星空と二人
日はとっぷりと暮れた。まるで墨でもこぼしたかのような暗闇だった。そんな真っ暗な世界を、一人の老人が歩いていた。長身で痩せこけて、髪は全て白色だった。落ちくぼんだ目は赤茶色で、目元と口元には気難しそうな皺が刻まれている。けれどももちろん、そんな彼の姿も闇に包まれていた。彼自身、自分の手を目の前に運んでもそこに手があるのかどうかさえ判断がつかなかった。ただ、一歩進むたびに沈む足、傍を通り抜けていく静かな潮風の香りと波の音を、老人ははっきりと感じ取っていた。ただ一人、老人は砂浜を歩いていたのだ。
ようやく老人は海を見た。海は今日も穏やかで、まるで鏡のように夜空の満天の星を、ひとつ残らず誠実に映していた。夜空が波打っている様だった。老人は顔を上げて、本物の星を見た。そこには、海面の星空とは違い、散りばめられているにも関わらず、威厳と誇りを持って己の場所にじっと佇む星たちがいた。夜空と海の星明りとで、老人の静かなまなざしが、ようやく煌めいた。
老人は一艇の使い古されたボートを海へ押しやった。小さなそのボートの舳先には、ヒトデが彫られていた。膝元までズボンの裾を上げ、水面の星空へとはだしのまま入った。いくつかの星たちが泡と共にかき消され、やがて再び現れる。老人はひんやりとした海水と、水底の砂が足の指の間を通り抜けていく感覚を覚えながら、ボートと共に数歩進んだ。潮風が優しく老人の髪を撫でた。老人はボートに乗った。ボートから砂浜を見ると、まるで星空が陸へと押しては返しているようで、なんとも不思議だった。
老人はオールを手にして、一人静かに漕ぎ出した。星空がオールによってかき消され、また現れるのを繰り返すうちに、老人はだんだんと陸から遠ざかっていく。ひと漕ぎするたびに砂浜は見えなくなり、やがて砂浜の向こうの山しか見えなくなった。老人の目は、もうすっかり暗闇になれていた。その山もしばらくすると水平線の向こうへと飲み込まれた。
老人を乗せたボートは、まさに星空に浮いている様だった。
しばらく漕ぎ続けると、水面の星空に、流れ星が流れた。けれど老人は知っていた。これが本物の星空では流れてはいないと。
老人は白いシャツを捲し上げ、そっとその皺だらけの手を海水の中へと差し込んだ。すると、流れ星は再び老人の方へとやってきて、老人の手の前で静かに停止した。
老人は、静かな声でその名を呼んだ。
「レピ」
すると流れ星は嬉しそうに一度海中で円を描き、それから海面へと顔を出した。螺鈿のように輝く瞳、陶器のように白くて滑らかな肌、そして月長石のように輝く鱗と尾ひれが、海面下で淡く輝いていた。レピは人魚の少年だった。瞳と同じ色の短い髪をかきあげながら、レピは老人を見て微笑んだ。
「おじいさん、こんばんは」
レピはそう言いながら海に浸っていた老人の手をそっと握った。なめらかで、ひんやりとした心地よい感触が老人の手に伝わる。老人は何も言わずにただ頷くと、オールをボートにしまった。
老人とレピがどのようにして出会ったかは、今はさておき、彼らはこうして会うようになった。そしてただ二人で、静かに星を眺めるのだ。
もう二人で星を眺めるようになって何年経っただろうか。老人はすっかり年老いたが、レピはあまり変わっていないようだった。老人はふと夜空から目を離し、ボートの隣で海面に浮かぶレピに目をやった。
白く虹色に輝く髪、長いまつげのその下の瞳には、今レピが見ている本物の星空が映っていた。時折波がレピの体を優しく包み、その下でころころと輝く鱗が繊細に、緻密に彼の尾ひれまでを覆っていた。老人はそんな彼の姿を見て、ふと微笑んだ。
「レピ、大きくなったなあ」
ここは海であるにもかかわらず、レピは老人のその静かな声を聞くと、決まって見た事もない森が見えた気がするのだ。
深い深い緑の苔や蔦が岩や木に絡み、金色の木漏れ日が地面に降り注ぐ。そして、何百年も生きて、水を湛えた葉を茂らせた真っ黒な幹の立派な大木が、レピには見えた。今日は小さな青い鳥が数羽、その前を横切った。
「僕はなんも変わらないよ。身長だってちっとも伸びてないんだ」
レピが唇を尖らせてそう言うと、老人は笑った。
「俺から見たら、レピはもうすっかり大きくなったよ。人間だったら、立派な大人だ」
「でも僕は人魚だもん」
レピが言うと、老人は再び夜空を見上げた。
「ああ、そうだとも」
しばらくすると、レピが尾ひれをパシャリと水面で弾ませて、老人に聞いた。
「ねえ、星っていつかは死ぬの?」
「ああ」
老人は答えた。レピは、ふうん、と言った。老人もしばらく黙っていたが、それから続けた。
「星はあっという間に消えちまう」
「あっという間?」
レピが聞き返すと、老人は空を見上げたまま頷いた。
「ああ。あっという間さ。もちろん全部が全部、そうという訳じゃあないが。中には爆発してその最期を迎える星もある」
老人の赤茶色の目に、赤い星がきらりと輝くのをレピは見た。けれどもその時、レピはどうしてか急に、とてもとても悲しくなって、体を起こすとボートにしがみついた。けれども何をどう言っていいのかわからずに、そもそも言っていいのかもわからずに、結局レピは何も口にはしなかった。ただ淡く輝くレピの体が、水面の星空に静かに反射していた。
静かな星空と波打つ星空の狭間で、二人はしばらくそうしていた。
「そうだ、レピ」
突然思い出したかのように老人はレピの方を向いた。
「どうしたの?」
レピがコトリと小首をかしげると、老人は胸ポケットから年季の入った羅針盤を取り出した。それは真鍮でできており、蓋にはルビーやサファイアがおおぐま座の形にはめ込まれていた。レピはそれを見て目を丸くした。
「お前が欲しがっていたものだ。もう俺はこれを使うほど遠くへ行くこともないからな。お前にやるよ、レピ」
老人はそう言いながら羅針盤をレピの白い手に乗せてやった。レピはそれをまじまじと見て、それから大事そうに握りしめた。
「ありがとう。僕、これ、一生大事にする」
レピはまじめにそう言ったが、老人は笑った。
「そんなたいそうなものじゃあない」
それでもレピは北に向かって針を指す羅針盤を見て、とてもうれしそうに海中の尾ひれを動かした。老人もそれを見て微笑んだ。それから老人は再びオールを手に取り、漕ぎだした。
「じゃあな、レピ」
レピは胸に羅針盤を抱きしめながら、もう片方の手を振った。
「うん。ありがとう」
レピは黙って老人を見送ると、水底へと消えていった。
老人はやがて砂浜へと漕ぎつき、ざぶんと冷たい海中へと入ると、ボートをいつもの場所へと押しやった。それから足につく砂を払いながら砂浜を歩き、小さくてあちこちが壊れた小屋へと入って行った。そこが、老人の家だった。
老人は家に帰ると蝋燭と煙草に火をつけた。建付けの悪い窓を開け、煙を外へ逃がすと、当たり前だが星空明かりが少し濁った。ふと窓の下の砂浜を、一匹のヤドカリがちょこちょこと歩いているのに老人は気がついた。
それを最後まで見届けるのは野暮な気がして、老人はもう一度星空を見上げ、それからベッドに潜った。老人はそのまま深い眠りについた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。