第5話 狼〈ツゥオル〉
オルゥサが、オタの村を出て二日。エルランの山々へと入って一日が経過した。
山道は、次第に緩やかな斜面へと変わり。周囲は、深い森に覆われていた。
(そろそろ、頃合いだな……)
オルゥサは、周囲の森を見渡した。木々が鬱蒼と茂っている。
『雷の魔女』にとっては、もう充分な距離を逃げてきたと考えられる。そうなると、次に必要なのは水と食料だ。それらを探すには、この森は丁度いい。身を隠すのにも適している。
オルゥサは、道を逸れて森の中へと入って行った。
空は木の葉に遮られ、森の中は薄暗い。地面は、所々むき出しになった木の根が張っていて、とても歩きづらかった。
(まずは、水場を探すはずだ……)
水は必ず必要になる。オルゥサは、水場を求めて森の中を歩いて行った。
それから、二時間ほど経った頃――――
オルゥサは、森の中であるものを見つけた。それは、一匹の狼の死骸だった。
死後、数日は経ったであろうそれは、まだ原型をとどめている。近づくと腐った臭いが鼻をつき、思わず手で覆った。
エルランの山々で、狼は、神々がその姿を借りたものと言われ。神聖視されている動物でもある。
だが、神とは時に非情なものだ。狼は、人間を襲うこともある。人々にとって神とは、ただ敬うだけのものではない、時に恐れることもある存在なのだ。
オルゥサは、屈みこんで狼の死骸を調べた。胴体に、何かで斬られた大きな傷がある。それが致命傷になったようだ。
『雷の魔女』ミリィアは、領主の息子ハキムから剣を奪って逃走している。
並みの人間なら、剣を持っていても狼と戦うのは簡単なことではない。しかし、『雷の魔女』と呼ばれた彼女なら、狼の一匹くらい返り討ちにするは訳ないだろう。
(間違いない。これは、魔女の仕業だ……)
『雷の魔女』ミリィアがエルランの山々へと逃げたことが、ようやく現在。オルゥサにとって確信へと変わった。
(まだ、魔女はこの近くにいるかもしれない……)
オルゥサは、立ち上がると慎重に森の中を進んでいった。
そして、しばらく歩くと森を抜けて、切り立った崖の上に出た。見下ろすと、崖の下には小さな川が流れている。
そこは、魔女にとって、何よりも必要な水場だった。
オルゥサは、周囲を見渡して崖の下に降りる道がないか探した。その時だった……
「グルルルルゥゥゥ……」と低い唸り声を上げて、一匹の狼が森の中から出てくる。
先ほどの死骸と同じ、濃い灰色の毛並みの狼。
その目には、今にも飛びかかって来そうな殺気を宿していた。
オルゥサは、腰から短剣を抜いてかまえた。『雷の魔女』とまではいかないが、自分も戦士の端くれである。狼一匹程度なら、相手にできる自信はあった。
しかし、オルゥサの自信はすぐに絶望へと変わる。
森の中から、次々に狼たちが現れたのである。一匹ではなく群れだったらしい。
「くそッ! ここは、お前たちの縄張りだったか……」
さすがのオルゥサも、狼の群れが相手では勝ち目は無い。逃げようにも既に囲まれてしまっている。
オルゥサは、ふと背後を振り返った。高い崖の上だ。落ちれば無事では済まない。視線を狼たちに戻そうと思ったその時。
狼たちは、一斉に飛びかかって来た。
「くそッ!」
オルゥサは、飛びかかってくる狼の鼻先を短剣で斬りつける。一匹目の狼は、「ギャンッ!」と悲鳴のような鳴き声を上げた。
しかし、次に飛びかかって来た狼が、オルゥサの足に喰らいつく。鋭い牙が、左足に食い込んだ。
「ぐぅあああーッ!」
オルゥサは、痛みに思わず叫び声を上げるが。すぐに足に嚙みついた狼を短剣で斬りつける。左足には、鈍い痛みがズキズキと走り。傷口が燃えるように熱く感じられた。
「くそッ…… こうなれば、一か八かだ!」
もはや、狼たちから逃れる術は一つしかなかった。オルゥサは、背後の崖から飛び降りたのである。
オルゥサの体は、ゴロゴロと転がって急な崖の斜面を下っていく。体のあちこちが地面に擦れて痛みを発する。そして、大きな岩か何かにぶつかったのか、頭に強い衝撃を受けた。
オルゥサは、その衝撃で静かに意識を失っていった……
☆ ☆ ☆
肉の焼ける匂いがする。パチパチと焚き火の音が聞こえる。そして、肌には温もりのようなものが感じられた。そして、自分は地面に横たわっているだと分かった。
「はッ……!」
オルゥサは目を覚まし、上体を起こそうとした。しかし、脇腹にズキズキとした痛みを感じて「ぐぅッ!」と声が漏れる。
目を開けると、そこは洞穴の中のようであった。目の前には、火が焚かれていて、串に刺した肉が炙られている。
「気づいたようだね……」
突然、穏やかな女性の声が聴こえた。声のする方を向くと、一人の女性が座っていた。まるで奴隷のような粗末な衣を纏っていて、近くには一振りの剣が置かれていた。
優しい顔をした女性で、黒く長い髪を後ろで一つに束ねている。見た感じは普通の女性だが、目には強い芯のようなものが感じられた。そして、左頬には稲妻のような形をした傷跡があった。
(あの傷はッ!? 間違いない…… この女は『雷の魔女』ミリィア!)
オルゥサは、すぐに腰に手をやるが、そこに自分の短剣はなかった。
「あんたの荷物なら、あそこに置いてるよ。心配しなさんな。何も盗っちゃあいないよ」
女は、オルゥサの心を見透かしたかのように穏やかな声で言った。女の指さす先には、オルゥサの荷物が置かれている。
オルゥサは、深く息を吐き。心を落ち着かせる。そして、女に尋ねた。
「あなたが…… 俺を助けてくれたのか?」
「ああ。狼どもに襲われたんだろう? 足に噛まれた傷があった。崖の下で、倒れているあんたを見つけてね。ここに運んで来たのさ」
左足を見ると、布が巻かれている。この女に手当されたようだ。
「狼の牙は、放っておくと傷口から病を呼び込む。綺麗な水で洗って、濡らしたシヴァの葉を貼っておいた。そうしておけば、とりあえず大丈夫だよ」
この女は、間違いなく『雷の魔女』ミリィアだ。しかし、だとすると。オルゥサには、どうしても信じられない疑問があって思わず口にした。
「なぜ…… 俺を助けた?」