第41話「殺意」
「はぁ……」
王女であるエリュシオンは常に孤独だった。
叱られることはなかったが、愛情もさほど受けることはなかった。
物心ついたときには、教育係のばあやと世話をしてくれるメイドだけが
彼女の周りにいる人間だった。
生まれつき微かな声しか出せないこともあって、エリュシオンの世界は
ほぼ自室で閉じていた。
そんな中で遊び相手として連れてこられたのがタトスだった。
タトスが来てから彼女の世界は一変した。
色々な遊びを教えてくれた。外の世界のことも教えてくれた。
イタズラも楽しくて病みつきになった。
父である王も、閉じこもっているよりはお転婆なくらいの方がいいだろうと、
エリュシオンのイタズラをとがめなかった。
毎日が楽しく、空いた時間は常に彼と一緒にいた。
エリュシオンの世界が広がった。
いつしかタトスだけが心を許せるたった一人の恋人であり、
家族のような存在へと変わっていった。
またタトスが西野と泊まりだった。
最近タトスとの会話が減っている。
いや、朝ご飯の時間くらいしか、もう会話がなくなっていた。
今も窓の無い教室で朝食をとっている。
ここが基本の生活の場になっていて、眠る時は男女別の教室に別れている。
「タトス、今日は休めないのか?」
「ああ、今日はゴミ捨てにいかないとな。
ため込んでおくわけにはいかない。臭いを残すのは危険だ。
用心しすぎるに越したことはないしな」
「私とより、西野と一緒にいて楽しいのか?」
思わずボソリとつぶやいてしまった。
「え? なに?」
「あ、いやなんでもない。
ははは、てめぇみたいなナマケモノがなー。
最近働き者になりすぎてビックリだぜ!」
「おいおい、そんなナマケモノだったか?」
「休日はずっと寝て過ごしたいって言ってたじゃないか」
「あー、あれなぁ。
あれは別に寝て過ごしたいじゃなくて、
お前と一緒のベッドで寝て過ごしたいって意味だったんだがなぁ」
エリュシオンの白い顔がたちまち朱に染まり、平手打ちが炸裂した。
だがその態度とは裏腹に、エリュシオンの表情は明るく嬉しそうだったことに、
タトスは気づかなかった。
☆
エリュシオンはタトスを見送り、手を振っている。
そこへトモコが声をかけてきた。
「エリちゃん」
トモコは親しみを込めて、エリュシオンのことをエリちゃんと
呼ぶようになっていた。
「トモ」
エリュシオンが笑顔で答える。
「タトスさん、最近ずっと頑張ってくれてるから……
一緒にいる時間が減って寂しいよね」
「ソーダナ……」
「私も立花くんと一緒の時間とれなくて、モヤモヤしてるんだぁ。
まぁ、こんな世界だもの。贅沢言ってられないよね」
「トモ、タチバナ、スキ?」
「え! あ、あはは。つい言っちゃったけど……
こ、これ、立花くんに内緒ね?」
顔を見合わせてクスクス笑うエリュシオンとトモコだった。
☆
「私は水が飲みたいです。はい」
トモコが水が入ったコップを片手にリピートを促す。
「ワタ……シハ、ミズガ、ノミタイデス。ハイ」
「ハイは余計だから……」
「ハイ、ハ、ヨケイダカラ」
「……」
ここは女子部屋で、エリュシオンとトモコ、西野ともう一人ミサキという
おさげ髪の少女の4人がこの部屋の主だ。
ミサキは今は立花と見張りについている。
炊事洗濯などの家事をこなしつつ、休憩の時間はトモコから日本語を習っている。
今ではそれがエリュシオンの日課だ。
必要に迫られているため、なかなかに覚えが早いのもあるが、元々頭の回転が
速いエリュシオンだ。簡単な会話であれば日本語でできるようになっていた。
昼食を済ませ、食器をトモと一緒に洗う。
「エリちゃん来てから、男性陣が活気づいてるわね」
「ソオ?」
トモコの言葉はまだまだわからない部分の方が多いものの、
なにを言いたいのかはなんとなく伝わっていた。
「やっぱすっごい美人だしね……
立花くんも、エリちゃん見てる気がする……」
「タチバナ、トモ、ノ、コト、スキダ」
「えええ!?」
「キガツイテ、ナイ、トモダケ。」
「え、えへへ……そうかな……えへへへへ」
浮き立つ心から、トモコが洗っていたコップを落としてしまった。
ガシャン!
その鋭い音に反応し、エリュシオンの体が大きく跳ねた。
そして体から力が抜け、床にへたり込む。
辺りをせわしなく見回す。体がガタガタと震えはじめ、涙があふれてくる。
「エリちゃん! ご、ごめん!」
すかさずトモコがエリュシオンを抱きしめた。
最近は怪物が現れていないとはいえ、心からの安堵は得られていない。
絶えず緊張し、ちょっとした物音にも過敏に反応してしまう。
それほどにいつ襲ってくるかもわからない怪物への恐怖が心に刻み込まれている。
エリュシオンはブツブツとつぶやく。
「タトス……タトス……」
夜が更けても、タトスたちは帰って来なかった。
「今日も泊まりかしら。あ、あの2人なら大丈夫よ。
タトスさんもアヤ姉も強いしね」
トモコが元気づけようとしてくれるが、エリュシオンは上の空だ。
女子部屋には保健室から拝借したベッドが備えつけてある。
今彼女たちはベッドの上にいた。
夜中には起きて、見張りを交代しなければいけない。
さっきまで話していたのに、トモコは疲れからか、あっという間に
寝息を立てていた。
エリュシオンは眠れなかった。
いや、突然の強烈な睡魔が襲ってこない限り、この世界に来て自分から
ぐっすりと眠ることができなくなっていた。
眠るとあの怪物たちが夢にでてくるのだ。だから眠ってはいけない。
夢に出るあの怪物たちが、夢を越えて現実に現れそうな気がするからだ。
エリュシオンは横になりながら壁を見つめる。
睡魔を追い払うため、太ももや二の腕に力を込めてつねる。
激痛が走るが眠気が少し払えたことで微笑む。
「タトス……なんで帰ってきてくれないんだ。
私がこの瞬間にも怪物に狙われたら……」
瞬きもせず、睨むように壁を見つめ続ける。
「なんで怖い目にあってるのに一緒に居てくれないんだ?
いつも一緒に居てくれたじゃないか……
なんで……」
タトスがいない日は、同じ言葉を呪文のように繰り返しつぶやく。
交代の時間がくるまで、ずっと壁を見続けながら彼女は繰り返す。
エリュシオンの脳裏に西野の顔が思い浮かぶ。
眉が吊り上がり、歯をかみしめる。
「やっぱりあいつが……タトスを……」
壁をにらみつけ、またブツブツと繰り返しだした。
タトスも気がつかないうちに、エリュシオンは壊れていった。
不眠による思考低下、そして体力も日々急速に失われていく。
タトスという存在が心の支えとなり、最後の拠り所だったのだ。
そのタトスが……いない。
「タトス、てめぇ……またえっちなこと言いやがって……
フフフ……」
いつの間にか呪文が止み、幻想の中のタトスと会話を始めるエリュシオンだった。
朝方にタトスたちが帰ってきた。
大量の食料品を持ち帰って皆に喜ばれる。
「タトスさんが来てから食糧に困らなくなりましたね」
立花はタトスと握手をして、帰還を歓迎している。
「私の存在も忘れないでほしいわね」
西野が立花にジト目で文句を言う。
明るい笑いが起こる。
ひとしきり挨拶が終わると、タトスはエリュシオンの元にやってきた。
「ただいま」
「あ、ああ……おかえり」
「大丈夫か?」
ただでさえ細いエリュシオンが、日に日にやせ細っていく。
目は落ちくぼみ、目の周りが黒ずんでいる。
(早くなんとかしなければ……エリュシオンがもう限界だ)
心は焦るも、メーヤがやってこないことには何もできない。
今できるのは、日々をなんとか生きていくことだけだ。
だがしかし……
エリュシオンの衰弱が深刻だった。
このままではあと何日持つかわからなかった。
そっと優しく抱きしめ、エリュシオンに囁く。
「俺が絶対、元の世界に戻してやるからな……」
エリュシオンはタトスをじっと見つめる。
「へへ、しゃーないな。ちゃんと戻れたら……その……
一緒に風呂入ってやってもいいぞ?」
「ああ、そりゃ楽しみだ」
タトスは精一杯のエリュシオンの強がりに、悲しげな微笑みを向けた。
「いまのままじゃ、見ても目の保養にならんからな。
だからちゃんと食事をとって、体力つけなきゃダメだぞ?」
「……てめぇ。
覚悟しろよ? 私の美しい体を見せつけて卒倒させてやるからな?」
エリュシオンはいまや食べてもすぐ吐いてしまっていた。
しかし、それを言えばタトスが苦しむ。だから言い出せなかった。
タトスの胸の中に顔を埋め、彼女は思う。
この世界から怪物がいなくなれば、ずっとここにいたい。
タトスは彼女を守る騎士で、この先何があろうと結ばれることはない。
元の世界に戻っても、どこかの貴族や王族と結婚させられる日がくるだろう。
しかも自分の年齢を考えれば、それはそう遠い日のことではない。
彼から離れるのが嫌だった。
幼い頃からずっと一緒だった。
一緒に居るのが当たり前だった。
いつかタトスのお嫁になるのかなと漠然と思っていた少女時代。
それが不可能だと知ったのはいつだっただろうか。
まだ10歳にもならない頃に、すでに他国の王子との結婚話がでていた。
彼女はタトスと結婚ができないとわかって、しばらく泣いて過ごした。
その話は幸いにして流れたが、いつ同じような話が上がるかわからない。
王族にとっては、国のために嫁ぎ先が決まるのは当たり前のことで義務だ。
エリュシオンはそれが分かってしまうから、余計に腹立たしい。
モノにあたり散らし、侍女たちにもあたってしまった。
タトスにも花瓶を投げつけたことがあった。
それでも、タトスはエリュシオンを怒ることはなく、ただ優しく微笑み、
髪をなでてくれた。
「な、なぁタトス……今日は一緒にいてくれるのか?」
タトスの胸にうずめた顔を上に向け、彼の顔を見上げる。
「す、すまない。今日は昼まで仮眠をとって、それからアヤメと一緒に
生活用品を取って来なければ」
アヤメという言葉に強く反応してしまい、エリュシオンは怒鳴った。
「なんでだよ!
てめぇ……私がどうなってもいいのかよ!」
タトスが驚いた顔でエリュシオンを見ていた。
「あ、ご、ごめん……
疲れちまってるからな……ついあたっちまった」
タトスは優しく微笑み、彼女の頭を撫でる。
「そうか、無理するなよ?
お前が元気でいてくれれば、それだけでいい」
エリュシオンはたったそれだけの言葉で嬉しくなった。
子供の頃と同じだ。
いくら八つ当たりしても、優しく微笑んで髪を撫でてくれた。
やはりタトスはあの時のまま、自分のタトスのままだと感じた。
バンと彼の背中を叩き、タトスに激励を送る。
「このやろう、私のためにもっとがんばれよ!」
笑顔になったエリュシオンに安堵するタトス。
「ああ、お前のためにがんばるよ」
西野が肩をすくめ、タトスに声をかけてきた。
「2人の邪魔するようで悪いけど、少しいいかしら?
生活用品の回収の話なんだけど……」
タトスと西野はそう言いながら階段を上がっていく。
あれ……とエリュシオンは思った。
疲れた彼を部屋に連れて行くのは、いつも私の役目のはずだと。
なぜ西野が? と呆然と青ざめた顔で2人を見つめる。
タトスも楽しそうに西野と話をしている。
タトスと西野の後ろを歩きながら、エリュシオンの顔から表情が消えていた。
(まってくれよ。タトスの隣はいつも私なんだ……
アヤメ、なんでお前が隣にいるんだ?)
胸の中に狂おしいほどの嫉妬の炎が宿る。
タトスと西野の仲が急速に深まっているのは、そばで見ていてわかった。
死線を何度も潜り抜け、信頼で結ばれている。
それは仲間意識であり、恋愛感情ではないのかもしれない。
自分が寂しい思いをしてる間に、彼らは知らぬところで仲良くなっていく。
それがどうしても許せなかった。
思わず口に出してしまう。
「お願い……私からタトスを奪わないで……」
だが、その言葉はあまりにか細く、2人には届かなかった。
3階にたどりつき、西野はタトスに笑顔を向ける。
「ええ、これでOKね。じゃお昼にね」
西野がその瞬間、糸が切れたように崩れ落ちた。
「アヤメ!?」
タトスは彼女の手を握り、そっと優しく抱きおこす。
「アヤメ、キミも疲れているんだ。無理しないでくれよ」
「あはは……私も軟弱になったものね。この程度でフラつくなんて」
そう強がっているものの、顔色は蒼白で脂汗が流れていた。
相当な疲労と心労がたまっているのだろう。
外には恐るべき化け物が無数にいる。心にのしかかる重圧は計り知れない。
西野もかなり限界に近かった。
いつもなら他人の機微に敏感な彼女だったが、このときは、自身の疲労もあって
エリュシオンの気持ちに気づけなかった。
エリュシオンは呆然と突っ立っている。
まるで抱き合っているように見える2人。
いつもの彼女ならタトスに向かって、いやらしい手で触ってんじゃねぇ!
と突っ込みを入れる程度の出来事だった。
だが今の彼女には、西野がタトスを誘っているように映っていた。
「いやらしい! わざと倒れて弱い女のフリなんて!」
西野が自らの手で胸をはだけていく姿が見える。
そしてタトスが口づけするのが目に入った。
睡眠不足からくる幻視であることに、エリュシオンは気がつかない。
エリュシオンの中で、なにかが切れる音がした。
エリュシオンの体が勝手に動いた。
ふらつきながらもなんとか立ち上がる西野は、自分のことを心配させたかなと
近づいてくるエリュシオンに笑顔を向けた。
「ごめんね、大丈夫だか……」
そう言いかけた西野を、エリュシオンは力いっぱい突き飛ばしていた。
西野はふらつく脚でたたらを踏む。
だが踏ん張っている床が突然消え失せたようにバランスを崩す。
西野の体は階段の下に向かって倒れ込んでいった。
「アヤメ!」
タトスは瞬時に西野の元へと飛んだ。
西野の体を空中で抱え、そのまま無事に着地する。
厳しい訓練を重ねてきたタトスだからこそできる人間離れした反応だ。
西野はポカンとしていた。
だが次第に何が起きたのかを理解し、タトスの服をぎゅっと握って震えだす。
「大丈夫か?」
西野の怯えた瞳はエリュシオンを見つめていた。
タトスも階段を見上げ、エリュシオンを睨む。
「エリュシオン! お前、なぜこんなことを!」
エリュシオンの目は焦点が合わないかのように、キョロキョロとさ迷っていた。
震える自分の手を持ち上げて凝視した後、タトスたちに手を左右に振ってみせた。
「ちがう……ちがうの……」
エリュシオンが何かをつぶやいたのをタトスは見たが、声は届かなかった。
突然彼女は走り去った。
「エリュシオン!」
なぜこんなことをしたのか、タトスにはわからなかった。
大けがどころか、下手をすれば西野は死んでいたのだ。
「タトスさん……エリュシオンさんのところに行ってあげて」
いまだ血の通わない顔色をしながらも、西野は微笑む。
「しかし……」
「しかしも、かかしもないの!
まったく……
私は大丈夫だから、行ってあげて?」
「……すまない」
タトスはそう言い残すと、すぐさま走り出す。
本当はタトスもすぐにでも追いかけたかったのだろう。
西野を一度も振り返ることなく、エリュシオンを追いかける。
そんなタトスを見送りながら、西野はぽつりとつぶやく。
(私もアキラくんにベタついてる女を見たら、同じことしちゃったかもね)
イチャイチャしていたわけじゃないのだが、そう見えただろうな……
と西野は反省した。
エリュシオンはすぐにタトスに捕まってしまった。
逃げだしてから数十メートルも走っていない。
自分のふがいなさを感じると同時に、タトスの超人的な動きにも感動する。
それより、自分を追いかけて来てくれたことが嬉しい。
タトスは壊れ物を扱うように優しくエリュシオンの腕を掴む。
「エリュシオン……なぜあんなことをしたんだ?」
言葉の代わりに、大粒の涙が次々とあふれ出た。
「だって……タトスとアヤメが……
あんなことするから……」
「あんなこと?」
「てめぇ、しらばっくれるのかよ……私の前で……
あんな、あんな……
ほら! あそこからアヤメが全裸で走って来た!」
タトスがエリュシオンの指さす方向を振り向くが、そこには誰もいなかった。
「エリュシオン!」
タトスは優しくエリュシオンを抱きしめた。
彼は泣いていた。
常に強くあれ、彼女にふさわしい騎士であれと、絶対に泣かなかった。
だが、今は次から次へと涙があふれる。ただ彼女を抱きしめた。
タトスは気がついた。
エリュシオンは……すでに壊れはじめていたのだと。