第十六話:孫
「わっ!」
夜明け前からドスンという地響きが天宮家に響いた。何事かとすぐ隣の部屋から翔は飛び出し純の部屋の扉を開ける。
「純! 大丈夫か!?」
「うん、平気だよ翔兄さん」
またやっちゃった、と純は頭を摩りながら笑った。気をつけろよな、と翔は純をもう一度ベットに運んで寝かせてやる。
「また変な夢でも見たのか?」
「……僕の夢だった」
それから二日後、散々酔っ払っていたのに二日酔いすら起こさない無敵の紗枝は医局に戻るなり、最近これでもかという程の疲労とストレスを抱えた二人の外科医に憐れみの声をかけた。
「聞いたわよ、医院長へのオペ交渉が難航してるって」
「ああ、あの医院長はホント頑固な上に陰険だな」
眉間にシワを寄せて七月のシフト表を紗枝に見せるなり、紗枝は哀れみの声を上げた。
「うわぁ〜二人して超が付くほどハードなシフトにされたのね」
医者という職業上、土日がないのはまだしも徹夜が続くというのはどうなのだろう。しかし、シフト表に目を通していけば、その他の外科のメンバーまでなかなかハードなシフトにされている。外科部長に至っては会議続きだ。
巻き込まれたのはどうしようもないと啓吾は諦めるが、それ以前に龍に尋ねたくなった。
「龍、お前どんだけ医院長に嫌われてるんだよ」
「かなりだと思うね。沙南ちゃんの事もあるし、何よりおじさんは聖蘭病院を完全に自分のものにしたいから俺が邪魔なんだよ」
「そうね、ついに本腰入れて龍先生を追い出す気なのかしら。お祖父さんの遺言もあるし」
「ん? 遺言? ってことは……」
啓吾の言葉に紗枝は目を丸くした。聖蘭病院に勤める全ての者達が知っていることだったからだ。
「あら、知らなかったの? 龍先生は前医院長の孫よ。普通は龍先生が跡を継いでここの医院長になるはずだったのよ。聖蘭病院は代々天宮の一族が継いで来たからね」
「ああ、だからあの家あんなにでかいのか。俺達の給料じゃ見合わない家に住んでると思ってはいたが」
「全くだ。固定資産税結構高いんだぞ?」
龍は苦笑して答えた。確かに天宮家の部屋数は十数個あったよなぁ、と啓吾は思い出す。
「じゃあ、なんで今医院長がその座に就いてるんだ?」
遺言というぐらいなら、龍はもっと堂々とした態度だって取ろうと思えば取れるはずだ。それだけの器と実力は短い付き合いの啓吾でも分かるところ。
まぁ、本人は医院長業より一介の医者として働く方が好きなんだろうが……
「お祖父さんが亡くなったのが丁度、龍先生がアメリカで研修医してた頃だったから、当然周りは大反対。その時に権力を確立していった医院長が見事その座についたのよ。
だけど、お祖父さんの遺言は龍先生がこちらに戻り次第医院長の座を譲るって事だったから、医院長はまだ龍先生は若すぎるからって理由を付けて現在代理の医院長ってわけ。
まっ、沙南ちゃんのお母さんは天宮家の血筋だから、その旦那さんが医院長についていても周りが文句を言う筋合いもないんだけどね」
なるほどな、と啓吾は納得した。確かに聖蘭病院を完全に手中に収めるなら龍に遺言を放棄してもらうのが一番だ。言ってしまえば、龍さえいなければ誠一郎の天下なのだろう。
ただ、それが誠一郎にとって一番の難題なのだろうが。
「じゃあ、沙南お嬢さんが天宮家に住んでる理由って……」
「まぁ、遠い親戚に当たるな。爺さんの従兄弟の血筋でね」
「ああ、家系図にまで興味はねぇ」
啓吾はそこで話を切っておいた。龍は教師にだってなれるほど懇切丁寧に説明してくれるだろうから。
「だけど、本当に巻き込んですまないな」
「なに、休みは夏にでもとるさ。ただし、このシフトに付き合ってやる変わりに、今度の天宮家の飲み会はお前ん家の年代物あけてもらうぞ」
「いつの間に知ったんだよ……」
「三男坊に感謝」
翔のやつ〜、と龍は口の軽い三男坊に青筋を立てる。これは家に戻ったときはまた説教しなければならないな、と龍は相変わらず家長らしいことを思うのだった。
一方、聖蘭高校では翔が紫月に謝罪しているところだった。目の前で手を合わせて申し訳ないとその表情には書かれている。
「紫月! すまねぇけど今日先に帰っててもらえるか? 再テストになっちまってさ」
今日も天宮家に顔を出すと放課後の自分の予定はいつの間にか決まっているらしい。しかし、断る理由も特にないので紫月は一つ溜息を吐き出した。
「天宮君、一体何のために私を毎日課題に付き合わせてるんですか?」
「いや、面目ない……。それより紫月、そろそろ俺を名前で呼ばないのか? 兄貴達はさん付けで純は純君だろ? 俺だけ一人苗字じゃ変だろ」
いかにも不公平だという表情がこの腕白小僧らしい。
だが、高校である日を境に男女が名前で呼び合うということは、恋愛方面でかなり面倒になりそうだ。そう考えて紫月はまた一つ深い溜息を吐き出した。
「ただでさえも周りの視線が煩わしいのに……」
「別に気にしなくてもいいだろ。それに俺が名前で呼ばれないと落ち着かない」
またストレートだ。毎回思うことだが、女子に誤解されやすい言葉を吐いて恥ずかしくないのだろうか。いや、本人は自覚がないのだろうと紫月は思い直し、少し考えて彼の名を呼んだ。
「……では、翔君」
「別の呼び方は」
「翔さん?」
「絶対それだけはやめてくれ……」
確かにさん付けはお互いの精神衛生上よろしくはなさそうだ。というより翔にそんなイメージがない。
「翔って呼び捨てに出来ないのか?」
そう尋ねられて紫月はまた考え込んだ。確かにそれも選択肢の一つだろう。
しかし、呼び捨てなんてすれば、それこそ本当に恋愛方面で面倒なことになる上に、下手をすれば自分の兄までシスコンを発揮しかねない。それに心の奥底で呼び捨てにすることを否定する自分がいて……
「何故か出来ません。まだ翔様といった方が落ち着きますが?」
「翔君でお願いします……」
項垂れる翔を見て、紫月は珍しく口元が綻んでいた。
はい、ついに紫月ちゃんが翔君と呼んでくれることになりました!
高校生二人の恋愛は本当に翔君がストレートばかり投げてくれるので紫月ちゃんも大変です。
そして、天宮家がでかい理由が代々お医者さんの家系だからなんですね。
だけど龍は四人扶養しているので固定資産税とか大変な御様子です(笑)