第一章32話『穿孔』
小さく空いた身体の穴に、吹き込む隙間風がひゅーひゅーと音を立てて鳴いていた。
風が染みて感じる痛みというのはより身近な例として、口内という極小規模でも凄まじい激痛を伴うものだ。
それが腹部ともなれば呼吸一つでも激痛が走ることは誰の目にも容易に想像ができるだろう。
まるで生を手放したかのように息も絶え絶えとなっていく変わり果てた姿の仰を前に露零は唖然とし、数秒間、文字通り言葉が出なかった。
いや、掛ける言葉が見つからず、そのまま視線を腹部に空いた風穴から徐々に上げていくと彼が身に着けていた白い狐面はなぜか目元が割れており、少女を覗く孔雀石のようなその瞳は何か物言いたげな揺るがぬ意思の宿った眼差しを向けていた。
「出娜さんいたよ!」
「わかったわ」
そう叫んだのも束の間に、満身創痍の彼は露零の腕を決して離すまいと力の限りを込めて掴み、少女の注意を自分に向けさせると残った余力を全て口元に集中させ、最後の力で遺言を伝える。
「…………後生だ、破魔矢に貫かれた私はもう長くない。最後に貴女に頼みがある。どうか「拙継」と…『鳴揺』を頼まれてはくれないか?」
――――後生。
この文字には「こうせい」と『ごしょう』、二つの読み方が存在する。
言葉通りに受け取るならば後生が表面の頼み文句ということで何の疑いようもないだろう。
では逆に言葉通りに受け取らない場合、後生には後輩や後進、また、彼らが生きる後の世という意味がある。
普通に考えれば何の根拠もない不確定事項な裏面思考のように思えるが、仰の場合は話が変わる。
理屈の伴わない暴論だと頭ごなしに否定し、切って捨てるのは簡単だが過去と未来を見通す彼の行動は常に先を見据えた最良の一手となり、人間国宝としてその名を広く轟かせた現人神の神託を求める狂信者はどの國にも一定数いるほどだ。
「うん! わかった!! わかったからもう安静にしてて……」
この短時間で次々に身体が機能を失う中、最後まで残った聴覚が聞き取ったのは少女の力強い言葉だった。
他人を疑うということを知らない、生後間もない少女の一切の迷いない快諾は死に花を飾った戦友に花道を作る。
(この身は盲目状態にあった。故に言葉のみが心を通わせるのだと信じ邁進して候。しかし是非を問うまでもなく、他人の第一声は心にもない罵詈雑言の猛嵐。この花道は無垢われたのだ、あの幼子に)
こうして御爛然最強と謳われた壮年男性は安らかに息を引き取った。
故人となった彼がそれ以上の言葉を発することはなく、この時、露零は初めて人の死を目の当たりにする。
瞳の奥底から無限に何かが湧き溢れてくるような感覚。
そして「喪失感」や『虚無感』など、とても言葉では言い表せないような止めどない感情の波が少女の心を一瞬にして飲み込み、次の瞬間には溢れ出た感情が涙となって頬を伝い流れていた。
彼とはたった今知り合ったばかりでほとんど面識がないといっても過言ではない。
しかし露零は他人の喪失に生物的拒絶感を覚えるとともに、本能的な悲しみの感情を強く抱いていた。
魔獣討伐から仰を看取るまでの時間はまだ三分も経っていない。
だがこの三分間で他の爛然が少女の元まで辿り着けないのは数十回にも及ぶ踏み鳴らしによって地盤沈下、隆起したためであり、仰が息を引き取ってから五分ほど経過した後、出娜は満身創痍の燦に肩を貸しながら二人のもとに到着する。
「そんな…うそ、でしょ……」
身体的損傷が特別激しいわけではない。
それでも直前の仰の勇姿からすれば今の彼はあまりにも変わり果てている。
遠からずも近からずな同僚の惨い有様に、出娜は口元に手を当て唖然としていた。
一方の肩を貸りながらも意地で付いてきた燦は少し俯きながら、識変世界での出来事を淡々と話していく。
「いつからこの展開を想定してたんだ? お前があたしとの約束を汲もうとしてたのはわかってる。それでも言わなきゃならねぇことはある」
「あなた…まさか?!」
今、この場には魔獣討伐の功労死者を含めて四人いる。
だが喪失感に飲まれた露零は防衛本能から全ての情報をシャットアウトしたことで二人の会話がまるで耳に届いておらず、一方の爛然二人はそんな少女に向けたものではないと言わんばかりに会話を続ける。
続く言葉を遮った出娜としては何か心配事があったに違いない。
そして、それは死者追悼の言葉として相応しくない内容だろうと察知しての行動なのだろう。
しかし燦はそんな彼女が考えているだろうことを真っ先に言い当て否定する。
「いやいや、何も火葬しようってわけじゃねぇよ。あたしはただ約束をしただけだ。「あたしとの一対一を予定に組み込みな」って。でもまさかそれが最後になるなんてな」
かつて結んだ約束はとうに解かれ、その瞳に宿っているは「焼香」と『線香』の意から生まれた傷悔炎。
言った相手こそ違っているが先の世界で戦いだけが燦の大半と本人が言っていただけに、最強と謳われた仰にはかなり思い入れがある彼女は最大限の敬意を払い、彼に感謝の言葉を伝える。
「今を見てねぇ奴の考えることなんざあたしにはわからねぇ。それでも戦友にかける言葉はこれに限るな。あたしらを、この有為を守ってくれてありがとう」
――――遠くで聞こえた追悼の言葉。
外部からの情報全てがシャットアウトされた閉鎖空間に反響するその言葉は露零を立ち直らせるための道標となり、同じ痛みを知る者に引き寄せられるかのように少女は意識を取り戻す。
現実世界に引き戻された露零は先の世界での燦を思い出すと識変世界での印象の方がずっと強烈だったと感じるた少女は彼女がもっともらしいことを言うような人物とは到底思えず、思わず困惑してしまう。
(燦さんってもっと過激な人だと思ってたからなんだか意外)
「さてと、戦いも終わったことだし仰を風月に運んでやるか」
「ちょっと! 勝手に一人で話を進めないでくれる? 私もみんなに伝えたいことがあるのよ」
個人技主体のお國柄、団体行動のとれない者の代表という悪目立ちをした燦はこれが通常運転だと言わんばかりに勝手に話を進めていていた。
そして気付いた時にはお開きになりそうな状況に、出娜は彼女に必聴して欲しいことがあるのだと伝える。
すると燦はめんどくさそうなそぶりを見せた後、御爛然が全員揃わないことを指摘する。
「はぁ? 伽耶はまだ軽症だからまだいいが識爛然も地空も完全に伸びてんだぞ」
「それでも私から伝えなきゃいけないのよ、悪いけどこれだけはどうしても譲れないわ」
最初は無理だ帰ると言って彼女の言葉を一蹴する燦だったが出娜の必死な説得により、彼女の考えは次第に揺らぎ始める。
「ん、待てよ。この惨状で戦後処理より優先して話したい内容となりゃ…。はっ、いいぜ。その内容に興味が湧いた。話を聞くまではここにいてやるよ」
終始漂う、いつ一触触発してもおかしくない危険を孕んだ空気感。
……のように思うのは付き合いの浅い露零だけであり、長年の付き合いでなんとなく距離感を掴んでいる爛然は上手く話をまとまると燦は亡骸となった仰の肉体を抱きかかえ、一同は揃って場を変える。
移動中も二人の会話は続いていたが、話に入れないことに疎外感を感じた露零は「私も聞きたい!」と、内容も分からないまま二人の会話に半ば強引に割って入る。
するとなぜか出娜は少女を会話に加えることに思うことがあるような表情を浮かべるも、前方から伽耶が現われると彼女は出娜に一言告げる。
「別にええんとちゃう? 何も知らんまま生きるより全部知った上でこれからどうするか考えるべきやろ」
「……っ、でも罪を再認識する意味では確かにそうね」
(お姉ちゃんたち、何話してるんだろ?)
伽耶と出娜は互いにしかわからない会話をしていた。
同じくその一方で、一緒に隣を歩いていた燦はそのまま一人どこかに向かおうとしていた。
「話を聞くまでいるとは言ったが長居するつもりはねぇ。二人をお連れてくるからお前らはそこで大人しく待ってな」
吐き捨てるようにそう言い残すと燦は一人、魔獣による被害の酷い場所へと向かっていく。
そんな彼女に倣った露零が周辺をぐるりと見渡すも、魔獣の踏み鳴らしによって浮き沈みした地面のせいか遠視を以てしても肉眼で二人を見つけることはできなかった。
だからなのか、被害が及んだ広範囲をやみくもに探すよりも二人の意識が戻るまで気長に待つ方が賢明だと考えたのだろう。
伽耶と出娜には初めから捜索する気が見受けられず、燦一人が捜索に乗り出してすぐ、見える傷以上にダメージが深刻なのか残った爛然二人は同時にその場に座り込む。




