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罪狩人  作者: K.NOT
3/3

火の信徒


 私は海を見たことがない。

 それは勿論、田舎の村で過ごしてばかりいたからだ。

 けれど、海そのものに対する知識はある。遠くまで行けば四方に広がるのは水、水、水で、その水とて真水ではなく、濃い塩水なのだと。

 だからきっと、私が漂うこの広大な青の世界もまた、海なのだろう、と。

「…ふざけろ」

 よりによって。

 よりによって私が送り出された場所は、何処のものとも知れない水の地平。つまるところ、海の上だった。口や鼻から流入する塩水と必死で戦いながら、私はどうにか海面に浮かび上がり、そして、今に至る。

 一度日が落ちて、また昇った。それは覚えている。

 全身が水でふやけ、そして異様なまでの喉の渇きに悩まされ始めてからのことは、あまり覚えていない。視線の先の空を飛び交う白い鳥を無心に数えていたせいか、幸いにも空腹感は薄れている。この身体は、一日程度の断食ならばそんなに苦痛ではないらしい。有難いことだな、まったく。…いや、普通の人と変わらないか。

 ぼんやりと漂っていると、近くをやや大きな帆船が通りかかった。船体の脇には幾つかの小舟が吊り提げられていて、ついでのように大きな黒い影を縄で後ろに曳いていた。

「おおい、あんた大丈夫か!」

 野太い声が、逞しく海鳥の声を裂く。

「ああ、ダメだこりゃ。すぐ引き揚げな、弱ってやがんぜ」

「好き好んで浮いてるわけじゃねえんだろ、あんた。ちょっと待ってな、すぐに助けてやるからよ」

 毛深くて太い、丸太みたいな腕が私を引き揚げていった。



 揺れる木板の天井。不思議な香りを漂わせる角灯が、室内を怪しく照らしている。壁越しに聞こえるのは潮騒。ちゃぽちゃぽ、と水が空気を孕んで爆ぜる音が心地良さを感じさせる。

「おう、起きやがったか」

 私の寝かされた質素な吊床まで大股に歩み寄って来たのは、もじゃもじゃ髭の厳つい男だった。鍛えられた浅黒い上半身を惜しげもなく曝け出し、ぼさぼさになって蛇の如くうねる髪は逆立って後頭部へ流れる。

「…ここは」

「俺の船だ。名前はアーケリアス・ホーエル号。地元じゃ一、二を争う大きさだぜ」

 男は顎のもじゃ髭を撫でながら、そう自慢げに言った。

「…漁船」

 あの女神が私を送った先は、小さな島の影さえも見えない大海原だった。それは、この船に拾われることを見越してのことだったのだろうか。そうだとしても私は死にかけたのだから、あの女神のことを許す気になどなれはしないが。

「あんた、名前は」

「私はシン。田舎の、マトという村の生まれです」

「ふうん、マトねえ。知らんなあ…。ああ、俺はドルフ=フィッシャーマンってんだ。そのまんま、ドルフって呼んでくれ。俺の住んでる町まであと三日ほどだが、よろしく頼むぜ。うちの船に居る以上、あんたはうちの船の乗組員だ。それなりには働いてもらうからな。覚悟しとけ」

「ははは、お手柔らかに頼みたい」

「なに、心配は要らん。やることなんて見張りくらいだ。このあたりの海域にゃ海賊が出るって言うしな。くれぐれも気を付けてくれよ、がはははは!」

 豪快さを人の形に収めたような男。さぞ人望にも満ちていることだろう。

「ああ、真水を使うのはほどほどにしてくれ。飲み水は、一日に一人当たり桶に二杯までだ。食料は俺が配る。足りないなら、自分で魚でも釣ることだな。とりあえず、あんたの今日の飯を持って来た。干し肉とビスケットしか無いがな、がははははは!」

 そう言って私に投げて寄越したのは、小さな麻袋二つ。片方には茶色の薄い塊、もう片方にはやや硬そうな肉の板が入っていた。

「ビスケットとは」

「あ、ビスケットも知らねえのか、あんた。とんだ田舎もんだな、おい」

 薄っすらと香ばしい匂いがするあたり、何かを焼いた物なのだろうが、私の村にはパンくらいしかそれに該当する物が無い。それと違うというのなら、この薄い物体は何なのか。

 知らない文化に触れるこの瞬間は、言いようのない好奇心を私に芽生えさせていた。

「こいつはウイトっつう穀物を挽いて粉にした物に、水やら砂糖やらを加えて練って、そいつを焼いた物…確かそんな感じだ」

「うろ覚えじゃないか」

「がはは、料理なんてのは女に任せときゃいいのさ!その代わり、俺たちゃ海に出て魚を獲る!それが賢いやり方ってもんよ。テキザイテキショ、なんて言葉が、どこぞの国にはあるらしいしな」

「テキザイ…。それはどういう意味なんです」

「知らん」

「…え」

 ドルフは照れ隠しという訳でもなかろうが、しかし豪快に笑った。大抵のことは笑い飛ばしてしまうような、本当に気持ちの良い男だった。



 アーケリアス・ホーエル号に拾われてから、既に二日が経った。船員のほとんどと打ち解け、軽い雑談を交わす程度の仲にはなっていた。

 夜空には弓なりの月。星々は川の中の砂金のように煌き、海はそれと対照的に黒く大きな口を開けている。

 月明かりは乏しく、水平線を望むにはやや不足がある。しかし、薄暗い森での狩猟生活に慣れ切った私の眼には、その程度の障害は微々たるものに過ぎない。問題は、それとは別にある。

 それは何か。

 船酔いである。

 不規則に揺れる船の帆柱頂上の見張り台で、私は猛烈な吐き気と戦っていた。まさかここまでとは…。正直なところ、私は船酔いを舐めていた。これほどの悪寒と不調は、幼い頃にエンザ熱に罹って以来だ。私は二度と見張り台には登るまい、とここに誓わせてもらおう。そもそも高いところは苦手なのだ。我ながら考えが足りなかった、と反省している。

「…おい、大丈夫かい、あんた」

 隣で共に見張りに立っている船員が、心配そうに私を見ている。

「…あ、ああ。大丈夫、もうすぐ交代…」

 もう限界かもしれない。

「おーい、交代だぞー」

「おうおう、ようやっと来やがったな!おいアンタ、交代だってよ。先に降りてな、片付けは俺がしとくよ」

 防寒着や水差しを抱えながら、私と共に見張りをしていた男が言った。名前は…イシュメル、だったか。

「…すまない、イシュメル」

「いいってことよ。慣れねえうちはこんなもんさ。オヤジも人が悪いよな、海に浮かんでただけのあんたを見張りに立てるなんてよう」

 横静索を伝って下りながら、イシュメルは軽やかに笑う。私の気を紛らわせようとしてくれているのかもしれない。

「私も助けられた身ですから、できれば恩を返したい。それだけです」

 甲板が近づくにつれて、酔いは徐々に治まっていく。高いところは次回から遠慮しよう。

「へへ…アンタ、お人好しだな」

「よく言われるよ」

 索を下り、甲板に足がついた時の安堵感と言ったら、これ以上のものは無い。確かにここは海の上だが、それでも、そこに確かな足場があるということが、こんなにも安心を与えてくれるなんて。未だに喉元で燻っているものは、真水と一緒に飲み下してしまった。すると気分はいくらか楽になっていった。

「さあて、飯食って仮眠するかな」

 イシュメルは短く刈り込んだ頭を撫で、大きく伸びをする。

「あんたも寝とけよ、シン」

「ああ、ありがとう」

 帆が風を孕む音が、夜の海に染み入る。月の下、帆の番と見張りだけが静けさの中に活気を見出させていた。



 私に割り当てられたのは他の船員たちと同じ大部屋だった。粗末であっても丈夫そうな吊床が無数に吊り下げられ、多くの船員たちはそこで眠る。硬い床の方が眠れるとでも言うのか、一部の船員たちはそのまま床に横たわったり、壁に凭れかかったりして舟を漕いでいる。

「船の上なのに、な」

 寝具以外にも、生臭い縄の束や、鉄の鈎針、銛や鋸といった道具類が無造作に転がっていたりもした。

 私はビスケットなる物を齧り、口の中から奪われていく水分を補填すべく水差しの水を呷る。

 船室の小窓を開け、私は吊床に腰を掛けている。小窓からは上弦の月が見え、ほんの細やかな光が差している。私以外にここで寝ている船員は、大半が大きないびきをかいている。ちなみに、一度にここを使える船員の数は、全体の三分の一ほどだそうだ。

 干し肉を噛み千切り、ゆっくりと、強く咀嚼する。塩気の強い干し肉は、一度燻製にされているのか、香味が強い。再び真水でそれを飲み込み、私は吊床に体を横たえる。

 考えるのは自らに課せられた罪狩の使命のこと。

 なぜ、彼の神は私を罪狩の代行者として見出したのか。罪に対する姿勢がどうの、と言っていた気がするが、それはどこか本意ではないようにも感じられる。ただの憶測でしかないことと、相手がそもそも超常の存在であることを考えると、考えることそのものが無意味であろうとも思うが。

 私は、何のために生きて――生かされているのだろうか。

 罪狩だけが私の使命で、生かされている理由だ。この使命を完遂し、解放されたその時、私には何が残るのだろうか。それとも、使命の終わる時などやっては来ないのだろうか。

 考える中で、一つの疑問が脳裏に過る。


 罪とは…――。


「おう、新入り。調子はどうだ」

 横たわる船員たちを股越しながら、ドルフがやって来た。その右手には茶色の酒瓶が握られていて、僅かな月明かりに照らされたその顔は仄かに紅潮していた。呑んでいるのか。

「やあ、ドルフ船長。こんな場所でお酒ですか」

「ああ、今日は波も静かだ。呑むには良い夜だろうよ、がはは…」

 酒瓶から直接酒を呷ると、ぷは、と心地よさそうに吐息を漏らす。

「あんたもどうだ。どうせ眠れねえんだろう。慣れないことばかりのようだったからな。酒の一杯でも飲めば、多少は違おうよ、がはははは」

 そう言って突き出した酒瓶からは、随分と懐かしい匂いがした。

「…このお酒は」

「ああ、俺も詳しくは知らんが、どこぞ田舎の名産品らしい。なんでも、森に自生する木の実を使った酒らしくてなあ。香りが強くてなかなか人気なのさ、この船じゃ」

「なるほど。私の故郷にも、似たお酒がありました。道理で懐かしい匂いがするわけです」

「そうかい。故郷の味ってのはどんなに美味いもんにも代えがたい良さがあるもんだ。たとえ不味かろうが、な」

 一度は差し出した瓶を引っ込めて、ドルフはもう一度その酒を呷る。確かめるように口の中で酒を転がした後、一気に飲み干してしまった。

「ま、こいつは美味いんだが」

 がははは、と辺りも憚らず豪快に笑うが、船員たちは身じろぎ一つしない。疲れているのか、慣れているのか。

「で、あんたもどうだ」

 ドルフがもう一度、酒瓶をこちらに差し出した。

「ええ、頂きます」

 私は懐かしい香りの果実酒を呷った。


 望郷はまだ、この胸に在る。

 幾たびの罪狩を経た先にこの情念が続くのならば、私は今一度、故郷への回帰を目指すことができるのだろうか。



 朝が来る。

 海鳥がやかましく歌い、船は波を裂いて軽快に進む。船首部分に据えられた女神像は妙に恰幅が良く、美しさというより家庭的な強さを感じさせる。船長を始め、船員たちの信奉する神の像なのだろうか。それとも、ただ慣習的なものなのか。

「前方に大波だ!総員、揺れに備えろ!投げ出されんじゃねえぞお!」

 舵を取るドルフが柵に掴まり、他の船員たちも索や帆柱にしがみつく。縦方向の大きな揺れがニ、三度続き、甲板上へ盛大に海水が降り注ぐ。船の至るところで何かの軋む音が聞こえ、大きく傾いた甲板の上を数人が船尾方向へ滑り落ちていく。

「おーい!クィーグが跳び込んだぞ!」

 頭巾を被った男が叫ぶ。

「なんだ…む、まずい!縄が切れかけてる、誰かクィーグに縄を投げろ!獲物が逃げる!」

 私は船尾に駆け寄り、その先を見た。先ほどの波で鯨に掛けられた縄が切れかけているようだ。更に要所で縄が緩み、クジラの身体は不安定に傾き始める。そこへ腰布一枚の姿で背の高い男が泳ぎ着く。

「縄くれ。はやく」

 いたって冷静。その言葉は抑揚に欠け、焦りなど影も見せない。

「ダメだ、この距離じゃ投げても届かねえ!縄が重すぎる!」

 イシュメルが叫んだ。海水を吸って湿った大繩は甲板を擦りながら這いまわる。

「貸してくれ」

 イシュメルが担ぐ縄の一端を、私は掴む。

 そして、船尾から海の中へ跳んだ。

「シン!」

 体中を叩く海水。乱雑に蠢く一体の生物のように、海の猛威は私を押し流そうとする。

 力を込めて手足を動かし、水を蹴り、掻き分ける。

「よし。縄、つなぐ」

 既に鯨の上に立っていたクィーグの元へ辿り着くと、彼は片手で軽々と私を持ち上げてみせた。そして、私から縄を受け取ると、慣れた手つきで縄を巻き付け始める。大揺れする鯨の上で、平然と立っていられる彼は只者ではない。

「お前はこれ、持て」

 引き寄せた縄の途中を私に押し付け、クィーグは鯨の腹の下、海の中へ滑り込んでいく。次の瞬間には反対側の腹から現れ、縄を更にきつく巻き付けていく。

 私が何もしないうちに、鯨はまた同じように縛り上げられてしまった。これも熟練の技あってのことなのだろう。思わず息を呑むしかない。

「君たちは皆こんなに手練れてるのかい」

「知らん」

 クィーグは言い捨てた。



 迎えに来た小舟で甲板に戻った私とクィーグを迎えたのは、功績を称える拍手の数々だった。

「おう新入り!お前やるじゃねえか、躊躇なく飛び込むなんてよ!」

「全くだぜ!舟の用意はしてたのによう!」

「クィーグ、お前は行くなら縄持ってけよ!助かったけどよ!」

「一か月分の稼ぎが消えるとこだった…。危なかったぜ、ほんと」

 口々に賞賛を述べ、或いは胸を撫で下ろす船員たち。不慮の事故を回避した船上は活気に溢れ返っていた。

「お前、やるな」

 クィーグも私を見下ろしてにやりと笑った。浅黒い肌に白い歯が映える。

「お前ら!騒ぐのもいいが、もう一つ知らせがある!」

 舵輪を握って立つドルフが、逆の手で遠眼鏡を振り上げて叫ぶ。

 甲板上の男たちは船長を見上げ、その口を引き結んだ。

「ついに…」

 甲板上は未だ静寂に包まれている。これまでにない緊張感が広がっていく。

「ついに陸が見えたぞ!野郎ども、帰宅の準備だあああああ!」

 喝采と歓声が、水平線の彼方へ轟いた。



 日暮れの頃。

 船が帰り着いたのは小さな漁村のようだった。海の方に迫り出すように、木造の桟橋や家屋が広がる。海から見れば海上に浮いているようにも見えたそれは、名をハルバーと言う港町だ。少なくとも船長のドルフや、イシュメルはそう言い張った。だからこれ以上尋ねるのはやめておこう。どう見ても小さな漁村だったとしても、ここは港町と言うだけの立派な場所だ。違いない。

 ハルバーは、例えるなら、海上の蜘蛛の巣といった有り様だった。木ばかりで構成された家と家とを桟橋で繋ぐことで構成された人の巣は、その何ヵ所かで篝火を焚いている。独特の芳香を放つそれが鯨油に由来するのであろうことは、想像に難くない。火事が心配だが、篝火の台となっているのは金属製の皿なので、町に燃え移ることは無さそうだ。かと言って安心はできないが。

 船を着けた桟橋に降り立つと、薄い床板は僅かに軋む。しなやかで強靭な木材は私の体重を全体に分散させ、見た目以上の強度を発揮していた。目の前を駆けて行く先ほどまでの同僚は、何の気負いも無く床板を踏み鳴らす。悲鳴を上げる床板を見下ろしてから、冷えた肝を隠すように腕を抱いた。

「何だ、そんなに心配か」

 いつの間にか私の隣に立っていたドルフが笑い、私の背中をバシバシと叩く。

「いくら陸と繋がっているとはいえ、海上で生活するなんて…正気じゃない。たいていの人はそう言うと思う」

「がははは!そうだろうよ、違いねえ!」

 ドルフは何が面白いのか一人で大笑いだ。

 船から次々に降り立つ船員たちは船長を一瞥もせず、各々の待ち人の元へと思いを馳せ、駆け足になる。誰かの無事を祝う歓声、泣き声、乾杯の音頭まで聞こえてくる始末だ。

「それでも、俺たちの故郷はここだからな。誰が何と言おうと立ち退きさえするもんかよ」

 逆向けた酒瓶の中を覗き込みながら、ドルフは語る。

「俺たちの先祖は、流罪に遭った連中らしい。そうでもなきゃ、こんな辺鄙な場所に村…じゃなくて町なんて作らねえ。ま、そんなことを気にする奴はここには居ねえが、故郷を…ハルバーを愛し、誇る気持ちは皆が持ってる。俺はそう思ってるぜ」

 日に焼けた肌、潮風に荒れた髪が昼の日を受けて輝く。

「さあ、お前にはうちに来てもらう。どうせ行く当ても無いんだろ。な」

「ええ、お言葉に甘えさせていただきましょう」

「おうおう、そうだよな。助かるぜ」

「…助かる、というのは」

「じき分かるぜ」

 その言葉の意味を理解させてもらえないまま、ドルフはさっさと先に行ってしまう。私は慌ててそれを追う。

 桟橋は人が二人並んだ程度では塞ぎ切れようもない広さを持っていた。私とドルフの隣を、巨大な木箱を抱えて歩いてゆく男たちと何度もすれ違った。

「あの木箱には何が」

「あれか。あれは船の補修に使う材料だとか、消耗品が入ってる。次の航海の準備をしないといけねえからな。捕鯨に限らず漁なんてのをやってると、いつ帰れるかなんてわからねえからな。準備は可能な限り念入りに、早いうちから時間をかけて、ってのが鉄則さ。一度、真水の樽に穴が開いちまってな、それも航海中にだぜ。あのときはまったく肝が冷えたぜ。その日の飲み水に苦労するなんてのは、海の上じゃ死んだも同然だからな。…あんたも、海を漂うのはほどほどにな!がはははははは!」

 もじゃ髭を私の頬に寄せながら、ドルフは豪快に笑う。何というかもう、酔っているのだろう。鯨油の篝火に匂いを誤魔化されてはいるが、隠しきれない酒気が確かに漂ってくる。

「ドルフ船長、飲み過ぎだ」

「がはははは!だからお前を連れて行くのさ」

 だから私を連れて行く、だって。

 彼が何を言っているのか、私には、やはり測りかねた。

「酔ってんのはお前に飲まされたからだ、ってことにしときゃ、うちのかみさんも…――」

「ほう。ドルフ、あんたそんなこと考えて客を連れて来るのかい。呆れた亭主だよ、まったく!」

 私の隣からドルフが消えた。

 次の瞬間、後ろから私を覆い隠すほど大きな影が差す。

「帰って来る時くらい酒はやめろってんだよ、この馬鹿亭主があああああ!」

「ひいいいいいっ!ホーエル、すまん、悪かった!もうしないから許し…」

「それが何度目だ、って言うんだよ!」

「ひいいいいいっ!」

 縦にも横にもドルフより一回り大きな女性が、ドルフの襟首をつかんで捲くし立てる。

 ドルフの船長らしい威厳はどこへやら。まるで母に叱られる子のそれだ。もっともホーエルという名らしい女性は、まず間違いなく彼の奥さんだが。

「あんたもだよ!客だか何だか知らないけどね、こんな阿保に構わなくたっていいんだよ!」

 私の方を睨み付け、怒鳴りつけるホーエル。逞しい体に豊満な胸が揺れる。後ろで結った黄金の髪は海風をものともせず、彼女の性格を表すかの如く、だ。

「え。…私ですか」

「あんた以外に誰が居るんだ!その目は胡桃でできてんのかい!まったく…」

「おい、俺はお前の旦那だぞ。阿呆だなんて…」

「あんたは黙って反省してな!」

「すいませんでした」

 これは酷い。

 かかあ天下、と呼ばれるものは、斯くも理不尽なものであろうなどということが、今までに想像できただろうか。少なくともマトの村では、ここまで明確な上下関係の反転をお目に掛けることは難しかろう。ここまでの肝っ玉奥さんならば、ドルフの気苦労も推して知るべし、である。

「まったく…こっちの気も知らないで酒なんか飲みやがって…」

「なんだ、お前。やっぱり心配してくれ…」

「やかましい!そのお喋りな舌を噛み千切ってやろうか!」

「ひいいいいいっ!」

 喧嘩…と言うには一方的過ぎる感じがあるが、まあ、言い争うほど仲が良いということもあるだろう。少なくとも、彼ら夫婦に関しては。

「ほら行くよ!お客はもてなすのがうちの掟さ」

 ホーエルは片手にドルフを引きながら、桟橋の上をずんずん進んでいく。桟橋の悲鳴がやや大きいのは、彼女の体格のせいだけではないように思うのは私の気のせいだろうか。何か、こう、町が怯えているような…――。

「ほら、何をぼさっと立ってんだい!置いてっちまうよ!」

「い、今行きます!」

 町を行き交う人々も、これにばかりは様々な笑みを浮かべていた。



 ドルフとホーエルの自宅は他の家々と同じ木組みの家屋だった。室内の調度は控えめで、整頓されてはいるが至る所に漁具が立て掛けられていた。素人目にもよく手入れされていることが分かる、良い品ばかりだ。

「すぐに飯を出すからね。ドルフ、あんたは手伝いな」

「あいあい、わかってら」

 酒瓶を取り上げられたドルフは渋々と言った体で竈に向かう。しかし、その顔が緩んでいたのを、私は見た。

「ほら、シチューと肉は終わってるから、さっさと持っていきな」

「おう。グラスはどうする」

「昨日、行商から買った新品が棚にあるよ。あれ使いな」

「あいあい。いつも家のことを任せっきりですまんな」

「慣れっこだよ、この程度」

 本当の夫婦というものはこういうものだったろうか、と遠い記憶を探し漁るが、幼い記憶は心許なく、その手に掴めるのは僅かな残滓ばかりだ。それでもどこか懐かしさを覚え、また羨ましさを感じるのは、私の身体が、この雰囲気を好いているということだ。

 幾つかの皿を抱えて戻って来たドルフが、私の方を見て愉快そうに口を歪める。

「…なんだ、俺が尻に敷かれてるのを見て同情でもしてくれてんのか!がはははは!」

「ははは、まあそんなところです。船の上とこっちじゃ、随分と印象が違いますから」

 私は隠しもせず答えた。彼自身がそれを気にしている風ではないのと、その後ろに立つホーエルの表情が穏やかだったから。

「うちの亭主も、船の上じゃそれなりにやってる、ってことだろう。そいつは何よりじゃないか。ほら、こいつで料理は揃った。食事にしようじゃないか」

 円形の食卓に勢いよく下ろされた巨大な皿の上では、切り出された大きな肉塊が湯気を上げていた。黒みがかった液体が肉の表面でてらてらと輝き、塩味と辛味の混ざったような不思議な香りが放たれる。ホーエルがナイフを入れると、肉塊はこれと言った抵抗も見せず、溶けるようにほろりとその身を分かつ。思わず唾液を飲み込むような、食欲を喚起させる匂いと光景は、暴力的と言ってよいほどの刺激を私の心に突き立てた。

「これは…鯨の肉、ですか」

「そう、俺が獲って来た肉だ」

「あんただけじゃないだろ」

「…俺と、船員たちだ」

「鯨の肉は硬いと聞いています。これは見るからに柔らかそうで、何より美味しそうだ。何か秘密が…」

「がははは!細けえことは」

「食べたら分かる。ほらほら、冷めないうちに食っちまいな!」

 私は切り分けられた目の前の肉塊にかぶりついた。



 生きることとは、食べることなのだ、とホーエルは言っていた。

 ドルフは豪気に笑って、それに同意した。

 食後に薬っぽい酒を小さなグラスに一杯、一息に呷る。喉がカッとなる感覚の後、程よい酩酊感がやって来る。まさに至福の時がそこにあった。

 食後酒を何倍も呷りながら、ドルフは相変わらず笑っている。

「がはははは!どうだ、俺の嫁の飯は絶品だろう!おかげで酒も進むってもんだぜ」

「そのお酒をやめろって、いつも言ってんだけどねえ」

 言いつつも、ホーエルはドルフの手を止めようとはしない。赤ら顔で微笑むばかりだ。

「俺の留守中は、何かあったか」

「ああ、久しぶりに国の連中が来たくらいさ、追っ払ったけどね。陸の方は相変わらず平和みたいだよ」

「がはは、そうかそうか!何にしたって平和が一番だからな」

 残された最後の一滴まで飲み干したドルフが、名残惜しそうに瓶を置いた。

「陸の方にはあまり行かないのですか」

 私は率直な疑問を投げかける。

「ああ、別に決まりは無いんだがな。以前から何度も、近くの国の王様が町に兵を寄越してきててな、国の一部になれ、と抜かしやがるもんだから、そいつを町全体で断わってるんだ。すると向こうは俺たちの獲った魚の取引を制限しやがってなあ。おかげで魚がちょいと売れなくなっちまった。それから陸の連中とは少し、折り合いが悪いんだよ」

「あたしらにだって生活がある。けれどね、強い連中に一方的に食い物にされるのは御免さ。こういうのは、先に根を上げた方の負けだよ。それに、この町の魚は味が良いって評判でね、行商は裏の道を使ってこっそり買い付けに来るのさ。国の制限なんて、痒い程度のものさね」

 そう言って二人は笑った。

 自身の支配領域の傍に、何処にも属さない中立、且つ海に面し船までも所有する集落がある、というのは落ち着かないものがあるのだろう。国防的な意味でも、王様個人的にも。

「ま、とにかくいつも通りだよ。…いや、一人、妙な奴が居たかね」

「妙な奴だと」

 ドルフの眉間に皺が生まれる。

「火の信徒だとかいう男が、あの馬鹿…じゃなくてフルーのとこに泊まってる」

「火教、か。この町のやつらは興味ねえやな」

「全くだよ」

 何が、全くだ、なのか。私は全く話が呑み込めない。

「火の信徒とは何ですか」

 私の問いに、夫婦は目を丸くして振り向いた。

「なんだ、あんた」

「まさか、火の神を知らないのかい」

「ええ、まあ。その…田舎者でして」

 神は実在しない。その常識を刷り込まれて生きてきた私には、神の存在は酷く疑わしいものだった。罪の神ギルストアを目の当たりにした今でさえ、他の神の実在には未だ懐疑的な私だ。だからこそ、この二人の反応は些か意外なものと言えた。

「火の神ソラル。人の道具としての最初の火をもたらしたとかいう神の名だよ。この町の人間が崇拝する水の神アーケリアス様と対を成す、破壊と創造の神。今は居ないのか、昔には居たのかどうか、そういったことはあたしらにもわかりゃしない。アーケリアス様だってそうさ。それでもわたしらは、水の神を崇める。わたしらの為に、ね」

「ちなみに火の神ソラルに対して、水の神アーケリアス様は、輪廻と恵みの象徴だぜ。俺たちに大漁を約束するのはアーケリアス様だ」

「その割に最近はしけた量だけどね」

「…それは言わねえでくれ」

 含み笑いで返すホーエル。

「では、例の火の信徒とは」

「その火の神ソラルを信仰する連中の総称さ。今、この町に居るのはフラムとかいう男だったかね、確か。火教の布教活動をしに来たそうだ。熱心なことだよ。…わたしからすれば、あの男は熱心と言うより狂信者に近いけどね」

「何にせよ、この町に長居することはなかろうよ。誰も耳は貸さねえだろう、アーケリアス様とソラルは仲が悪いらしいからな」

「ははあ、なるほど。火と水、ですからね…」

 そんな俗っぽい神様が居るのか、と考えてしまう。しかし神というのは、どんな物語の中でも、傍らに人無きが如しといった態度で現れる。そういった意味でも、私たち人間の想像は及ばないのだろう。実際に居たとすれば、だが。

「さあ、今日はもう遅いんだ!さっさと寝支度を済ませな!あんた…シンって言ったっけね。あんたも今日は泊まっていきな。どうせこの町にゃ宿も無いんだ。文句なら聞かないよ」

「は、はは…。では、是非」

 強引なホーエル。酒の入ったドルフ。十分には酔えなかった私。卓を囲み、笑い合う。


 床の下に波の寄せる音を聞きながら、私はゆっくりと眠りの中へと落ちていく。

 明日という日の続くことを、私は疑いもしない。そんな私は、やはりまだ人間なのだろう。

 安堵と共に、眠りの底へ。



 深い眠りから私を引き揚げたのは、誰の声でもない。異臭、そして異音だ。

 何かが焦げる匂い。連続する、何かが爆ぜるような、手を打つような音。

「シン!起きてるか!」

 私が寝台から起き出した直後、ドルフが青ざめた顔で部屋に飛び込んできた。

「火事だ!消火の手が足りねえ、すぐ手伝ってくれ!」

「分かった、すぐ行く!」

 脱いであった革の長靴を引っ掛けて、先行するドルフの後を追う。

 煙を上げる家屋は村の端にある民家のようだった。ここからは、やや遠い。

「火事なんざ、記憶にある限り十数年は無かった!なんだって、俺たちが返ってきた矢先に…!」

 ドルフは毒づきながら、足を動かし続ける。通りがかりに、民家の脇に放置されていた洗濯桶を拾い上げ、さらに速度を上げる。

「誰かの火の不始末、ということでは」

「火の不始末…いや、それはねえな。夜中でも、見回りが居るんだから、そいつらがすぐに気付くさ。そもそも町の建材には燃えにくいアケリア材を使ってんだ。半日火に掛けたって焦げるだけで燃えやしねえ」

「じゃあ…今、そもそも何が燃えてるんです」

「それを今から確かめるのさ」

 炎を噴き上げる家屋は沢山の人に囲まれていた。額に汗を流しながら、その全員が桶に汲んだ海水を炎に注いでいる。しかし、炎は弱ることなく、むしろ嬉々として舞い上がるように勢いを増していく。

 燃えているのは間違いなく家屋、その建材だった。炭と化し、そこで終わることなく灰へと還っていく。そんな民家を眺め、ぼんやりと立ち尽くす男が傍らにあった。

「フルー、お前、何しやがったんだ」

 ドルフが男の胸倉を掴み、問い質す。男は肩を跳ねさせ我に返ると、ドルフに焦点の合わない両目を向けた。

「あの信徒…!あいつは化け物だ…!」

「火の信徒か。そいつは今どこに居る」

「あ、あそこだよ…」

 フルーと呼ばれた男が指差して先には、火を眺め、恍惚とする黒ずくめの人影があった。

「あいつ…!」

 火の信徒が火を恐れることはないのだろう。ただ、崇め奉ることはあっても。だからその眼は火だけを映して喜色に満ち、消火の水を浴びてなお立ち続けているのだ。そして、人はその様を狂信と呼ぶ。

「おい、この火事はお前の仕業か!」

 ドルフは人影の肩を掴み、力任せにこちらに振り向かせた。

「…火事。ああ、そうか。君たちにはこれが火事に見えるのか。人の利己心が原因の、ただの人災に…」

 その声色は中性的で、快楽に打ち震えるような響きを持っていた。

「何言ってやがる、てめえ…」

 ドルフは困惑顔で後退る。異様な雰囲気を察知したのか、少数居た野次馬の視線が集まった。

「僕はフラム。火の信徒だ。火は人の手に収まる代物ではない。君たち人間が思い通りにしようなどと、そんな傲慢なことはない…。現に!君たちは火の用途を誤った。その結果がこれだろう…。火とは神の御業。水などより遥かに強く、危険なものだ。それを君たちは知るべきなんだ」

「何を訳の解らねえことを言ってやがる!やったのか、やってねえのか、はっきりしやがれ」

 ドルフが怒鳴る。

「ああ、僕がやったよ」

 細められた目で、火の信徒は薄く笑った。

「このっ…――」

 ドルフが拳を振り上げる。

 それよりも早く、火の信徒の手が、蛇の如くぬるりとドルフの首に伸びる。

 同時に、その口が何かを囁くように蠢いた。

 それを見た瞬間。私の身体は反射的に動いていた。

 火の信徒の伸ばした手首を掴み、捻り上げる。その勢いのまま、桟橋に叩きつけた。

「離れろ!」

 私は叫ぶ。

 直後。

 火柱が空を突いた。

「な…!」

 火の勢いから転がり逃れたドルフは言葉を失っていた。尻餅をついたまま、火に焼かれる蒼天を仰いでいる。

「魔法…『技』を使えるのか」

 私は組み伏せたフラムを見下ろしながら呟いた。掴んだ腕の先、掌は空にかざされている。火柱に炙られて泡立つような火傷を負った私の左腕は、人の焼ける不快な臭気を放っている。

「へえ。『技』の実在を信じる…違うな、知っているなんて。君は他の愚か者よりは話が解りそうだ」

 愉快そうに笑みを深める中性的な信徒の横っ面を、私は力いっぱい殴りつけた。

「お前は人を殺そうとした。それがどういうことなのか、判るか」

 目の前の狂人は悪と断ずることができよう。この存在は、もはや人に非ず。理性の欠片を有する、ただの獣だ。

「火を、火の神ソラルを信じない人間なんて、殺したところで何になるって言うんだい。君も分かっているだろう!火こそが絶対、火こそが万物の頂点だ!」

 その狂気を前にして、誰もが思ったことだろう。こいつは救えない、と。少なくとも、この場所に、こいつを擁護する者は無い。

「ドルフ、こいつを縛ろう。口も塞いで」

「あ、ああ、分かった!」

 背後で、遂に焼け落ちる民家。海水を蒸発させながら浅い海底に沈んでいく残骸は。まるで何かの暗喩のようでもあった。



 家を失ったフルーをひとまずドルフ宅へ匿い、私とフルー、ドルフとホエールの四人で卓を囲んでいた。

「結局、被害は家屋一軒で済んだわけだが…。何があったんだ、フルー」

 肩を落として項垂れるフルーにドルフが平坦な表情で問うた。

「あの火柱。あれと同じようなことが、我が家でも起きた…」

「それは分かってんだよ。そこまでの経緯を訊いてんだ」

 卓を叩き、ホーエルが横から口を挟む。縮み上がるフルーだが、観念したように言葉を紡ぎ始める。

「今朝、早起きだったもんだから早めに朝食の準備をしてたんだ。あの、泊めてやったフラムとかいう奴も起きてて、じっと竈の火を眺めてるもんだから、言ったんだ。『何がそんなに楽しいんだ』って」

 グラスの水を飲み干し、フルーは腕を抱いた。

「そしたら『火の素晴らしさを理解できないとは…やはり愚か者には分からせる必要があるか』とか言って、次の瞬間には奴の手から火が吹きあがって、家が燃えていた…」

 まるで子供の癇癪だ。私は素直にそう思った。

「あの『技』…だったか、そいつで燃えにくいアケリア材を焼いたのか。言葉通りに化け物だな、あいつは。なんて力だ…」

 溜息混じりのドルフは、その手の酒瓶を開けずに居る。

「ドルフ、結局あの信徒はどうしたんですか」

「ああ、村の中に置いとくのも何だからな、ひとまず俺の船の中だ。船員を見張りに付けてるから、まあ安心しな。下手な動きを見せれば海に落とすように言ってある。水の中なら、あの火柱も使えないんじゃねえか」

「そう思うしかなさそうだ…」

 私は『技』についてまともな知識を持たない。それは勿論のこととして、ドルフたちも知らないようだった。妖術だとか、神の怒りだとか、突飛とも言えそうな話ばかりが浮かんでは広がっていった。正しくこれを理解している人は果たしてどれだけ居るのか。

 焼けた左腕を包帯の上から擦りながら、私はささやかな不安に駆られる。

「シン。あんたは『技』のことを知っていたみたいだね。どこで知ったんだい」

 ホーエルが腕組みをして言った。

「私も見たことがある程度でしかないんです。そのときは暖炉の火種として、何の変哲もない少女が使っていました。あんな火柱は見たことがない」

「へえ、そうかい」

 怪訝な眼差しを私に向けていたホーエルは、瞼を下ろしてその視線を切った。

「ともかく、あの狂信者からは目を離さないこった!俺たち船員で見張りはやるが、お前らも警戒は怠るなよ」

「ああ、勿論だ」

「分かりました」

「言われなくたってわかってるよ」

 異口同音の同意の言葉。それだけ聞いて、ドルフは立ち上がる。

「ああそうだった。シン、今から付き合え」

「え」

 ドルフは問答無用に私の首根っこを掴んだ。



 船。私が乗せられてきた漁船だ。その傍では乾いた血を纏った鯨骨が縄で一括りに縛られて、桟橋に横たわる。

「船の整備、ですか」

「おうよ。昨日の一宿一飯の恩があるだろ。何より、働かねえなら食わせる価値もねえ、ってもんだ」

「ははは、勿論、恩は返しますよ。後からでは遅いこともありますから…」

 記憶が脳裏に蘇る。

 幼い少女への恩。返せなかったもの。失ったもの。最後には血に塗れた記憶は、誰かの罪。

「アンナ…」

「ああん、何か言ったか」

「…いえ、独り言です」

 記憶を振り払うように頭を振り、私は俯いた顔を上げる。

「何からやりましょうか」

「んん、昨日の大波で索がやられてるみたいだからな…よし、新しい索を張るぞ。今日の一日、休む暇も無いと思えよ!がはははは!」

 地獄の労働が、始まった。



「おい、そこ掛け違えてるぞ!くそっ、一からやり直しだ!」

「すまねえオヤジ!」

「いいから手え動かしやがれ!」


「何…索が切れただと…!不良品じゃねえか、何やってんだ!」

「潮風で弱ってたんだ!新しいの取ってきますぜ、船長!」


「イシュメルが落ちたぞー」

「何やってんだてめえ!」

「しかも溺れてるぞ、あいつ…」

「イシュメル…君、泳げないのかい」

「ごほっ…悪いシン、足がつった」


「誰だ!俺の飯を盗ったのは!」

「クィーグが肉食ってるぞ」

「これ、船長のか。すまん」

「畜生め!返しやがれ!」

「俺、謝った」

「やかまし…ぐわあああああ!」

「船長が落ちたぞー」

「クィーグ…がぼっ、お、覚えごぼぼぼぼ!」

「何やってるんだ、ドルフ…」


「クィーグ、てめえはもっとキリキリ働けえ!」

「分かった」

「クィーグ、置いてあるもん勝手に食うのはやめとけよ」

「分かった、イシュメル」

「言われなくてもやるもんじゃないぜ、おまえよう…」


「また掛け違えてんじゃねえか!今日だけで何回目だ、いや、何年目だてめえらああ!」

「指示してるの船長なんですが…」

「…船の上じゃオヤジが法律だ。黙ってた方が得だぜ」

「何か言ったかイシュメル、シン!」

「「なんでもないです船長殿!」」


 日は暮れる。水平線の向こうへゆっくりと沈む太陽は、その残滓を赤い空に残して。



「はあ…お疲れさんだな、シン」

「ああ、お疲れ様、イシュメル」

 私は船を後にし、イシュメルと共に夜の町の桟橋を歩いている。ドルフはまだ最後の点検があるらしく、私よりも後に自宅へ着くことになるのだという。

「さっきまで居た船だが、あの最下層の船室に放火魔が居たと思うとぞっとするよな」

「ああ、私もさっきまで忘れていた…。大人しくしているみたいだが、何をしでかすか分からないのに…」

 そんな場所へ私を含め、他の船員たちを動員して船の修繕をおこなったのだから、ドルフにも何かしら考えがあるのだろうが。

「シンは今日もオヤジのとこに泊まるのか」

「ああ、ドルフが泊まって行けとうるさいんだ」

「あっはっは!オヤジらしいやな」

 イシュメルは愉快そうに笑った。

「あんなでも良い人だからな、オヤジは。あんな厳しい口調も、結局は俺たちを守るためなのさ」

「どうして言い切れるんだ」

 私は少し意地の悪い質問を返してみた。

「証拠か。あまり蒸し返したくない話だけどな、俺たちや、船長にとっても…」

 辺りを見回して、イシュメルは桟橋の柵に腰掛ける。

「長くなる、座れよ」

 促されるまま、私はイシュメルの隣に腰掛けた。

「今から五年くらい前の話だ。アーケリアス・ホーエル号は大時化の海をハルバーに向かって航行していた。その頃はまだオヤジも酒なんかほとんど飲まなかったし、あんな怒鳴り声を上げるようなこともしなかった。でもな、大時化の海の上で、船酔いやら怪我なんかで、船の中は海よりも混乱した状況だった。真水の樽は壊れて中身が無くなっちまったし、保存食の肉やビスケットは湿気って黴が浮いちまった。船を動かそうにも半分近い船員たちが行動不能、荒れ狂う海は船を滅茶苦茶にぶち壊そうとするし、帆は柱ごと海の中に消えちまった。浸水した船室を板切れで塞いだせいで怪我人が甲板に溢れる始末だ。そんな中、オヤジはどんな決断を下したと思う…。いや、答えなくていいさ。オヤジは本当に悩んだ結果にあの選択をした。あんたに、オヤジが薄情な奴だと思って欲しくないから、それだけはあらかじめ言っとくぜ。オヤジはな…動けなくなった連中を、状態が悪いやつから海に捨てたんだ。僅かな水と食料、最低限の人手を効率的に分配するためにもな。もちろん、勝手に一方的に連中を斬り捨てたわけじゃない。話して、説明して、懇願して、同意の上で、あいつらを…捨てた。俺だって、あのときばかりはオヤジを恨んだ。だが後には気が付いた、おかげで俺たちは、今の船長は生きてるんだ、って。今じゃ感謝すらしてる。オヤジは俺たちができなかったことを、代わりにやってくれたんだからな。海に還っていった奴らにも、言わずもがなだ。結局、帰り着いた人員は出発時の半分以下だった。オヤジが何もしなければ、もっと少なかったろうし、もしかすれば誰も帰れなかったろうな。みんな仲良く海の藻屑だったろうさ」

 鯨油の篝火に照らされて、どこか遠くを見つめるイシュメルの横顔が浮き上がる。

「ハルバーに着くってときになって、オヤジはまず、船員に頭を下げた。全身を甲板に投げ出して、な。みんな困惑した。怒り狂っていた奴さえも。そしてこう言った。『恨むなら俺を恨め。全て俺のせいだ。町の皆にも、そう伝えてくれ』ってさ。ああ、その後にこうも言ってたっけ。『だが、お前たちだけでも連れて帰ることができた。最後までついてきてくれてありがとう』」

 無言のまま、私は耳を傾けていた。相槌を挟む暇など与えられも、見出せもしない。鉛のように重い言葉たちが私の心に根を張り、感情の海に引きずり込む。

「俺たちはその一件もあって、オヤジを庇うことに決めた。満場一致だったよ。あの言葉と表情とが嘘だと言うならアーケリアス様だって恨むぜ。まあ、神様なんてそんなに信じちゃいないが…話が逸れたか。とにかく、そういうことがあって俺たちはオヤジを信じてる。オヤジはそれから誰に対しても厳しくなったが、その代わりあらゆる手間を惜しまず俺たちのために行動してくれてる。使えなくなりそうな道具はすぐに新品になるし、俺たちが怪我でもすれば飛んできて手当てをする。航海中は安全第一を徹底する。安全第一ってのは当たり前だが、いっそ過剰なほど守ってるんだぜ。何かにつけて怒鳴るのもそういう気持ちの表れ…責任感かもな」

 イシュメルは柵から腰を上げると大きく伸びをした。

「村の皆には言うなよ。何の為に庇ってるのか、考えてみてくれ」

 肩を掴み、念を押すイシュメルに気圧されてしまう。

「それは構わない。でも、君はどうしてそれを話す気になったんだい」

 少し迷うような素振りを見せた後、イシュメルは仄かに笑って言った。

「短い間だったが、同じ船で過ごした仲間だから、だろうな」

 軽く肩をポンと叩き、イシュメルは歩き出した。

「そら、帰ろうぜ。オヤジも、もう家に着いてるかもしれないぜ」

「ああ、帰ろう」

 私がそうして柵から腰を上げた時だった。

 爆炎。次ぐ爆風と爆音。

「おい、まさか…!」

「イシュメル、何処へ!」

「オヤジのところだ!」

 イシュメルの駆け出した先には夜空を焼く炎。それは間違いようもなく、アーケリアス・ホーエル号から上がる火柱だった。



「オヤジ、大丈夫か!」

 燃え上がるアーケリアス・ホーエル号の甲板に、ドルフは倒れていた。

 激しい火の手は私とイシュメルの行く手を阻み、崩れ落ちる船体は濃い黒煙を撒き散らす。

「イシュメル、それ以上は危険だ!」

 私は、船に強行しようとするイシュメルを後ろから羽交い絞めにし、桟橋に引き戻す。船は少し沖の方へ出ており、町の方に燃え移る心配はなさそうだった。

「オヤジを見捨てるってのかよ!冗談はやめてくれ、俺は今行かなきゃいけねえ。また誰かを見捨てるのは御免なんだよ!」

「どうせもう死んでるよ。僕の信じる火の神ソラルの火によってね」

 目を見開く。桟橋の端に佇む人影は、火柱に照らされて微笑む。

「見張りの何人かも、きっと生きてはいないだろうね。もっとも、僕の知ったことではない。火を信じぬ者には、火による罰を。敬い讃えよ、火こそがすべての根源だ」

 狂信者は掌をこちらに向け、ゆっくり、ゆっくりとこちらに歩み寄る。朝日の差す如く、ゆっくりと。

「くそったれ、この燐寸野郎が…!」

 イシュメルが立ち上がりながら毒づいた。

「最初の火を与えし者、その名はソラル」

 イシュメルのすぐ隣で桟橋の柵が爆ぜる。

 ぐう、と呻いてイシュメルは大きく跳び退った。

「間違いない、『技』だ。イシュメル、君は逃げるんだ。町の皆を避難させろ。船長のことは私に任せてくれ」

 言って、私は袖口から細身のダガーを抜き放つ。白い煌きが夜気を引き裂く。

「…くそっ!頼む、シン!」

 イシュメルは背中を向けて駆け出した。

「…最初の…――」

「黙れ」

 全速の一閃。ダガーの剣閃は、狂信者の首のあったところを通り抜けた。

「邪魔をしないでくれ…」

「あんたが罪の無い人々を殺すのなら、きっとあんたには罪があるのだろう」

 ダガーを構え直し、信徒を見据える。

「罪には罰を。悔い改めろ、外道の獣」

 桟橋を割れんばかりに蹴り、肉薄。狂信者フラムの喉元に迫る。

「何だい、その素人みたいな動きは。ほら、どきなって」

 反応出来ぬほどの速さで、何かが私の腹を捉えた。

 腹の空気が口から洩れ、呻きにもならない音が吐き出される。転がるように弾き飛ばされ、四つん這いの格好で無様な姿を晒す。フラムを睨み付け顔を上げると、前蹴りの姿勢で止まったままの姿が見えた。

「ぐ…あ、っはあ、はあ」

 空気を吸おうと、深く荒い呼吸を重ねる私。

 炸裂。赤い光が視界を埋める。

 焼けた空気が喉を焼き、強い光は私の眼を眩ませる。

「あはははは、はあ……。あのときは油断したけど、うん、君はそんなに強くないな。これなら僕に利がありそうだ」

 余裕を見せつけ、ゆっくりと歩み寄るフラム。その手には私の取り落としたダガーが握られていた。

「選択は正しいよ。接近戦で、物語を紡がせる暇を与えずに始末する。うんうん、模範的だ。でもね、僕は接近戦に少しばかり自信がある。これでも学院では優秀な方でね、体術の心得もあるのさ。君はどうだか知らないが、うん、君じゃ勝てないだろうさ…あははははは!」

 私の頭を目がけて振り下ろされるダガー。

 辛うじて転がり逃れ、ふらつく足に活を入れ立ち上がる。

「…君、人間じゃないな」

 フラムがぽつりと言った。

「…さあな。私にも、君が人間には見えないが」

 ダガーを桟橋の床に突き立てたまま、フラムはゆらりと体を起こす。

「まあいいよ。燃やすから」

 私は徒手のまま構え直す。やつは私の対策を「模範的だ」と言った。ならば、対策そのものは間違っていない。

 ならば、愚直に。突き進め。

 床を蹴る。軋る音を残して、フラムに再接近する。

「…またかい」

 今度ははっきりと目で捉える。小さい動きから繰り出される鋭い蹴り。私はそれを真正面から受け止めた。体の芯に重い衝撃が走り、意識が掻き消えそうになる。それを根性でねじ伏せ、蹴り足を抱え込む。

「…――最初の火を与えし者その名はソラルソラルが火は天高くより注ぎ人に破壊と創造とをもたらせり」

 瞬きの間も無い、ほんの一瞬。全身を膨大な熱が襲い、体中が煙を上げる。

 叩きつける爆風に悲鳴もなく、私は海へと叩き込まれる。

「物語を紡ぐこともまた、僕は優秀だったのさ」

 狂信者の勝ち誇った笑みが、霞む視界に浮かぶ。

 口から、鼻から、海水が流れ込み、私を水底に誘い込む。

 

 意識が遠退いていく。

 

 ああ、またか。


 また何も守れないのか。


 己が非力を呪いながら、私は闇に溶けていく。


「馬鹿が、こんなところで死ぬな、シン!」

 太い腕が私を抱えていた。

「…ドルフ」

「よし、起きてるな。今からあの糞野郎を追うぞ。いけるか…」

 白い歯を剥き出して、ドルフは捲くし立てる。

「死んだはずじゃ…」

「何言ってんだ、勝手に殺すんじゃねえぜ。炎天の海を渡り歩いた俺があれくらいの火でくたばるかよ、がはははは…っと、いかんな。急ぐぞ」

 ドルフはまず私を桟橋に押し上げると、次いで自分は独力で海から這い上がった。

「待ってくれ…君はここに…――」

「馬鹿言うなよ。あいつが向かった方にゃホーエルだって居る。残していけるか。それにな、お前一人で勝てねえなら、俺たちが居るだろ。短い航海だったが俺たちは立派に家族だ。頼っていいんだぜ」

 ドルフは桟橋に突き立てられたダガーを抜き取ると、私の手に握らせる。

「ぼさっとすんな、行くぞ!」

 私は顔の水を拭い落し、駆け出すドルフに続いた。



 海の上。燃え上がる桟橋は夜空を照らす。全てを炭へ塵へと変えてゆく無慈悲な破壊は天災のそれだった。崩れかけた桟橋を跳び越え、ときには迂回し、断続的に上がる火柱の方へと駆けてゆく。

「ここまでされちゃなあ…、あいつは生かしておかんぜ」

「私がやる、今度こそ。フラムの罪を狩ることが、きっと今回の私の使命なんだ」

 私が零した言葉を、ドルフは聞き逃さなかった。

「使命だと…どういうことだ」

 ドルフの足が止まる。

 訝しむ視線。敵意と困惑と、信じたい気持ちの混じり合ったものだと、思いたい。悲しいことに、はっきりと感ぜられるのは敵意と困惑だけだ。

「…私は罪人を殺すためにここに居る。その罪人は、きっとフラムに違いない。だから私は、あいつを殺す。殺さなくてはならないのです」

 私は真実だけを選んで伝えた。その真実が、実際の全てではないことを理解しながら。

「そうかよ。ま、率先してあいつを始末してくれるってんなら、ありがてえこったな」

 ドルフはそう言って少し迷った後、こう付け加える。

「…その殺しは人助けだと思うぜ。お前の利己心なんかじゃねえ、利他心…とでも言えばいいか。…気に病むなよ」

 ドルフはまた駆け出した。

「ありがとう、ドルフ」

 並走しつつ、私は謝意を述べる。イシュメルの話を思い出しながら。


 辿り着いたのは、いつかの家の残骸。フルーの住んでいた家の墓場。何故か水に濡れて立っているのはフラム。その目の前で、逃げ遅れた子供たちを背中に庇って立っている女性。恰幅の良いその人影は、怒りに満ちた声音で叫ぶ。

「あんたたちかい!丁度良いじゃないか…この蝋燭小僧をとっちめるよ、手伝いな!」

「蝋燭だと…。馬鹿にしやがって…!」

 短く息を吸いこむ音。それが『技』の前兆であることは知っている。きっと、私だけが。

「最初の火を与えし者その名は…――」

 囁くような声が、火の爆ぜる音に混ざり合う。

 しかし同時に、それを掻き消すほどの大音声が、熱気を震わせ朗々と響き渡る。

「最初の命を授けし者その名はアーケリアス!」

「ソラル!」

 開かれたフラムの掌から伸びる火柱。

 火を包み込むように桟橋の外から湧き上がる荒波。


 火と水とがぶつかり合う。


 しかし、優位は荒波に有った。


 海から止めどなく噴き上げる海水が激しい火柱を掻き消し、その勢いのままフラムを突き飛ばしたのだ。

「あんたたち、今だよ!」

 目の前の光景に呆然としていた私とドルフは、その声に我に返り、すぐにフラムを取り押さえにかかる。

「くそっ、来るな!」

 フラムはどうにかもがいて体を起こし、距離を取ってしまう。

「なんなんだ…なんなんだよその女!どうして物語を…『技』を使えるんだ!」

「知ったこっちゃないよ、こちとら生まれつきなもんでねえ!」

 答えにもなっていない怒号。呆気に取られて怯むフラムに、私は性懲りもなく急接近してみせる。

「また君か…邪魔だ!」

 再び繰り出された前蹴り。

 その足が私を捉えることはなかった。

 その代わりに、次の瞬間にはドルフがフラムを組み伏せる姿があった。

「体術だか知らんが、こちとら荒くれの相手なんてのは日常茶飯事でなあ!」

 関節が極まっているのか、フラムは悲鳴を上げるしかない。

「最初の火を…――」

「黙ってろ!」

 ドルフがフラムの顔面を桟橋に叩きつけた。鼻の折れる音と共に血飛沫が散る。

「くそ…くそっ…!」

 鼻から夥しい量の血を流しながら、フラムはなお、もがき続ける。

「火こそが至高…火こそが全て…闇をも暴く火こそが最高の存在だろ!どうして!どうしてこんな異教徒どもに負けなければならない!ふざけるな!」

 ドルフは呆気に取られ、遠巻きに見ているホーエルもしかめ面を崩さない。ホーエルの後ろでは、逃げ遅れた子供たちが声を潜めて怯えている。

「お前が何を信じてるのか、なんてのはどうでもいいが…俺たちの仲間に危害を加えたのが運の尽きだと思え」

「…は、はははははは!」

 笑い声に紛れ、フラムの袖口から転がり出た球体。それは桟橋に落ちてニ、三度跳ねた。

 その次の瞬間。

 白光。

 真昼のような純粋な光だけが辺りを包み込んだ。それはフラムに視線を注いでいた全ての者の目を等しく眩ませ、視力を奪い取ってしまった。

 私とてそれは例外ではなく、白光に塗りつぶされた暗闇の中で音だけを頼りに周囲の様子を探るしかない。しかしそれすらもままならない。叫び声を上げる子供たちの狂乱が、僅かな音など飲み込んでしまう。

「――しょの…――」

 視力の回復と共に耳に届いた言葉の欠片。

 それを聞いて駆け出した私の手には、しっかりとダガーが握られている。

 突き出したダガーの切っ先が触れるか否かの瞬間。

 火柱が男を焼いた。

 それに遅れてダガーは柔らかな衣服を貫き、心の臓に孔を穿つ。

 水飛沫を立てて、二つの影が海中に没した。


「終わりましたか」

 罪の女神は囁いた。

「さあ、戻りましょう。罪の祭壇へ」



「ドルフ…!がきんちょ共、他の大人たちを呼んできな!」


「馬鹿亭主…今行くから勝手にくたばるんじゃないよ…」



 灰色の世界。

 私の目の前には石の杯。黒い霧は底にわだかまり、ゆらゆらと漂う。

「…あなたには人の心が解らない」

 たっぷりの沈黙の後、私は傍らの女神に向かって呟いた。

 何か思うところがあるでもない様子で、女神は飽くまでも淡々と、私の言葉に答える。

「罪の女神ギルストアは、理。人の心を解することに必要性を見出すことはできません。できることはただ『罪』を感じ、集めることだけ。それが全てです」

 石の杯に歩み寄ると、ギルストアはそれを指して言う。

「さあ『罪』を、杯へ」

 私は、罪狩人。それは、きっと逃れることのできない使命。この体はもはや人でさえなく、そこからの解放を望むならば、彼の女神の力を取り戻さなくてはならない。

 右の掌をかざす。体中から手の先へ、手の先から杯へ、何かが流れ出る感覚は私の身体に得体の知れない快をもたらす。唇を噛み、それを悔恨と憎悪とで上書きをする。

 不気味な快感が去り、私はその場に立ち尽くす。

「あとどれだけの『罪』を狩ればいい…。どれだけの命を救えずに居ればいい…。せめて、目の前の人間だけでも、私は救えないのか…」

「理は理です。人間の言葉では、運命とも呼ばれます。そうなる筈の者を、貴方は救えない。理でもある貴方がその理を歪めることなど…決して」

 私は猛った。

「嘘だ!」

 振り払うように薙いだダガーは、辺りに虚しく灰をばら撒いた。

 私を嘲笑うように背後に屹立した灰が、やがて女神の姿を作り出す。

「私はあの狂信者、フラムを殺した…!私は理でありながら、この手で生命を奪ったんだぞ!これが運命を歪めたことにならないって言うのか…!」

 背後で微かに聞こえる衣擦れの音。

「それはまた、あなたが理であったからです。貴方が為したことは貴方が去った後に、十分に起こり得たことへと正しく書き換えられてしまうでしょう。例えば、貴方が殺した何者かは、傍に居た何者かの義憤によって打ち倒されてしまったことに」

 私が送られた場所から何かを持ち帰ることができないのと同様に、私は世界に足跡を残すことさえできないというのか。

「…私は何の為に苦しまなければならない。何の為に、人を殺めねばならない」

「全ては罪の女神ギルストアの為に。引いては、貴方自身の解放の為に。全ては貴方が選んだことです。如何なる煩悶があったとしても、そこだけは揺るぎません」

 逃げることなどできはしないのだと、この女神は言外に告げている。

 全ては私の選んだことには違いない、選んだ以上、それを放棄することは叶わない。使命に背けば、待っているのはきっと想像を絶する今以上の苦痛だ。

「さあ、次なる使命へ赴きましょう、罪狩りの人よ」

 私たち以外に音の無い空間、冷徹な言葉は淡々と。

「さあ、罪狩の人、我が眷属よ。彼の地にて、最も大きなる罪を狩りて参れ」

 視界は暗転する。

 次に目を開いたとき、目の前に広がるのはまた見知らぬ場所なのだろう。

 それでも私は行かねばならない。愚かだった過去の私を抱えて。



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