【序】罪狩の人
――かつて世界には幾柱もの神々があった。
人はそれを崇め奉り、ときには供物を捧げ、幾つかの人ならざる『業』を賜った。
そしてその『業』はいつしか形を変え、人の『技』として世に広がった。
永い年月を重ね、人は奇跡とも呼ばれる神の『業』を忘れ、
かつて抱いた信仰をも失った。
人の信仰無くば、神はこの世には在らじ。
神の『業』と共に、秘の担い手たる神々の多くは姿を消した。
――人の時代の始まりだ。
麗らかな春の日差し。柔らかな白雲は羊のように、青空の海原をさすらう。小鳥のさえずりは可愛げに、小川のせせらぎは清らかに、茂る青葉は麗しく、森の住人は皆が皆、揃って春の喜びを歌う。
そんな春の合唱を背後に聞きながら、私は土色のフードを目深にかぶり、茂みの中に息を潜めている。この視線の先には小さな泉がある。清く澄んだ水に満ちた、神聖さすらも感じさせる此処は、森の動物の水飲み場として、マトの村の狩人たちに知られている。特に春になったばかりのこの季節、雪解けの綺麗な水は動物たちにも好まれるらしく、他の季節に比べてやって来る動物の数が格段に多い。
息を潜めて泉を見張り続け、太陽は沖天に達しようとしていた。
諦めて仕掛けた罠の確認に行こうか、と考え始めた時、不意に泉の傍に影が現れた。
大きく太い角を二本一対、頭に生やし、茶色い毛皮に白の斑点を持つ、四足歩行のそれは、紛うことなく鹿だった。春になったばかりだというのに、その体は見るからに肥え太り、獲物としては申し分ない。
だが、私は弓に矢を番えることはしない。弓を構えることさえも、だ。なにしろ、獲物は大きすぎる。弓の一、二射で射止めることは難しく、逃げられてしまう可能性が大きい。そして、仮に逃がしてしまえば、他の動物が異常を察知し、暫くはこの泉に近寄らなくなってしまうだろう。
だから私は、次を待った。そしてこの判断は功を奏し、すぐに小柄で若い鹿の群れがやってきた。
今度こそ弓を構え、矢を番え、一射にて自由を奪う。
よろめく若い鹿。逃げ出す群れ。
追い打ち、とどめを刺すべく二の矢を継ぐ。
ひゅん、と風を切る鋭い音が、青く燃える若き命の灯を吹き消した。
私の背丈よりは小さな鹿を担ぎ、私は森を出た。森の入り口に近い場所に建てられた粗末なテントには、私の村の仲間たちが集まっている。
「おお、戻ったか、シン」
私の親友で次期村長候補の男、リドは豪快に笑った。片手には水の入った革袋を引っ提げ、こちらに歩み寄ってくる姿は、いかにも堂々としていて、長らしい威厳に満ちていた。体力自慢で頭脳は明晰、時の運すら味方につける、まさに豪傑といった風な男は、やはり私の自慢の親友だ。後頭下部に纏めて結われた髪が一房、自慢げに揺れる。
「いい収穫じゃないか。罠は今から回収か」
「ああ、いつもの場所だ」
リドは快活な笑顔と共に、ぶら下げていた革袋をこちらに投げて寄越す。危うく落としかけながらも、私はそれを受け取り、水を一口嚥下する。ただの温い水だが、ひと仕事終えた後ゆえに、その美味しさは格別だ。
「私が行くから、君はここに居るといい」
私がそう言って森へ引き返そうとすると、リドはその逞しい手で私の肩を掴み引き留める。
「何を言う。たまには森の中を駆け回らねば、身体が錆びついてしまう」
断固とした口調で、しかし笑顔は絶やさず言うのを見て、私は苦笑混じりに首肯する。
「そうか、それならお願いしよう。私が留守を引き受ける」
「あい分かった。行くぞ若い衆、実践授業の時間だ」
押忍、と威勢良く返事をするのは村の若い男たち。手には思い思いの狩猟具を握り、初めての実践授業に期待と緊張とを合わせ抱いている。
「君もまだ二十そこらだろう」
「はっはっは、気分の問題だ」
相変わらず大雑把なことばかりを言って見せるリドだが、この大胆不敵な態度こそが彼を豪傑たらしめているのかもしれない。私は本日二度目の苦笑で彼を見送り、拠点の資材箱の上に腰を下ろした。日はまだ高く、今日の収穫も上々。しばらくはマトの村人も、肉類に困る生活は送らずに済みそうだ。そんな安堵と共に、私は焚火に新しい薪をくべた。
リドによる若い衆の教育、並びに罠の回収は滞りなく終わり、私たち一団は、ちょうど西の空が赤く色付き出した頃に村に帰着した。森からはそう遠くない場所に在る平原の真ん中にあるマトの村は、極稀な野獣の出没さえ無ければ、平和を極めた良い村だ。村人は皆、お互いに助け合うことを厭わない。
村に着くと、私たち狩猟班の身内が出迎えに来ていた。森からの道はそう遠くはないが、一日の仕事を終えた身を労ってくれる存在というのは、どうにもありがたいものだ。感謝が尽きない。
リドは妻帯者ゆえにその妻が、他の若者たちについても親を始め親類が出迎えに来ていた。
では私は、と言うと、私の両親は既に他界し、パーシーという名の可愛い妹と二人の生活だ。だから、そのパーシーが迎えに来るはずだったのだが――
「おーい、パル。居ないのか」
呼んでみても、人混みの中から答える声はない。すぐ近くにいた婦人を捕まえてパーシーの所在を尋ねる。
「メディ婆さん。パルを見なかった」
「パーシーちゃんかい。見てないねえ」
老婦人は小首を傾げる。
「そうか、ありがとう」
他の婦人に尋ねてみても、誰も見ていないという。
「シン、どうした」
私がきょろきょろしていると、それを見かけたリドが駆け付けた。パーシーが居ないことを伝えると、リドはすぐに動き出した。
「シンの妹、パーシーの行方が分からんそうだ。捜索するぞ。男は村の周辺を当たれ。ご婦人方はすまないが、村の中の捜索、それから周知徹底を頼もう」
簡潔な指示だけを飛ばし、リドと私を除く村人は各々すぐに散らばっていく。
「俺はこの件を含め、先に村長のところへ報告に向かう。シン、お前は心当たりがあるならそこを探すんだ。日が暮れるまでに一度広場まで戻れ、いいな」
「ああ、分かった」
親友の行動力と統率力に感謝の念を込めながら、私は短く答えた。
頼れる友の背中を見送ることもなく踵を返し、私は自宅へ急いだ。
物の少ない自宅は相変わらず殺風景だ。しかし一方で、荒らされていないことは明白だった。小さな窓から差し込む橙色の光は、室内を、悪い予感を誘う赤色に染め上げている。
荒らされた形跡が無いとはいえ、私はまず、家の中を探すことにした。
私とパーシーの部屋意外には、リビングと小さな浴室しかないような小さな家だ。くまなく探したとしても、そうそう時間が掛かるものではなかった。それでも、私を嘲笑うかのように何の証拠も出てこない状況というのは、私の中の焦燥を少しずつ育ててゆく。焦燥はそのまま私の冷静な思考をも奪おうと、その触手をじわりじわりと伸ばし始める。
家の中の捜索を諦めかけた時、小さなテーブルの上の籠に、小さな固焼きパンが一つ、手を付けずに残されていることに気が付く。それはパーシーが昼食用に残しておいた朝の残りだ。
つまり、パーシーは昼頃から家に帰っていないことになる。
では、パーシーの午前の予定は。
そうだ。近くの小川に水を汲みに行くと言っていた。まさか、小川に流されたとでも言うのだろうか。いや、パーシーは聡明な子だ。元気が有り余ることも少なくないが、危険だと分かっているものに対して油断するようなことはない。水場の危険性については再三に渡って注意した。まず考えられないだろう。
――それでも。
それでも、他に手掛かりも無さそうならば、調べてみるべきだろう。
村の中央にある広場に出ると、村の男たちが集合して何やら話し合いをしていた。
「来たか、シン。情報を整理する、お前も参加するんだ」
どうやら体調が思わしくないという村長ではなく、リドが臨時会合の音頭を取っていた。
村ではやや貴重なものとされる羊皮紙を惜しげもなく使い、村で集められたパーシーの情報が纏められていた。村の衛士と話をしているのを見た、家から出るのを見た、午前中に村を出て行くところを見た、などの目撃情報が幾つか挙がっていた。
「シン、お前の方で何か手掛かりは」
私は自宅で気が付いたことを、自身の推測も交え、話して聞かせる。
「水汲みか。何かあったとすればその辺りが妥当だな。すぐに探しに行きたいところだが…」
日は既に沈み切ろうとしている。小川は村からそう遠くないとはいえ、暗い中を探し回るのは得策ではない。探す方が危険に晒され、怪我などしようものなら本末転倒だ。
「私には構わないでくれ。明日の早朝、捜索を再開しよう。皆には迷惑を掛けるな、すまない」
私は深く頭を下げる。一人のために皆が力を合わせてくれること、その有難さが身に沁みる。そんな彼らを危険に晒すのは、正常な感覚の持ち主であれば耐えられない筈だ。
「そういうことだ。明日の早朝、鳥の鳴く前に集まってくれ。無理にとは言わん、できれば、でいい。望むなら、俺が相応の補償をしよう。では解散だ、ご苦労だった」
リドの号令の下、会合はお開きとなり、またリドと私だけが広場に残された。
「難しいかも知れんが、今日はもう休め。狩りの消耗は思っているよりも蓄積しているだろう。明日の為にも休むことだ」
リドの気遣いが心からのものであることがわかる。それくらいに彼の言葉と表情は真剣だ。ただの気休めでなどあり得ない。
「ああ、リド、本当にすまない…。いや、ありがとう」
「お礼も謝罪も、謂れは無いんだがな。ほれ、さっさと寝ちまえ」
リドはそのまま夕闇に消えていった。
「…すまない」
罪悪感のようなものを胸に感じながら、私は家路に着く。
夜。
籠に残っていた冷たいパンを齧りながら、私は準備を始めていた。
ランタン。ナイフ。弓と矢筒。夜の冷気を避けるためのフード付きコートとマスク。干し肉が少々。小さな革袋に水を半分。
革のブーツの紐を締め、薄い革のグローブも嵌める。
いつもの狩猟用装備を着直した私。
「よし」
「この夜更けにどこへ行くってんだ、シン」
不意に、背後から聞き慣れた声がした。
「…リドか」
夕刻に見たそのままの姿の男が、そこには笑っていた。
「パーシーは、お前の唯一の肉親だったよな。そんなお前が心配して眠れないかと思って来てやったら、これだからなあ」
手に持っていた茶色の大瓶を手近なテーブルに置くと、リドは腕を組む。
「止めに来た、っていうのが本音なのか」
私は表情を見せず、肩越しに尋ねる。
「馬鹿言うな。お前のことはパーシーの次には知ってると思うぜ、俺はよ」
リドは呆れた、というように組んでいた腕を解き、掌を見せて僅かに広げて見せる。
「じゃあ何しに…」
「少し強めの酒だ。身体冷やさねえように飲んどけ」
一度は置いた酒を私に投げて寄越すと、リドは腰の山刀に手を掛けた。
「行くぞ。今日は徹夜だ」
表情は一転。いつになく真面目な顔でリドは戸口へ向かった。
暖かくなってきたとはいえ、春先の、まだ雪解けの終わらない季節の夜は、依然として激しく冷え込む。吐く息は白く、夜露に濡れた草木は服の上からでも体温を奪おうとする。リドに貰った酒は、話に聞いていたよりもはるかに強く、腹の中で焼けるような熱を発している。おかげで寒さはあまり堪えず、いつものような行動に支障はなさそうだった。
パーシーの捜索については、私の推測と、村で集められていた情報をもとにして、近くの小川まで出向いてみることになった。
そして今、目の前にはその小川が見えている。
流れに漂いきらめく水中の月。澄んだ小川の水は村の生活用水として使われる。
「おい、この桶は」
何度も補修を重ね太くなった桶の持ち手。年季が入って黒っぽくなった桶の外壁。縁の欠け具合。
記憶にある、我が家の木桶と寸分違わぬ物が川原に転がっていた。
「…間違いない。私の家の物だ」
「…そうか」
沈黙が私とリドの間に降り立った。
この状況が意味すること。それはパーシーが小川に流された可能性。そして、何者かに連れ去られた可能性。この二つだ。
「まずは下流を探そう、リド」
「…ああ」
短く言って、私は桶を拾い上げ、リドは黙ってランタンを持ち直した。
悪い予感を抱きつつ、私たちは川沿いに下流へ向かって下り始めた。
ランタンの明かりが小川に照り返るのを眺めながら、私は白く長い息を吐き出した。ゆらゆらと立ち昇る白い息は、そのまま、澄んだ空気の中に消え入ってしまう。
「なあ、シン」
「どうかしたか、リド」
リドが後頭部の髪を弄びながら、私に語り掛ける。その声は囁くようで、今にも消え入らんばかりの声量で。
緊張だろうか。それは彼らしからぬことだ。いつも長たらんとして堂々とする彼の態度が、私たち二人になった瞬間に鳴りを潜めてしまう。それは今までにもないことだった。
「…この件、俺に罪がある」
独白ではない。しかし、隣でその言葉を聞いている私には、その意味を直ちに理解することはできなかった。十数歩の間を置いて、私はようやく答えを口にする。
「パルのことか。君が気に病むようなことじゃないだろう。他に誰かを連れて行かなかったことは、パルの落ち度だ。それは、仮にパルが亡き者になっていたとしても、変わらない」
マトは平和な村だ。だから、危険に対する認識が甘かったとしても、そこに他者が抱える責任は生じない。飽くまでも本人の失敗であり、それを他者に擦り付けることなどできはしない。何より、リド本人はいまだ村長ではなく、村全体の責任を負う必要もない。その責任を背負おうなどと思うのは、彼がただ、真面目に過ぎたからだ。
「リド、お前は優しいな」
「…そんなことはない」
ざくざくと川原の石を踏みながら、夜の川沿いを歩く。草と土の匂いが鼻をくすぐるが、今はそんなものが気休めになどならない。
川幅が広くなり、流れも上流に比べれば緩やかになってきた。流れ着いた細い流木や壊れた木桶などは、このあたりで川原に漂着して、朽ちかけている。
「このあたりを探そう」
「ここでいいのか」
リドが訊ねるが、私はただ頷くだけだ。
「…血の匂いがする。リド、君も分かるだろう」
リドは答えない。それはきっと、互いに認めてしまうことになるから。
「例え、死んでいても。その身はきちんと弔ってやろう。なに、まだわからないさ。きっとパルは生きてる、そうだろう」
「…ああ」
リドと私は、川原の捜索を開始した。
夜半の月は天高く、満ち足りた姿を煌々と。
パーシーの捜索は、そう長くは続かなかった。
川原の岩陰。背の高い葦の根本。浅い水底。ところどころに隠されるようにして散らばっていた、真っ赤に濡れた布の切れ端。その布地の基調となった赤色に、私は絶望を覚える。
そして、その布地の付近に残る、より強い鉄臭さ。残された布地が大きくなるにつれ、その匂いもまた強くなっていった。
そして、匂いの源に見つけたのは、変わり果てた妹の姿だった。
声は出ず。
涙も出ず。
溢れるのは後悔ばかり。
どうして、私はもっと妹に注意をしてやらなかったのか。
罪があるのは本人ですらない。全ては私にこそ。
リドには偉そうに語っておきながら、私こそが罪人である、と自責の念は絶え止まない。
膝から崩れ落ち、リドが来るまでどれほどそうしていたかも分からない。
私と妹だったものを見て、リドがどんな顔をしたかも、私は知らない。
リドはただ、村の連中を呼んでくる、とだけ言い残して走っていった。
ああ、朝日が眩しい。
だだっ広い平原で独り、私は暁の空を見上げた。
夜を徹した捜索行の後も、私は眠ることが出来なかった。
罪の意識からか。はたまた、妹を手にかけた何者かへの怒りからか。
「村長に報告してきた。今日の夕刻に村全体へ発表し、それから明日、遺体の埋葬だ」
リドは仮面のような仏頂面で、淡々と私に告げた。
窓際の椅子に腰掛けた私は、すっきりと晴れ渡った空を眺めている。
「…不幸な事故だった」
「いや。パルは誰かに殺された」
リドの言葉に、一瞬の間もなく反駁する。
目を見開くリドの顔が、視界の端に映った。
「…お前のことだ。何か根拠があるんだろう」
「精液だ。分かるか」
私が口にした言葉に、驚きとも怒りとも取れない表情を曖昧に浮かべて、リドは絶句する。
「…それは」
「彼女は辱められ、その上で命を奪われた。これが事故なものか」
重苦しい空気が部屋に満ちる。私の自宅から音という音が遠ざかり、外から漏れ聞こえる喧騒さえ、私たちの耳には入っていないだろう。
「私はもう一度、村の情報を整理しよう。きっと、この村に犯人がいる」
私は立ち上がると、小さな木のコップを手に、水瓶に近づく。そして空になったままの水瓶を覗き込んで、コップを棚にそっと置いた。
「…俺も協力する。犯人に怪しまれてもまずいだろう。お前はいつも通り狩りに出かけろ。俺もすぐに行く」
「そうするよ」
親友は私の肩を叩くと、家を出て行った。
私はいつも、単独での狩りを好む。大物を狙うことは難しくなるが、その反面、他の仲間との意思疎通を考えなくてよい分、楽に仕事ができる。一人で事故に巻き込まれようものなら助かる見込みは少なくなるが、この森でそのような事故が起こることは殆どない。私一人で仕事が完結する、という点が、私の性根に合っていると感じるのだ。
「だからと言って、俺の誘いを跳ねのけるのは無しだ」
私の主張を跳ね飛ばして、リドはやや強引に笑って見せた。私の背中をバシバシと痛いほどに叩き、私の気を紛らわせようとしてくれている。
「他ならない君の誘いだ。断るなんて考えないさ」
私は手の甲で、親友の分厚い胸板を叩く。
木々の生い茂るマトの村から最も近い森。村人は古い慣習から『ギルスの森』と呼んでいる。つい先日に訪れた森と同じ場所だ。組んだままにしていた拠点のテントは、変わらずそのままになっている。
「じゃあ、若い衆はそのまま待機だ。まずは俺とシンで行ってくる。もし日暮れまでに戻らなければ、教えたとおりに探しに来てくれ。頼むぞ」
気合の入ったいい返事も、今日ばかりは控えめ。私が居ることに気を遣っているように思われた。
「行くぞ、シン。幾つか話もある」
リドはそう言って森の中へ入っていく。私も遅れまいと急ぎ足になっていく。
「何か有用な情報が入ったのか」
「…まあな」
リドは言葉少なく言うと、歩みを一層、速くする。
「おい、どこまで行くんだ」
「いいから、ついてこい」
リドは真剣な顔で言う。
だが――。
「おい、リド。何か隠してるな」
リドがその足を止め、こちらを振り向いた。
「もう他のやつらは見えないし、話が聞こえることもない。例の話とやらは、ここじゃできないのか」
森の木々は、深くに入るほどに密度を増し、辺りは枝葉の屋根によって夕暮れ時のように暗い。
「…そうだな。ここなら」
リドは腰に提げていた山刀を抜いた。
「おい、リド」
「シン、悪く思うな」
ぴう、と風切り音を鳴らして一筋の煌きが走る。
山刀の一振りは、私が咄嗟に飛び退いた空間を走り抜けていく。
「どうしたんだ、リド!私に恨みでもあるのか!」
腰の短剣に手を伸ばしつつも、それはまだ抜かない。悪い予感ばかりが胸を過ぎるが、一縷の希望を捨てはしない。否、捨てられずにいた。
「お人好しだな、シン。そんなお前のことを、俺は尊敬していたんだ」
袈裟懸けに、大ぶりの一振りが再び私を襲う。
今度は右方向へ大きく跳び、辛くもその攻撃を躱してのける。
それは明確な殺意を乗せた一撃だった。私の首があった場所を通過した山刀は、刃を返して、さらに襲い掛かる。
しかし転がるように躱した刃は、私の背負っていた矢筒の紐を断ち切る。がらがらと音を立てて、羽矢が地面に散らばった。
「リド、君がパルを殺したのか」
体を起こしながら羽矢を数本拾い上げ、さらに大きく後ろへ距離を取る。
「…ああ、そうだ」
数拍の間を置いて、リドは淡々と言う。震える囁くような声が、森の木々に吸い込まれていく。
「どうして…」
「知らなくていいことだ」
大きく踏み込み、斬り込んだ刃は、鈍く光りながら三日月状の剣閃を描き出す。
今度こそ抜き放った短剣が、辛うじてその軌跡に割り込み、その殺意を反らす。だが、衝撃に耐えかねた短剣は私の手を離れ、どこか背後の大木に突き刺さった音を響かせる。
「シン。俺のために、村のために、死んでくれ」
振り抜いた姿勢のまま、リドは呻いた。
「こんな不条理を受け入れろと。冗談じゃない!リド、君にはきちんと償ってもらう」
それが死を伴うかは、私の判断に依るところではない。村の皆で、決めることだ。
例え、私の気持ちがどうあろうと。
「それはお前が本当に望むことじゃないだろう。お前は独りで犯人を見つけて、どうしようと思った。少なからず、そこには私刑を目論むお前が居たはずだ!」
大粒の涙が、枝葉の間から漏れる陽光を反射する。憤怒という感情を露わにした彼の表情は、大きく歪んでいた。
私の方は何も言い返せず、唇を噛んで更に距離を取る。今度は一足には埋められない距離だ。
私は弓を構え、矢を番える。矢は三本。二本は番えず、弦を引く手に握られている。
「後顧の憂いを断つために、俺はお前を殺す。納得してくれとは言わん。ただ理解してくれ」
リドが踏み出そうとしたところに、第一射を放つ。
かっ、と乾いた音がして、リドの足元に矢が突き立った。
「お前は優しい。これでもまだ、俺を許そうとしてくれる」
リドが再び、大きく踏み込む。
余分に取った距離が、予想に反し、またも一足で埋められる。
ああ、そうだ。リドには剣術の心得もあった。
しかしそれと同時に、番え、放たれた矢がリドの腿を掠め、僅かに体勢を乱す。
ほんの僅か、生まれた隙を逃さず、私は木々の間に隠れるようにして彼我の距離を離した。
「お前は俺を撃てない。そうだろ、親友」
ひゅ。
音を立てて飛び出した矢は、リドの頬を掠めて暗闇に消えた。リドは木の陰に隠れて見えなくなった。距離はある。まずは落ち着いて――。
「じゃあな。…安らかに眠ってくれ」
視界の外から回り込んだリドが、私の左胸に山刀を突き立てた。
冷たい刃が、体の中に入って来る。体の熱が、力が、そこから吸い出されていくような感覚。ついに膝を折り、大地に伏せる。
薄れゆく意識の中で、誰かの嗚咽が聞こえた気がした。
体が重い。いや軽い、軽すぎる。
ああ、なるほど。ここは死後の世界という奴か。いわゆる魂という状態になって、私は今、どこかを漂っているのだろう。
漂ううちに、私は考える。
そして考えるに、私には後悔がある。
それは、妹への罪滅ぼしも、仇を討つこともできなかったこと。
償いたい、この罪を。
どこかで声がする。
「望むのなら」
それは女の声だった。柔らかく、硬質で、高いようで低いような、曖昧な声。私の意識次第でころころと印象が移り変わるような。だが、それでも女だということだけが判る、不思議な声だった。
「罪に対して向きあうことを選んだ人。貴方が望むのならば、貴方に機会を与えましょう」
それは悪女の誘いか、聖女の慈悲か。判らないままに、私は手を伸ばす。
償いを、救いを求める。
「我が眷属となるのなら…」
続く言葉に構うことなく、私は見えぬ声の主に向かって手を伸ばす。
目を覚ますと、目の前の宵闇に私が横たわっていた。胸に開いた穴から流れ出る赤色は、鉄の匂いを漂わせている。体のところどころは獣に噛み千切られたような跡があり、四肢の幾つかは欠損していた。このまま放っておけば、今からそう経たないうちに白い骨になってしまうだろう。身に着けていた弓と矢も軒並みへし折られ、まるで獣に襲われて死んだかのように見える。どこかに飛んで行った私の短剣は見当たらなかった。
「新しい我が眷属よ。罪の女神ギルストアは、貴方に加護を授けました」
背後で、うっすらとだけ覚えのある声がした。
「…罪の女神だと。私を馬鹿にしているのか」
振り向くと、薄暗いローブを身に纏った女がそこに立っていた。袖が長いせいで、その手は隠れて見えない。さらにその顔はローブと同じように薄暗い色のヴェールで覆われていて、人相も判然としない。しかし、この夜の闇の中に在って、この女の姿をはっきりと認識できることに違和感を覚えた。
「馬鹿になどしてはいません。でなければ、この状況を説明できようもないのですから」
私は、今この瞬間、五体満足でこの大地に立っている。それなのになぜ、私は…私だったものが、ここに倒れ伏しているのか。
「シン=ハンターフィールズ。貴方は今、この時を以って、人の生の呪縛から解放されました。人が魂と呼ぶそれに実在を与えられ、罪の女神ギルストアの眷属となり、生まれ変わったのです」
魂に実在を与える。罪の女神ギルストア。眷属。
理解の及ばない言葉が立て続けに羅列され、私の頭は頭痛を訴えようとしている。
「つまり私は、確かに死んだ。しかし、あなたの、何か神秘的な力で蘇った。そういうことなのか」
「はい」
私の呈した疑問に、女神と名乗る女は短く答えた。私は短く溜息を吐く。
彼女の言葉を信じるのは難しい。しかし、目の前の現状を鑑みるに、事実であることは確かなようだ。試しに自らの頬を抓って見るが、大して懐かしくもない、いつもの痛みが感じられた。
「何の為に」
「罪人を誅し、『罪』を集めること。それが、我が眷属として貴方に課せられた使命です。現状での唯一の眷属である貴方に、罪女神ギルストア直々の下命です」
直立不動。動いている筈の口元でさえ薄暗いヴェールの向こう。まるで人形のようなその姿が、不意に動いた。
右手を、宙を撫でるように振ると、私の身体を淡い光が包み込む。次の瞬間には、私の身体を見たことのない衣装が包んでいた。
全体は薄汚れた灰色。目元までを深く隠すフード。口元まである長さの襟。先にいくほど徐々に膨らむ袖。体幹に近い部分ほど細く、身体に密着するような作りで、人の身体の動きを阻害することのない、よく考えられた物だった。腰の革帯には、細身の刃を持つ一振りのダガー。背中側に有るポーチには何も入っていないが、小瓶などを入れるための仕切りがされている。
「罪の女神ギルストアからのささやかな贈り物です。役に立ててください。では、行きなさい、罪狩の人、我が眷属よ」
女神は一方的にそれだけ言い残すと、闇に溶けるように姿を消した。
「『罪』を集める…だと」
独り言ちるも、答える者など在りもせず。傍らには自分の亡骸が転がるばかりだ。
月さえもそれを冷たく見下ろし、嘲笑うかのようだった。
自分の身体を自分で埋葬する。そんな奇妙な体験をした者は、どれだけ世界が広くとも、私以外には居ないだろう。そんな思いで過去の私を埋葬すると、森の中にも朝日が差していた。
私が現在いる場所は、間違いなく、リドが私を殺した場所だ。木の幹に突き立ったままの矢が、それを物語る。
「リド…」
問い質さねばなるまい。かつての親友が何ゆえに妹を辱め、命を奪ったのか。
そして、罪を償わせなければ。
『それはお前が本当に望むことじゃないだろう』
リドの言葉が脳裏によみがえる。
「…それでも」
何か、引っかかるのだ。あの日、リドは私や若い衆と共にこの森へ狩りに出向いた。リドがパーシーを殺めたのだとすると、やや無理がある。小川は、森から見ると村を挟んで反対側。どうやっても、行って戻れば日が暮れる距離だ。
確かめるしかない。
私はギルスの森を出て、村へ向かった。
マトの村に着いても、日は昇りきっておらず、狩猟班とすれ違うこともなかった。
しかし、村に着いてすぐに、それは狩猟開始の時間には早かったからではない、ということが分かった。
村の広場の中央で、赤々と燃え上がる炎。中では二つの木棺が薪としてくべられている。
これは、マトの村で伝統的に行われる火葬だ。巨大な火柱の傍で、村のすべての人間が手に一本ずつの薪を持ち、火にくべていく。
「ああ、旅の人かい。珍しい」
「うわっ」
目立たないように建物の陰からその様子を見ていた私は、背後から掛けられた声に、思わず声を裏返してしまう。
「ここには大したものは無いけどね、お疲れなら、ゆっくりしていきなさい」
優し気に微笑んで、手拭いを被った背の低い老婆が言う。鷲鼻が特徴的なこの人物は、間違いなく薬師のディア婆さんだ。最近、弟子のメルディが勉強を怠けがちだ、と私に愚痴をこぼしていたのを覚えている。昨日も弟子の出迎えに来ていた。
「でもまあ、こんな時に来てしまうなんて、旅人さんも運が無いねえ」
「私は旅人では…」
否定の言葉は老婆の耳には届かない。
「あれは、このマトの村の葬式なのさ。村の皆で、魂を天に還す。そのために、村の皆で薪をくべるのさ、祈りを込めて、ね」
小さい頃によく聞かされた古い習慣。祭事として村に残る今生の別れの儀式。
それを今、私は昔からよく知った人物に改めて説かれている。
「生まれ変わった、か」
囁いた言葉は老婆の耳に届いたようで、こちらを怪訝な顔で見上げる。
「何か言ったかい」
「ああ、いえ。…亡くなったのは、どんな方だったのですか」
話題を変え、私は尋ねる。
あの棺桶の一つは、少なくとも私の妹の物だろう。そんなことは分かりきっている。だからもう一つの方だ、私が気になっているのは。
「そうさね…。一人は、村で一番気立ての良い、賢くて健気な娘っ子だったのさ。たった一人の肉親である兄と共に、仲良く暮らしていたのに…」
眉間に皺を寄せ、メディ婆さんは声を震わせながら言う。
「…まさか、もう一人は」
白々しいにも程がある。本当は分かりきっていたことだったのだ。
「もう一人は、その兄さね。後を追うようにして、森で行方不明になったんだとさ…。形見の短剣は、その兄の親友が見つけたそうだが、きっともう、生きてはおらん。せめて亡骸だけでも見つけられたなら、妹さんも浮かばれように…」
片手で顔を覆い、メディ婆さんは肩を震わせた。
私は何も言わなかった。
暫くそうして立ち尽くした後、老婆に礼を言うとその場をそっと立ち去った。
井戸水を組み上げた木桶を覗き込むと、そこには紛うことなき私の顔が在る。毎日飽きもせず見ていた、自分の顔だ。しかし、メディ婆さんは私のことを『旅人』と呼んだ。あの後、特に交流のあった数人の村人たちに話を聞いてみたが、誰もが私のことを『旅人』として認識していた。
それが、生まれ変わったせいなのか、あの女神の力の賜物なのかは分からない。少なくとも、私はこの村ではただの他人であるらしい。
胸の底に湧き上がる虚ろな気持ち。どうしようもない喪失感は、悲しみや怒りを喚起する。呼び起こされた感情たちは、淀み、混ざり合い、混沌として形の無い苦しみとなる。
だが、この状況はかえって好都合なことだった。
私が、過去の私、シン=ハンターフィールズとして再び命を狙われることはない。そして、別の人物として、事件の真相を探ることができる。
そう思い至った私は、まず村長の元に向かった。
「お忙しいところ、申し訳ない。私は旅の者です。村長にご挨拶を、と思い、参りました」
村長の屋敷は、誰が見てもそうと分かるほどに立派な造りだ。木造が中心の民家に対し、村長宅は石造りの基礎の上に、木と石を合わせて作られた外壁。そして破風造りのレンガの屋根。窓には硝子の薄板が嵌まっている。
重厚な木の扉が開いて、私を出迎えたのは、親友のリドだった。普段から村長の世話をしているらしく、狩猟に行かない日は専らここに居る、というのは話に聞いていたが、今の今まで失念していた。
「ああ、旅の人ですか。どうぞ中へ」
激しい鼓動を繰り返す心の臓を意識しながら、私はリドに促されるまま中へ。
「ようこそ、旅の人。儂が村長のガルバムです」
慇懃に礼をして、杖を携えた老人は愛想よく私を出迎えた。通された応接室は質素なソファと、小さな机、幾つかの大きな燭台、そして観葉植物がある程度。開け放たれた窓からは、冷たく、やや煙臭い空気が流れ込んでくる。
「私はシン」
村長は目を見開き、隣に控えていたリドは肩をピクリと揺らした。
「…シン=ジャージマーです」
付け足すようにして、私は続けた。
「ほう。奇遇なことですな」
村長は神妙な顔で話し始めた。
「最近亡くなった村人にも、シン、という名の若者がおったのです。妹の後を追うように、行方をくらましてしまった。たった数行だけの遺書を残して、な」
遺書だと。なんだそれは。私はそんな物を書いた覚えはない。
リドのほうにチラリと目を向けるが、やや俯いた姿勢で固まっていて、その表情は分からない。
「ああ、旅の人には関係の無い話でしたな。ではリド、この方を宿まで案内しなさい」
「了解です、村長。旅の人、ご案内いたします」
「ああ、助かります」
目配せをされ、リドは応接室の扉を開けた。私は促されるまま、二人に頭を下げて部屋を後にする。
「縁の無い故人の話などしてしまい、申し訳ありません」
リドは後ろから私の元に駆けてきて、隣に並んだ。
「最近は自ら命を絶とうと考える者は村に無く、葬式を上げるのも随分久しく無かったことですので…どうやら気が滅入っているようなのです」
「はは、お気になさらず。気持ちは分かりますよ、痛いほどね」
リドの丁寧な口調は、私にむず痒さを覚えさせた。私がシン=ハンターフィールズその人であると言えれば、それとも無縁でいられるのだろうが、勿論、そんなことが出来るはずはない。
目的を忘れるな。
戒めを確かにする。
「あなたは、辛くはないのですか」
「は」
私の方にぱっと顔を向け、訝し気に首を傾げる。
「あなたも、どこか辛そうに見えます。無理をなさっているのでは」
屋敷を訪れた時に、どこか覇気の無いリドの後ろ姿を見た。いつでも胸を張っていたかつての親友の姿は、そこでは酷く薄れているように思えた。
しかし、それだけが心配で問うたわけではないが。
「はは、旅人殿に見抜かれるとは。私も、次期村長としてもっと精進せねばなりませんな」
ばつが悪そうに笑ってから、リドは黙り込んだ。
「…死んだ男、シンは私の親友でした」
ぽつりぽつりと、リドは語り出す。
「あいつは、死ぬべきではなかった。死ぬ必要はなかった。それなのに、俺は、…を止められなかった」
小さく嗚咽を交える男の声は、きっと虚偽など無い言葉だった。
「…大事な、友人だったのですね」
私の頬にも、涙が伝っていた。
目の前の男は、私を殺した男である。その男が、私を殺したことを、こんなにも悔いている。虫のいい話だ、と断ずることはあまりに容易い。しかし、この男が私を殺さなければならなかった背景には、何か裏がある。そう確信に至らせるだけの何かがあった。
「…申し訳ない、見苦しい姿をお見せしました」
顔を覆っていた手を離し、リドは顔を上げた。
「さて、着きました。こちらの家を使ってください。自由に使っていただいて構いませんが、あまり汚したりされませんように。謝礼などは結構です、我々とて商売として貸しているのではありませんから」
案内されたのは、私の自宅だった。
言いたいことはいくつかあるが、最近死んだ人の家に泊まらせるのはいかがなものか。実際、この村には空き家など無い。であれば仕方のないことだろうが、それでもやはり、複雑な気持ちになってしまう。
「…ありがたい、助かります」
「それでは、また何かありましたら、村長か私のところへどうぞ。夕食は日暮れの頃にお持ちします」
そう言い残して、リドは扉の向こうへ姿を消した。
迫る夕刻。私は暮れゆく橙の太陽を眺めている。生前、とでも言えばいいのか、私が確かにシン=ハンターフィールズだった頃の習慣は、今でも変わらないようだった。
「旅人殿、失礼します」
こんこん、と二度のノックの後、リドが夕食を携えてやってきた。
窓際に置いた木の椅子に腰かける私を見て、リドはほんの一瞬、動きを止めた。
「眺めはいかがでしょうか」
「ああ、いい景色ですね」
社交辞令みたいな会話。他人行儀なそれが、私には歯痒い。
「私の親友も、そうやって夕焼けを眺めるのが好きな男でした」
「もしやこの家は、シン殿の家だったのでは」
リドは苦笑する。
「ああ、お気づきになられましたか。お嫌でしたら、我が家にいらしても…」
「いえ、ここで構いません。私は、ここが落ち着くようだ」
他ならぬ我が家だ。当然だろう。
「固焼きパン、ですか。有難く頂きます」
私は椅子を立ち、机の上に置かれた小さくて硬いパンを齧る。その様子を、目の前の男は遠慮がちに眺めている。
「どうかされましたか」
リドは暫く逡巡した後、口を開く。
「あなたは私の親友に似ている」
心臓が跳ねるのが分かった。緊張と、その反面で安堵と嬉しさを感じた。
「どうして」
私はパンを加えたまま入り口に向かい、戸締りを確認する。
「あなたの所作の一つ一つが、どうにも彼を思い出させる。…他人とは思えないほどに」
リドは腰に提げていた短剣に触れた。それは私の持っていた物。森で斬り合ったあのとき、山刀によって弾かれて消えた、私の短剣だった。
私はリドに背中を向け、戸にしっかりと鍵をかける。
「リド、君はまた、親友を殺すのか」
背後。近くで足音が止まった。細心の注意を払って引き抜いたのであろう短剣が、鞘の鯉口を掠めた音を私は聞き逃さなかった。
「やっぱり、お前なのか。シン」
金属の跳ねる音が響く。
「俺を殺しに来たんだろう。まさか生きているとは思わなかったが」
「生まれ変わったのさ。信じやしないだろうけれど」
振り向くと、リドは顔を俯けて、すぐ目の前に立っていた。
「君には私が私だと判るのか」
「…判るのは、その仕草と癖だけさ。顔を見ても、何というか、男の人だというのは分かるが、特定の誰か、と言う風には分からない、とでも言うか…」
どうやら、私の相貌は人の認識に残らないらしい。少なくとも、特定個人としての特徴が認識されないのだろう。
「本当に、シン、なのか」
「君が好きだったのは、鹿肉のミートパイだったか」
「はは、間違いねえな」
乾いた笑い。
私は床に落ちた短剣を拾い上げ、リドに向き直った。
「殺せ。そのために来たんだろ」
リドは言った。
「違うさ、元凶を断ちに来た。罪の源を」
私は言った。
「ならば、俺を…」
リドが言い掛けたところに言葉を重ねる。
「おそらくは村長だろう」
私は敢えて言い切った。
「…何を考えている」
リドは狼狽える。
「君が私を殺したことに、これほどの罪の意識を持っているのなら、パルを…私の妹を犯し殺すことなんてもっと在り得ない。たとえ、凌辱の事実に気付いた私への口封じだとしても」
それは詭弁だ。空論、雑な推論、妄言の類だ。
しかし、冷静さを欠き始めた彼には効果絶大だった。
「違う、やったのは」
「ガルバム村長だ」
「違う!」
机に拳を叩きつけ、リドは怒鳴った。
「すべて、すべて俺がやったことだ!お前の妹を連れ去り、犯した。そして殺したんだ」
叫ぶその頬には涙が伝う。
だが私は何も感じなかった。罪を暴くために、心はこの瞬間、どこかに置き去りになっていた。
「いいや違う。破れた衣服に付着していた夥しいまでの大量の血液。犯した後にわざわざ破ると思うか。逆だ。殺した後なんだ」
リドは膝を折り、床に伏した。嗚咽は押し殺した叫びとなり、部屋中に響き渡った。
「詳しく話を聞こうか、リド。君に、贖罪の意志があるのなら」
結局のところ、元凶はガルバム村長だった。
村の男衆が狩りに出かける時間を見計らって、村長は家に閉じ籠るふりをして外出。川原に居た私の妹に目を付け、言葉巧みに下流へと連れ出す。そして手近なところにあった石か何かで殴りつけるなりしたのだ。そして息をしなくなった妹と行為に及んだ。その後、遺体は私とリドによって発見され、そのことは私が気付いた凌辱の痕跡を含め、村長に報告された。そして村長から、私はそれに気づき得るものとして判断され、指示を受けたリドの手によって抹殺されたのだ。そして、自殺に見せかけるために遺書まで偽造した。
「あの日、狩猟に出るよう指示を出したのは村長だった。それもできるだけ大勢で、という条件付きだ。何か変だと思いはしたが、深くは追及しなかった。俺の罪はそこからだ」
リドは黙り込んだ。
「そして、私を殺した」
「…村の為だった。村長が悪事を働いたことが分かれば、すぐにこの村は荒れてしまう。平和に酔ったこの村は、次の村長にも必要以上の疑いの目を向けることになる。それはこの村の平和のためにも、避けねばならないことだった」
怒りを覚えた。そのために、この男は他ならぬ友である私を殺したのか。
「そうやって割り切れるのなら、さぞ生き易いものだろうな」
「俺だって反対した!だがやつは、俺の妻を人質に取るようなことを言いやがった!俺は、もう、どうしたらいいか分からなかった」
だったらリドの妻が死ねばよかったのだ。
そんなことは言えなかった。私とて、そんな状況に陥った時、リドを手に掛けないとは言い切れない。それこそ、妹を人質に取られようものなら。
怒りはうやむやに、感情のるつぼの底へと沈む。
「頼む。お前が村長を許せないのは分かる。だが、この村を守るためだ。俺だけを…」
「断る」
ぴしゃりと言い放つ。
「おい、シン…」
「君が村長なら、誰も文句は言わないさ。私を殺した罪を償うと言うのなら、それはこの村を守ることで果たせ。それまで、私は君を許さない」
「だが、俺はお前を」
戸惑うリドに、さらに言葉を投げる。
「村長を殺すのは、旅人で快楽殺人犯のシン=ジャージマーだ。君じゃない。それなら、君の罪は漏れない。そうだろう。それに、こうして私は生きている。一度死んだのだとしてもね。ならば君の罪は無いも同然だ」
私は不敵に笑った。
翌朝。朝日が昇りきった頃に、私とリドは村長宅に出向いた。
「村長、旅の者が最後に挨拶をしたいと」
「おお、もう発つのですか。もう少しゆっくりしていけばよいものを」
「いえ、いつまでも居ると、この村が恋しくなってしまいますので」
「ははは、村長冥利に尽きますな」
目の前で愉快そうに笑う諸悪の根源。私はフードの奥から睨み付ける。
「して、旅の人よ。何ゆえフードを被っておられるのか。部屋の中であろう、脱げばよいものを」
不審に思われたのか、村長は片眉を上げて尋ねる。
「いえ、そう長居するつもりはありませんので。仕事は手早く、が信条でして」
「ほほう、職人気質というやつですな」
私と村長は笑い合う。
「村長。俺は狩りの準備がありますので」
「あい分かった。頼むぞ」
「了解です」
リドは応接室を去っていった。すれ違いざま、その眼に宿って見えたのは決意の炎だろうか。
「さて、邪魔者も消えたことです。本題に入りましょうか」
「何、邪魔者だと」
私は眉を顰める老人に構わず、切り出した。
「私の妹、パーシーと言うんです。最近、何者かに殺され、その後、その体を辱められるということがありまして」
老人は固まった。息をすることさえも億劫だと言わんばかりに、こちらを、一杯に開かれた眼で真っ直ぐに見つめている。
「もしかして、何かご存じではありませんか」
怒りとは裏腹に、私の口元は笑みを形作っていた。
噛み合わぬ言動と表情は、相手に理解及ばぬが故の恐怖を刷り込む。口元をひくつかせる老人には、果たして効果があっただろうか。
「は、はは、奇遇ですな。最近に亡くなった村の娘も、名を同じく…」
「知っています」
老人の元に詰め寄り、その顔を見下ろす。暗いフードの奥から、見透かすような視線を注いだ。
「あなたは罪深い。長でありながら、村の娘の遺体を弄ぶなど」
袖から滑り出た細身のダガーが老人の首元を掠めた。
怯えから姿勢を崩し、辛うじて死傷を免れた老人は、後ろ向きに這って逃げると、応接室の扉に縋りついた。
「やめろ!な、何なんだ貴様は!」
「シン=ハンターフィールズ」
老人は戦慄く。
「な、何だと。貴様、死んだはずでは…。まさか!リドの奴めしくじったのか!」
もうここには居ない男の名を叫んで毒づく老人の元に、再び歩み寄る。恐怖に失禁しながら逃げ惑う老人の様を冷淡に見下しながら、私は袖口に仕込んでいたダガーを握り直す。
「いいや、リドはよくやってくれました。私は確かに死んでしまったのだから」
かっ、と音を立てて、老人の股間に短剣が突き立つ。間一髪、短剣は床に突き立った。
「私は怒っている。妹を辱めたあなたに。折角ならあなたの一物を切り落とし、晒してやりたいくらいだ」
老人の股間を蹴り上げた。
ぐちゅ、とナニカが潰れる感触も、私を正気に返らせるには足りない。
悲鳴が響き渡る。そろそろ村の人間が騒ぎを聞きつけてやって来るだろう。
頃合いだ。時間は十分に稼げたはずだ。
「どうでしたか、凌辱は。心地よかったでしょう。貴方がしたことはこれにも勝る。さぞあなたは気持ちが良かったことでしょう。もう抵抗もできないパーシーを辱めるのは!」
拾い上げたダガーで、私は老人の手を、足を切りつける。
「ひ、ひひ、あははははは!ああ、気持ちよかったさ!それが長たる儂の特権だろう!儂がこの村を、平和を守っておるのだからなあ!村娘の一人や二人、差し出せと言うのだ!」
痛みと恐怖に狂った老人は、聞かれたことに正直に、喚くように答える。
村の外では騒ぎを聞きつけた村人たちが集まり始めていた。
「では、罪には罰を与えましょう。死ね、悪の権化、外道の獣」
その胸に、断罪の刃が突き立てられた。
「終わったんだろう」
「ああ、終わった」
森の奥。私の遺体が埋まっている場所。そして、私とリドが切り結んだ場所。おそらくリド自身がもっとも悔いて止まない罪の、始まりの場所。
「若い衆は、もう十分に力を付けている。罠の設置と回収、二人一組の狩りくらいならお手の物だ」
「私はそれを気に病む必要はない、ということだ」
「ああ」
リドはあの時と同じ装備で立っている。
山刀に手を掛けたまま、リドはこちらを振り向く。
「俺は、やっぱり、きちんと罪を償うべきだと思う」
「ああ、そうだな。お前が村長として…」
「ああ、お前はやっぱり優しいなあ」
リドは山刀を抜き放つ。
「…リド、何してる」
リドは微笑しながら山刀を振り回し、調子を確かめている。
「だから、さよならだ」
「おい!リド…」
リドの胸を、逆手に握られた山刀が貫いた。
「リド!」
私はすぐに山刀を引き抜く。そして、自身の判断の誤りと、それ以前に手遅れであることを悟る。
血の吹きこぼれる胸を押さえる手は、瞬く間にぬるぬるとした赤に染まっていく。
命が、零れていく。
「俺は、お前を、殺したことを、後悔、してる」
ごぼごぼと口から血液を零し、リドは尚も言葉を紡ぐ。
「…俺の、罪は、…俺のもの、だ。お前は、背負…な…」
首がカクンと折れ、それっきり、リドは動かなかった。
私は何も言わず、リドの残した山刀を握りしめる。
「終わりましたか」
背後の暗闇から、罪の女神が姿を現した。
「罪狩の人、我が眷属よ。貴方は今、最初の務めを果たしました」
薄暗いヴェールの向こうで、ギルストアは笑っているのだろうか。
「さあ、罪の祭壇へ向かいましょう。罪狩りの使命に終わりはありませんから」
私の姿は女神と共に掻き消え、形見の山刀は、大地に落ちて突き立った。
森の中に、かつての親友を遺して。
短剣と、山刀は、寄り添うように朽ちゆくのだろう。
罪とは何ぞや。