第百六十一話:キスと涙
約十年前、啓吾が少しでも自由になるために一人で戦い、それが終わった後のエピソードがある。
「啓吾! どうしたんだその傷は!!」
シュバルツの屋敷に帰って来た啓吾は満身創痍で、自分の血なのか相手の返り血なのか分からないほど真っ赤に染まっていた。
「……心配なら治療しろ」
「してやる! だが一体何をしていたんだ!!」
「……殺しに行ってた」
「誰をだ!!」
「悪魔をだよ……」
そういうと啓吾はガタンと膝を折って倒れた。
「……でも、これで少しはマシな生活を送れる。そうだな、あんたみたいな医者になればこれから殺していく人数より生かす人数の方が多くなるか……」
啓吾は笑った。しばらくシュバルツと生活していて医者という人間を少し信じてみてもいいと思うようになっていたから……
「……なあ」
「何だ?」
「俺は医者になれるか?」
発信機の反応を辿りながら、啓吾は襲い掛かってくる者を重力で簡単に気絶させていく。
科学力を駆使した兵器は龍にでも差し向けられてるのだろうなと思いながら、近づいてくる反応の元へと急いだ。
この石造りの内装をどこかで見たことがある気がしてならないのと、二百代前の自分が紗枝の元へ急げと脳裏に語りかけてくるのにうるさいと突っぱねる。
「分かってるってんだ。全く、二百代前の俺は……」
秀が二百代前の自分と今の自分を重ねて柳に対しての気持ちが分からなかったと言っていたのを思い出す。
そのまま分からないままでいれば良かったのにと悪態を突いてしまうのは彼がシスコンが故であるが、啓吾は紗枝に対する気持ちが恋愛感情ではないということは理解している。だからこそ自分を乗っ取ろうとしている啓星に腹が立つのだ。
「俺はあいつを女としてみる気はねぇってのに……」
というより、何があっても見てはいけない。心の底から惚れた女なんて出来た日には、その女がどれだけ危険な目に遭うのかなんて想像もしたくない。それが紗枝ならばなおさらだ。
GODが動いているということは間違いなく自分の過去にも関係があるということ。まだ紗枝は自分が十年前に医学研究所を爆発させて数百人の死者を出したことしか知らないはずだ。
だが、そのあとも自分はいくつもの罪を犯し、ただ妹達を守るために全てを利用した。そのしっぺ返しが紗枝にも来ているというのなら……
そして啓吾はついに紗枝の元へとたどり着く。真っ白な部屋が気に食わなくて舌打ちしたが、それ以上に気に食わない光景を目にした。
「久しぶりだな、篠塚啓吾」
「……お前大概しつこくねぇか?」
目の前には楢原、そして彼にうなだれる紗枝をみて機嫌が悪くなる。ただ、紗枝の目が少しとろんとしているのを見れば、彼女の意志ではないなと思う。
「ハハハ……! そうでもないさ、紗枝さんはついに僕のものになったんだ。聞けば僕達は二百代前に結ばれていたらしくてね」
「んなわけねぇだろ! 人のもんに手ぇ出すな!」
啓吾は間髪入れずに答えた。ただし、答えたのは自分の意識を無理矢理奪った啓星である。
だが、すぐに啓吾は出て来るなと意識を取り戻し心の中でがっくりと肩を落とす。まあ、紗枝にはまた平謝りするかと、とりあえず彼女を奪い返すことにした。
「楢原、紗枝に媚薬でも一服盛ったのか?」
「ああ、折角だからね」
「そうか。んじゃ、さっさと帰って体の隅々まで診断してやらねぇといけないからさっさと返せ」
「誰が返すか」
「何だ? 今度は最後まで見せ付けられたいのか?」
ニヤリと啓吾が笑うと楢原の顔は引き攣る。おそらく彼にとっては悪夢であろう、啓吾と紗枝のラブシーンが流れていることは明確である。
「まっ、俺はかまわねぇぜ? ああ、だけどやっぱり見せんのは勿体ないか」
「ふざけるな!!」
楢原は怒り叫ぶ! 本当に単純な奴だなと思うが、それでも紗枝を離さないのはある意味感心してしまう。
「貴様は二百代前は紗枝さんを救えなかったのだろ! だったらまたそこで同じ苦しみを味わうがいい!」
「させねぇよ」
啓吾は重力で紗枝を引き寄せると同時に、楢原を壁まで弾き飛ばして叩き付けた。
「よしっ!」
特に何事もなく気絶してくれた楢原を見て、思ったよりもあっさり片付いたなと思う。やはり龍の方にこの洋館の戦力が費やされているのだろうなと考えていたとき、突如啓吾の唇は覆われた。
「……!!」
油断してたと相変わらず彼らしいことを思う。さっき楢原は紗枝に媚薬を使ったと言っていたのだ。そして唇が離れると虚ろな目が啓吾を見てくる。
「啓吾……」
「……勘弁しろよ、今の俺は啓星が俺を乗っ取ろうとしてんだからよ……」
そう告げた後も紗枝は唇を何度も重ねてくる。どれだけ強い媚薬を打ったんだとは思いながらも啓吾はそれを拒否はしない。する必要性を感じなかったと言った方が正しいのかもしれない。
だが、また唇が離れた後、紗枝は啓吾の耳元でそっと囁いた。
「……死んで、啓星」
「……なっ」
一瞬だった。腹部からじわりと血が滲んでくる。真っ白な床にポタポタと血痕が染みていく。そして確かに感じるのは彼が紗枝に刺されているということ……
刃は引き抜かれる……
「グワッ!!」
啓吾が床に崩れ落ちると同時にカランと紗枝は刃を手から落とした。彼女の手は啓吾の血で赤く染まる。表情は無表情、だが……
「啓……吾……」
僅かに残る意識の中で紗枝はその名を呼ぶ。彼女の目からは涙が零れていた……
啓吾兄さんが刺されたあ!!
しかも紗枝さんに!!
かつて天空記でここまで凝った話があったでしょうか……
何だかいつもに増して重たい……
そして二百代前の啓吾兄さんこと啓星ですが、「人のもんに手ぇ出すな!」と言ってる辺りから紗枝さんのことを思ってた模様。
この経緯はまだ描いてませんが近いうちに書けると思います。
さて、アメリカ組がピンチのまま視点は日本へ戻ります。
一体どれだけとんでもないことになるのか……