第31話「異世界」
「ヒュプテ様、ありがとうございました」
身なりのいい太った中年男がぺこぺこ頭を下げ、ホクホク顔で部屋から出ていく。
王都エルドランの北西にあるケーノス邸。
ここではいつものように、貴族や民の相談事を受けている。
貴族が民の相談を受けるというのは本来はありえない。
しかしケーノス邸は例外だ。
最初は知り合いの貴族のちょっとした相談を解決したことから始まった。
そしてパーティで起きた王妃の首飾り盗難事件を、
現場へ行かずに話を聞いただけで、その場で解決したことが決定打となった。
それをきっかけとして、どんな難問もヒュプテ・ケーノスに頼めば
たちどころに片づけてくれる。
そんな噂が広まっていった。
ヒュプテ・ケーノス、先日30歳を迎えたばかりの侯爵だ。
領地は弟へすべて譲ってしまい、王都に屋敷だけを構えていた。
伸び放題にした黒髪を首の後ろでぞんざいに紐でまとめている。
なかなかの色男なのだが、無精ひげもそのままに、常に眠そうな目が
せっかくの容貌を台無しにしている。
恋人いない歴イコール年齢だが、まったく女性に関心を示してこなかった結果だ。
別に同性が好きなわけではないし、言い寄って来る女性はあまたいる。
ただこれまでヒュプテの興味を惹く女性がいなかっただけだ。
派手さを好まず、庶民と変わらない服装をしており、今は白のローブ姿だ。
ヒュプテ・ケーノスは暇だった。
優秀すぎるが故に、仕事がすぐになくなってしまう。
領地を統治していたヒュプテの元にまで届くのは、容易には解決できない
難問のはずだが、それはあくまで並みの領主にとっての難問でしかない。
そして並みの難問ですらひと月に1つあるかないかだ。
そのため暇すぎるヒュプテは、なにか楽しいことがないかと相続権を弟に譲り、
王都に出てきたのだ。
だからこそ相談が来るのは煩わしいことなどではなく、むしろ彼にとっては
良い暇つぶしだ。
領主や代官による解決が難しい問題は、国王の裁定で解決することになっている。
しかしヒュプテの存在で国王による裁定の数はかなり減り、
国王は楽になったとばかりに、ヒュプテに仕事を押し付ける形となった。
貴族の汚職、徴税、村の食糧問題、魔物退治、犯罪集団の摘発などなど。
どんな問題であろうとヒュプテにとって大差はなく、
どれも簡単に処理できるものだった。
彼にはその優秀さを支える忍者のような隠密が付き従っていた。
諜報活動や破壊活動、暗殺などをもこなす。
その名はプロビデンス。
そんな彼の元へ、今日も依頼が届く。
「エリュシオン王女殿下が、リーネ村からお戻りになられないのです」
「ほーん……」
ヒュプテの元へ来たのはタトス率いる騎士の一人。
エリュシオン王女と側近のタトスは、前日の朝方にリーネ村へ向かうと
出て行ったきり、いまだ戻っていないという。
1日目は何かの事情でリーネ村へ泊ったということも考えられたが、
そろそろ2日目も終わりで、すっかり日が暮れている。
宿泊の準備はしていなかったはずだし、リーネ村は馬を飛ばせば
王都から半時もかからない近郷の村だ。
「ほんほん。夜は危険だし、明朝捜索だね」
「お待ちください。なにかあったのかもしれず、今すぐに捜索へ……」
「なにかあったんだろうねぇ。
キミも分かってるとは思うがね、夜に行動するのは愚の骨頂だよ。
暗闇の中ではね、君のすぐ足元を猫が通り過ぎても気がつかないんだよ」
「………………」
騎士はそれでも納得できないという顔をして唇を噛んでいる。
ヒュプテは側に控えていた女性に地図を広げさせた。
「朝、リーネ村と周辺の村のこことここ。
騎士に早馬で情報収集へ向かわせて。
聞いて欲しいのは、姫様を見かけたか? 騎士団をみかけなかったか?
歩く死者、黒い霧の目撃情報。
それからどんな旅人や商人が通ったかという情報もあるといいね」
王都エルドランから北に向かうとリーネ村がある。
その道中、西と東にも少し離れた場所に小さな村がある。
そこへ行けとヒュプテは騎士に命じたのだ。
「王女は騎士を大勢率いてるんでしょ。リーネ村からどこに道をそれても、
どこかで目撃されているはずだよ。
明朝100人ほど兵士を連れ、50メートル間隔で兵を1人ずつ横へ展開し、
しらみつぶしに捜索しながらリーネ村へ向かいなさい。
倒れている人物の確認、貴族や騎士の持ち物で最近落とした形跡の物、
地面の穴や岩などの陰。
それらを重点に探していくと良いだろうね」
ヒュプテはその後も、誤った解釈がないよう、細かいところまで
騎士へ指示を出していく。
「ははっ……ありがとうございました」
「なにか見つけたらまた私のところへ来なさい」
騎士は退室していった。
ヒュプテは天井をぼーっと見つめつぶやく。
「ま、見つからないだろうね」
傍に控えていた女性がヒュプテの言葉にうなずいている。
「キミもそう思うだろう? ヘイラ。」
「ええ、見つからないと思います。
ですが、ヒュプテ様は99パーセントないと思われていても、
少しでも可能性がある限り、それを考慮されるお方」
ヒュプテはワインを一気に飲み干した。
ヘイラが空になったグラスにワインを注ぐ。
「その通りだよヘイラ。可能性が低いからと、
無いものとして考えるのは愚か者の証拠だよ」
ヘイラと呼ばれた女性は、ヒュプテの抱える隠密集団プロビデンスを束ねる者だ。
眉の上で切り揃えた金髪に、意志の強さを感じさせるくっきりとした眉。
切れ長の目は冷酷さを漂わせている。
20代後半の彼女だが、丸顔のせいか10代前半に見える童顔だ。
美人というよりはかわいい……といった風貌だ。
「では、エリュシオン王女殿下はどこへ行かれたのでしょうか?」
「あー、そーねぇ。可能性ばかり口にするのは好きじゃないんだがね」
ヒュプテは中指で額をトントンと叩く。
これは彼が何かを考える時にやるクセだ。
「最近王都で起こっている奇怪な事件。
北のカケイドの事件を皮切りに、この王都でも異変が起こった。
リーネ村といえば、カケイドと同じような黒い霧が発生した。
そして、その調査に向かった無謀で元気な王女が帰って来ない」
「それでは……エリュシオン王女殿下はカケイドの死者と同じく、
すでに生ける屍になっていると?」
「あっはっは。ヘイラ……キミは面白い子だねぇ。短慮功を成さずだよ」
ヘイラは面白いと指摘され、心外という顔をした。
ヘイラ自身はポーカーフェイスのつもりだが、感情がすぐ表情に出てしまう。
今もクールに対応したつもりだった。
ヒュプテはヘイラの不満顔を見てこっそり笑った。
「私は亡くなっているとは思わないね」
「……なぜでしょうか?」
「黒い霧のことは王女も聞いているし、
広がる速度は速くないから事前に知っていれば回避できる。
仮になにかの理由で死んだ……として、ただ死んで終わりなのか?
今回の事件では死者は蘇ってるんだよ。
蘇ったとして、どこの村からも目撃情報や救助要請がない。
緊急の狼煙が上がったという報告もされていない。
死体が歩いていればあっという間に私の元へ情報が届いているさ。
なにせ、王都周辺の街道は常に行商人や旅人が行き来しているからね」
「では、一体王女殿下たちになにが……」
「僕はね、こう思ってるんだよ。
王女たちはどこかへ迷い込んだ」
「迷い込む……?」
「一番近い言葉で表すなら、神隠しかな。
おっとキミもそう考えてるくせに、これ以上私に喋らせないでくれ」
ヘイラがあきれたような顔をする。
(クスクス、喋りたくて仕方ないくせに……)
2人はすでに同じ結論を出しているのだ。
この会話は、ただの遊びだ。
彼女はそれに付き合っているだけだ。
「王女たちをつけていたキミのプロビデンスも全員帰ってこなかったんだろう?
王都の死者の件、カケイドの異変、そして今回の事件だ。
実に楽しいじゃないか。
わからないというのは実に良いスパイスだ。
謎を解き明かした瞬間の脳を痺れさせるあの快感は、神が与えた最高の快楽だ。
まぁ、明日は神隠しの原因でも探しに行こうじゃないの」
ヒュプテは楽しそうに微笑む。
笑いながら思う。どうか謎のままであってくれ……と。
☆
「本当にここはどこなんだ? リーネ村の近くにこんな場所があるなんて
聞いたことがないぞ……」
護衛騎士のタトスは、エリュシオン王女をいつでもカバーできるようにすぐそばを
歩き、何度も繰り返される彼女の疑問を聞いていた。
エリュシオンたちは4階建ての四角い灰色の建物へ入っていく。
「なんだここは……見たことがない衣装がいっぱいだな」
タトスは騎士たちに建物の中の調査を身振りで伝えた。
騎士たちは手慣れたもので身振りだけで指示を理解し、
5人一組の3班に分かれてそれぞれ建物の調査に向かう。
タトスの後ろからは4人の騎士がついてくる。
「だ、誰もおらんな……」
壁全面を覆うガラス窓は全て割れていて、中は明かりもなく薄暗い。
多数置かれている棚には数多くの服が折りたたまれていて、さらには壁などに
所狭しと服が掛けられている。
「貴族の衣装室かなにかか?」
空はまだ明るいが、陽がかげってきている。
日が暮れる前に安全を確保したいとタトスは思う。
外の荒廃ぶりと比べると建物の中は比較的綺麗なままだった。
彼らは油断なく周りの気配を探りながら歩を進める。
タトスはエリュシオンをじっと見つめる。
「あのー、もしかしてだけど、怖いんですか?」
エリュシオンがタトスに体を預けるほどに寄り添い、ガッチリと腕を組んで
離さない。一見すると、仲の良いカップルのようにも見える。
エリュシオンは怒りの目をタトスに向けた。
「てめぇ……私が怖がってるだと!? 脈絡もなく何を言いやがる!」
「脈絡って……」
タトスのヒジにはエリュシオンの胸が当たってるのだが柔らかい感触が一切なく、
男の胸に当てているようだ。
立ち止まったタトスがエリュシオンをまじまじと見つめる。
「な、なんだよ……」
エリュシオンは顔を少し赤くする。
「デブのマイケルのほうが胸がありますよ」
エリュシオンの平手打ちが20回続いた。
ふと、上の階から恐ろしい気配を一瞬感じ、タトスの背筋にゾワリと悪寒が走る。
歴戦を重ね、死線を潜り抜けてきたタトスの勘が、
上へ行ってはいけないと警告する。
「ここで……待っててください」
「おめぇはどこにいくんだ?」
タトスは指を上に向ける。
「私も行くぞ!」
エリュシオンが意地でも腕を離してくれない。
なにしろ平手打ちをしてる最中も腕を組んだままだったのだから。
タトスは迷う。
上はヤバイ。しかし確かめておきたい。
自分だけなら危機に陥ってもなんとか切り抜けられるだろうが、
王女が一緒では行けない。
だがこの王女は、絶対に言うことを聞いてくれないだろうと
痛いほどにわかっている。
「じゃあ、外に出ますか……」
「あほか! てめぇ、上になにかありそうなんだろう?
だから一人で行くって言ったんだろうが。私も行くぞ!」
「ああああ……そう来るかー」
タトスは困ったものだと親指で眉根をグリグリと押した。
そのとき、窓の外から強風が吹きこんだ。
壁に掛けられた衣装がバタバタとなびく。
タトスたちは風から身をかばうように腕を目の前にかざした。
建物の外で動くものが視界に入り、奇妙な光景が目に飛び込んでくる。
エリュシオンもタトスも、そして騎士たちも驚きに目を見開いた。
建物の外で……巨大な生物が這いずっていた。
ミミズのような体の先端には、巨大な能面のような人の顔がついており、
顔の横から生えた巨大な翼を羽ばたかせている。
その翼が羽ばたくたびに強風が吹き荒れた。
タトスたちは棚や柱の陰に隠れ、見つからないように怪物の様子をうかがう。
ミミズの胴回りは直径3メートルはありそうなほど太い。
粘液で覆われた体はヌラヌラしていて、光を反射しテカっている。
タトスは恐怖する。その大きさや奇怪さだけではない。
そんな巨大なものがすぐ近くに現れるまで、気配すら感じなかったことに。
ミミズはタトスたちに気がつかないのか、そのまま這いずり進んでいく。
だが、一体長さはどれだけあるのか……
あれからだいぶ時間が経ったというのに、いまだミミズの最後尾が現れない。
タトスは気がついた。
這っているのではない。
よく見るとミミズの体の下に無数の人間の脚が生えている。
巨大な体なのに移動する音が聞こえなかったのは、歩いていたからだった。
全員蒼白になり、目を閉じることも忘れ、ただミミズの歩行を凝視している。
エリュシオンは震えながらタトスの体にしがみついていた。
タトスもエリュシオンをかばうように抱きしめる。
エリュシオンは恐怖のあまり涙を流していた。
ついにミミズの最後尾が見えてきた。
エリュシオンは得体の知れないなにかが、やっと通りすぎると思った瞬間、
少しほっとした。
だが、そう思ったのもつかの間。より恐ろしい光景が目に飛び込んでくる。
騎士たちは大口を開けた。厳しい訓練を耐え抜いてきた精鋭の彼らでさえ、
悲鳴をあげそうになった。
口を押え、全員が自制できたのは奇跡だった。
ミミズは排泄しながら進んでいた。
排泄物はバラバラになった人間の四肢だった。
ブリリっという音とともに、山のように溶けかかった半ばドロドロの肉の塊が
排出される。
消化途中の溶けだした肉の刺激臭が、タトスたちの鼻を刺激する。
猛烈な吐き気が襲ってきたが、全員が必死に耐える。
もしミミズに気づかれたら、自分たちの末路はアレなのだ。
誰か一人でも見つかれば、エリュシオン王女を含む仲間全員が
巨大ミミズの餌食になる、
タトスはとっさにエリュシオンの頭を胸に抱え込み、さらにマントで覆った。
彼女があんなおぞましいものを見ないで済むようにし、
耐えがたい鋭い臭いからもできるだけ遠ざけた。
だが、その行動は遅すぎたと後悔している。
今さら隠したところで、彼女の脳裏に異常な情景が繰り広げられていると
容易に想像できる。
エリュシオンの細い体は震えが止まらず、すすり泣きが聞こえてくる。
ミミズが去って行った後も、彼らは身動きができなかった。
エリュシオンはまだ泣いていた。
巨大ミミズがいなくなったことを確認し、タトスはやっと喋ることができた。
「ここは……相当まずい……
なんとか王都に戻らないと」
側に控えている騎士が震える声でタトスに問う。
「ですが……ここがどこかもわかりません。
しかも……明らかに王都周辺とは思えません」
タトスは唸る。
そんなことは百も承知だ。
だが、なんとしてもエリュシオンを無事に王宮へ帰してやりたい。
「この建物の上からも、ヤバイ気配がさっきからしている。
とにかくここを離れよう……」
タトスはエリュシオンを抱きかかえ、周りの様子をうかがいながら外にでた。
街道は溶けかかった死体の山が延々と続いている。
ミミズの姿を確認するが、もうどこにも見えなかった。
騎士の一人がつぶやく。
「おかしいな……偵察にでた者たちが帰って来ない。
私が様子を見に行きましょうか?」
タトスはそれを止めた。いまこの場にいるのはタトスを含めた騎士が5人、
そしてエリュシオンだけだ。
これ以上人数が少なくなると、いざという時にエリュシオンを
守れない可能性がある。
不用意に分散させたくない。
建物の陰に隠れてその後しばらく待つも、偵察に行った者たちは
帰って来なかった。
タトスは顔を苦渋にしかめ決断する。
「行こう……」
陽がかなり落ちている。
夜が近い。
どこに行っても四角い建物しかない。
とりあえず中が綺麗な場所を選び、そこに隠れ野営をすることに決める。
食糧は少しあるが、飲み物は尽きかけている。
「ひとまず野営はできそうだが……どこかで水を調達したいところだ」
「私たちが探してきます」
バラバラに行動したくないが、エリュシオンに無理をさせたくない。
彼女はすっかり生気が抜け落ち、黙りこくっている。
いまだ涙が止まらないようだ……
なんとか食糧と水を補給できないと、エリュシオンが倒れてしまう。
苦渋に満ちた声でタトスは許可を出す。
「無理するなよ……」
2人が水を探しに行った。
残っているのはタトスとエリュシオン、そして騎士2人だ。
何が潜んでいるかわからない中で、火をつけることはできない。
いまは安全そうだが、真っ暗な中で火を焚くと目立ちすぎてしまう。
獣にならば炎が役に立つが、あんな化け物相手ではただの目印だと思われた。
それに野営の道具も当然なかった。
完全に暗くなる前に、調達に出た2人が早く戻って来るのを祈る。
毛布もないので硬い床に寝ることになってしまい、エリュシオンをしっかりと
休ませることができない。
だが少し落ちついてきたのか、エリュシオンはタトスに微笑む。
「私なら大丈夫だ……」
せめてもとタトスが羽織っているマントを敷き、エリュシオンは硬い床の上で
横になった。
王女はタトスの手を握り、目をつむる。
タトスと騎士たちは交代で眠ることにする。
最初にタトスが起きて見張りをした。
(ここがどこでもいい……とにかく確実に安全な場所を見つけねば。
しかしそんな場所があるとは思えない。
だがそれでも……)
カタンという音が響いた。
タトスはすかさず剣を抜く。眠っていた騎士たちも直ちに目を覚まし、
慎重に剣を抜いて構えた。
騎士たちが剣を抜くのを見届けると、タトスは剣を鞘にしまい、
エリュシオンを両手で抱えた。
抱えても彼女は起きる気配がなかった。
精神的な疲労もあるのだろう、まるで気を失ったように眠っている。
仲間ではない……
騎士であれば声をかけてこないはずがない。
ガサっと音がし、それは姿を現した。
人間の身長ほどの大きさの虫だった。
ゴキブリのような形をした真っ黒な甲虫だ。
いや、かなり陽が落ちているから黒く見えているだけで、
本当は違う色なのかもしれない。
甲虫は1匹だけではなかった。
大量の虫がうじゃうじゃと集まってきた。
ガチガチ、ガサガサという異音が大きくなってくる。
「逃げるぞ!」
タトスが声を上げると全員が一気に走り出す。
遅れた騎士一人があっという間につかまり、虫どもがたかっていく。
「ぎぃやぁぁぁあああ!」
彼の運命がどうなったのか確かめる間もなく、タトスはエリュシオンを
抱きかかえたまま走り続ける。
「ダメだ……これではすぐに捕まってしまう!」
その時、前方に人影が見えた。
偵察に出ていた騎士の一人だ。
「タトス様! こっちです!」
タトスはあらん限りの力を振り絞って走る。
後方を守りながら走っていた騎士が虫につかまり、四肢がちぎられていく。
「タト……ぐああぁ!」
前にいた騎士が地面に開いた穴の中に滑り込んでいく。
「早く! こっちです!」
虫がジャンプし、タトスに覆いかぶさろうとする。
それをなんとか避け、体勢を崩しながらなおも走る。
息が切れ、心臓は限界まで鼓動を打ち鳴らしている。
たった50メートルも走らない内に2人も捕まった。
今までタトスが無事だったのは仲間のおかげであった。
穴まであと数メートル。
彼の足に昆虫のかぎ爪が引っかけられた。
倒れそうになったが、すんでのところで踏ん張った。
だが立ち止まってしまったため完全に追いつかれる……
そのとき、穴から手招きしていた騎士が飛び出し、剣を虫に叩きつける。
「タトス様! はや……」
騎士はあっという間に虫にたかられ食われていく。
タトスはその一瞬の隙に穴の中へ飛び込んだ。
その瞬間、中にいた誰かが穴の蓋を閉める。
穴の中は思った以上に深く、かなり落下したがなんとか着地できた。
タトスでなければうまく着地できずにそのまま死んでいたかもしれない。
外ではガンガン音がしていたが、蓋が相当頑丈なのかビクともしなかった。
タトスは息を整え、中を見回した。
しかし蓋をした地下は闇が深くあまり見えない。
腰にランプを提げた少女が梯子から降りてきた。彼女が蓋を閉めたのだろう。
彼女が下に降りてきたことで、周りがランプによって明るく照らされる。
穴の中は丈夫そうな石壁で覆われていて、確かに頑丈そうだ。
暗く陰湿な雰囲気を吹き消すような、涼やかな声が響く。
「仲間の騎士さん……ダメだったのね。
ここは安全よ」
タトスの部下が助からなかったことで、少女は心底気落ちしているようだ。
あらためて見ると、エリュシオンを超えるほどの美貌を持った少女だった。
少女は両手に大きな荷物を抱え、背中にも大きな荷物を背負っていた。
「どこなんだここは?」
「マンホールの中、下水道ね」
「まんほーるのなか?」
少女は明るく笑いかけてくる。
「あなた、名前は?」
「ああ、タトスだ。こっちの女性は……エリュシオン……だ」
一瞬名前を言っていいのか悩むが、素直に答えておいた。
「そう、私は西野」
「西野綾女よ、よろしくね」