廊下
朝早く起き、洗濯をして、顔を洗い外に出た。
梅雨の雨の間隙を盗んで、黒っぽく染まったアスファルトを歩いて、今どき古い有線のイヤフォンで雨の音を再生しながら歩いている。電柱からわたしめがけて落ちる水滴が、化粧水もつけていないつっぱった頬に「ぱちり」とあたる。眠気を覚ますような弱い冷たさに五感がやや震えて、寝たままの瞳に馴染みの街並みが映る。よくある住宅地、変わり映えのしない近所のガレージに停められた、土日限定稼働の車。部活に向かう学生。黒いスウェードの生地に水溜りの飛沫が染み込んだわたしのヒール。
特に外に用もない、いつものように墓参りをして帰るだけ。くたびれた日常。整備された歩道のように歩く毎日。変わり映えのしない休日の暇つぶし。それだけの一日。自動販売機で一〇〇円の缶ジュースを買って墓参り理由に散歩するだけ。
散歩中のわたしといえば、特段なにを考えてるわけでもない、耳に届く機械仕掛けの雨の音がいよいよ現実になって、そのうち重なりでもしないだろうかと思う程度。その程度の浅い意識。明日からまた仕事だな。とも思いもしなかった。
髪をくるくるとする癖のお陰で、わたしは湿度には割と敏感で、少し寝ぐせで束になった肩の髪がきしむと、もう雨が降るんだなとわかる。墓の周りの枯れ葉をビニール袋に集めて、すっかり連日の雨でくたびれた花も詰め、父の墓に背を向けた時、ちょうど軋んだ。首まで詰められた黒いレースワンピース。その右肩に雨粒が重々しく一粒降りてきた。
『帰るね』
誰といるわけでもないのに、不意に自分の口から出た言葉が芝居じみていて、こめかみを掻いた。セルリアンブルーの傘を差して家に帰る。徐々に密度を増した雨の層が足取りを重くするけれど。
家の前で傘をばさとふるって、玄関の真鍮のノブを回した。カビの匂いのする家。ヒールを脱ぐのも煩わしくて、白い光沢のタイルのたたきに足を放り出して、廊下で仰向けに倒れ込んだ。視界には控えめな印象すぐに割れてしまいそうな百合をモチーフにした吊るしのライト、打ちっぱなしのコンクリートの内壁に押し出されて高く持ち上げられたような天井。マットもなにも敷いていない玄関のフロアは背中が痛くなるけれど、疲れていたわたしはそのまま眠ってしまいそうだった。外から聞こえる雨の音か、耳のそばで流れるBGMの雨の音はもう渾然一体として激しい雨を演出している。実際そうなのかもしれない。太ももに水分を吸って重みを持った服がへばりついて冷たい。
それからわたしは深夜過ぎまで寝ていたらしい。夢も見ないまま、寝たのに疲れ果てて目が覚めた。もう充電切れなのか、耳元で騒ぎ散らしていたノイズに近い雨音も止んで、つま先をわずかに振動させるような玄関を叩く強い雨の音だけが無機質なホールに流れ込んでいる。乾いた気道から小さく咳をして、カビくさい湿気を肺に吸い込んでゆっくり起き上がる。ただ、ヒールを履きっぱなしだったのを忘れていたせいで、左足首を軸にたたきの壁に備え付けられたシュークローゼットに倒れ込んだ。足首もズキズキとするけれどその後に、ふくらはぎが痙攣する。妙な姿勢で寝ていたせいで足が痺れたのだ。痛痒い感覚が寝起きの頭に充満して、堪えきれずにひとりぼっちで笑った。
今日はそんな日だった。