アマテンの歴史 幼稚園~小学校編
今回は私アマテンのことをよく知ってもらうために30年の歴史について話していきたいと思います。私は大阪の首都大阪市の隣の商業の都市東大阪市に生まれました。家族は父、母、姉の5人家族で大阪府が経営する集合団地に暮らしていました。そこからはすくすく育ち幼稚園に入園しました。幼稚園では同じ団地に住んでいるA君と友達になりよく遊んでいました。当時は超力戦隊オーレンジャーの再放送を見ながらピラミッド型のロボットを変形させるなどの遊びをしていたことが記憶にありました。そんな幼稚園生活を過ごしていたある日少し目がぼやけてきました。親に聞いてみると京都にいる目専門の病院に行きました。
なぜ京都まで行ったかというと母と姉が目の病気がありその診療の行きつけの病院が京都にありました。その病院で目の検査をすると斜視に一部内斜視という目の病気でした。斜視とは何かを見る時片方の目が偏る病気で原因は目の神経異常でした。自分の場合は遠くを見る時遠視でその症状が出るようです。この斜視という病気は失明する、命がなくなるという重大な病気ではなく専用に調整された眼鏡をつけることである程度共生できる子が出来ました。また斜視にかかった人は同時に視力も落ちるためめがねをかけるようになりました。この斜視という病気は高校に入るまで安定しないため毎年一回い病院に行くことになりました。そして眼鏡をつける生活が始まりました。最初は慣れませんでいたが一日中つけているとすぐになれました。
そんな生活をしながら幼稚園を卒業すると小学校に行くことになりました。私の地域では2つの小学校があり地域によって行く小学校が決まっています。ただ私がいた団地はどちらの小学校に行っても大丈夫だったことら姉が通っていた小学校に行くこととなりました。ただ友達のA君はもう一つの小学校に通うことになりました。
小学校になると遊ぶ範囲も広がり一緒のクラスになった人とよく遊んでいました。といっても眼鏡をかけて視力が低下していたことから家庭の方針として私の家にはゲーム機などは無かったのでもっぱらゲームを持っている友達の家に遊びに行ってました。ゲームの話は後で回すとして当時は門限が5時であったため外や友達の家で遊んでいるとすぐに門限をやぶっていてしまい怒られていましたね。
さてではゲームの話に移りますか。私の青春時代はゲームの歴史といってもいいかもしれません。まずは携帯ゲーム機から。まず初めて触ったゲームは小学1年生でたん4電池を4つ使う初代ゲームボーイのマリオワールドでしたね。最初はキャラを動かしたりい麺をクリアするだけでも満足していました。さらにポケモン赤、緑がはやりましたね。当時ゲームは基本1キャラか多くても4キャラを育てることが多かったのですがこのポケモンでは魅力あふれるモンスターにそれぞレの個性的な能力、それらのポケモンをつれて旅をすることがとても面白そうでしたね。
当然私は持ってませんが周りのではこのポケモンが強い、こんなポケモンが使いやすい、こんな道具があったなどの話をきいてました。
さらにこのポケモンでは今のインターネット上の通信に慣れた人は知らないかもしれませんが、当時は2つのゲームボーイをケーブルでつないで交換したり戦ったりしていたため、今よりはポケモンが集めにくかったり対戦もしにくくかった代わりに友達のつながりは深かったかもしれませんね。そしてゲームの内容は同じだがポケモンのグラフィックが違ったり、本当なら手にいにくかったポケモンが出るなどのちょっとした変化があるカメックスが表紙のVer青がコロコロコミックの応募はがき専用で販売されました。その2,3年後普通に売れれるのですが当時は一度の限定販売だったため持っている友達は人気でしたね。
さらにポケモンのアニメも始まっておりピカチュウの圧倒的人気から、、ゲームのシナリオを少し変更して最初のポケモンをピカチュウにしてトレーナーの後ろをついてくるVer黄が発売されました。さらにこのVer黄は当時卵という機能が無かったため最初のポケモンいわゆる御三家フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメはどれか1体しか持てなかったところ、このVer黄ではすべての御三家が仲間にできました。
そしてTVがモノクロからカラーに変わるようにゲームボーイカラーがはつばいされた。それと同時期に私たちの時代のもう一つの大ヒットゲームドラゴンクエストモンスターズテリーのワンダーランドが発売されました。このゲームはドラゴンクエストの派生ゲームで今まで的だった魔物を仲間にして戦ったり、魔物同士を組み合わせて新しい魔物を作システムは当時すごく面白そうでした。特にゲームちゅう一匹しかもらえないわたボウを作って作るだーくどれあむはあのゲームの到達点でしたね。
そんな時を過ごしていると私たちの間であるゲームが大流行しました。それがたまごっちとデジモンという育成ポケットゲームですね。主に女子の間でたまごっち、男子の間でデジモンでした。このデジモンは食べ物を上げる、排せつ物の処理をする、運動することでデジタルモンスターというデジタル状の魔物を育てるゲームで皆時には外で時にはかくして学校に持ってきて遊んでましたね。まあ私はもってなかくて友達のを見せてもらっていたんですが。このデジモンは卵→幼年期→成長期→成熟期までは普通に育ったんですがさらにもう一つ上の段階の完全体になるには成熟期同士を何回か戦わせて勝率○○%以上にして何にちか過ごさなければならないという条件が合って友達はよくデジモンの機体同士をつけて勝負さしてましたね。このデジモンを巡ってある事件がありましたがこれについては別の機会に。たまごっちとデジモンの同時期にヨウカイザーというポケットゲームも発売されましたがそこまではやらなかったですね。
そしてそんなデジモンブームが来ている時待望のカラー対応の新しいシナリオのポケモン金、銀が発売されましたたちまち学校中にブームが来て翌年にはVer黄のようにトレーナに女性が選べたりスイクンをシナリオのメインとしたクリスタルが発売されました。
そして大体同時期にドラゴンクエストモンスターズ2イル・ルカの冒険が発売されました。この時期になると私も親を説得することに成功しGBCを買ってもらってるかの冒険を買ってもらいました。たださすがに外に持っていくことはだめだったためソフトだけもって友達の家に行ってましたね。私の場合は誕生日に一本、クリスマスに1本だったので他の人よりはソフトを買ってもらえる機会は少なかった気がします。それ以外ではわずかなおこずかいを溜めて買ってましたね。
さてイルルカの話に戻りますがこのゲームのシステムでは不思議なカギと呼ばれる鑑定するまでどこに繋がっちるかわからないランダム性のあるカギでいろいろな世界に行って魔物達を仲間にしてたたかうというゲームで特に前回のてーりーのワンダーランドの最高クラスの魔物が出てくる秘密の○○、神秘の○○、伝説の○○、最後の○○というカギを手に入れた時の興奮はすごかったです。さらに1本しか所持ができない前作の???ケイと呼ばれる○○の魔王のカギが出てきた時はすごかったですね。
そんな中私がひそかにしていたゲームとしてゼルダの伝説不思議な木の実と超魔人英雄伝わたる外伝混ぜっ子モンスターです。ゼルダの伝説は後で出てくるニンテンドー64のゼルダの伝説時のオカリナを見てて面白そうだったのでGBC版のゼルダの伝説を買ってやって見いました。これも結構面白くて必死にやってました。混ぜっ子モンスターについては友達の家でプレイして面白かったので買いました。このゲームは草原、水辺、もり 、山などの様々な環境にペットボトルを仕掛けて卵が入ってくるまで待ってその卵から生まれてくるモンスターを育てるゲームでした。特に対戦とかの要素は無くモンスターを育てて最終形態まで育てて、配合などで新たなモンスターを生み出すシステムなんですがうまくいかなければ普通にモンスターが死んだり、モンスターにえさを取りに行かせられるのですがモンスターによって取れてくるエサが違うためそこら辺のやり込み要素が自分とマッチしていました。
そして小学6年生になるとき新しいゲーム機GBAが発売されGBA専用のポケモンルビーサファイアが発売されました。この年第になると(といっても小6なんですけどね)本格的なポケモンの育成についても情報がながれ努力値と言われる要素についても考えてましたね。まあもう一つの要素個体値についてはよくわからなかったけど。
とまあこれで小学校時代の携帯ゲーム編は終了です。次はTVゲーム機編です。私がTVゲームをし始めたのは小学1年生のころからでした。当時は2人でできるゲームとしてスーパーファミコンの星のカービーDXやストリートファイター、一人用だけどマリオRPGやスーパーマリオワールドなどでしたね。当時はPSもあったのですがスーパーファミコンの方が圧倒的に人気がありましたね。それからニンテンドー64が発売され1人用ならゼルダの伝説時のオカリナやスーパーマリオ64、初の4人対戦ができるマリオカート64、マリオパーティ64、マリオテニス、スターフォックスそしてスマッシュブラザーズが流行ってましたね。特にマリオカートではいくつものコースカットが発見されたり、スマブラではカービーが強いやらネスが強いやらでわいわいやってました。
次に発売されたのがゲームキューブ、発売されたソフトとしては協力プレイ煮たいな感じで進めるファンタシスターよくファンシーって言ってたり、スマッシュブラザーズ、カービーのエアライド、モンキーピンボールなどが記憶にありましたね。同時期にPS2やドリームキャスト、Xboxなども発売されたのですがこちらのゲームはどちらかといえば当時マニア向けの印象があったためそこまではやらなかったです。
とまあ小学校でもゲームについてはこんなかんじ。
小学校時代の生活やゲーム以外の遊びについて話ていこうかな。まずはゲーム以外の遊びについて。小学校では低学年で昼休みにはやったのはまずドッチボールでしたね。各クラスに2球ボールが置いていて一休は女子にもう一球は男子に渡されて男子はドッチボールをしてましたね。高学年になると探偵という集団対集団のおにごっこみたいな遊びをしました。ただ当時はどうも思わなかったのですが探偵は結構危険な遊びでしたね。捕まえる方法が触れることなんですが、触れたふれていないの言い合いから喧嘩になったりしました。反抗期なのか高学年になると喧嘩ぱやっくなってたのも原因でしたね。今に思うとホントに謎なんだが些細なことですぐに喧嘩になりましたがあれは何だったんだろう。
とまあ学校ではそんな感じに遊んで放課後や休日はあるカードゲームが流行ってました。それは遊戯王ジュエルモンスターズ。流行り出した時は本当に初期の時代で禁止制限もなくよくカードが3~4まいで一束100円ぐらいのカードダスっていうんですかね、それを探し回ってました。そしてさらに火が付いたのは今では超問題作の新パック「マジックルーラ」が発売されてからです。当時お小遣いをもらったらお菓子を買うお金を考えながらコンビニに行き2パックください見たいなことを言ってましたね。当時は知恵泣きただの子供だったため今では使用禁止となっているカードの強さもわからずバンバン使っていた記憶があります。後記憶に残っているのはレアリティがウルトラレア以上しかなかったサクリファイスのレアを手に入れたことを、ただ周りに聞いてもあり得ないといわれたので今思えばシークレットなのか製造ミスなのかわかりませんね。そのレアらしいサクリファイスはどこかに行きましたが。あとレプリカが大量に入っているパックの中にレプリカではないカードも入っていると聞いて買っていた記憶もあります。嘘かほんとかわからないのですが
そして遊戯王については大事件が一つありました。当時仲の良かった友達と夏休みになるとある山の中で開かれるバーベキュー―大会に行ったんですよ。で友達は遊戯王カードをもって行ったんですけど私は親から持って行ってはだめといわれてて持って行ってなかったんですが、その会場で友達に遊戯王カードを借りて対戦していたんですが、カードをおいてはなれていってしまったためカードを無くしてしまいあるカードだけは弁償しろと言われました。そんなことを親に言えなかった私はこずかいが入ればそれが入っているパックを探して買いあさりましたね。そのレアカードっていうのがブルーアイズホワイトドラゴン3枚です。私はブルーアイズが表紙のパックを買いどうにか2枚は集まったんですがどうしてももう一枚が当たらなかった。それを友達に相談したらそれまで当たっていたレアカードをくれたら許すよと言われて譲りましたが今思えば絶対こっちが存してたよな。
でこの友達とも仲直りして普通に遊んでたのですがこの事件でさっさと友達関係を切っとけばよかったという事件が起こりました。その話をする前に私のこずかい事情について話しましょう。
小学生に上がった時に親から月に200円と共に小遣い長を渡されて記入していました。この小遣い長がめんどくさくてよく記入ミスで起こられたりこずかい無にもなりましたね。でこの小遣いの増減なんですが1、2ねんで200、3,4年で300、5,6ねんで400円でした。さて皆さんはどうだったでしょうか。私よりは多かったですか少なかったですか?まあ周りと比較すると圧倒的に少なかったんですが。いまおもいますがこれでやりくりしていた私すごいかも。
そ んなこともあってある程度の欲しいものを買ってくれる誕生日プレゼントはうれしかったですね。もちろんTVゲームはだめだったのでデジモンとかを買ってもらっていました。え?クリスマスプレゼントや正月のお金はどうだったかって?そんなもの我が家にはありません。クリスマスではケーキなどを買って祝ったり、正月に親戚の家に行くことはありましたがお年玉は全部回収され親から渡されるだけでした。でデジモンを買ってもらっていたんですがここでもあの友達が事件を起こします。
その友達の家に遊びに行ったある日友達のデジモンが死んでしまって卵の状態からになったんですがなぜか僕のせいになってデジモンの機体を渡せと言われたんですよね。以前からその友達が私は渡す約束をしてしまったんですよ。今思えば何故そうなったかはわかりませんが。あそらく苦手式からだったんでしょうね、渡すぐらいですむならさっさと渡そうと思ったんだと思います。もうこれで友達の縁も切ろうと思っていたので。で当時は2つ機体を持っていて1つは発売されたばかりのD3型(ブイモンを育ててたかな)、もう一つは何世代か落ちるペンデュラム型。友達がデータを失ったのはペンデュラム型だったんで私はペンデュラム型を渡してその友達との縁を切ったんですが私がD3型を持ってることを聞いた友達は本当はそっちをもらう予定だと学校でいちゃもんをつけてきたんですよね。そのいちゃもんは喧嘩に繋がり当時担当だった先生の仲裁により治まったんですが、その時先生に理由を話したらなぜか先生も私が約束を守らないから悪いということになって学校に持ってきて渡すことになったんです。それを聞いた瞬間その先生に対する信用は無くなり先生という職事態に不安を持つようになりました。親とも相談した結果その友達にD3型を渡して縁を完全にきりデジモンについても遊ばなくなりましたね。とまあ遊び関連はここまでかな.次は勉強関連
本格的に国語、算数、理科、社会などの勉強がはじまりました。といってもぜんぜん難しいとは思いませんでしたね。といっても私が通っていたのは公立の小学校だったので私立に比べるとゆるゆるだったんですけどね。ちなみに気づいた人もいるかもしれませんが私の時代では習ってた科目は国語、算数、社会、理科の基礎強化に家庭化、体育、工作、道徳の副強化でした。そうです、英語やPCの授業は無かったんです。これに関しては英語だけでもあったらよかったなあと大人になると思いますね。さらに授業の時間割ですが1日5~6時間、2週に一回午前中だけ土曜に授業がありました。そうです土曜にも授業があったんです。完全に月~金の授業になったのは中学生からでしたね。テストの仕方も特別大きいプリント用紙B4ていうのかなに大体一門10点ぐらいの簡単なテストでしたね。この方法もダメだと思う。この様式に慣れて中学での急激なテストの変化に適応することができなかった。小学校5,6学年の高学年なら中学校のテストのなれのために中学校のテスト形式にしてもいいと思うけど。
さて先生に対する話ですが先ほどの友達との仲裁でふざけた理由を述べた先生により私の教師に対する印象は下降気味です。ここで更に教師に対する印象を最低値に下げる先生がいました。先に行っときますけど暴力があったとかいじめにあったとかではないですよ。でその先生に何をされたかというとまず1つは野球事件です。ある日朝の集会で甲虫先生のありがたい話を聞いた後学校の全体連絡としていろいろな先生が話していたんですが最後に野球クラブの先生が「今度2か月後休日に野球の試合があるんだが興味のある人は昼休み○○の教室に集まってくれ。初心者でも経験者でも誰でも来てくれ。一から教えるから」と野球の試合の選手の募集をした。私もマンガやアニメで興味があったから友達を誘って昼休み指定された教室に行ったのだが40人ぐらい集まったところであまりにも人が集まったので数を減らすために経験者以外は出て行ってくれとその野球の先生は急遽募集要項を買えた。別に募集要項を変えるのはいいがもっと早く変えてほしかった。それにどのぐらい集まるかは予想位しろよ、もしできないなら事前にアンケートでも取れよと当時の私は不満をあらわにしていた。
さらにこの先生はやらかす。今度は私自身に。それはタオル投擲事件である。
小学6年生最大のイベントスキー合宿。その帰り道バスの中で野球の先生が「このタオル誰のだ」とみんなに聞いていた。でそのタオルはわたしが忘れた物だったのでてを上げてとりに行こうとバス内の通り道に出ました。その時丁度高速のSAで止まってたので鳥に行った方がいいと思ったんですよ。で通り道を半分ぐらい歩いたところでその先生はいきなり笑顔でタオルを投げてきたんです。この時ははあ、何してんの?鳥に行ってるのわかってるよね?それに仮に渡すとしても投げるって先生というより人としてどうなのって思いました。まあ口には出してないんですが。
まあこれらの事が合って私の教師という人種に対する印象は最悪になりました。これで小学校編は終わりです。次は中学生編ですね。




