第百四十五話:君が隣にいること
桜姫と話した後、龍は夜風に吹かれながらただ静かに考え込んでいたが、その空間にドレスアップした美少女が駆けて来た。
「龍さん!」
裾を少し持ち上げなければ転んでしまいそうなドレスだが、そうならないのは彼女がいかに活発なのか物語っているようである。
しかし、全く反応がなく、沙南は下から龍の顔を覗き込む。
「どうしたの? 何かあった?」
何やらまた気難しい顔をしているなと思うが、その視線に気付いて龍は眉間のシワを伸ばした。
「何もないよ。それにしても……」
「何?」
龍は失礼にならない程度に沙南の全体を見る。ルージュのイブニングドレスに一流ブランドのシルバーネックレスを身につけた沙南は、なんだかいつもより大人びて見えた。
それに対して「いつもより綺麗だ」とぐらい言えれば立派なのだが、やはり龍は龍である。
「紗枝ちゃんが着そうなドレスだなって……」
その場に紗枝がいたら「いつもより色っぽいとぐらい言いなさいよ!」とつっこんでいたに違いない。
しかし、長年の付き合いから龍がそんな事をまず言うはずがないと分かっているので、沙南はくすくす笑った。
「ふふっ、私もそれは思ったの。だけどね、今日私が選んだコロンのイメージに合わせたんだって」
「ああ、そういえば香も少し大人っぼい気が……」
「でしょ? これなら堂々と飲酒できそうよね」
悪戯っ子の笑みを浮かべる沙南に龍は苦笑しながら注意した。
「飲み過ぎるなよ?」
「もちろん。だってせっかく素敵な相手がエスコートしてくれるんだもの」
そう言って腕を絡めてくる沙南は、やはりどんなに大人びた恰好をしても沙南だなと思ってしまう。
この二人が進まない理由は互いの個性を認めているのと、信頼度百パーセントという関係の性に違いなかった。
レストランの中に入れば、街が一望できる特別席へと案内される。いや、すでにレストランが貸し切りになっている時点で特別というべきなのだろう。
二人の恋人のためという空間には違いなく、自然と沙南も冗談っぽくはありつつも、さらりと龍に告げた。
「本当にすっごく綺麗な夜景よね。プロポーズされるならこんな場所がいいな」
「女の子の憧れかい?」
「もちろん! だから龍さんも私にプロポーズするときはロマンチックな場所を選んでね」
「おいおい……」
龍は苦笑する。冗談じゃないんだけどなと沙南は思うが、ここまで言っても自分の気持ちに気付いてくれないのはさすが龍というところか。
「でも夜景といえばマンハッタン、一度連れていってほしいな」
「そういえば行ったことなかったっけ?」
「うん、私達が遊びに行ったとき、大学の図書館で医学書を読み耽っていた家長殿が連れていってくれなかったから」
ここで脱線してしまうのが二人の会話である。そう言われると龍は反省するしか無くなるが、ちゃんと約束もしてくれる。
「分かった。いつか連れていく」
「よろしくね」
沙南がニッコリ笑うとこれは絶対連れていかないとなと思ってしまう。
そんなデートスポットに他の男といく沙南が想像できない癖に、いつまでたっても捕まえようとしないとは……と誰しもが思っているのだが……
すると、ソムリエがオススメのワインを持ってきてワイングラスに注いでくれる。ワインを説明する言葉が実にシンプルで深いなと龍は感心した。そして二人はグラスを手に取ると、
「いつもご苦労様、家長殿」
「ああ、これからもお世話になります、主殿」
なんて色気のない恋人達何だろうかとそばに控えていたウエイターは思うが、それが二人である。
「乾杯」
澄んだグラスの音が響いて後、たわいもない会話が弾んで、そして料理に舌鼓を打って、沙南がワインにほんのり朱く頬を染めて……
料理を運んでいたウエイターは厨房で不思議そうにシェフに告げた。
「何故なんでしょうか……」
「どうした?」
「今まで幾人もの恋人を見てきましたが、なんだか不思議なんです」
「何がだ?」
二人を見てくださいとウエイターに促され、シェフもちらりと顔を出すと感嘆の声を漏らした。
「……あれは恋人未満だよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ。ただ、純粋に互いを思い合うことが幸せなんだろうが……」
だからこそこちらまで不思議な感覚に陥ってしまうとシェフはそう心の中で告げた。まるで料理の隠し味のような二人だとの感想も付け加えて……
そして全ての料理が出されて沙南も少し酔いが覚めた後、あまり遅くなってはいけないからと龍は切り出した。
「さて、じゃあ帰ろうか」
「え〜! 一泊していくんじゃ」
「沙南ちゃん」
「ふふっ、ごめんなさい」
そう言って席を立ち上がると、車を下に待機させてあると聞いて二人はレストランを後にした。それからホテルの従業員一同が温かく二人を送り出してくれる。
その気遣いに軽く会釈して二人は菅原邸の近くまで車に揺られた。
そしてデートも終着駅にたどり着く。菅原邸の玄関までの長く、でも短い道程を歩けば今日はおしまいだ。
だが、出て来る言葉はいつも通りで……
「楽しかったね」
「ああ」
「今度はいつデートしてくれるのかしら?」
「お姫様のお供ならいつでも喜んで」
「じゃあ明日」
「いや、明日は啓吾と……」
「うん、天空記に恋しちゃってる龍さんは振り向かすことなんて無理よね」
むしろ本が嫌いとか、医者じゃない龍なんて想像できない。そしてそれを優先してこその龍で、それを含めて沙南は龍が好きなんだと思っている。
「でもいつか本より私が大切って言ってくれないかしら?」
「大切だよ?」
「えっ?」
「家族だろう?」
一瞬驚かされても恋愛に話は向いてくれない。そうじゃないのになと心の中でがっくり肩を落とす。
「……家族から抜け出せないのよね」
「どうしたんだい?」
「何でもありません。ただ龍さんがいつまで経っても口説いてくれないなら浮気しちゃうから!」
「誰に?」
楽しそうに笑う龍に悔しくなってくる。いつだってこの隣にいる思い人は自分の事を知っているからこそ、そう簡単に自分が他の誰かと付き合うなんて思ってなどいないんだろうなと感じてしまう。
しかし、実際のところはそんな輩が出たら、無意識に相手を消し去っているからなのだが……
「……相手がいないこと分かってるのに酷よね、そのセリフ」
「沙南ちゃんがその気になればいくらでもいると思うけどなあ?」
「でも、私が龍さん以外の誰かのところにお嫁にいったら困るでしょ?」
「ああ、確かに困……る……」
自然と突いて出た言葉に龍は赤くなる。それをもちろん聞き逃してなかった沙南はパアッと明るい表情になった。
「えっ、それ本当!?」
「いや、そのだ……」
少し慌てて、深い意味じゃないと龍は撤回に出た。
「えっと、うちの文明の後退がな……翔や純も沙南スペシャルが食べれなくなるし、秀がいない日とか家の散らかり様は半端じゃないし、俺も沙南ちゃんがいないと……その……なんだかんだで生活が……」
コーヒーが飲めなくなるとか、家事をしてくれる女神様がいないと困るとか、龍にとっての当たり前がなくなるというのを言葉にするのは難しい。
沙南が生まれたときから傍にいて当たり前だったのだから……
しかし言葉になんてならなくとも、沙南は充分満ち足りていた。
「ふふっ、愛されてるのね、私」
「そりゃ……家は沙南ちゃんがいないと悲惨だし……」
「いつか俺は沙南ちゃんがいないと困るって言ってね!」
「いや、困るのは違いないんだが……! 家長をからかうんじゃない!」
「ごめんね、龍さん!」
「ちょっ、沙南ちゃん!」
抱き着いてくる沙南に、いつも苦労性とか責任感とか長兄という言葉が張り付いている龍の顔が、恋を知った初々しい青年の顔となる。
「……いつかコロンの言葉通りの関係にもなりたいけど」
「何だ?」
「何でもないわよ! ただ龍さんの照れた顔って可愛いなぁって言ったの!」
「沙南ちゃん!」
いつになく恋に関してわがままな意味を持つコロンを選んだ。
「君を愛する私に溺れなさい……」
まだまだ先になりそうだけれど……
とりあえずやっぱり今回もくっつかない二人でした(笑)
恋愛らしい会話が出てきてもなぜかムードが高まらない……
うん、それでくっつくようなら周りも苦労しないことでしょう(笑)
だけど龍も沙南ちゃんがいてくれないと困るとの自覚はあるみたいです。
生活云々と言ってはいますが、自然と傍にいてくれるのが当たり前になっているので上手く言い訳できないんだぞ、龍!
もし秀達がいたら、「なんでそこまで自覚していて愛の言葉一つも言えないんですか!」とつっこんでくれるでしょう(笑)
さあ、とりあえずデートも終了して久しぶりに日常に戻れるのかな??