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その男が家に出入りするようになった日を、私ははっきりと覚えている。夏祭りの三日前、私たちが庭の楓の木に止まってびんびん鳴くセミを捕まえているとき、男は庭師さんの後ろを大きな道具箱を抱えて歩いてきた。
「大奥様はおんなさるかい」
人が良くて面白いこの老人が私たちは大好きだったので、苦手な祖母も快く呼びにいけた。いつも通り顰めっ面した祖母もこの老人に対するときはあまりきつい言葉を吐かなかった。たぶんこの老人がきちんと礼儀を知った人間だったからだと思う。長年出入りする職人で「大奥様」と祖母のことを崇め、同じ価値観を持った古き良き村人ということだ。
出てきた祖母に、老人はその男を紹介した。
「祭の櫓を組むんを手伝ってもらお思とります。何せ男手が足りんけん。旅行者らしいですわ。なんや都会の学生やとか。なぁ、そやったな」
老人の問いかけに、男は素直に頷いた。
「そんな余所者に祭の手助けさせるやなんて」
明らかに不審気な声色で祖母は男を睨みつけた。男はまるで目が見えていないかのように祖母の視線を受け流していた。
「大奥様、そがい言いなさっても、青年団があの調子では祭にならんぜよ」
「本当に、うちの宏も団長のくせしてうまく取りまとめることもできやせんで。村長の息子ごときにまるめ込まれっぱなしで情けない。村にダムを誘致するやなんてもってのほかな上に、肝心の祭の準備もほったらかしにしてそんなくだらん話合いに没頭しとるとは」
だからこんな余所者に頼らざるをえないとグチりながら、祖母は老人に後を託して家の奥へと消えた。
「大奥様のお許しが出たけん、おまえさんもこれで働けるわ。その間は儂んとこ寝泊まりしたらえぇし、次の街へ出る路銀くらいの報酬は出せるけんの」
体格のいい青年は低い声で礼を言って、頭を下げる代わりに瞳を伏せた。
「こん村は今ダムの誘致でもめとるんよ。村長ら一派は、年寄りと子どもだけしかおらん不便な村には見切りをつけて、新しい土地で暮らした方がえぇ言いいよるけどなぁ、大奥様始め儂ら年寄りはここしか知らんけん、いまさら住処を変えるゆうんも抵抗があるがよ」
その話を私たちは、理解できないながらにも黙って聞いていた。老人は私たちを見つめてなおも寂しそうに続けた。
「やけど儂らのつまらん思い込みのせいでこん子らが苦労するんはしのびない。ここの宏さんも本当は誘致に賛成しとんなさるがよ。ただ大奥様の手前、表に出せんだけで。いずれにせよ村の半分はこのお屋敷の持ち物やけん、勝手はできんわな」
こ難しい話に、けれど私たちはすぐに厭きてしまって、捕まえたセミを虫カゴごと揺さぶっては笑いあった。由希が「あっちの金木犀の方がようけおるよ」と駆け出していく。
「あ、蕗さん」
そのとき縁側の隅にひっそりと佇む白い影を見つけた。立ち止まった私に薄い笑みを向けると、彼女はすぐに庭の方に向き直った。
「母が失礼を申しました」
丁寧に腰を折る背中から黒髪がさらりと零れる。
「蕗さんかね、あんたも大変やのぉ」
皺がれた老人の言葉尻には様々な思いが込められていた。蕗さんは一転背筋を伸ばしてその言葉を受けとめた。
老人が青年に蕗さんのことを紹介した。寡黙な青年はただ顎を突き出すように一回頭を揺らしただけだった。蕗さんもまた例のあの表情で微かに俯いただけだった。