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罪狩人  作者: K.NOT
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子供の国

 目を開けば、そこは灰色の世界だった。

 景色が、匂いが、感じられるものの全てが、私の生きていた場所とは違う。そう思わせるには余りある、異質な世界だった。

 空は灰色で、それが雲の色なのか空の色なのかも、判別できない。円形の大地は由来の分からぬ灰に覆われ、その中心に向かって、すり鉢状に抉れている。そのすり鉢の底には、大地を覆うそれと同じ灰に半ばまで埋もれた、石の杯が置かれていた。ところどころが欠けているように見える杯だが、それは始めからそうであったかのように年月を感じさせない。否、経た年月を推し量ることが出来ない。

 私はただ、すり鉢の淵からこの風景を眺め下ろす。

「ここが、罪の祭壇です。罪狩の人、我が眷属よ、今、持ち帰った『罪』を杯へ」

 隣に立っていた薄暗い装束の女、罪の女神ギルストアは厳かに、それでいて淡々と、私に指示をする。ヴェールの向こうは、世界と同じ灰色だ。

「リドは、死んだのか」

 私は思わず問うていた。

「はい。眷属たる貴方が持ち帰った『罪』、それは何よりの証左となりましょう」

 女神は短く答える。何の感慨も、躊躇もなく。それは確かに、人のものではなかった。

「彼は、救われたのだろうか」

「『罪』を失ったのです。もはや、救われたか否か、ということは問題にはなりません」

 女神はそれっきり口を噤み、何も言わなかった。

 沈黙が満ちる。

 

 私は、罪を集めに行った。それはつまり、罪人を誅すること。平たく言うならば、殺すこと。最初にガルバム村長が、次にリドが死んで、罪狩りは一応の終わりを迎えたらしい。リドの抱えた『罪』はガルバム村長よりも重かった、とでもというのか。

 リドは救われた。そう思わなければ。悩んでいても、『奇跡』でも起こらない限り、彼は蘇ったりしないのだ。

「さあ『罪』を、杯へ」

 私は促されるまま、石の杯の元へと降りていく。

 灰の上に足跡を刻みながら、すり鉢の底の中心へ。足跡は、後から流れ込む灰に埋め尽くされ、刻んだ傍から消えていく。

 いざ目の前にした石の杯は、私の腰ほどの高さをしていた。幅は両手を広げたよりも少し小さいくらい。そして何より、背筋に寒気を覚えるような存在感を発していた。いっそ、今、隣に立つギルストアよりも、神聖な雰囲気を発しているとさえ言える。とにかく、得体の知れない物体だった。

「杯に、手を」

 言われるがまま右の掌を杯にかざすと、腕全体を覆うように黒い靄が現れ、杯の底に吸い込まれていった。すると、杯の底にうっすらと霧のようなものが満ち、同時に体が軽くなるような感覚と、どこか言いようのない快感が体を舐めていった。

「最初の使命、ご苦労でした」

 体をさすって不気味な感覚を追い出していると、ギルストアが、ゆったりと私の方に向き直った。

「さて、晴れて真の眷属となった貴方に、伝えておくことがあります」

 ギルストアは改まった口調で切り出した。

「貴方は、もうただの人では在り得ない。神の眷属となるということは、世の理に組み込まれるということです。望むと望まざるとに関わらず、貴方は、罪の女神ギルストアの代行者として、罪狩りを続ける宿命にある」

「死にかけの…いや、死んだ私の未練につけこんで、そんなことを隠していたのか、あなたは」

 もはや、ため息も出ないというものだ。そんなものに軽々しく手を伸ばした私と、酷薄な神の御心を呪うほかない。

「我が神格が、かつてのように蘇った暁には、後任を探しても構いませんが」

「それは…」

 それは、待ち受けるであろう苦しみを、誰かに肩代わりさせてやる、ということ。私にそれが出来ないと判って言っているのなら、この女神は随分と強かだ。

「話を続けましょう。貴方は現在、我が『業』による仮初の肉体を持ってここに在る。その身は死なず、朽ちようとも目を覚ませば、またそこに在るでしょう」

 死んでも死なない。それが意味することを、私は測りきれない。あまりに私自身の常識と離れすぎていて、どうにも実感が湧かない。

「そして、仮初の身であるために、出向いた先で手にした物を持ち帰ることもできない」

 私がリドから引き抜き、手にしっかりと握っていたはずの山刀も、森の中に遺されている。

「その代わり、我が力の回復に伴って、こちらで新たな装備を用意します。そして、その為には…」

「『罪』を狩れ、と」

「はい」

 ギルストアは水車のように正確な動きで、しっかりと頷いた。

 『罪』を狩れば、それに応じて、より簡単に狩りを遂行できる装備を整えてくれる。その為には『罪』を狩らねばならない。もはや、この世に未練など無い私でも、解放されるために、結局は『罪』を狩らねばならない。

「嫌だと言ったら」

「苦しむことになります」

 苦しむ。その言葉が何を意味するかは測りかねる。だが、腹を決めるしかないようだ。

 どうせ相手は悪人だ。自刃したリドは私の親友ではあったが、しかし彼とて私を殺した罪人であった。それならば、私の行為にも罪は無かろう。

 罪人を誅することが悪ならば、この世は悪に満ちているに違いない。

 それに、パーシーのような終末を迎える人間を少しでも減らせるのなら、それは私とて本望だ。救えるのなら、今度こそ、その命を救いたい。

「分かった。あなたの眷属として、働こう」

 そうだ、一人での狩りには慣れている。

「それでは、眷属の証を授けます」

 軽く持ち上げた右手を振ると、私の右の中指に銀の指環が現れる。

「その指環は、いずれ役に立つこともありましょう。さあ、罪狩の人、我が眷属よ。彼の地にて、最も大きなる罪を狩りて参れ」

 言葉の残響は意識の彼方へ。

 目の前の景色は白光に包まれ、身体の感覚の一切が失せた。



 目を開くと、当然のように目の前の景色は一変していた。

 周囲に広がるのは、故郷のギルスの森よりも大きな木々が密集する、どこか別の森のようだった。季節はさほど変わらないのだろう。点在する午前の陽だまりには、春先に見られる草木が僅かに生育している。気温の方は少し高めだ。もともと暖かい気候の地域なのだろう。

 私は狩りをするときの癖で、いつものようにフードを目深に被る。腰に下がったダガーを確認すると、手近なところで最も高い木によじ登る。まずは高いところから周囲を確認する。このまま進めば迷子だ。それでは、私の狩人の名が泣いてしまう。

 並みの人の背丈の十倍はあろうかという巨木を登りきると、どうにか枝葉の屋根からは頭一つだけ抜け出すことが出来た。そこから遠くを見渡すと、四半日ほど歩くであろう距離にそびえる城壁を認めた。その奥に一つ、天を衝く尖塔が見える。

「石の壁…都会か」

 生まれてこの方、田舎村の周辺だけで生きてきた私にとって、都会というのは憧れの一つだ。よもや、人殺しのために都会へお世話になろうとは思いもしなかったが。

 ザックリと城壁までの距離と方角を確かめたところで、私は木を降り始めた。

 その途中だった。

 足を下ろした太い枝に、何かが飛来した。

 すぐ傍に突き立ったのは、太い木の矢だった。

「なっ…!」

 驚愕。続く、焦りと緊張。

 それは私から冷静さを奪うには十分に過ぎた。

 というか高い所なのに冷静さを保っていた私を褒めてくれてもい…――。

 背中を叩きつける衝撃が、私の意識を彼方へと連れ去った。



 何度目だ。

 暗転した意識から覚めると、そこには見知らぬ天井があった。

「アンねえちゃん!おっさんがおきた!」

 眩暈を訴える頭を振りながら、柔らかな寝台の上でゆっくりと身体を起こす。

「わかったわ、ガブは水を持って来て。ナナとマナは、パンとスープを」

「おう!」

「「わかった!」」

 どたばたと駆けて行く足音の主たちは、その全員が幼い子供だった。

「あの高さから落ちて無傷なんて。お兄さん、猫か何かなの」

 呆れたような。申し訳ないような。眉を八の字にして、少女が私の元にやって来る。茶色の長い髪を頭の後ろで纏め上げ、馬の尻尾のように垂らした少女。きっと、私の妹と同じくらいの年齢だ。

「…ここは」

「王都プラーグ。あなたは傍の森で、木の高いところから落ちて気を失った」

 ぼんやりと記憶が戻って来る。

「…確か、矢が飛んで来た」

 何気なく、思い出したことを呟くと、目の前の少女の顔が強張る。

「…どうした」

「…その、ごめんなさい!」

 急に頭を深々と下げる少女。私は呆気に取られて言葉が出ない。

「あの矢、アタシが撃ったの。だから、ごめんなさい!」

「ああ、そういうことか」

 頭を下げ続ける少女に顔を上げさせ、私は言う。

「こうして私は生きてるんだ。気にしないでくれ」

「…ごめんなさい、ありがとう」

 そう言って、少女はもう一度だけ頭を下げた。

「アンねえちゃん、水もってきた!」

「ありがとう、ガブ」

 扉を蹴り空けて部屋に飛び込んできたのは、硝子の水差しを抱えた少年だった。一か所だけ抜けた歯を剥いて笑う姿は、いかにも子供らしい。頬や腕に刻まれた無数の擦り傷や切り傷も、その元気の良さを物語るかのようだ。

「おっさん、木からおちたんだろ!ばかだなー」

「ははは、大人をからかうんじゃないぞ」

 笑って見せるが、その内心はやや傷ついている。どうやら、少年の基準では私は「おっさん」らしい。私はそんなに老け顔なのか。

「やっぱり大人なの…」

 少女が呟くが、その意味を問おうとする私の言葉は、次なる闖入者によって遮られた。

「「もってきたよ、おねえちゃん!」」

 どう見ても瓜二つ。顎の下くらいの長さで切りそろえた、おかっぱの双子の少女。パンの籠とスープのお皿をそれぞれ持って、部屋にやって来た。

「二人とも、ありがとう。そこに置いといてね」

「「はーい」」

 少女たちは息ぴったりの返事をすると、指示通りに、机にスープとパンを並べていく。

「ごめんなさい、騒がしくして」

「いいさ、私だって助けられた身だ。経緯はどうあれ、な」

 肩を竦めて言って見せる。少女は遠慮がちに笑う。

「名前を聞いてなかったな」

「あ、忘れてた。アタシはアンナ。ここで子供たちの世話をしてるの」

「私は、シン。しがない旅人だ、よろしく」

 差し出した手を、アンナは力強く握る。

 同時に、私の腹が物欲しげに鳴った。

「ふふ、これ食べて。もう夕方だもの」

「ありがとう、頂くよ」

 私は差し出されたパンを齧った。



「一年くらい前から、この国には大人が居ないの」

「道理で子供ばかりが働いているわけだ」

 夕食どころか、その日の宿まで貸してくれたアンナが、私の隣を一緒に歩いている。

 朝の光差す石畳、つまり北の大通りは、そのまま真っ直ぐ王城の背後まで繋がっているらしい。その道を忙しなく駆けまわるのは、どれも成人していないような子供ばかり。屈強な大人の姿など、どこにもない。

「食料はどうしてるんだ」

「小麦なんかの穀物は、城下の倉庫全てを集めて二年分。だから、もって後一年くらい。肉や果物は森で調達してるの。冬は酷い目に遭ったけどね」

「酷い目…」

「二十人は死んだわ。火の不始末とか、暖炉を使った後の換気を忘れたとか、ね。栄養失調もあったわ。行方が知れなくなった人も。…それは今でも時々あるんだけどね」

 何でもないように淡々と語るが、口調は段々と早まり、その手は固く握られる。彼女はれっきとした人だ。あの女神のような、情緒を解せない者ではないのだ。

 そう考えると、もはや人ではないという私は、この共感と同情は、いったい何処から生じているのだろう。

「苦労したんだな。並大抵の努力じゃない」

「…そう、ね。でも、アタシは救えなかった。アタシの手だけじゃ、全ては救えないことは分かってるけど、それでも、悔しいの」

「でも、君は今いる子供たちを救った、そうだろう」

「シン、あなたは優しいのね」

「よく言われるよ、お人好し、ってね。実際、私は一度、その所為で死んだようなものさ」

「そう。あなたも苦労してるのね」

「君ほどじゃないさ」

「どうだか」

 大人の消えた国。子供の国。それがこの国の現状。もはや国としては周囲に認知されていないのかもしれない。

「なぜ大人は消えたんだ」

「分からない。ある日、朝起きると大人たちは消えていた。最初は何人か残っていたの。でも、残った大人たちも、そのうち居なくなった」

 神隠し。私の村にはそう呼ばれる昔話があった。神様の気まぐれで、村人が連れ去られてしまう、そんな話。だが、村で実際にそんなことが起きたことはないし、起きたと思っても次の日には帰って来た、ただの迷子だった、というオチばかり。何より、魂の存在を信じても、神様を信じる者はまず居なかった。

 この国で、神の存在が信じられているのかは分からないが、神隠しだと考えるのは無意味だろう。何より、村の言い伝えで連れ去られるのは子供ばかりだった。

「子供たちの中には、親を探し回ってる子もいる。幼い子には少ないけど、私くらいの齢の人になると、それなりの数になるわ」

 親が急に居なくなった、仕方ないから僕が、私が働こう、となるのは難しい話だ。嘘や誤魔化しの効く子供が相手でも、ある程度の年齢になれば自ずと気が付いてしまうものだろう。

「そういう人たちは自分で食べ物を調達しているみたいだから心配はしていないけど、それでも、そのまま行方が分からなくなるのは不安になるの」

 アンナは握りしめていた手を緩めると、今度は小さく肩を落とす。

「アンナ、君も大概、お人好しだな」

「あら、気付かなかったの。鈍いのね」

 この少女に口先で勝つのは難しそうだ。

「あ、サチ!」

「…アンナ、か」

 アンナは、サチと呼んだ黒髪の少女に駆け寄るとその手を掴む。鋭い目つきのサチは逃げ出そうと踵を返したが、がっちりと掴まれた手は微動だにしない。

「あんた、また食べてないでしょ!」

「うるさい。要らないし」

「いいから、ほら、これ!食べなさい!」

「ちょっと、要らないって…むぐぅ」

 どこから取り出したのか、茶色い柔らかそうなパンをサチの口に押し込むアンナ。アンナはさらにいくつかのパンを取り出し、サチに押し付ける。それを押し返しながら、サチは口に突っ込まれたパンだけを渋々飲み込む。

「どう、美味しかったでしょ」

「…まあまあ」

「良かった」

 アンナは満面の笑みを浮かべている。どうやらそれなりに仲の良い友人のようだ。ただの世話焼きであそこまではするまい。私だったらキレていたかもしれない。

「サチ、何してたの」

「まだ、探してる」

 親を探しているのだろうか。サチは男物の、煤けた黒い服のポケットに手を突っ込み、不貞腐れたように傾いて立っている。黒いぼさぼさ髪が不機嫌に風に揺れた。

「もう諦めて一緒に…」

「嫌。絶対に見つける」

 言いかけたアンナを遮って、サチはその手を乱暴に振り払う。弾かれるように手を引っ込めたアンナは、その手を胸に引き寄せて、心配そうな視線を黒の少女に送る。

「じゃあ。…またね」

「サチ…」

 サチは通りを逸れて路地に入り、姿を消した。

 アンナはその路地を見つめて立ち尽くしている。

「今のは」

「サチ。友達よ。親探し、してるんだって」

「そうか」

 気まずい沈黙が満ちる。こういう時、なんて言葉を掛ければいいのか分からない。笑えばいいのだろうか。

「…ところで、私たちはどこへ向かっているんだ」

 強引に話題をすり替える。

 はっ、となったアンナは、自分の頬をぺちぺちと両手で叩いて活を入れる。

「そうだわ、王城。ラヴィ様に挨拶をしに行くの」

 気丈に振る舞うアンナは、大袈裟に大股で歩き出した。私も、その後を追う。



 北の大通りを進むと、目の前に小さな城壁が近づいて来た。あれが王城を囲う城壁だ。

「ここから反対側まで行くの。…まだ歩けるよね」

「…伊達に大人じゃない。それに、これでも狩人なんだ」

 昔は森の獣を、今は罪を狩る狩人。そんな皮肉が胸中に湧く。

「それなら大丈夫ね。お昼までには着くわ」

 今度は城壁に沿って左回りに歩く。王城付近には鍛冶屋が多い。至る所の煙突から煙が上がり、カンカン、カカン、と規則的な音が聞こえてくる。

「アンナ。まさか鍛冶屋も子供がやってるのか」

「ええ、そう。勿論、子供の中でも年長の子がやってるけど。だいたい十五歳くらいの子たちよ」

「へえ、なるほど。狩りもするって話だから、鏃でも作ってるのか」

「そう。後は武器の修理とかね」

「なるほど」

 弓にも金属部品を使っていたから、多分それのことだろう。或いは、弓の他にナイフとかボウガンなんかもあるのだろう。隣を歩いて過ぎていく少年少女は、鉄くずや欠けた刃物、木炭などを運んでいる。

「働いてばかりで、大変じゃないのか」

「確かに大変だけど、そうしないと生きていけないから。プラーグはもともと、貿易の中継ぎと、加工品――いわゆる加工貿易で成り立っていたの。だから、経験のほとんど無かった狩りだってまだまだ命懸けだし、怪我も絶えないわ。ガブの擦り傷、沢山ついてたでしょ。あれ全部、狩りで付けた傷なの。まだ十にもならない男の子が、ね」

 何も言えない。

 明日の命を賭してまで狩りをしたことが、今までの私にあっただろうか。それを、齢を十も数えない少年が行っている。それは未熟な技術もさることながら、明日を食い繋ぐためにそれだけ必死なのだ。

「でも、三日に一日くらいは休みをあげてる。だからほら、アタシ、今日は休みよ」

 微笑んで見せるその顔も、あんな話の後では疲れて見えてしまう。

「さあ着いたわ、プラーグ王城よ」

 城壁から僅かに迫り出した、四角っぽい関所。そこが唯一の王城への入り口。何のためにこんな不便な造りを採用したのか、私には分かりかねた。

「関所はあるのに、門番は居ないのか」

 関所は、入口の両脇に、人の背丈の二倍ほどの石像が立っているだけで、門番らしい人影は見受けられない。

「子供に門番をさせるわけにもいかないでしょ。それに、ラヴィ様が見張りは要らない、って言うから」

「変わった女王様だ」

 日差しを遮って暗くなった関所を潜り抜けると、王城はもう目の前だ。

 石造りの城は都市規模の割に至って質素で、質実剛健の様を呈していた。分厚く硬い石材は、何物をも阻むであろう堅固さを物語り、城壁の内側に沿って広い水路が這っている。流れがあるところを見るに、ここから城下の方へ水路が繋がっているのだろう。そして、水路は関所入り口で折れ、道の両脇を城の門まで続いている。水源は城の中に在るのだろうか。

 門まで歩いていくと、辿り着く少し手前で、少し開けたままになっていた門の隙間から人影が滑り出た。

「あら。お客様かしら。珍しいこともあるものね」

「ラヴィ様、おはよう」

 挨拶が友人に掛けるそれなのだが、気にしたら負けだろうか。

「あらあら。元気が良いのはいいけれど、今はもうお昼ではなくて」

「あ、こんにちは、ね」

 現れた若い女性は、豪奢とは言えずとも上品なドレスを纏い、その金の長い髪が目立つ頭には、確かに小さな王冠が載っていた。銀の王冠は、一つだけあしらわれた赤い宝石を太陽の光に煌かせる。

「どうも、女王様。私はシン。旅の者です。本日はご挨拶を…」

「あらあらあら、いいのよ、そんなに改まらなくて。子供しか居ないような国ですもの。もっと楽にして」

「では、お言葉に甘えて」

 目上の人に「敬語はいらない」と言われても、躊躇してしまうことが多い。相手が望むまいと、目上の人間に不遜な言葉遣いをすることは憚られてしまうものだ。だが、相手の気遣いを無為にすることも憚られる。いわゆるジレンマというやつか。

「そうだ。シンと申されましたか。貴方も御一緒にあいさつ回りに行かれませんこと。お散歩程度のものですけれど。ぜひ、その道中にでも、お話を伺いたいのです」

 王女直々のお願い。断ることなどできるはずもなく。

「ええ、是非」

 我ながら、会心の笑顔で応えられた気がする。



「あらあら、貴方、木から落ちて、頭を打ってしまったの。もう体は大丈夫なのですか」

「ええ、私は元々、狩人をしていまして。体の丈夫さは人一倍ですよ」

 王城から南の大門へ続く大通りを、私と王女は並んで歩いている。先ほどまで案内人をしていたアンナは、今は私のやや後ろを歩いている。

「あら、ニーナ。今日はどこに行くのかしら」

「ラヴィ様!えっと、木の実狩りに行くの!」

「ジャックとマリー、それからポールも一緒かしら」

「うん!」

「そうなの!」

「ん」

「そう。気を付けて行ってらっしゃい」

 少年少女は連れ立って、王女に手を振りながら駆けて行く。身体より大きな籠を背負った四人組は、まだ幼い、子供らしい笑顔を浮かべていた。その体は、やや痩せているようにも見えた。

「子供ばかりが働いて、何故、わたくしが働かないのか。もしかしたら、そうお考えかも知れませんね」

 王女はぽつりと言った。

「ラヴィ様!そんなこと、誰も思ってないわ!」

 アンナが反駁するが、王女は柔らかな笑みを向けただけだ。

「わたくしは、何もできないのです。激しい運動をしようものなら、この息は、瞬く間に虫のように弱々しいものとなるでしょう。何か重い物を持とうものなら、この腕は千切れてしまうかもしれません。強いてわたくしにできることと言えば、それは子供たちを見守ること。きっと、それしかないでしょう」

 アンナは開きかけた口を真一文字に引き結ぶ。王女は弱々しくなった笑顔を俯ける。

「生まれつきの病気。或いは、血に刻まれた呪いでしょうか。わたくしの身体はかように弱い。どうか、分かって頂きたいのです」

「私にそれを咎めることはできません。あなたの気持ちは、子供たちにも伝わっていることでしょう。ならば、どうか、その愛を絶やすことのないよう。子供たちに親代わりの誰かが居るということは、実感以上の安心を与えている筈です」

 私が若いうちにこの世を去った両親。残された私と妹。私たちが腐らずに生きていけたのは、親代わりに、と良くしてくれた周囲の人間あってのことだ。きっと、この国の子供たちも、知らずの内に王女の存在に安心を覚えているだろう。

「貴方は、とてもお優しいのですね」

「ははは、よく言われます」

 アンナは私の後ろで黙り込んでいる。王女からは、私の影になって見えていないだろう。

 ふと、物陰で何かが動いたのが目に入った。それは他の二人も同じだったようで、同じ路地に視線を向けている。

 風に乗ってすすり泣く声が聞こえた。その次の瞬間だった。

 ぱっ、と真っ先に駆け出したのは、他でもない王女だった。

 ほんの数十歩の距離だったが、王女は風のようにその物陰に辿り着き、その場にしゃがみ込む。

「…っはあ、はあ…。大丈夫、もう、大丈夫よ」

 聞こえてくる息切れと、誰かを励ますような言葉。

 私たちが数秒遅れて追いつくと、そこには少年が倒れていた。倒れ、うずくまったまま、顔を覆ってすすり泣いている。そう若い少年ではない。背丈や体つきを考えれば、その齢は十代後半か。

「うええええ…」

 それなのに、泣く声は、辺りを憚らぬ幼子のそれだ。

「はあ、…っはあ。シン、アンナ。この子を…部屋に運ぶ、わ。手伝って、頂けるかしら…、はあ」

 王女はよろめく足を無視して、気丈にも立ち上がる。気圧されたままの私とアンナは、ただ無言で頷くしかなかった。



 南門に近い、大通りに面した空き家の一つに、私たちは少年を運び込んだ。荒い呼吸を繰り返す女王も心配だったが、「わたくしのことはいいから」と言われ、少年の看病に集中することにした。

 空き家は大人たちが居なくなった後も子供が出入りすることがあるらしいので、それなりには清潔に保たれているようだった。部屋の天井の隅に張られた蜘蛛の巣には、きっと手が届かなかったのだろう。

 アンナは慣れた手つきで、少年の膝にできた擦り傷の手当てをしている。消毒液らしい紫色の液体をかけられ、少年は瞳に涙を浮かべたが、唇を噛み、堪えていた。

「…ゴドー。あんた、こんなことで泣くような奴じゃなかったでしょ」

 平静を取り戻し、泣き疲れて寝てしまった少年を見下ろしながら、アンナは呟く。

「アンナ、知り合いなのか」

「知り合いも何も、アタシの幼馴染よ。アタシの家の二軒…あれ、三軒だっけ。とにかく、それくらい隣に住んでたの」

 アンナは寝台の隣に小さな椅子を置き、そこにそっと腰掛けた。

「シン。あなたは、ラヴィ様のところに行ってあげて。あの人、なんだかんだ言って無茶しちゃう人なの。…お客さんなのに、ごめんなさい」

「気にしなくていい。じゃあ、また後で」

「うん」

 女王は居間で休息をとっている筈だ。

 私はアンナを置いて居間に向かう。



「ああ、シン。戻っていらしたのね」

 女王はグラスの水を飲んでから、こちらに声を掛ける。

「アンナは」

「アンナは看病を続けるようです。どうやら付き合いの長い友人だったようで。…それより王女様、あなたは大丈夫なのですか」

 無理な運動をしておきながら、自分の身より他を心配するその献身ぶりは、もはや聖人と言って差し支えなかろう。私は、この王女は敬うに値する、と改めて認識させられる。

「ええ、わたくしは大丈夫です。あれくらいなら、まだ」

 それなりに無理はしているのだろう。証拠に、その首筋を大粒の汗が流れていった。

「あなたが無茶をしないように見張っておけ、とアンナに頼まれまして。申し訳ありませんが、しばらく無茶はなさらぬよう」

「そうね、無茶は止しましょう。でも、散歩の続きくらいは、よろしいかしら」

「…構いません。それならば、御供しますよ」

 扉を開けると、太陽は既に高いところに昇っていた。だが、お昼にはまだ早い。

「このまま、南門へ。お仕事があるのです」

「仕事ですか」

 女王はそれには答えず、南門へと歩き出した。家を出たばかりの場所からでも見える距離にある。だから、辿り着くまでに時間はさほど掛からなかった。

「ラヴィ様!」

「あ、ラヴィ」

「おーじょさま!」

 南門前の広場に出ると、今までに見かけた中では年齢層のそこそこ高い少年少女の一団が、王女の傍に駆け寄って来た。その誰もが片手に武器を持ち、思い思いの敬礼をして見せた。

 武器。そう、武器だ。長い刃の刀剣。小型のボウガン、弓。槍や盾を抱えている者までいる。

「みんな、お疲れ様ね。今日もひと仕事、頑張りましょう」

「「「「おおー!」」」」

 一斉に声を上げ、少年少女たちは南門の脇にある梯子を上り、或いは門の外側に陣取り、はたまた女王の傍にぴったりと寄り添った。槍を抱えた者は門の前に。飛び道具を抱えた者は城壁の中腹にある、大砲用の迫り出しに。刀剣を抱えた者は王女の傍に。適性を考えた、適切な配置だった。とても、子供の考案とは思えない。

 感心していると、王女の傍についた二人の子供のうち一人が、私を見上げて尋ねた。

「…おっさん、うわさの、木からおちた人だな」

「おっさ…いやまあ、そうだ」

 おっさん。これで二度目だ。そんなに私は老けているだろうか。私自身としては、そこそこ若く見えると思っているのだが。そもそも二十代だ。おっさんではない…と信じたい。

「…そんな、どんくさいやつがスパイなわけねえな、うん」

 その呟きはあまりに不鮮明で、本当にそう言ったのか、自信が持てなかった。けれど、その言葉の真相はすぐにどこかへ飛んでいく。。

「きた!」

 上の方から叫ぶ声が聞こえたかと思うと、前線の子供たちは槍と盾を構え直し、上の方からは弓を引き絞り、ボウガンにボルトを装填する音が響く。王女の傍付き二人は、きっ、と表情を引き締めた。その表情はマトの村の衛士のそれよりも険しく、覇気に溢れていた。およそ子供の出し得るものではない。私の背筋を悪寒が走り抜けていく。

 それに続いて遠くから聞こえだしたのは、馬の蹄が土を蹴る音だった。数の想像も使いないほどの足音が、こちらを目がけて突き進んでくる。

「止まりなさい!」

 凛とした気高い声が、城壁を越え、森の中に反響する。指図されるまでもない、と言わんばかりに、騎兵団はそれよりも早くに馬の足を止め、こちらに向き直っていた。

「また、性懲りもなく我が国を侵しに参ったか、エイヴィル!」

 王女は挑発的に叫ぶと、門を抜け、槍ぶすま越しに騎兵団と向かい合った。横一列に整然と並んだ槍と盾は、真っ直ぐに敵と思われる集団を睨んでいる。その後ろで、警戒の足りない左右方向を傍付きの二人が睨む。その上方では鏃とボルトが騎兵の首を狙っている。

「ははは。国など、もはやここには無かろうよ、亡国の王。いや、廃墟の王よ」

 先頭に並んでいた、いかにも偉そうな甲冑の騎兵がマスクの向こうで笑っている。甲冑には不釣り合いな、顔面全体を覆う革の袋、その口の部分には謎の管が刺さっている。目の部分には丸くて小さな硝子板がはめ込まれていた。それだけでも、相手の技術力の高さは伺える。しかし、兜は額から上を守る範囲にしかなく、狙い打てばその眼球さえ撃ち抜けるだろう。

「わたくしを王と呼ぶのであれば、せめてその無粋な仮面を外して見せなさい。この無礼者めが」

 怒りも露わに、王女は罵声を浴びせる。子供たちにもその怒りが伝播していき、一つ何かを間違えれば戦端は開かれてしまう、そんな雰囲気が醸成されていく。

「悪いがね、オレはまだまだ死にたくないのだ。腑抜けた馬鹿にもなりたくない。まったく、あんたくらいだ、この国を捨てないのは。大人たちはみんな居なくなっちまったのに。ま、そこのガキどもを誑かして、オウジョサマ気取ってられるのも、今の内だけだろうよ。ははは!」

 嘲笑。人の生を嘲笑う、外道の行為。私が狩るべき罪は、奴らに有るのだろうか。

「何と言おうと、この国は渡さない。民は未だここに在り。民ある限り、わたくしには、その故郷を守る義務がある。去りなさい、外道!」

 拳を固く握りしめる王女の姿。敵前に姿を晒してまで服従を拒む、その姿勢。これを馬鹿にする者が在る現実。私は、彼らとは違う怒りを覚えていた。

「ははは!ええ、ええ。分かりましたよ、廃墟の王。精々足掻くといいい。オレとしても、ガキを殺すのは気が引けるのでね。また、来ますよ。はははははははははははは!」

 馬を走らせ、騎兵団は森の中に消えていった。

「女王様、今のは」

「…詳しい話は昼食の後に致しましょう。王城へどうぞ。昼食はご一緒しましょう。散歩に付き合って頂いたお礼も兼ねて」

 私の返答も待たず、女王は踵を返して王城へ向かった。



 大理石だろうか。先細った円筒型の、白亜の大部屋は、高い位置にある飾り硝子の窓から差し込む光に照らされている。冷たい雰囲気を感じさせる大部屋は、その印象に反してとても暖かい空気が流れていた。それはきっと、長大なテーブルの上に置かれた燭台の灯によるものではない。

 そして、この大部屋の入り口から見て反対側には、見知らぬ女性の石像が据えられている。この国の守り神か何かだろうか。多くの国で神の存在など信じられていないこの時代に、随分と稀有な国だ。

「今日の昼食は、干し肉と焼き立てのパン。それから、汲み立ての井戸水で淹れた、お紅茶ですの。茶葉の希望はございまして」

「え、ああ、いや」

「では、こちらのサウラス大陸産の物を使いましょう。香りはやや弱いのですが、とても味わい深い仕上がりになりますのよ」

 自分でてきぱきと昼食の準備をこなす女王の姿は、まるで母親のようだ。まだ幼い頃に母親を失った私ですら既視感を覚えるほどに母親然とした姿は、きっと、誰の目にもそう映っただろう。この子供ばかりの国で、子供たちの保護者であろうとする者であれば、当然の姿なのかも知れないが。

「さあ、冷めないうちに、いただきましょう」

「ええ、有難くいただきます」

 私は掌を合わせ、一度目を瞑る。そうやって、心の中で感謝してから、食事にありつく。

「慈愛の女神フェクタよ。今日の恵みに感謝を。この世に幸あれ…」

 女王は両手の指を組み、目を固く瞑って祈りを捧げている。食前の祈りにも様々な形があるのだということを、私は改めて気付かされる。そして、この国は、私の知っている場所とは遠く離れた場所に在るのだ、とも。

 …慈愛の女神フェクタ。その女神も、確かに存在するのだろうか。罪の女神ギルストアが存在していたように。それとも、ただの虚像でしかないのか。仮に実在していれば、王女ラヴィは、慈愛の女神の眷属なのだろうか。

 疑問が沸き上がるが、私はその一つとして口には出さない。何か、私の理解の及ばぬところで引き止めるモノがある、そんな感覚が襲ったからだ。

 干し肉とパンを平らげると、王女が口を開いた。

「客人である貴方に、お話をしておきましょう。先ほどの騎兵たち、エイヴィル王国と、この王都プラーグのことについて」

 私は持ち上げかけた紅茶のカップを戻し、その並々ならない雰囲気に背中を叩かれる思いで背筋を伸ばした。王女たる彼女の纏う雰囲気は、あの胡散臭い女神に勝る力を感じさせた。

「彼らが王都に圧力をかけ始めたのは、今から一年ほど前のことです。そう、ちょうど、大人たちが失踪し始めた頃に重なります。彼らは飽くまでも、大人たちが消えてから、現れ始めました。この失踪に関して、あの国がこの王都に何か働きかけたのではないか、そう疑ったこともありますが、真相は未だ闇の中。その尻尾すら見えはしません」

 王女はそこまで一息に言って、一口の紅茶で唇を湿らせる。

「そもそも、大人たちが消えた理由さえ、まだ分かっていません。彼らエイヴィルの者どもは、何か頭を狂わせる疫病が流行っているのだと、それがこの国の大人たちをどこかへ連れ去ってしまったのだと信じて、珍妙な仮面を着けてやってきますが、それとて確証があるわけではないでしょう。仮に疫病だったとして、何故、わたくしはその病を患うこともなかったのでしょう。いっそわたくしも連れ去ってくれるなら…いえ、それは言ってはなりませんんね」

 南門の前でエイヴィルの騎兵に向けたのと同じ表情で、王女は俯いた。私が初めて聞かされた弱音は、きっと王都の子供たちには聞かせたことのない本音だ。

「どうにも、貴方の前では色々と話したくなってしまいます。旅人だからなのか、あるいは、わたくしが何か人ならざる気配を貴方に感じているせいなのか」

 上目遣いにこちらを見る王女の目が、一瞬、怪しく輝いて見えた。その眼を見つめてしまった私は、思わず身体を硬くしてしまう。

「…いえ、貴方は客人。貴方に救いを求めることは、きっと間違っているのでしょう。この国の問題はこの国で解決しなければ。…ともかく、貴方は、近いうちにここを離れるべきでしょう。正体不明の失踪。隣国の強襲。何も良いことはありません。きついことを言うようではありますが、貴方の為です」

 女王はそれっきり何も言わない。ただ、カップの紅茶を見下ろすばかりだった。



 女王と別れた私は、一度、アンナのところへ戻ることにした。

「アンナ、まだ居るかい」

 少年を運び込んだ家屋に入ると、中はひどく静まり返っていた。まだ真昼だというのに、まるで夜の森のように動くものの気配が無い。明らかに異様な空気が流れていた。

 袖口に隠したダガーの柄を逆手に握ったまま、私は寝室の扉を開く。部屋には、寝台の上に横たわる一人の少年。間違いようもなく、それは私とアンナで運び込んだ、件の少年だ。

 しかし、その少年の目つきが、どこかおかしい。

 虚ろに天井を見上げる瞳は、これ以上ない程に開かれている。それでいて、身体は微動だにさせない。何かに取り憑かれたような印象さえ受けるほどに。

 少年の名前は、確か、ゴドー、といったか。

「…ゴドー。起きてるのか」

 私が傍に忍び寄り、できるだけ優しく話しかけると、少年は首だけを急速にこちらへ向ける。

 私が思わず後退っても、少年の目は私を捉え続ける。その瞳には、意志の光が灯っていなかった。こちらを振り向いたことさえも、ただの本能であった、と言わんばかりに。

「シン!」

 部屋の扉を勢い良く開けて転がり込んできたのはアンナだった。頭の茶色い尻尾が汗に濡れ、しっとりと背中に張り付いているようだった。

「もう見たのねゴドーの様子が変なの」

 肩で息をしているかと思えば、一息に捲くし立てるアンナ。服の袖を掴み縋りつくアンナを、私はひとまず宥める。

「落ち着くんだ、アンナ。きちんと説明してくれないか、何があったのか」

 私は手近な椅子を引き寄せて、アンナを半ば強引に座らせる。それだけで、少し落ち着いてくれたようだが、一応、水差しの水を木のカップに注いでやった。

 アンナは両手でそれを受け取ると、何も言わず、それを一気に飲み干してしまう。直後に何度か咳込み、それが落ち着くと、ようやく、ゆっくりと話し始めた。

「シン、あなたがここを出て行ってからも、アタシはずっとゴドーを看ていたの。ゴドーは普通に寝ていたし、何も具合の悪そうなところは無かった。でもね、アタシがうとうとしていたら急に起き上がって、『水をくれ』って」

 アンナはそこまで言って、カップをこちらに差し出した。私が何も言わずに水を注いでやると、ありがと、と短く礼を言って、またカップの水を口にした。

「アタシはすぐに水差しを取りに行ったわ。…だから、ほんの少し、ゴドーから目を離したの。そして…」

 カップを持つ手が震えていた。半分ほど残ったままの水が、震えに同期して小さな波紋を断続的に作り続ける。

「そして、戻ったときには、まるで操り人形みたいに…」

 アンナの手から滑り落ちたカップが、薄く質素な絨毯の上で跳ね返り、澄んだ水が絨毯に黒い染みを広げた。

「…アンナ、もう分かった。無理してはいけない、君のせいじゃないんだ」

「そんなの、あなたには分からないでしょ!」

 がたん、と椅子を倒して、怒気を孕んで響いた叫びと共に立ち上がるアンナ。

 しかし、私を潤んだ目で睨む顔から、不意に力が抜けた。と思えば、その次の瞬間にはゆっくりと、前のめりに倒れ込もうとする。

「アンナ!」

 危うく抱き留めるが、アンナは返事をしなかった。代わりに返るのは、熱を持った、荒く深い呼吸。上気した頬は、そのまま全身を赤く染めてしまいそうだった。

 その様子を、物言わぬゴドーが虚ろな目でじっと眺めていた。



 夕刻が近い。

 私はアンナを別の部屋の寝台に寝かせると、その隣に椅子を置き、腰掛けた。布団をかけてやると、アンナはすぐに目を覚まし、焦点の定まらない目でこちらを見上げた。

「ごめんなさい、気がどうてんしていて…」

 やや呂律の回らない口で、アンナは呟く。

「しかたないさ」

「ふふ、あなたって」

「お人好し、だろう」

「ええ、そうね。お人よし」

 目を瞑って、アンナは口元を笑ませる。彼女らしからぬ、穏やかな笑みだった。

「ねえ、へんな話かもしれないけど、きいて」

「ああ、構わないよ」

 目を閉じたまま、彼女は話し始める。

「あなたと会ったのは、きっと今日のことよね」

「いや、昨日だ。君の放った矢に驚いて、私は木から落ちたんだ。それを君自身が救ってくれた」

「…ああ、そうだった、わね」

 なぜこんなことを訊いたのか。私は違和感を覚えた。しかし、その違和感の正体は、いつかのように、掴むこともできずに消えていく。

「アタシね、オトナになりたかったの。子どもたちばかりがのこされたこの国で、アタシはみんなにくらべてオトナになった。でもね、ココロまではオトナになれなかったみたい。あなたに受け止められたとき、どこかにあんしんみたいな感じがあった」

「誰でもそうさ。君は普通よりもずっと苦労してきたはずだ。だから心はそれだけ疲弊するし、身体にも限界はある。今は休むといい。休養も仕事の内、さ」

「そう、かもね…」

 そのまま口も閉ざし、すうすうと寝息を立て始める。

 私はアンナを寝かせたまま、そっと部屋を出た。



 日は沈みかけ、蒼天は赤から黒へと変わる濃淡を作り出している。迫りくる夜から逃げ出すように、狩りに出かけていた子供たちは、器用に馬を駆って帰って来る。

「ガブ、お帰り!今日はどうだった」

 門番の一人が、歯抜けの少年に話しかけた。

「のうさぎつかまえた!」

「おお、しかも三羽か。やるなあ」

「ディアとリリーは」

「ぼくも三羽」

「ウチは四羽」

「いいね。今日は、干し肉は要らないかもな」

「やったー!」

「シチューにしてくれー」

「いいや丸焼きだ」

「ばか、燻製だろ」

「時間かかるだろうが!ここは蒸し焼き一択だ」

「料理するのだれだと思ってんだよ、おまえらあああああ!」

 ところどころで歓喜と悲鳴が聞こえる中へ、私は歩み出て行く。

「あ、木から落ちたおっさん」

「おっさんだ」

「落っさんか」

「おちたおっさん」

「…私はシンだ。おっさんじゃないぞ」

 なぜだ。なぜ誰もが私のことをおっさんと呼ぶのか。悲しみが襲う。

「アンナは少し体調が悪いみたいだ。何か困ったことがあれば私に…」

「アンねえちゃんがたおれたのか!」

 ガブが叫ぶ。

「おれたちのおせわばっかしてるからなあ。きょうはやすんでてくれ、っていっとけよ、おっさん!」

「おっさん、これも持ってってくれ。今日の獲物だ。なんでもいいからちゃんと食わせてやってくれよな」

「おっさん、これ、ぼくのおくすり。森でとれるやくそうなんだ。これももってって」

「おっさん!」

「これもこれも!」

 ああ、彼女は愛されているんだな。

 最初に思ったのはそれだった。生半可な世話で、ここまで子供が懐くとは思えない。全ては彼女の人格あってのことだ。

「よーし、みんな!アン姉ちゃんを安心させるためにも、さっさと門は閉じて帰るぞ」

「「「「おおー!」」」」

 子供たちは、私のことなど気にもせず、それぞれが率先しててきぱきと行動を始める。

「これが子供の国か…」

 子供たちとて、やるときはやるのだ。彼らは、必要に迫られたからやっているに過ぎないのだろう。考えてやっているわけではないのだろう。だが、その行動の一つ一つが、大人顔負けの仕事であることに、彼らは気づくことはできない。

 だが、今はそれでいいのだ。彼らは、それでうまくいっているのだから。

 いつか訪れるであろう食料の枯渇も、きっと彼らは自らの力で超えていくことができる。大した根拠も無いのに、そう思わせるだけの力を感じた。

 私は両手にアンナへの差し入れをもって、来た道を引き返す。



 再びアンナとゴドーの居る家に戻ってくると、もう日は暮れてしまっていた。

 扉を開けて中へ入ると、部屋は真っ暗で、物音一つしない。外の、それも遠くの方から子供たちの騒ぐ声が聞こえるが、それさえも消え入りそうなほどの静寂。

「…アンナ、寝てるのか」

 返事はない。しかし、耳を澄ませば小さな寝息は聞こえてきた。

 ほっ、と胸を撫で下ろし、私は荷物を机の上に置いた。

 念のため、そっと寝室の扉を開け、アンナとゴドーの様子を確かめるが、二人は確かに寝台に横たわっていた。

 私は扉を閉じ、暖炉に火を入れようと、火打石を探した。

「…火打石、無いな」

 どこを探しても火打石など見つからない。打ち金も、だ。

「…あなた、なにしてるの」

 ゆらゆらと私の方に歩み寄ってきたのは、髪をぼさぼさに下ろしたままのアンナだった。

「アンナ、起きたのか。火打石を探してるんだが…知らないか」

「ああ、えっと、シン、か…。火打石はつかわないの。ちょっと、そこどいて」

 言われるままに場所を譲ると、アンナはしゃがみ込み、暖炉の薪に向かって手を伸ばす。

「最初の火を与えし者、その名はソラル」

 何か、呪文のようなものを唱えたときだった。暖炉を中心に冷気が広がったかと思えば、薪の一つに小さな火が熾った。それは少しずつ勢力を増していき、やがて暖炉内のすべてを食み、ぱちぱちと景気よく踊り出す。

「…凄いな。これは一体」

「え、ならわなかったの。『技』でしょ。魔法、って言ったりもするけど」

 『技』。私が実際に目にするのは初めてだ。大昔にこの世界に有ったという、超常の術。まやかしだと思っていたが、それは今、私の目の前に実在している。

 もっとも、罪の女神とやらに蘇生させられた私には、それ以上に驚くことはできないが。

「ここじゃ、みんながならってるの。ガブたちは分からないけど、ゴドーだってつかえるのよ。今は…わかんないけどね」

 悲しそうな笑みを見せてから、椅子に座る。背もたれに、半身になって上半身を預け、揺れる暖炉の火を、ぼうっと眺め始める。まだ本調子ではないのだろう。纏う雰囲気は、眠気と疲れで萎れている。

「今日はウサギの煮込みだ。ミルクは無いみたいだから、シチューは諦めてくれ」

「うん、ありがと」

 随分としおらしくなってしまったアンナ。活力が足りないのが目に見える。ここは最高の料理で労ってやろう。そんな思いで、私はウサギを捌き始める。

「なれてるのね」

 アンナが囁く。

「ああ、これでも狩人だったからな。獲った獲物をその場で調理する、なんてこともあったなあ」

 そして、私は罪を狩るべくして今ここに居る。気を抜けば忘れてしまいそうな、現実味の無い、しかし間違いなく事実として私を縛る呪いの鎖。

 私は幾つかの部位に分けた肉塊を、鍋に放り込む。くつくつと笑うように沸き立つ湯気に、肉の臭みが混ざっていく。

「すごいわ。きっと、いいうでの狩人だったんでしょうね」

「いいや、私よりすごい奴が居たんだ。弓は百発百中、刀を抜けば快刀乱麻、村を歩けば皆が振り向く。…そんな奴が、さ」

 そして、そいつは自分の胸を貫いて自害した。

 私は薬草を適当な大きさに千切って、鍋に入れる。臭みを薬草の香りが打ち消し、香辛料のような刺激的な匂いがうっすらと広がる。

「よの中には、いろんな人がいるのね…」

「そうだな」

 ぼんやりとしたままのアンナが零す言葉は、火の爆ぜる音にも負けそうなほどにか細く、今にも静寂に溶けてしまいそうだった。

「眠いなら、もう少し寝ていてもいいんじゃないか。ガブたちも、君の心配をしていた」

 ぴくり、と肩を揺らし、アンナが私の方に焦点を合わせる。

「ガブたちが」

「ああ。君の体調がすぐれないのは、自分たちの世話をしてくれたからだ。だから、今は休ませてあげよう。と、言ってたよ」

 私は肉厚な野草を加え、最後に塩を一つまみ足して味を調えた。

 ひと煮立ちさせてから、鍋を火から少し遠ざける。後は余熱でしっかりと火が通るまで待てばいい。私はおたまを脇に置いて、アンナの方を振り向いた。

「…どうした」

「なんで、も…ない、から」

 アンナは背もたれの上で組んだ腕の中に顔を埋め…きっと泣いていた。

「…もうすぐ夕飯ができる。私はゴドーを見て来るよ」

 後ろ手に閉めた扉の向こうの嗚咽を、私は聞かなかった。彼女は強いのだ。例え、見せたくない、弱い部分が有ろうとも。



 薄味に仕上がったウサギの煮込みを食べながら、私は揺れる暖炉の火を見ている。古来より、旅人は燃え上がる火に安堵を覚え、ときには郷愁さえ覚えるという。その真偽はさて置いても、火の暖かさは人の心を解きほぐすような力がある気がしてくる。

 火の勢いが弱くなってきた。私は、火掻き棒で灰の山を崩し、幾つか薪を足していく。火は緩やかに勢いを取り戻していく。

「おいしかったわ。ごちそうさま」

 アンナは、中身が骨だけになった皿を置くと、ふう、と息をついた。

「美味しかったか。良かったよ」

 私は微笑む。妹も、こんな風に笑ってくれたことがあったな、と、そんなことを思いながら。

「ゴドーはきちんと食べたのかしら」

「ああ、食事は問題なさそうだった」

 ゴドーはまるで子供のようだった。問題ないとは言っても、私が口元に運んだ肉や薬草を、自分で飲み込める、という程度のことでしかない。このことをアンナに話しても、彼女はまたその事実を、自分の責任として背負い込むだけだ。だから私は、そのことに対しては触れないことにした。

「どうしてあいつは、あんな風になっちゃったの…」

 眉をひそめ、アンナは独り言ちる。狩人であっても医者ではない私が言えることなど無く、ただ呟きを聞き流すだけだ。

「もしかして、大人がきえたこととかんけいあるのかな」

「分からないな。可能性はあるかも知れない」

 とは言え、部外者である私が知り得ることは少ない。彼女の考えを検証するだけのことが私にはできないだろう。

 女王の言うとおりだ。

 私はここを去るべきなのかもしれない。私には、罪狩の使命があるのだから。この国に、罪を抱える子供が居るとは考えにくい。大人と言えば女王一人だ。ならば、考えられるのは隣国、エイヴィルのほうだ。彼らには明確な害意が、悪意がある。ならば、罪も、また。

「私は明日にはここを発とうと思う。いつまでもここで迷惑を掛けるわけにもいかないからな」

 この国の問題は、きっと、女王を含める国民たちで解決できる。女王の言い分を無視することもできない。

 どれだけの善人であろうと、私は所詮、彼らにとっては旅人でしかないのだ。

「そうなの、さみしくなるわね」

「なに、君には家族がいる。愛し愛されるだけの家族が」

 血の繋がりが重要なのではない。共に過ごした時間、それこそが重要なのだ。助け合う仲間がいるのなら、それらもまた、家族だ。

「ふふ、そうね。がんばれる気がしてきた」

「それに、借りは返しておこうと思ってる。明日までのお楽しみだが…そんなに気の利いたものじゃないから、期待はしないでくれ」

「そう。じゃあ、きたいしとく」

 意地悪を言って、アンナは、ふっ、と笑った。

「ひさしぶりに、たのしくお話ができた気がするわ」

「それはよかったよ」

 私もまた、笑う。

「今日はもう遅いから、もう寝たほうがいい」

「ええ。また、あした」

「ああ、おやすみ」

 夜は更けてゆく。不穏な気配を、背後に蠢かせながら。



 この国を訪れて二度目に迎える朝。

 二階空き部屋の寝台を拝借して就寝していた私は、昨日の夕飯の残りに火を掛けようと、居間に降りてきたところだ。だが火打石が無いことを思い出し、私はアンナのところへ向かう。寝ているならそれでいい。起きているなら、また火をつけてもらおう。

 アンナの居るはずの部屋まで来たとき、違和感に気が付く。

 アンナの部屋の扉が開いている。ゴドーの部屋も、だ。

「アンナ、ゴドー、起きてるのか」

 部屋の中を覗き込むと、そこはもぬけの殻だった。寝台から誰かが起き出したような形跡はあるものの、その当人たちは居ない。アンナも、ゴドーも。

「どこへ…」

 家中を駆け回って探しても、二人の姿は見つからない。

「嫌な予感がする…」

 悪い予感ほど当たってしまうものだが、今だけは、その予感の外れを願う。

 私は家を飛び出した。

「あ、おっさん!」

 飛び出した直後、傷だらけの少年が駆け寄って来た。

「君は…ガブか」

 歯抜けの笑顔はそこに無く、年相応の泣き出しそうな表情が代わりにあった。

「ディアがいないんだ!おっさんもさがすのてつだってくれ!」

「なんだって!アンナとゴドーも居なくなったんだ!」

「いいからさがそうぜ、おっさん!みんないっしょかも」

 子供たちが一度に多数、居なくなる。尋常なことではない。であれば、何か裏がある。

 誰かが連れ去ったのか。

 自ら行方をくらましたのか。

 ただ出かけているだけなのか。

 いずれにせよ、探さなければ。このままでは恩を返すどころの話ではなくなる。

 ガブとは途中で別れ、まだ探していないという王城近辺へと向かった。



 街中を駆け回った。力の限り、探し回った自負がある。しかし、どこに居るのか何の手掛かりもないまま、時間だけが悪戯に過ぎていく。

「ねえ、アンナと一緒に居た…シン、ね、確か」

 大通りを外れ、路地に入り込んだときだった。路地の先の曲がり角から、黒いぼさぼさ髪の少女が現れた。黒い大人用の服に身を包み、不機嫌そうに傾いて立っている。一方で、その顔は以前の無表情ではなく、私を射るように睨んでいる。

「…アンナ、探してるんでしょ」

「…居場所を知ってるのか」

 その問いに答える気は無いのか、答える必要が無いというのか、サチは俯いて、大きく一つ溜息を吐いた。そして、改めてその眼を真っ直ぐ私に向ける。

「…条件を呑んでくれたら、教えてもいい」

「条件…」

「あの女王、ラヴィを、殺して欲しい」



「アンナとゴドー、ビルにディア。その他にも何人か連れて、あの女は王城へ向かっていった。それが今朝、早朝のこと」

 失踪騒ぎで無人になった鍛冶屋へ忍び込んだ私とサチ。棚を漁って、弓矢や剣など、武器の類を物色している。

「あの女が、大人たちもどこかへ連れ去った、きっとね」

 険しい顔で、サチは重そうな甲冑を着込もうとする。

「流石にそれは、決めつけが過ぎる」

「でも、アンナたちは連れていかれた。見たんだから」

「ああ、だから今から問い詰めに行くんだ」

 私はサチから甲冑を取り上げると、短剣と弓矢を渡した。

「持っていくならこれだけでいい。私たちは女王と殺し合いに行くわけじゃない」

 そして、これなら狩猟の準備だと言い訳もできる。

「でもあの女が何も準備してないわけない」

「…疑うことは大切だが、彼女は悪だ、と決めつけるのは感心しないな」

 私はサチの頭に、ぽん、と手を置いて言った。むすっ、としたまま、サチは黙っている。

「行こう。確かめに」

 私は袖口にダガーを仕込み、静かに言った。



 王城への道すがら、サチは色々と話してくれた。

 居なくなったのは皆、子供たちの世話を買って出た者ばかりだ、ということ。

 サチは彼ら彼女ら、特にアンナに、よく助けられていたこと。

 ろくでもない親だったが、そんな親でも居なくなれば寂しい、ということ。

 他にも様々に、本当に雑多な話をしてくれた。

 子供たちの中にだって誰にも見せない傷や苦しみがあることは、当然のことだった。そしてそれを吐露できる親が居ない現状は、子供たちに大きな負担をかけているようだった。

 うまくやっているように見える『子供の国』だが、その限界は、近いところまで来ているのかもしれない。かと言って、私にどうにかできるものではないのだ。人の無力さが、憎い。

 いっそ罪狩の使命など早々にやめてしまえば、この国に居座ることもできるのだろうか。ギルストアがどんな罰を与えるのか想像も及ばないが、果たして…。

「さて、王城だ。いいか、表情に出さないでくれ。警戒されてもしょうがない」

「ん」

 サチは極めて平坦な表情になる。かえって不自然だが、まあ、いいか。

 考えてみれば、不自然な話だ。これだけ子供たちが騒いでいるのに、あの女王には何の音沙汰もない。あの世話焼きな女王が、だ。

 門をくぐり、開け放たれたままになっている扉の向こうへ。ここまでくると、遠くの喧騒はほとんど聞こえない。

「女王様、お話があって参りました」

 白亜の広間。その中央から伸び、途中で左右に分かれる階段。その先はそれぞれ上階へと消えている。上階から返る声は、音は無く、ただ風の吹く音が聞こえる。

「いない」

 サチが呟く。

「玉座の間まで上がってみよう」

「わかった」

 大階段を、急ぎ足で駆け上がる。サチも、遅れながらも私に続く。

 玉座の間に辿り着く、その刹那。鼻腔を刺す、嗅ぎ慣れた異臭。

 狩人として、嗅ぎ慣れた異臭。

「臭い」

 サチが思わず鼻を摘まむ。

「これ、鉄の匂いかな」

「…サチ、弓を構えて、ここで待っていてくれ」

「…ん」

 私が声を押し殺して言うと、サチは短く答え、弓に矢を番えた。

 私はダガーを構え、異臭の源、玉座へと近づく。

 玉座は金色の骨組みに赤い布を張った豪奢なものだった。しかし、その赤は、匂いとは無関係だ。

「何もない…いや」

 玉座に近づくほど濃くなった異臭は、間違いなく、この近くに源があるはずだ。

 ふと、床の石材に走る奇妙な線に気が付く。玉座の足元から、二本の線が玉座と同じ幅で並び、そのまま数歩分だけ後方へ続いている。

「そうか…」

 私は玉座の正面に立ち、力を込めて押した。

 がりがりと嫌な音と振動を立てる玉座。そしてゆっくりと、玉座は後方へと滑っていく。

 玉座の足の下にあったのは、床の石材とは異なる鋼鉄の蓋だった。私はその取っ手を掴むと、躊躇なく引き開けた。

 そこから現れたのは小さな鍵。血に汚れ、鉄臭い匂いを放つそれは、まだ新しい血液でてらてらと光っている。

「何、これ」

 いつの間にか傍に来ていたサチが、それを見下ろしていた。

「なんで、血が…」

 呼吸を荒げ始めたサチの肩を掴み、私はその眼を真っ直ぐに覗き込む。

「落ち着くんだ。深く息を吸って、そして吐く」

 サチは大人しくそれに従う。

 そして、むせる。

「げほ、げほ…。くっさ…」

「…大丈夫か」

 とりあえず背中をさすってやり、私は袖で鍵を拭ってしまった。

「この鍵、何処の鍵だろうな」

「この王城の地下室の鍵、ですのよ」

 控えめに、けれど凛と響く声。それはこの玉座の間の入り口からだった。

「ラヴィ…!」

 サチは弓を構える。

 私はそっとダガーを袖から引き抜く。

「子供たちを連れて行くところを、見られてしまったのですね。…ああ、敵意はありません。ご希望なら案内いたしましょう、地下室へ。できるなら、子供たちに見せたくはなかったのですが」

 王女は薄い笑みを浮かべて言った。



 王女の寝室の暖炉を潜り、その裏の梯子を下っていく。

 下へ行くほどに、夜気にも似た冷たい空気が濃くなっていく。それに混じる腐臭は、鉄臭さを踏み台にして、更なる悪臭へと成り果てている。眉間に皺を寄せ、憤怒の形相で降りていくサチは、その眼の端にうっすらと涙を溜めていた。

 梯子を下り切ると、そこはごく小さな部屋になっていて、奥には大きな鉄の扉が立ちはだかっている。その扉の閂の部分に、不釣り合いに煌く金色の錠前が下がっていた。

 王女はそこに鍵を差し込むと、ゆっくりと回す。がちん、と音がして、金の錠前は王女の手の中に納まる。

「きっと、貴方たちには耐えられない光景が広がっていることでしょう。その覚悟はありますか」

 王女は礼儀も気にせず、背中越しに言った。

「アンナたちはそこに居るのか」

 私は問う。

「はい。もっとも、貴方の知る姿とは違っているかも知れませんが」

「どういうこと」

 サチが間髪入れずに問い詰める。

「そのままの意味です」

「はっきり言って」

 王女はそれ以上を語ろうとはしない。

「開けてください。ここまで来たんだ、このまま、すごすごと帰るわけにはいかない」

「…開けて」

 異口同音。サチは私の服の袖を掴み、私は拳を握り締める。

「そうですか。それでは」

 王女は扉を押し開ける。

 流れ出す臭気。サチは嘔吐感を堪えているのか、鼻と口元を手で覆い隠す。私の方も無事ではなく、喉元までせり上がって来たものを嚥下することができずにいる。それほどに、私たちの視界に広がる空間はおぞましいものだった。


 その視界に映るもの。

 扉の先の空間には、無数の死体が天井から鉤縄で吊るされていた。そのどれもが内臓を曝け出し、四肢の無いものも多数見られた。

 死体の傍には鉄製と思しき器具が丁寧に、几帳面に並べて置かれていた。

 柄の長い鋏やナイフ。大きく分厚い鋸。片手用の金槌や、細い杭。先細る二枚の板金を根元で熔接した、得体の知れない器具。硝子容器の中には、透明な液体と一緒に幾つかの臓器や、眼球が入っている。その傍には色とりどりの小瓶。

「デモンに侵された者は、その思考を奪われる。今は無事な子らも、時間の問題でしかない」

 王女は語り出す。

「デモン…」

 胃の内容物だったものを嚥下した私は呟く。サチは言葉を失い、吐き気と戦っている。

「疫病デモン。エイヴィルはそう呼んでいました。この国の歴史書に、該当する記述はありません。ここ最近になって発生した疫病、或いは毒です。わたくしも、便宜上はデモンと呼んでいます」

 王女は表情無く、淡々と語る。

「デモンは、人から思考を奪う。大人はその猛威に抗えず、気が付けば廃人になっているのです。わたくしは最終段階に至った大人たちを回収し、この地下室に幽閉した。死体はデモンの研究に利用し、息のあった方も、また」

 鉤縄に提げられていた死体だと思っていたものが、びくっ、と動き、唸り声を響かせる。

「女王様…いや、ラヴィ。あんた、人を何だと思ってるんだ」

 再び襲う吐き気を堪え、私は女王に問う。こんなものが人の所業であるとは、信じたくなかった。

「…子供たちを救うためでした。仕方のないことなのです。子供たちが大人になる前に、治療薬を完成させなくてはならなかった。…デモンは子供に対して症状が小さいようなのです。まったく無い、ということも。子供の成長の早さと関係があるのかも知れませんね」

 無表情のまま、最後の口調だけは嬉しそうに語る様は、もはや狂気と言って差し支えない。

「あんたは狂ってる」

「それもまた、そうかもしれません。ですが、もう少し…そう、もう少しなのです。もう少しで、薬の手掛かりが掴めそうなのです。今回の回収作業で、また若い子供たちが重篤な症状を引き起こしている…。彼ら彼女らを検体にすれば、きっと…」

「アンナ…!」

 聞くや否や、サチは地下室の奥へと駆けて行く。女王は、横をすれ違った少女を止めることはしなかった。

「旅の人、どうか見逃して欲しいのです。これは、この国の問題でしょう。私はただ、残された子供たちを救いたいだけなのです」

「アンナ!ねえ起きて、アンナ!」

 部屋の奥にあるもう一つの扉が開いている。その先から、サチの叫び声が木霊する。

「この国の民は、もう間もなく救われるでしょう。国の方は…もう分かりませんが」

 私は戸惑う。彼女は、明確な信念のもと、子供たちを救うべく力を尽くしていた。死者はもとより正者さえも弄ぶような禁忌に手を出して尚、彼女は正気で居る。なにゆえに彼女はデモンの影響を受けていないのか、それはただ彼女が妄信して止まない己が信念にこそよるのだ、と言わんばかりに。

「私は…」

 どうするべきなのか。

 彼女がどれだけの命を費やしたのか、それを考えることは、もはや無駄だ。

 しかし、彼女は断罪されるべきなのではないか。そもそものこととして、まだ命ある者を己が理想のために犠牲にすることは…。


 どす。


 くぐもった、鈍い音だった。


 誰かの放った矢が、女王の背中から胸を射抜いていた。

「…うあ」

「なに…!」

 前のめりに倒れた女王は、不潔な血溜りに頭から突っ込んだ。

 女王の身体の向こう側には、矢を放ったままの格好のサチが居た。

「もう、少し…!もう、すこ、し…で…!」

 血溜りの中に這いつくばって、尚も立ち上がろうとする王女の眼に宿るのは、希望の光。

 荒い呼吸を繰り返し、何度も立ち上がろうとして、崩れ落ちる。

 何も言えず。

 何もできず。

 私はただ、立ち尽くす。

 ついに諦めたのか、女王は仰向けに倒れ、吊られた死体の群れを見上げた。

 その唇を、血が滲むほどに強く噛み締めている。けれど、その眼には涙は無い。

「…因果、応、報、でしょう、か」

「そうかもしれない、な」

 言葉の意味は分からないが、私はただ頷いた。

 向こうの方で、サチが泣いている。自分の為に、そして、誰かの代わりに泣いている。

「身勝手だ、けれど…、後のこと、を…お任せしたい…のです」

「…それは」

「くすり、ではなく、こどもたちの、こ、とを…」

 ゴホゴホと血の塊を吐き続ける女王。私はそっと体を起こしてやる。私の灰の服は、その後悔を伝播させるように、じわりじわりと赤い染みを広げてゆく。

「どう、か…」

「…力は尽くそう」

 女王は、既にこと切れていた。

 私は、もとの血溜りに女王を横たえると、立ち上がった。

 サチは泣き続けている。私はせめて、彼女の願いを…。

「終わりましたか」

 背後に、あの女神が立っていた。

「…あんたか」

「はい。戻りましょう、罪の祭壇へ」

 ギルストアは、ヴェールの向こうで言った。

「待ってくれ。私にはまだ、やることがある」

「罪なき今、長居はできません。貴方は理、人に非ず」

 私の身体は薄闇に溶けるように、燃え尽きた灰が落ちるように、さらさらと消えていく。

「ふざけ…――」

 視界は灰色に満ちる。



「…シン、どこに。…あれ、シンって、ぐす…、誰だっけ…」


「…行こう。みんなにも伝えなきゃ」



 目の前に広がるのはすり鉢状の大地。その底に在る石の杯。灰色の空。溢れんばかりの灰。灰。灰。

「…ふざけるな!」

 私はダガーを構え、傍に立つギルストアに斬りかかった。

 ダガーは女神の身体を捉えるが、空を切るような感覚だけを返した。

 女神の身体はさらりと灰になり、私の背後の灰から、また女神が形作られる。

「私もまた、理。滅ぼすことは叶わない。いえ、或いは、貴方になら…」

 女神は淡々と言った。

「…彼女たちは、子供たちはどうなった」

「罪の神ギルストアは、人の行く末を見守る導きの神ではないのです。その範疇を越えた権能は有していません」

 飽くまでも事務的なその態度が、今は輪をかけて不快に感じる。

 この神に、人の心を解するのは不可能なのだ。

「貴方は旅人。人は、外から来る者に恐怖、或いは希望を抱くものです。それは、現状の変化の要因となり得るものを怖れる、または希望することに他なりません。けれど、貴方は旅人。所詮は旅人。部外者たる貴方には、旅人たる貴方には、何かを変える力は無いのです。少なくとも、国一つを救うことなど…」

 私の中に感じる誰かの罪には、深い悔恨と未練が渦巻いていた。


 残された子供たちはどうなるのか。

 女王無くしてエイヴィルに対することはできるのか。

 デモンは、子供たちを蝕むそれは、果たして…。



 ゆらゆらと浮かぶ疑問。

 しかし解かれることはなく、私の心から滑り落ちては消えてゆく。


 新たに捧げられた罪を食み、黒の霧はその濃さを増した。




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