第一章36話『古狐』
「ただいまー!」
何気ない日常を取り戻してから初めての帰城。
だが城内に入ろうと玄関の取っ手に手をかけた露零は玄関前であるものを発見すると、少女の興味は本来の目的から大きく方向転換する。
玄関前で目にしたもの、それはずばり盛り塩だった。
魔獣戦で受けた瘴気を城内に持ち込まないよう、玄関扉の両端に置かれた三角盛りの粗塩は同時にこれからの運気向上の願いも込められているのだろう。
時間にしてほんの十数秒程度だが、露零が城内に入ろうとする足を止めている間に「心紬、このあとちょっとええ?」と尋ね、伽耶は従者を少し離れた庭先へと連れて行く。
そんな主君に気を利かせたシエナは先に露零を城内に入るよう促すとそのまま少女の自室へと連れていく。
帰城後直後の第一印象として、清掃に力を入れていることが一目でわかるが他は特に以前と大して変わりない。
先頭するシエナはそのまま二階にある露零の自室まで付き添うと少女が部屋に入るのを見届けるためか、自身を追い抜かせるよう横にはけて道を作ると静かにその場に待機する。
その意図を汲み取った露零は真横にシエナに軽い会釈で感謝を伝えるとそのまま自室に入っていく。
「シエナさんありがとう」
「礼には及びません。それではごゆるりと」
しばらくぶりの懐かしの自室に入った瞬間、少女は安らぎと同時にある違和感を感じた。
部屋の窓は開いていない、完全密閉空間にもかかわらず、そよ風程度の爽やかな風が室内を循環していたのだ。
同時にフローラルな香りも漂っていて、魔獣討伐という大きな山場を越えた少女は心理的余裕も相まって、以前よりも心地よさを感じていた。
それこそこれからの人生に連鎖的な影響を齎すための好循環、その第一歩を思わせるように――――。
あまりの心地よさにしばらく羽根を伸ばしていた露零はふとあることを考え始める。
そして何を思ったのか、少女は突然立ち上がると心紬の部屋を訪ねようと思い立ち自室を出る。
城内の構造も先の識変世界と何ら変わりない。
同一階にある彼女の部屋まで歩いていくと木枠を持ち、障子を揺らして音を鳴らす。
これは以前、心紬が入室前に行っていたことだ。
≪障子紙に障ってはいけない≫と注意を受けたことのある少女は見様見真似で今回、先輩従者が行っていたことを本人の部屋で実践したのだ。
するとしばらくして彼女は中からひょっこりと顔を出し、首を傾げながら「どうしたんですか?」と尋ねる。
「心紬お姉ちゃんに聞いてほしいことがあるの。私ね、風月に行こうと思ってるんだ」
寝起きドッキリとは言わないまでも、突然の自室突撃に加えて思いがけない少女の発言に顔を出した心紬は理解が追い付かず、お口あんぐり状態だった。
何の前振りもなく、いや、それ以前に識変世界以降の情報を一切得ていない彼女からしてみれば話が飛び飛びの状態なのだ。
故に「なんでそんな話になってるんですか? なにも露零じゃなくても…」と、思わず保護者目線の本心を心紬は零す。
前述した通り、心紬は対魔獣戦に関する情報が一部欠落している。
よってその話に至るまでの経緯を彼女は全く知らず、露零は「仰さん、死んじゃったんだよ…?」と震えた声で言い放つ。
次々と飛び出してくる新情報の数々に心紬は言葉を失っていた。
時系列もそうだが一番は死者が出たこと。
そしてその人物はかつて、人類最強の名を欲しいままにした御爛然のリーダー的ポジションの人物というのが最大の原因だろう。
「大丈夫? それでね、心紬お姉ちゃんについてきて欲しいなーって思ってるの」
後出しでどんどん出てくる追加情報に心紬は思わず「伽耶様はこのこと知ってるんですか?」と話を遮るように尋ねる。
この話題が上がった時、伽耶は席を外していて、遅れて自身が話の輪に加わった際もいなかったことから彼女はこの話を知らないはずだ。
露零は「多分知らないと思う」とだけ答えると、心紬は順序が違うと言ってまずは伽耶に伝え、判断を仰ぐよう後輩従者に促す。
「それならまずは伽耶様に伝えないとですね」
「お姉ちゃんに?」
「ええ、全部話せばきっと分かってくれますよ。そもそも現状、私の一存では何とも言えませんし」
彼女の言葉は妙に説得力があった。
伽耶に話すよう促されるもああ見えてシスコンの気があり、気に入った相手には大なり小なり執着を見せる姿をしばしば目にする機会がこれまであっただけに露零は少しの躊躇いを見せる。
しかし考えた末に姉に話す決心を固めると「心紬お姉ちゃんありがとう」と言い残し、そのまま部屋を出ようとする。
すると心紬は「伽耶様の部屋は三階ですよ」と親切に教え、少女は「また来るね」と言って今度こそ部屋を出ると彼女に聞いた通り三階へと続く階段を上がり、伽耶の部屋へと向かっていく。
伽耶の部屋を見つけるのは案外簡単だった。
三階に上がると彼女の部屋と思われる前には明らかに後から手を加えたであろう、壁に付けられた小さな木の板の上に狐の置物が二体、入口となる障子を中心に左右に一体ずつ置かれていたからだ。
(何だか変な感じ……)
この時、露零が感じた違和感は廊下の薄暗さや静けさなどではなかった。
強いて言うならこの階全体に漂う空気感とでも言うべきか。
他の階とは明らかに違う三階はまるで高級旅館のような独特の雰囲気が漂っていた。
室外の装飾品に関してもそうで、城内に飾られているのは一定の間隔で水が流れるウォータースクリーンのような時計代わりの小さな置物だったり、錦鯉や金魚が描かれた掛け軸など水に関するものが多い中、おそらく唯一ではないだろうか。
「狐」ではなくシエナの半身である『猫』ならばまだ分からなくもないだろう。
しかし飾られているのは二度見三度見してもやはり狐の置物に違いなかった。
そこに意味があるのかと聞かれれば回答に困ってしまう。
そんな曖昧で抽象的な違和感を感じた露零だったが、少女は心紬の部屋を訪ねた時と同様の方法で音を鳴らし、しばらく待っているとやがて内側から障子が開き、中から伽耶がひょっこり顔を見せる。
「シエナから話は聞いてるで、もう来る頃やと思っててん。部屋ん中、入ってええよ」
(えっ、シエナさん? でもシエナさんは何も知らないはずだし…)
そんな考えが一瞬脳裏に過るも、室内に招かれた少女は「う、うん」と押され気味に答えると促されるまま部屋に入る。
そうして入った部屋は自室や直前に訪れた心紬の部屋よりも一回り、いや、二回りは広い空間だった。
その間取りに慣れない少女は落ち着きを取り戻すまでにほんの少しの時間を要し、二人は部屋の真ん中に机とセットで置かれた椅子に腰を下ろすと露零は顔色を伺いながらゆっくりと話を切り出していく。




