1-3.どこでも変わらん光景か
『やあ』
目の主だろう声が脳内に響く。
もつれた糸さながらの混乱を、反射的に切り捨てた。
落ち着け。ここは、会話に乗る場面だ。
『群れから、はぐれたばかりかい?』
目は、目だけがこちらを覗いている。縁取る皮膚の質感といい、瞳の作りといい、獣の類だろう。
真ん丸く見開かれているものの、威圧感がない。肉食の獣特有の、顔の前部に寄って付いた目でもなさそうだ。
それで、即断した。
『そうだ』
思考、するだけで相手に伝わるのか、自信はなかった。
実体のない存在と、実体のある存在、どちらにも共通の話し方なのか、誰も保証はしてくれない。
緊張はしないが、努めて凪いだ心境を保ち、じっと目の主の対応を待つ。
すると、妙なことが起こった。
俺の編んだ蔦の目隠しが、ひとりで解けていったのだ。
視界が開ける。
みっしりと絡み合った木の枝に、獣が腰掛けていた。
枝は、熱帯地方に見られる寄生樹と宿主の絡み合った複雑な姿形ではなく、俺が横たわっていたのと同じ程度の太さのものが、何本も何本も密集していた。
そんなものが絡み合うほど曲がったら折れる・折れない以前に、俺が樹上によじ登る前には確実になかった光景だ。
獣は、ナマケモノだった。
四肢が長く、丸い顔にたるんだ表情をしており、目の周りから頬にかけて帯状の色違いの毛が生えている。
胴は丸い。重たそうで、俺の倍ほども大きい。
(魔法か)
読まれないように、一瞬で単語を思考の奥底に沈める。
この世界に対する無知を晒すのは得策ではない。だが、人間のいる世界で、人間に詳しく、意思の疎通が図れる、魔法を使える獣がいる。それだけの情報を、こちらは一方的に得られた。
『運んでいってやろう。どこだ』
『最寄りだ。いちばん、ちかく』
無難に答えを投げる。
目と鼻の先に人の住処があったとして、深い森の中で迷わぬ道理にはならないし、そもそも問われたのは、はぐれたかどうか。休んでいた、怪我をした、どうとにでも言い訳が立つ。
気になったのは、目の前の大きなナマケモノと、一番最初の女の声とが、互いの存在に気づいて会話したりするのか、だ。
この会話方法、どうも原理が掴めない。自分から発信している意識はないので読み取っているのだと解釈し、思考まで抑制しているものの、この先もずっとこれを続けるのなら、窮屈でいけない。
『僕は何も答えないからね』
『ありがとよ』
ご親切にも女が注意をくれてきた。どうやら混線は無しらしい。
ありだとしても、今のやりとりでナマケモノが反応しておらず、また、声の告げている通りに第一村人までは付きまとうのだとしたら、問題ないだろう。
また、返事をした以上、ナマケモノは村人扱いに含めない、という判定基準も分かった。そもそも声だけの存在が、どうやって離れていくのかも知らないが。
『ちかく……ああ、あそこかね。はい、はい。なるほど』
『わかってくれたかい』
『うん』
枝が揺れ、寝そべっていた俺の姿勢が自然に起こされる。
枝は、ぎぃ、ばさばさ、みしみしみし、ひゅおう、様々な音を重ねてまといながら、俺を空中で運んでいった。
眼下を飛び去る豊かな緑は、こうしてかき分ける必要がなければ壮観な眺めだ。
進む先の枝葉の方から、すれすれで俺を避けていってくれるのがまた、壮観だ。
先行して、ナマケモノが同じく枝に運ばれている。行く先、行く先に、樹木で出来たステップが形成されている。
使われている本数の差がすごい。
右に、左に、時として大きく旋回して進む道行きは、何かを目印にしているのだろうか、せっかくの魔法移動だというのに、直線ではなかった。
それがまた、体験型イベントアトラクションのように、視点をダイナミックに揺さぶってくる。
『大変、だったねえ』
軽率に応じられない同情が、移りゆく景色の速さよりも唐突に俺へと刺さる。
答える間もなく、開けた空間が前方にある──と感じられた途端、その光景が、何度目かの大きな旋回と同時に、同情の理由を突き立ててきた。
血。
俺が作り、先程まで籠もっていたのと大差ない、樹上の住居に、血がぶちまけられている。
破かれ、土台となっている木ごと倒れ伏し、そこから巻き上がったらしい血しぶきが、樹高のある木々の樹冠付近の葉の裏に、不自然な放射線状を描いて張り付いていた、痕がある。
どれも、既にどす黒く、ところどころ剥がれていて、時間の経過が伺えた。
どうやら第一村人との遭遇は、まだ先の話になりそうだ。