1-5.人の世界
「お────」
機先を制そうとして口を開きかけ、失敗した。
しばらく声を出して喋っていなかったせいか、喉が枯れて閉じてしまっていたようだ。
相手は若い女だった。よく日に焼けて、目の大きい、いや、目を大きく開けている女。
その女が、破顔一笑した。
「わかるよ。声、出ないよね。今、水を持ってくるから、座って休んでて!」
「あ、ああ……」
拍子抜けして、そのまま地面に腰を下ろす。よく踏まれているが、踏み固められ……というほど擦れていない草に尻が濡れたので、もぞりと座り直した。
『それじゃあ、私はこれで』
ついさっきのイロハとも重なる別れの挨拶を口にして、ナマケモノは、スゥーと枝のステップに乗ったまま運ばれていく。
「あり、がとう!」
閉じた喉に唾が引っかかり、途切れてしまったが、遠ざかる丸い背中に、肉声で礼を告げた。
『当たり前のことを、したまでだよ』
「────……」
(名前くらいは、聞いておいても良かったな。次、会った時に見分ける自信が無ぇ)
名乗り返す名を持たないために、流れに任せるがままにしてしまった。
あたりは先刻訪れた村落の、破壊されていないバージョン、といった風情で、森の中に作られた住居の寄せ集めに見える。
やっと眺める余裕の出来た俺は、高低、材質、編み方、村落の範囲と、その区切られ方までをざっと一瞥する。
あの、目の大きな女も、今の自分と大差ない格好をしている。
つまり、蔦と蔓で編んだ程度の、目の粗い衣服だ。
緊張した面持ちで村境の警戒に立っている者達も変わらない。
問題は、誰も彼も、男女を問わず、妙に若い。
(隣の村で何者かの襲撃があったばかりにしちゃあ……。
出払っているのか? それとも、何か特殊な特徴か?)
赤子の声も、樹上の住居からは漏れ聞こえる。
人の営みだ。どこでも変わらない。
世界がどんな場所であろうとも。
女が水袋を手に戻ってきた。
「すぐに喋ろうとするなんて、無茶しぃだよ、君」
手渡された水袋は、幸いにしてひと目で口が開いていると分かった。
念の為、口を直接つけないよう、水流を舌に落とす方式で少しずつ含んで見る。
──うまい!
「でも、だからこそ逃げ切れたのかもね」
粘つく口の中を十分に潤してから水を喉に通し、改めて俺は、彼女に最初告げようとした言葉を発した。
「俺の名はイル。水、助かったよ。命も、助かった。その通りかもしれないな」
言葉が通じる。それがどれほどの安心感に通じたか……。
おかげで少し口をなめらかにしすぎたな、と、上機嫌の中で反省していると、彼女は不思議そうに眉根を上げ、唇を尖らせながら首を傾ける。
「ナ?って、なに? 君は、君だよね?」
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生きてご覧。
イロハが執拗に繰り返した言葉。
名乗る名前を持たないなんて、不自然だよ。
イロハが自分の名乗りと交換で求めたから、俺は名前を考えた。
(あいつ……)
この世界は、滅茶苦茶だ。
「そうだな、俺は俺だな」
「変わってるね、君」
フフッと微笑まれた。
笑う時に目を閉じるのは、一体どんな癖なのだろう。
無防備過ぎて、俺には想像がつかない。
名前のない世界も、想像がつかない。
髪は長く伸び、それを蔦で結わえている。
切る文化がないのだろう。
切る道具がないのだろう。
革の水袋を作れるのに?
そんなはずはない。
「じっと水を見て、どうした? ん?」
吸口の奥底に湛えられている水。
この文化水準、この立地なら、濁っていてもおかしくない。
ろ過? 浄化?
そんなはずはない。
覗き込んでくる彼女の瞳は、土の色と同じ、赤茶けている。
髪も、まあ、黒っぽい赤と言おうか、赤っぽい黒と言おうか、とにかく似たようなものだ。
日に焼けた肌も、黒ではなく、赤みがかっている。
なのに顔の造作は俺と変わらない骨格をしている。
どういうことだ? 気候に適応した骨格や肉付きをしていない。
「まだ、飲んでいいものか、迷っていてね」
軽い口調で返しつつ、頭と目をそれぞれ別々のところに向かわせる。
女、女と呼ぶのもなんだ。目で他人と区別出来ても、頭で整理しづらい。目の前の彼女に仮称を当てたい。
噓をついて住人だと名乗った村の生き残りらしき、憔悴した動きをしている人物は、視界の中にはいなかった。喜んでもいいものか。
「飲みなよ!」
水袋を煽り上げつつ、空を真正面に見た。
日差しというか、空は青い。なのに、俺は、赤みを感じている。
俺の育った土地より湿度が高い。はずだ。
それなら空はもっとはっきりしない薄色にならないか?
仮に違うとしても、赤みって……夕焼けか?
夜もないのに。
疑問は尽きない。
「俺にも魔法が使えたらいいのにな」
動機のどうとにでも取れる呟きを発してみた。
「マホ……?」
水は通じて魔法はダメなのかよ!
どこからどこまで常識が共通してるのか、さっぱり分かんねえよ!!
「さっきの、木の枝を動かす技とかのことだ」
「ああ……天のみ恵み」
一手一手、指し探るのは、あまり賢くなさそうな彼女──アカイが相手でも、神経を使う。
何でも赤いからアカイ……。ここに居るからイルな自称といい、我ながら、ネーミングセンスはなさそうだ。
それに比べたら一般名詞の違いぐらい、どうってことないな。大目に見てやろうじゃないか。
「よく分からないものを魔と呼んで、繰り返せることを法と呼ぶんだ。
よく分からないけど、繰り返せてる。だから魔法」
「へーえ、何それ! よっく分かんない! あっはは!」
眉根を釣り上げて最高に楽しそうに、アカイはまた目を瞑りながら笑った。
「魔法。使えたらいいと思わないか?」
「マホー。いいねえ。天のみ恵みだと私達には使えなさそうだけど、マホーなら使えてもよさそう!」
ダメだ。
やはり俺が魔力を感知出来なかった時点で、俺個人に素質がないという理由ではなく、人間種族そのものに魔法の素質がなかった。
「戦う力が、欲しいな……」
仕方ない、代わりだ。
魔法でも物理でもいい。とにかく力が要る。
肩を落とし、目を伏せる。
共に暮す仲間を奪われて、無力さに歯がゆさを覚えている者の真似をしてみた。
直後に両肩を強く掴まれる。目線を上げると、アカイが真顔で見つめていた。
「それは私達じゃないでしょう?」
毎日更新、一旦ここまで。短かったですが、また書き溜めます。