第36話「裂け目」
人間モドキたちの襲撃で、ヒュプテ邸の玄関は破壊されていた。
ドアが壊された入り口に立っていたのが、エリュシオン・テルスタークだった。
(この人が……王女様)
そう言われて、すぐ納得できるほどに、その女性は美しさと高貴さ、はかなさを
兼ね備えていた。
「アキラ、気をつけろ。なにかの罠かもしれねぇ」
ダーツが警戒するのも当然だった。
外は今まで白い霧で完全に覆われ、怪物たちがひしめいていた。
そして間を置かず、外からエリュシオンがやってきたのだ。
それに加え、アキラ以外にはエリュシオンが見えない。
幽霊なのかと恐ろしくなるが、その女性の美しさで恐怖が急速に薄らいでいく。
(こんな人が幽霊なら、あんまり怖くないかも……)
エリュシオンは静かに歩き、ヒュプテの前に立った。
「ヒュプテ……」
いつもなら笑顔で即座に臣下の礼を取る彼だが、彼女の存在に気がつかないのか、
ヒュプテは目の前にエリュシオンがいても知らんぷりだ。
いや、本当に見えていないのだが、エリュシオンにはそれがわからなかった。
エリュシオンはまた声が聞こえなかったか? と、耳元で怒鳴るもやはり無視だ。
さすがにヒュプテの態度にイラっとするが、その時アキラがヒュプテに
話しかけた。
「ヒュプテ……さん。その……王女様……が、一生懸命話かけてますが
やっぱり見えませんか?」
ヒュプテは「見えない」と一言。
アキラの言葉に訝しげな表情をするエリュシオン。
(私のことが、見えないだと?)
アキラはおそるおそるエリュシオンに話かける。
「あ、あの……ボクの声……聞こえますか?」
ヒュプテの前にいたエリュシオンがずかずかと歩いてくる。
アキラはその勢いに一瞬たじろぎ、後ずさる。
間近まで顔を近づけてきたエリュシオンに驚き、知らず顔が赤くなる。
エリュシオンはアキラの耳元で大声でしゃべった
それでも囁き声程度でしかない。
「てめぇ、一体何者だ! どうなってやがる!?」
アキラは一瞬ポカンとした。
荒っぽい口調とすぐ前にいる美しい女性が、同じ人物だと結びつかなかったのだ。
「はへ? あ、えっと……ボクにもなにがなんだか……
あ、ボクはアキラっていいます。
あの……エリュシオン王女様? で、いいんですか?」
「ああ……」
アキラは皆を見回し、やはり目の前にいるのがエリュシオンだと伝える。
どよめきが起こる。
「アキラくん、王女殿下にどこに行ったのか聞いてくれないか?」
ヒュプテから聞いた質問を、アキラはそのままエリュシオンに伝える。
「わからない。白い霧に包まれ、晴れた後には知らない場所にいたのだ。
私たちの住む世界とは違う異世界……だと、向こうで出会った人物は言っていた。
そこは四角く城ほどの巨大な建物がいくつも立ち並び、天を覆うほどだった。
醜悪な怪物や得体のしれない化け物がうろついている世界だ」
エリュシオンは両手で自分の肩を抱き、震える声で語る。
アキラは皆に聞いたことを伝えながらも、息を飲んでいた。
(まさか……と思うけど、四角い巨大な建物って、ビルのことじゃないの?)
「私の騎士たちは皆死んでしまった……
怪物にやられちまった。
生き残ったのは、タトスと私だけだ」
震えながら涙を流すエリュシオン。
皆押し黙っていたが、ヒュプテだけは淡々と次の要望をアキラに求める。
「次は基本的な問題だが、王女殿下に触ることができるかね?」
アキラは思わず
「確かに……触れなかったら怖いけどやってみます」
と疑問を口に出す。
エリュシオンは憮然とした表情で、「怖いってなんだよ」と睨む。
「失礼します……」と断りをいれ、エリュシオンの手に触れようとする。
アキラの心臓がわずかな恐怖と恥ずかしさから高鳴る。
誰かのゴクリというツバを飲む音が聞こえた気がしたが、それはアキラ自身の音
だったのかもしれない。
しかし指先が触れそうになったその瞬間、エリュシオンが消えてしまった。
「あっ!」
何が起きたのか分からないダーツがアキラに「どうした!?」と質問する。
「あ、その……触る前に消えちゃいました……」
☆
「あ……ううん……」
エリュシオンは頬をくすぐる風を感じ、目を覚ました。
保健室のベッドで寝かされていた。
窓が少しだけ開いている。そこから微風が入り込み、カーテンを微かに
揺らしていた。
寝ぼけた頭でさっきの出来事を思い出す。
(やっぱり夢だったのか……しかしなんてリアルな夢なんだ……)
同じ少女が出てくる夢。
そしてヒュプテまで出てきた。
不可思議な夢だったとエリュシオンは思う。
夢とはそういうものだと知ってはいるが、やはり不思議な内容だと思ってしまう。
意識がはっきりしてくる。
タトスがエリュシオンの手を握り、心配そうに見つめていた。
(なんだよ……ずっと握ってくれてたのかよ。タトスのくせに……)
内心そう思ってうれしくなるが、顔が思わずニヤケてしまうのを必死に抑える。
「気がついたか?」
「あ、うん……ありがと……」
真剣に心配しているタトスの表情にドキリとしながら、思わずらしくない
返事をしてしまう。
(こ、これもこいつが、キ……キ……キス……なんかするから……)
忙しくて考えるのが後回しになっていたが、少し落ちついた今、
あのとき交わしたキスを思い出してしまう。
エリュシオンの白い肌が朱に染まる。
「どうした……熱でもあるのか?」
タトスがエリュシオンの額に手を当てると、急に恥ずかしくなって
彼の手を両手でつかみ、強引に引きはがす。
ついでにタトスの指を逆に曲げ、エビぞりにする。
「いだだだだだ! な、なにを!?」
「うっせぇ! お前のせーだ! こんちくしょうー!!」
思わず意味不明なことを叫んでしまう。
痛がっている表情を見ながら、エリュシオンは思わず笑ってしまった。
タトスは指をごきごきと鳴らし、手をブラブラと振る。
「元気……そうでなにより」
「す、すまんな……」
エリュシオンは顔を赤らめながらタトスの手を取り、撫でさする。
「な、なぁ……てめぇさ……」
「なんすか?」
「あ、あのときさ……」
タトスはピンときたという表情で頭を下げた。
「す、すんません、トイレ行ったのに手を洗ってなくて……
だから怒ってたんですね」
エリュシオンは思わずタトスの手を払いのける。
「ちげぇ! ってか、洗えよ!」
エリュシオンはタトスの服に手をゴシゴシとなすりつけた。
ガララとスライド式のドアを開ける音がした。
「あら、なんか楽しそうね」
保健室にやってきた西野はそのままエリュシオンに近づくと、
額に手をそっと当てる。
「顔色もいいし、熱もないわね。大丈夫そう……良かったわ」
タトスは困ったような表情をエリュシオンに向けた後、西野に対して苦笑する。
「迷惑かけたね……うちのお嬢様がすぐ居眠りこいて」
エリュシオンの額に青筋が浮かぶが、事実だったので平手打ちは我慢した。
「一瞬で眠っちゃってすごかったわね。某アニメのメガネキャラみたいだったわ。
すぐお昼寝できるっていう特技のある子でねー」
「アニメ?」
「あはは、ごめん、こっちの世界の文化にあるのよ。
紙芝居みたいなもの……と言えばわかるかしら?」
「ああ、なるほどね」
エリュシオンは小さな声で西野に謝る。
「迷惑ばかりかけて……ごめん」
ただでさえ小さい声だ。
西野にはプーンと蚊の飛ぶような音が聞こえただけだった。
何かを言ったことだけはわかる、それはエリュシオンの口元が動くからだ。
彼女のそばにはいつもタトスがついているのだろう。
だから彼女は自分の声が小さくて相手に聞こえないということに、
あまり気が回りきれていないようだ。
「ご、ごめん……なんて言ったのか聞き取れなかったわ……」
西野は彼女の口元に耳を寄せて聞き取ろうとする。
エリュシオンの顔が真っ赤になる。
相手に聞こえなかったからといって、謝罪の言葉を2度も繰り返すのは
正直言って恥ずかしい。
救いを求めるようにタトスを見ると、ただ黙ってニヤニヤしている。
助けるつもりはないらしい。
(クソヤロウ……)
だがやはり謝らねばならない。今一度勇気を振り絞って西野に謝罪した。
王女として生まれただけに、謝ることは滅多になかった。
だがここでは王女ではない。西野にエリュシオンたちを守る義務はない。
この世界では対等どころか厄介者の立場にいる。
それはエリュシオンにも分かっている。
だからこそ謝罪するのだ。
西野は優しく慈母のように微笑んだ。
「どういたしまして。ここでは皆で助け合わないとね」
エリュシオンは西野に憧れてしまう。
彼女のように気高く強くありたいと。
西野はエリュシオンとタトスに飲み物を手渡す。
「こちらの世界の飲み物は、ほんとうにうまいな……
喉ごしがとても気持ちが良い」
エリュシオンもコクリとうなずく。
「こっちの世界が平和な時なら、もっとおいしいものがあったんだけどね……
2人にもご馳走してあげたかったわ」
2人は西野の言葉になにも返せなかった。
戦争になると食べ物や飲み物が不足し、民は痩せ細る。
しかもこの世界では戦争の相手が化け物だ。いつ終わるとも知れない戦い。
下手をすると西野たちが生きている間に終わらないどころか、
人間の滅亡さえありえるのだ。
西野が晴れ渡る空を眺め、ぽつりとつぶやく。
「もう、そんな平和な世の中は、戻ってこないかもね……」
タトスたちに視線を戻し、無理やり笑顔をつくる西野。
「ごめん。そんな話をしに来たんじゃなかったわ。
勇者メーヤ様の話よ」
「今度いつ会えるかはわからないわ」
西野の発言に2人は絶句する。
勇者メーヤこそが元の世界にもどる希望だというのに、
いつ会えるかわからないというのだ。
今日死ぬかもしれないこの世界で、それはあまりにもむごい話だった。
「メーヤ様は世界中の化け物と戦ってるの。
その地域の怪物を殲滅すると他の国に行くのよ。
あのお方は魔物がもっとも多い場所に行かれるわ。
でもね……いくら殲滅しても、しばらくすると、怪物たちはまた
どこからともなく現れるの……」
タトスは苦々しく呻く。
「いたちごっこということか……」
いつもの西野らしくなく、彼女は表情を隠すようにうつむいて語っている。
タトスはそんな彼女の様子にいぶかしむ。
「次元の裂け目というものがあるらしいわ。そこからやってくるのだと」
「次元の……? それは異世界同士をつなぐ扉のことか?」
「そんなものね……
問題は……そ、その裂け目を……
作っている魔物が……いるの。
そいつが……そいつが……
そいつがぁぁぁ!!」
西野は突然大声を出した。
ギクリと西野を凝視するタトス。
「ハァハァ……
そいつが……い、生きている限り、化け物はいつまでも……現れ……続ける」
突然様子がおかしくなった西野にタトスは心配して声をかける。
「ど、どうし……」
しかしすべてを言い終わることなく絶句した。
西野の身体が大きく震るえている。何かに耐えるようにアゴに力を込めすぎ、
口の端から血が流れだしていた。
彼女は突然立ち上がり、両手を大きく振り上げ、棚に叩きつける。
ダン! と大きな音がし、ビクリとエリュシオンの肩が跳ねる。
タトスたちは西野の唐突な変貌ぶりに息を飲んで見守るだけだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……
ゆ、許せ……ない……」
あまりの事態にタトスですらどうしていいのか対応できなかった。
「ア、アヤメ……」
心配そうなタトスの声に反応し、西野が振り向く。
タトスは思わずエリュシオンを庇うように立った。
その目は殺意に燃え、狂気の光に赤く輝き、揺らいでいた。
「彼を……殺さないと……」
「アヤメ、どうしたんだ……落ちついてくれ」
エリュシオンも西野の変貌ぶりに頭がついていかず、
ただ目を大きく見開いているだけだった。
「信じていたのに……彼を……なぜこんなことに……」
西野は顔を天に向け、そして力なく崩れ落ちた。
「ア……キラくん……アキラくん……どうしてなの……」
彼女は震え、大声で泣いていた。
西野の大声を聞きつけて魔物が現れるかもしれないこの状況で、
タトスはその悲痛な声を止める術をもたず、ただ呆然と見守るだけだった。