第29話 『過ぎ去りしいつかのあの日』(マリナ視点)
「ごきげんよう、お嬢さん」
「へ? ここ……え?」
気が付くと、知らない場所にいた。
静かに風が吹く広大な草原に、ぽつんと置かれたテーブル。
そこで、あたしは誰かと向かい合わせになって座っている。
「あたし、寝てた? ええと、あなたは?」
「私をどう呼ぶかは、人によるね。君はどう呼びたい? 好きに呼んでいいよ」
人相のわからないこの人は、なんだか存在が嘘っぽい。
こんなこと思っちゃいけないんだろうけど、なんだかちょっとヘンだ。
輪郭だけがあって、表情もなにも見えない。
「あたしが、決めるの?」
「そうさ。みんな、好きなように呼ぶからね」
「でも、あたし……あなたが誰か知らない」
「じゃあ、君は自分が誰か知っているのかい?」
そう問われて、わからなかった。
自分が誰なのか、何者なのか。名前も思い出せない。
「わかんない」
「だよね。君は今、自分がわからなくなってるから」
ティーカップを傾けて、『誰か』が小さく笑う。
何だか小バカにされてるみたいだけど、あんまり嫌な感じはしない。
親しみを込めて意地悪をされてるみたいな気持ち。
「ここは、どこなの?」
「『|過ぎ去りしいつかのあの日』。どこでもなくて、誰も覚えていない場所。そして、誰もが一度は訪れる場所。ついでに言うと、私が閉じこもり、閉じ込められてる場所さ」
「なんか、聞いたことあるかも……?」
そう思って思い出そうとするけど、何も思い出せない。
靄がずーっとかかってるような感覚がする。
「困ったな。あたし、やらなくちゃならないことがあったはずなんだけど」
「本当にそれは、君がしなくちゃいけないこと?」
「えっと、多分。そうしないとダメだって『パパ』が――……」
『パパ』という言葉を口にした途端、ずきりとした痛みが頭に走る。
同時に、何かが思い出せそうな感触も。
「……なに、これ? あたし、ヘン」
「だろうね。君は度重なる精神汚染とショックな出来事で『人格記録票』が破損し、一時破棄された状態だ」
「えっと、わかるようにってくれる? ……あなたは、あたしを知ってるの?」
「もちろん。でも、教えない」
どうしてそんな意地悪を言うんだろう、この人は。
あたし、困ってるのに。
「君は、自分が何者なのか……何者であろうとするのか、ここで選択しなきゃいけない。君が君でいるためにはね」
「わかんないよ! あたし、自分が誰かもわかんないんだよ?」
「本当にそうかな?」
静かな問いに、頭の奥がふわりと浮くような感覚に包まれる。
誰かの声が、聞こえた気がした。
優しくて、温かくて、甘えたくなる、少し低い声。
その声が、記憶の中であたしの名を呼んだ。
「マリナ……! あたしの、名前」
「そうだ、君の名前はマリナ。おめでとう。君は、君を選択した」
どこか満足げな様子で、『誰かさん』が笑う。
いや、笑ったような気がした。
「……それであなたは?」
「君が探していた、『誰か』さ」
「――アンケリアス……?」
「好きに呼ぶといいよ。それも、間違ってはいない。誰かは私を『R』と呼んだし、あるいは役割を指してE.E.Lと呼ぶ人もいる」
おどけたように、肩をすくめる『アンケリアス神』。
あたしが思っていたよりも、神様はずっとフランクだったみたい。
「あなたが世界を、滅ぼすの?」
「いいや? 君を作った人はそうしたいみたいだけど」
できない、とは言わない。
きっと、やろうと思えばできるんだろう。
「あいにくだけど、私はただ物語を記録するだけの存在さ。物語の主人公にはなれない」
「世界を変革する真なる神じゃないの?」
「買いかぶりが過ぎるね。誤記載をせがまれても困る」
肩を落として、ため息を吐く真なる神。
きっと、『パパ』や『ママ』がそう信じているだけで……アンケリアスは〝淘汰〟ではない気がする。
だって、話が通じてるし。
「あたし、行かなきゃ」
「どこへ?」
「『クローバー』の……ユークのところに! あたしの居場所は、そこだから」
あたしの答えに、うんうんと満足げにうなずくアンケリアス。
やっぱり、悪いことをするようには見えないかも。
「でも、いいのかい? 君を生み出した人の元に戻らなくて」
「……うん。だって、あの人達はあたしのパパとママ――家族じゃないもの。わかってる、あたしが人間じゃないってことくらい。全部、思い出したから」
エドライト王国の古い時代から、理想郷に至ることを目指していた『教団』。
そこから分派した『第七教団』によって、あたしは作られた。
たくさんの魔法薬、魔法道具、そして特別な血統の男女。
多くの失敗、多くの犠牲によって生み出された神の受け皿――それが、あたしを始めとする『アンケリアスの子供たち』だ。
だけど、失敗した。
理由はわかってる。
欠片でも異界の何かを受け入れようと思えば〝渡り歩く者〟の素養……つまり『存在証痕』が必要だ。
そんなの、誰も持ってなかった。持ってるはず、なかった。
だから、兄妹たちは観測や召喚の実験で次々と使い潰されて……あたしも『【ネヴィナルの眼球】起動実験』の失敗作として記憶を消されて捨てられたんだ。
だけど『第七教団』は、『パパ』は後になってあたしを見つけちゃった。
『反転迷宮』を平気で進む、あたしを。
異界の要素を受け止めてなお無事な、最後の『アンケリアスの子供たち』を。
だから、『祝祭』を始めてしまったのだ。
自分の宿願を、果たすために。
あたしの家、フィニスをめちゃくちゃにして。
「なんか、腹立ってきたかも……!」
約束したのに。
フィニスやユーク達には手を出さないって、約束したのに!
「あたし、行くね! ありがとう、アンケリアスさん」
「私は何もしていないさ。君が勝手に来て、勝手に帰るだけ。でも、うん。少し退屈が紛れたかな」
「なら、よかった。さようなら、アンケリアス。ええと、あたしとユークの物語を、お楽しみに!」
自分でも何を言っているかわからないけど、アンケリアスは物語が好きみたいだから、あたしの目になっている【ネヴィナルの眼球】から、きっと届けられるはず。
……この後、あたしとみんなが紡ぐ物語を。
せっかく、だもんね。
活躍、見てもらわなくっちゃ。
「さようなら、マリナ。では、旅立つ君に私から少しだけサービスをしよう」
愉快げにそう笑って、アンケリアスが小さく指を鳴らす。
瞬間、あたしは着慣れた冒険装束に早変わりしていた。
黒い大太刀も、腰に下がってる。
「わ! ありがとう! やっぱり神様ってすごい! ……それじゃ、行ってきます!」
帰り方はわかってる。
【ネヴィナルの眼球】を使えば、戻れるはずだ。
右眼に集中して、あたしの世界……ユークのいる場所に向かって、心の手を伸ばす。
ふわりとした浮遊感が湧き上がって、この場所から自分が遠ざかっていくのがわかった。
「いってらっしゃい、マリナ。この物語の結末は君が決めるんだ。――〝Aランクパーティを離脱した〟ユーク・フェルディオが、その元教え子たちと紡ぐ英雄譚は、君が始めた物語なのだから」
そんなアンケリアスの言葉が小さくあたしの耳に届いて……遠ざかっていった。





