は腕を組み、少し目を閉じて考えたあと言葉を発した。
「…なるほど、では理由は後から弁護士を挟んで聞くことにしよう。だが、傘を貸してくれた恩人に対してはどういう処置をしたんだ?」
「それがさ……」
翔は事の顛末を簡潔に話した。それを聞いた二人の兄は思わず目を丸くさせられもっともなコメントを返してくれた。
「それで住所も聞かずに帰って来たのか」
「だってさ、連れの男の人が『面倒だからまた偶然出会ったら傘は返してくれればいい』って」
「また変わり者から恩を受けたな」
もはやそうとしか言いようがなかった。普通、見ず知らずの他人に物を貸して返さなくていいと言えるものは世の中広しとそういるものではない。しかも使い捨ての傘でないなら尚更だ。
「女性の傘って意外と高いと思いますが?」
カタンとリビングの椅子から立ち上がりながら秀は意見を述べる。
「…うちの近所に篠塚はあるか?」
「え〜と、ないみたいです。高円寺町のバス停で下りたなら近所だとは思いますが……」
電話帳をすぐに引くあたり天宮家の次男坊の頭の回転は早い。彼はいつでも家長の補佐を務めることが多いため、必然とサポートが身に染み付いている。
「彼女の家に遊びにきた彼氏の名前かもしれないしなぁ」
確かにその可能性も捨て切れない。これでは本当に偶然会ったら返してもらえば良いという結論になってしまう。
「しばらく気に掛けておこう……」
もはや有能な天宮家の家長でもお手上げだった。
そして、天宮家の家長を悩ませる青年も近所のスーパーに寄った後、自宅に帰り着いていた。
「兄さん、姉さんお帰りなさい」
「お兄ちゃん、柳お姉ちゃん、おかえり!!」
篠塚家次女の紫月と末っ子の夢華は揃って出迎えた。しっかり者の姉と元気いっぱいな妹といういかにもよくいそうな姉妹である。
「ただいま。ほら、土産だ」
頼まれていた食材を啓吾は紫月に手渡した。おそらく明日の朝食に変わるのだろう。
「ありがとうございます。それより姉さんの傘はどうしたんです?」
「風邪引きそうな少年にやった」
「やったって……」
「いいのよ、兄さんに新しいものを買ってもらいますから」
篠塚家の穏和な長女は優しく微笑んだ。この姉の心はまさに聖女と呼ぶに相応しい。だからこそ紫月も夢華も兄より姉の味方になるわけなのだが……
「それより紫月、転入先の書類は」
「全て提出致しました。ついでにその他諸々の書類も全て片付けています」
「さすがだな……」
篠塚家の次女は抜け目がないというより侮れない性格の持ち主である。
温和な姉と無邪気な妹の間に挟まれているからしっかりしてしまった、と啓吾は思っているが彼女から言わせれば、長男に問題があるからしっかりしないわけにはいかない、という理由になるらしい。
「姉さんは兄さんの書庫作りに追われた一日でしたからね、私が出来ることなんて些細な事ですから」
「そうか、柳もすまなかったな」
「いいえ。兄さんが片付けてたらきっと一年掛かるから」
ニッコリ笑って答えてくれる柳に思わず苦笑する。本好きの啓吾は自分の書庫を作ってしまうほど自他とも認める活字中毒、そして新聞という名の薬を摂取しなければ一日不機嫌マックスである。
本が好きな人間ほど本の片付けに時間が掛かるということだ。
「それよりお腹空いた〜ご飯食べよう?」
「そうだな、すぐ着替えてくる」
啓吾は夢華の頭をサラっと撫でて自室へ着替えに向かった。
それから約十分後、給食でいう赤、黄、緑の食物が実にバランスよく並べられている食卓を囲み、話題は啓吾の勤務先のことになる。
「それで、新しい職場ってどんな感じだったの?」
「医院長はあまり好きになれないタイプだよ。まっ、権力を求めるタイプほど必ず邪魔者は存在するんだろうけどな」
「日本の病院ってそんなイメージだものね」
柳はクスクス笑った。この兄は権力は利用しても悪用はしないタイプだ。というより、権力以上に病気に向かい合うことの方がよっぽど面白いらしい。
しかし、それだからこそ立派な医者として妹の評価が得られるわけだが。
「兄さんならどんな病院でもうまくやっていけますよ。それと休みはちゃんと取れそうですか?」
医者という職業上、特に若いうちは不規則とお友達になることはよくある。当直になることも決して少なくはないだろう。
「スタッフの数は結構充実してるからな、休みは普通に取れそうだ」
「やったぁ! じゃあ、いろんなところに連れていってくれるんだよね!」
夢華の瞳はキラキラと輝く。それは否定してはいけない瞳だが、彼は医者としてもっともな言い訳だけはさせてもらった。
「…睡眠は優先させるからな」
篠塚家の家長は上手く面倒事からは逃れるタイプだった。
天宮家と篠塚家の面々を紹介致しました。
緒俐の書く兄は基本「シスコン」なので、当然篠塚家兄は「シスコン」です(笑)
それが原因で妹達の恋路も妹達に関わろうとする変な輩も多大な被害を被ります。
でも天宮家の面々に効果はあるのかなぁ??