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「也実ちゃんの負けや」

 握りこぶしを作った二人がいひひと笑う中、私の右手のちょきはなんだかとても間が抜けて見えた。由希が煥発入れずに「私オレンジ」と叫ぶと、つられた彰も「僕ソーダがいい」とおずおず付け足した。

 祭の当日、午前中に神事を見終えた私たちは、昨日の続きの出店を少し冷やかして、午後には自宅に戻っていた。面白いのは前夜祭だけで、本番は退屈極まりない。いつものように家でどたばたしていると、伯母が「お祭やけんね」と小遣をくれた。いいかげん神社まで出向くのも飽きた私たちは「ほなジュース飲もうや、負けた人が買いにいくんね」という由希の一言でじゃんけんをすることになった。「蕗さんはいらないのかなぁ」と彰が呟いたので、私たちは彼女を探してみたけど、どこにも見当らなかった。仕方ないので私は三人分のお金を握りしめてひとり出かけた。

 神社まで行くのも面倒だと思って、近くの駄菓子屋に足を向けた。太陽はまだ高い位置にあって、畦道は土埃の匂いがした。青々とした水田を覗き込むと、あめんぼがすいすい泳ぐ下に水玉模様のワンピースを着た自分が映っていた。水の中にはかぶとえびも見える。

 ひやっとした空気は突然だった。最初の一滴は水田に落ちた。驚いたあめんぼがすーっと逃げていく。

 顔を上げると太陽の光がさらりと降り注いできた。眩しさに目を伏せるのと同じ感覚で、それは頬にぽつりと落ちてきた。かと思うと、やがて次から次へと降りだして私を濡らし始めた。ワンピースに別の水玉ができたのも束の間、雨は信じられない速度で激しさを増し、私の全身を冷たく濡らした。

 空はまだ明るかった。太陽が何もかもを嘲笑っているかのようだった。不思議な現象に飲まれながらも、私の目は前方を見据えていた。

 畦道を突っ切っていくと農道にぶつかる。そこには村唯一の交通機関であるバス停があった。サビついた標識と今にも崩れ落ちそうな掘建小屋が、雨と埃で霞んだ先に見えていた。

 私は必死に走った。畦道が途切れたところで、農道に続く小高い土手を全身で上る。上に行けばどうにかなると思った。少なくともバス停の小屋には屋根がある。

 上りきると手はどろどろだった。服にそれを擦りつけながら転びそうな勢いで小屋に駆け込む。

 なんとかたどり着いた小屋には、すでに先客があった。

 あまりに見知った姿に、私は声を発することも忘れた。彼らもまた息の音が漏れ出るくらい、ひどく驚いた。いつもは細い彼女の目があんなに開かれるのを、私は初めて見た。

 彼女、蕗さんは、けれどすぐにいつもの表情に戻った。そして隣にいた男に声をかけることなく、私に手を差し伸べ肩に触れた。そのまま手を背中に移し、私を回れ右させた。

 彼女に促されて私は再び日の光と雨の降り注ぐ外界に出た。雨は緩むどころか刺す勢いですべてを濡らしていた。見上げると蕗さんもすでに濡れ始めていた。白いブラウスと髪が肌に貼りついて一回り小さく見える。

「おうちへお帰りや」

 か細い呟きが耳元で聞こえたかと思うと、蕗さんが私の背中をそっと押した。私の前には田んぼに降りる土手と、一本の畦道がある。

 これは今来た道で、これから進む道じゃない。そう思って振り向くと、濡れそぼった蕗さんが激しい雨の中にっこり微笑んでいた。

「気まぐれなお天気雨で困るねぇ」

 明るい調子でそう言った彼女は、光と雨の織り成す不思議なヴェールを纏っていた。赤や黄色や緑や、何色もが重なったその衣がまるで花嫁さんの飾りのようで綺麗だと思った。

 雨をやり過ごすためにやってきたのに、私は蕗さんに背中を押されてそれ以上そこにいることができなかった。追い出されたという思いではなく、目に見えない戒めが私がここにいることを許さない感じがした。私は言われるがままに土手を降りた。土が水を含んで歩きづらく、降りきる寸前滑り落ちてしまった。濡れて重たくなったワンピースが土色に染まる。

 見上げるとあの男も小屋から出てきて蕗さんの隣に立っていた。私はしばらくそこから動けなかった。蕗さんが早く、と声をかける。 

 たまらず私も言い返した。蕗さんは、蕗さんも帰らないの、と。

 けれど彼女は小さく首を振るだけで、そこから動こうとしなかった。私は蕗さんと離れたくなかった。ここで別れてしまえばもう二度と会えなくなってしまうような予感がしていた。それが恐ろしいのと雨が冷たいのとで身体がぶるぶる震えた。

 なのにどうしてか、私の足は綺麗に回れ右したかと思うと、畦道をさくさく歩き始めた。ぬかるんだ道もなぜか歩きやすかった。ワンピースが纏わりついて気持ち悪いという感覚すら通り過ぎていた。あめんぼもかぶとえびも、なんにも見えなかった。ただ、家へ続く一本の道だけが、それが正しい道なのだと言わんばかりに、はっきりと私の目に見えていた。



 歩いているうちに雨は小降りになり、家が見える頃にはすっかりあがってしまった。濡れ鼠になった私を見て、まず伯母が驚いた。

「まぁ也実ちゃんっ、大丈夫?」

 一緒に出てきた由希が「あれぇジュースは、忘れたん?」と不服そうに顔をしかめた。

「これ、也実ちゃんはあんたらのせいで濡れたんよ。かわいそうに、どないしょ。あぁそうや、お風呂入ろか。蕗さんに頼んで入れてもらお。今呼んでくるけんちょっと待っといてね。蕗さん、蕗さーん、どこにおるのぉ」

 伯母は大声で蕗さんを呼び続けた。彰と由希も一緒になって彼女を探し始めた。けれどいつもはすぐに返ってくるはずの声がない。

「蕗さーん、もう、どこ行ったんやろ。あら也実ちゃん、泣きよるん?  大丈夫よ、すぐに綺麗になるけんね」

 伯母が優しく私の頭に手を置く。その手は蕗さんの手と違ってとても暖かい。

 そのぬくもりの下で、私はぼろぼろと泣いていた。呼んでも無駄だよ、蕗さんはもういないんだよと心の中で叫んでいた。咽喉がひくひくなって思うように舌が回らず、それがかえって私の隠し事をさらにうまく隠してくれた。縁側から覗く外は夏の日差しに溢れていた。私だけがずぶ濡れのまま、いつまでもいつまでも泣いていた。



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