第一章3話『背視地行』
そんな様子を見兼ねた心紬は「ここが私たちの國、水鏡です。私が先に中に入るので後から来てください」と言い、露零の背中を押す前向きな言葉を残すと彼女は独断で順序交代を行動で示す。
その後、少女が呼び止める間もなく膜の中へと消えていく彼女の姿に少女も意を決する。
「心紬お姉ちゃん?! ってもう行っちゃった。でもなんだか不思議な感じ、私も……えいっ!」
一方的な言葉を残して球体の水の中に消えていった彼女の直前の言葉には具体的に何とは言えないが、不思議と高揚感のようなものが感じられた。
そんな彼女が残した言葉をベースに最も自身を奮い立たせる言葉に置き換えると胸中で数回復唱する。
自身にかけた自己暗示で恐怖を振り払うと一足先に球体の水の中へと入っていった心紬に続き、覚悟を決めた露零は勢いよく目を閉じると一思いに水の膜に飛び込む。
そうして飛び込んだ膜の中は水で満たされていた。
しかし水と言っても内部の全てが水というわけではなく、三歩も歩けば向こう側に出ることができる。
そのまま膜を通り抜け、出た先にはこれまで露零が目にした青々とした森とも水の膜付近の景色とも違った少女にとって未知の光景が広がっていた。
真っ先に少女の視界に飛び込んできたのは宙に浮かぶ水を含んだ泡玉、そしてその中をまるで水槽のように優雅に泳ぐ、背に日の光を浴びた好色に輝いて見える金魚。
そして白変種のように真っ白な小動物がペットのように人と一緒に並び歩いているという不思議な光景だった。
他にも和風で長方形の建造物が横並びに続いていて、心紬はその中で唯一縦伸びした最も高い建物を指差すとそのまま少女に話し掛ける。
「見てください。あれがこれから行く城、藍凪です」
(凄く綺麗。でも…やっぱり私、なんだか初めてじゃない気がする)
事実として、たった今さっき生まれ落ちたばかりの露零がこの光景を知っているはずはない。
にもかかわらず、目の前の光景に既視感を覚えた露零だったが何度見ても不変の感想を抱くことは人間誰しもあるだろう。
今の少女もその状態に他ならず、たとえ既視感があろうとも大きな建造物に心紬の言葉も聞こえない程に脱力し、呆然と立ち尽くしていた。
……のだが、心紬はそんな少女を見て「まだ歩けますか? 無理そうなら私がおんぶしますよ?」と的外れな言葉を投げ掛ける。
心配そうな眼差しで声を掛けられ、露零は咄嗟に「だ、大丈夫だよっ!」と若干食い気味に言葉を返すも冷静になって考えてみれば彼女のポンコツ具合が如実に現れた瞬間だった。
すると彼女は本気でそう思っていたのか「そうですか…」と言い、心なしかしょんぼりとする。
その後、気まずい空気にめっきり口数が減った二人が城下町を歩いていると様々な人々とすれ違い、露零はすれ違う人々の服装に興味を示す。
その服装は一人一人色も生地も異なっていたが、唯一共通しているのは男女共に和服を着用していることだろうか。
(わぁ~~~~! きれいな服がいっぱい! 私も着てみたいなぁ)
水鏡の住人が着用している服装を一目で気に入った露零は無邪気にそんな能天気な思考をしながら一人の女性の服装を、まるで着せ替え人形のように自身に置き換える妄想をしていた。
想像力だけはいっぱしの大人だがその思考からは幼さが垣間見えている。
しかし、なぜかそのタイミングで心紬は少女に対して(可愛い)という感情を抱いていた。
「ふふっ、大丈夫ですよ。城に着いたらあなたも着れますから」
(えっ、私なにも言ってないよ?)
それはあまりにも突拍子のない言葉だった。
心紬の言葉は少女の動揺を誘うには十分で、心を読まれたように感じた露零は恥ずかしさに頬を赤らめるとそのままそっぽを向く。
しかし嬉しさからこみ上げる笑みを抑えることができず、少女の顔からは拙い笑みが零れていた。
それからさらに歩き続け、しばらくすると二人は立派な城門の前に到着する。
その奥には城門越しでもはっきりと見える聳え立つ城があり露零は圧倒され、言葉を失い、呆然と立ち尽くしてしまう。
最も大きな建物に圧倒され、心ここに非ずだった露零は数秒後に掛けられた心紬の言葉で『はっ!』と意識を取り戻す。
「さぁ、着きましたよ。ここが伽耶様の城、藍凪です」
「わぁ~~~~っ! すごく大きい!!」
露零の感想は案外的外れとは言えない。
外観だけで言うならば、藍凪と呼ばれるその城は道中目にした横伸びの建物とは違って水鏡随一の大きさ、そして高さを誇っている。
大きく立派なその外観は和風の城以上の特徴は特に見当たらないが、屋上からは國全域を一望できそうに思える。
「伽耶様! ただいま戻りました!!」
会話時の口調とはまるで違い、芯の通った張りのある心紬の声が城門周辺にこれでもかというほど響き渡る。
単に使い分けているだけなのだろうが、一歩間違えればご近所迷惑にもなりかねないあまりの変わり口調に露零はとても同一人物の声だとは思えず、別人だと考えた少女はまるで背後から急に言葉を掛けられたときのようにビクッと反射で身震いする。
しかしそれには少女なりの理由があるのだ。
なにせ露零は彼女の背後をちょこちょこ付いて歩いていただけなのだ。
周りに通行人がいないとはいえ、彼女の口元なんて背後にいる少女の位置からは見えるはずもなかった。
――――。
彼女の呼び声は数秒間の静寂に飲まれ、やがて消散する。
しかし露零の耳には強く残り、彼女の声の余韻を感じていると今度は古びた重々しい開閉音がその静寂を余韻ごと切り裂いた。
彼女の開門要請から数秒が経過した後、目の前に聳える分厚く大きな木造の扉は『ギィィィ』と大きな音を立てながら開門し、中から猫耳をぴょこっと生やした一人の女性が現れる。
「――伽耶様ならまだ戻られていませんよ」
どこか威圧感を感じさせるような、冷たい印象を感じさせる第一声だった。
初対面で部外者の露零もその場にいるからだろうか。
しかし口調に現れる彼女のダウナー気質は通常運転、故に素の状態の彼女に理解のある心紬は変わらないトーンで言葉を返す。
「シエナ! 詳細はスカーフに施した刺繍の通りです。当然あなたも知っていますよね?」
「ええ、私は國を回す立場ですし当然です。そのくらい聞かなくてもわかるでしょう?」
露零目線、猫耳の他にも特徴と呼べるものはあったと思う。
しかし頭からぴょこんと突き出た愛らしい猫耳は露零の興味を一点に集めていた。
(耳、ゆらゆらしてて可愛い♪)
年相応の反応と言えばそうだろうか。
まだ幼い少女と言えば可愛いものに目がないだろう。
しかし恐らく異形に分類されるだろう、シエナと呼ばれた女性はそれがコンプレックスだったのか、クルっと後方に向きを変え二人に背を向けると必要以上の会話をすることなく足元に敷き詰められた玉砂利の上をスタスタと歩いて移動し始め、そのまま一度も振り返ることなく足早に城の中へと戻っていく。
そんな彼女の後ろ姿を静かに眺めていた露零はこの時、心紬が特別なだけで本来、初対面且つ出処不明の自身が受け入れられるはずがないと感じていた。
――――しかし、少女は同じく抱いたもう一つの疑問を口にする。
「優しそうなのになんだか怖い。もしかして怒ってるのかな」