第57話「破滅へと導く者」
「皆、離れろ……失敗だ」
順調にアキラが戻ってきている矢先の命夜の警告で、彼女が何を言っているのか全員が理解できなかった。
巨大だった魔神がアステリアやダーツたちの攻撃で縮み、今ではアキラの人としての姿がはっきり見えるようになっている。
アキラ自身に黒い霧がまとわりついているだけだ。
ただ、人間のアキラと違ってその髪は白く、目は赤黒く燃え、いつも柔和だった顔は邪悪な笑みを浮かべて歪んでいる。
西野が命夜の注意にいち早く反応した。
「命夜さん、あと少しでしょ! なぜ失敗なの!?」
命夜が答える前に、その警告が正解であることを示すようにアキラにまといつく黒い霧が濃さを深めていく。
「「な!?」」
全員が驚愕の声を上げた。
皆の力を合わせることで、さっきまで黒い霧は払われていくばかりだった。
いまや霧の濃度が急激に増していき、アキラの姿が闇へと飲まれていく。
アキラの顔が漆黒の雲に覆い隠され、赤く燃える瞳だけが闇夜に灯る火のように暗闇に浮かび上がる。
大空を埋め尽くす黒雲が濃厚な墨のように空を黒く染め上げていく。
雷がさらに激しさを増して真っ黒な空を幾度も切り裂き、街灯もない漆黒の世界に昼間のような明るさをもたらしていた。
それでも西野たちは止まることなく果敢に立ち向かう。
やめられるはずがない。
広がっていく漆黒の霧を払い飛ばし、アキラの名を連呼する。
「西野さん」
闇の中からアキラの声が聞こえてきた。
「アキラくん! 戻ったの!?」
「グッグッグ。ボクはすでに戻ってるさ」
アキラの底冷えする重い声に、西野はゾっとする。
「アキラくん、元に戻って!」
「……キミこそ、何を言ってるんだい? 変わったのはキミじゃないか。
その輝く力、そんな悍ましい力……」
アキラは爛々と輝く紅蓮の瞳をカノンに向けた。
かつてのアキラがカノンへ向ける眼差しは、いつも優しく温かいものだった。
それが今、心の底まで凍てつく視線をカノンに浴びせてくる。
負の感情に満ちた目でカノンを見るのはなかったことで、ありえないものだった。
それでもアキラが自分を見てくれたことにカノンは喜びを感じる。
「アキラ……さん」
「カノン、キミのその力も許せないものだ。
それはボクを否定する力だ。
カノン……キミはボクの存在を否定するのかい?」
「そんな! 私はアキラさんだけが全てです!
私がそんな……否定するなんてありえません……」
西野は必死な様子のカノンを思わず恨みがましい目で見てしまう。
(こんな時に嫉妬なんて、バカげてるわね……)
「アステリア、キミも炎で焼くのをやめてくれないか」
「アキラ様……」
「キミの炎撃がとても苦しいんだ。やめてくれないか?
ボクを愛しているんじゃないの?」
「愛しております! 誰よりも、何よりも!
アキラ様のためなら、この命すら惜しくありません!」
「そうか、じゃあやめてくれ」
アキラの苦悶の表情にアステリアの美しい顔が歪む。
目じりには炎の涙が浮かんでいた。
「ですが……私の愛するアキラ様は、もっとお優しいお方なのです」
「アステリア……今のボクほど慈悲を持つ者はいない。
キミたちを永遠の死の世界へと導き、安らぎを与えたいんだ」
「………」
「さあ、命を差し出せ」
雄たけびと共に、西野がアキラへ斬りかかる。
「お願い! 優しいキミに戻って!
私は……私はずっとあなたのことが……」
「うぐぐ! 西野……さん、やめろ。苦しい……
アステリア、カノン、助けてくれ。
西野さんを殺してくれ」
「……っっ!? ア、アキラくん……」
西野の瞳に涙が浮かぶ。
アキラが発したとは思えない言葉に、カノンとアステリアの顔が悲痛な面持ちでいっぱいになる。
「ダーツさん、タイラーさん、ボクをまた苦しめるの?
また裏切るの?
ボクはまた、死を選ぶしかないの?」
ダーツはその言葉で過去の過ちを思い出し、短剣を持つ手が一瞬緩むが、それでも再び力を取り戻す。
「アキラ……俺は裏切らねぇ! お前を絶対に元に戻す。それだけだ!」
タイラーはしかし、剣を振るう力が急速に失われ、斬撃をやめてしまった。
悲しげに体を震わせ、目を伏せる。
「アキラ……俺のしたことは許されない……
妹と同じく、お前はとても優しく思いやりがあって……勇敢だった。
そんなお前を信じられなかったのは、妹を信じられないのと同じなんだ。
お前を信用できずに拷問室へと送り、あまつさえボロボロになるまで
殴り続けた」
「タイラーさん、ボクはもう許してますよ。
ボクに妹さんの姿を重ねていたことも、ボクの心に流れてきました」
「くそ、タイラー! しっかりしやがれ!!」
励ましを含んだダーツの怒声が飛ぶ。
それに応えることができず、タイラーの膝が地に崩れ落ちた。
「アキラ……俺がお前を裏切ることは永遠にない。
だけど、妹が毎晩夢に出てくるんだ……
俺を許さないと恨みがましい目で訴えてくるんだ。
お前は許してくれても、妹がまだ許してくれない……」
タイラーは完全にアキラを妹と重ね合わせていた。
アキラを早逝した妹と重ねるあまり、夢の中では愛する妹をタイラーが自らの手で拷問室へ送ったことへと変わっていた。
妹を信じられずに殴り続け、死へと追いやっている自分を、悪夢の中でずっと見せられていた。
日に日に彼の心の傷は深くなり、アキラと再び旅しても癒されることはなかった。
「タイラーさん、だから攻撃をやめてくれたんですね」
タイラーはうなだれ、ただ力なく座っていた。
「俺の後悔は絶対に晴れない。
その姿と心が真のお前であるなら、俺はそれを受け入れる。
俺の贖罪はそれしか道がないんだ……」
「分かりました。その命と心、ボクが助けてあげます」
アキラはダーツたちの攻撃を受けながらも、力なくひざまずいたタイラーへ
歩を進めていく。
「タイラー!!」
「タイラーさん! しっかりして!」
カノンとダーツが絶叫するも、虚脱したタイラーの耳には何も入らず、虚ろな目は何も見ていなかった。
「ちきしょうめ!」
ダーツはタイラーのそばに駆け寄り、引きずってアキラから離そうとする。
「タイラーさん、ダーツさん」
すでに目の前まで来ていたアキラを、ダーツはぎょっとした目で見つめた。
「アキラさあぁぁぁぁん!!」
カノンがアキラに抱きついた。
カノンだけではない、アステリアや西野もアキラへと飛びつき、抱きしめた。
「アキラ様!」
「アキラくん!!」
クトゥルーがダーツたちに怒声を上げた。
「金髪男、腑抜け男をさっさと連れて下がれ!」
ダーツは必死にタイラーの耳元で声をかける。
「ダメだタイラー。しっかりしろ!
お前がもしアキラに殺されてみろ。
アイツは二度と笑えなくなるぞ!」
その言葉でタイラーの目に生気が戻り、ダーツをまっすぐと見つめた。
確かにその通りだとタイラーは思い至る。
アキラが元に戻った後、自分を殺してしまったことを許せるだろうか。
悲しみに暮れ、もしかすると生きる気力を失うかもしれない。
「すまないダーツ、俺は自分勝手すぎるな……
殺されて償おうとするなど、ただの逃げでしかないのに」
タイラーは再び立ち上がり、剣を構えた。
「アステリア、カノン、西野さん……
死ぬ覚悟ができたんだね。
それじゃ殺すね」
アキラは両手を上に掲げると、それをアステリアたちに振り下ろした。
しかしアキラの腕がアステリアたちに届く前に、タイラーの豪剣がアキラの腕を弾き飛ばした。
「タイラーさん……なぜ邪魔を」
「お前を元に戻すためだ!
俺はもう迷わない。お前のために、誰一人死なせはしない!!」
タイラーが決意に満ちた声で吼えた。
西野たちもタイラーの意見に同意し、力強くうなずいた。
「その通りね、ここで諦めちゃダメだ」
「はい、私は絶対に諦めません」
「人間に言われるまでもないわ。私はアキラ様のために命を尽くす」
彼女たち3人はアキラから距離をとり、再び猛撃を開始した。
「エリュシオン! いや……メイヤ様、どうすれば!?」
そんなダーツやアステリアたちの行動を見守っていたタトスが、問いかけるように
エリュシオンの手を少しだけ力を込めて握った。
「タトスくん、アキラ、皆を愛しすぎ、元に戻れなかった」
「え!?」
「アイツ、人のため、どこまでも優しい」
「そんな……優しいのに滅ぼそうとするのですか」
「タトスくん、知らないから。この先訪れる、絶望の運命」
「絶望……?」
「アキラ、それを愛する人、味わせたくない」
命夜が叱りつけるようにアキラを睨みつける。
だがその声は優しく慈愛に満ちていた。
「でも、アキラ、お前のやるべきこと、人を殺す、違う」
命夜が乗り移っていることで、体に大きな負担がかかっているのであろう。
エリュシオンが血を吐き出した。そのまま力が抜けてタトスに寄りかかる。
「エリュシオン!?」
タトスは優しくエリュシオンを抱え上げる。
「アキラ、皆の想い、間違えるな……
安易な道、選ぶな……」
エリュシオンの無表情な顔に初めて感情のこもった笑みが浮かぶ。
「それにしても、アイツら強いな。
アキラのため、諦めない心、私より強い。
だから私、諦めない。もう一度だアキラ!」
「アキラくん!」
「アキラさん!」
「アキラ様!!」
3人がありったけの想いを叩きつけ、必死に戦う。
もう一度、いつものアキラに会いたい。
激しく傷つき、血が流れても、彼女たちは諦めない。
「アキラぁぁ!」
ダーツ、タイラーも果敢に戦う。
きっと今も、アキラの心に自分たちの想いが届いているはずだと信じ、剣を振るい続ける。
カザリの死を誰より哀しみ、黒い霧をまとう魔王となったアキラ。
この事態はアキラの優しさが招いたものだ。
カザリがもし、自分のせいでアキラが魔王になったと知ったらどう思うだろう。
アキラを魔王にしたままでは、ダーツたちはあの世でカザリに顔を合わせることが死んでもできない。
命夜はダーツの心をのぞき見た。
「おい、ダーツくん! それ本当!?」
「は!? なんですか!?」
「カザリ、きっかけ、アキラ、あの姿?」
ダーツは命夜が何を言いたいのか理解し、それに答えた。
「その通りです! カザリの死を嘆くあまり……」
命夜はうなずいた。
「そうか、そういうことか、アキラ」
「カ……カザリ……さん」
ダーツと命夜のやり取りを聞いたアキラが、うめくようにつぶやいた。
「メーヤ……どこ?
カザリさんを……いや、これでいいんだ。
救われたんだ……」
「おかしいわ!?」
西野が疑問を感じて叫ぶ。
「私たちの攻撃がだんだん効かなくなってない!?」
巨大な魔王に対してすら、その膝を屈させた苛烈な攻撃のはずだが、今は元のアキラの大きさなのに通じなくなっている。
アキラは西野たちの一撃を食らっても、わずかかによろめくだけだ。
西野たちによって、確実に黒い霧は払われていく。
しかしアキラを覆う闇は濃さを増していく一方だ。
「一体どうなってるの!!」
そのとき、轟く雷鳴を切り裂くような命夜の鋭い叫びが大きく響き渡った。
「ダメだ! アキラ!!!!」
突然、アキラを取り巻く黒い霧が薄らいでいく。
西野たちはまたアキラが人間へ一歩近づいたのだと笑みを浮かべた。
だがそうではなかった。
黒い霧は剣で払われるのではなく、アキラの体の中に吸い込まれていく。
西野とカノンは愕然とする。
「これはまさか……アキラくん!!」
「アキラさん、だめえええええ!」
アキラがゆっくりと手を横に動かしただけで、タイラーたち全員が巨大な力によって弾き飛ばされた。
アキラの邪悪に歪んだ顔は、今では静かで穏やかなものに変わっていた。
両目を閉じ、頬は微かに朱に染まっている。
だが髪は真っ白で、足首あたりまで伸びていた。
一糸まとわぬ裸体は、白く輝いているような錯覚を与えた。
神の作り出した芸術のような美しさに、皆の目が奪われる。
夜が明けだし、陽光を浴びた空が紫へと変わりだす。
いつの間にか、空にあった暗雲は姿を消し、轟く雷鳴も止んでいた。
あたりに静寂が訪れ、陽の光が夜の闇を追い出していく。
美しく白い髪を風になびかせ、アキラがゆっくりと目を開けた。
ダーツが沈黙を破り、静かに声を出す。
「ア、アキラ……?」
アキラの目から闇の炎が揺らめき立ち、口からも呼吸するたびに闇が噴き出す。
表情は穏やかなままだが、まとっている雰囲気が異質だった。
そのためか、誰も身動きできず、ただその場でアキラの一挙手一投足を見守っているだけだ。
西野は目の前に立っている美しい芸術品を呆然と見つめていた。
その目から自然と大粒の涙が流れ落ちた。
カノンも忘我の境地でアキラを見つめた。
あれほど強く諦めないと決意していた彼女の顔から、絶望が読み取れた。
一瞬も離さずにアキラを見ていた命夜の目が、悲しみで伏せられた。
「この世界、現れてはいけないモノ、出現した」
タトスはエリュシオンの言葉が咀嚼できないまま、彼女を見つめた。
「現れてはいけないもの?」
「ああ、気持ちのいい風だ」
アキラの赤く小さな口から、歌うように発せられた声。
まるで神々が奏でる楽器のように美しい音色だった。
「でも、残念だ。これもすぐに消え去る」
命夜は思わず、震える口でつぶやいた。
「……始まりと終わりの魔神、誕生した……」