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成人の儀を終えると、人々は酒を飲み、あるいは歌い、主役たちを取り囲んで、それは盛大な宴が始まる。
主役の一員であるジェシカは、手近にある料理を口に運びつつ、賑やかな雰囲気に心を躍らせていた。
彼女は物心ついたころから、今日というこの日を心待ちにしていたのだ。
幼少期から本を愛し、勉学を好んだジェシカは、『日記をつける』ということに人一倍憧れを抱いていた。
母がランプの灯りを元に、すらすらとペンを走らせる姿に、幾度となく感動したものだ。
四つになろう頃に読み書きを完璧にマスターし、日記を書く母に、私も私もとせがんでいたのは記憶に新しい。
そんな長年の夢が、ようやく叶うのだ。
こんなに嬉しいことは無い。
緩む口元もそのままに、母から譲り受けた本をそっと撫でる。
一族の歴史と同じだけ生きた本だというのに、目立った傷はひとつもない。
時を経て少し色が抜け、奥ゆかしくなった革表紙には、ジェシカの姓、アークロイアの文字が刻まれている。
「へへ……」
頬の筋肉だけ、どこかに落としてきたかのようだ。
嬉しさに緩んだジェシカの表情は、傍から見れば何とも情けないものだった。しかし、それほどまでに彼女は高揚していた。
宴がお開きになったら、早速自室でペンを取ろう。
ああ、早く。早くこの高ぶりを文字に乗せて、この本に刻み込んでいきたい。
今年十三のその娘は、せわしなく足を揺らし、何度も教会の鐘を確認して、成人になったとは思えない無邪気な笑みを浮かべるのだった。
夜も更け、酔いつぶれた男達のいびきと、せっせと片付けを始める女達の足音が、宴の終わりを告げる。
片付けの手伝いもそこそこに、ジェシカは自分の家へと駆け戻った。
机に向かい、インクにペンを浸す。
心臓の音がうるさく、何もしなくても耳まで届いてくる。
この時をどんなに待ちわびただろう!
感極まって泣いてしまいそうな程だ。
ともあれ、まずは日記を書かなければ。今日この本を譲り受けたことを初めに記すべきだろう。
ペンの余分なインクを落とし、まっさらなページへと近付ける。
と、その時。
「ジェシカ」
背後から突然聞こえた母の声に、ジェシカはびくりと肩を震わせる。
インクが垂れなくてよかった、と胸をなでおろし、母の方へ振り向く。
「ごめんなさい。大事なこと、言い忘れてたから」
そう言って、母ジニーがジェシカの手に細身の棒きれを差し出した。
受け取って、まじまじと眺めてみる。
どうやら、滑らかに研がれた木製のペンのようだ。少し太い針のようにも見えるそれは、先端が折れたように僅かながら曲がっている。
「この本に日記をつけるときはこのペンを使うの。ミナヤシの紙は特殊でね、墨も水も弾いてしまうから、普通のペンでは文字は書けないわ」
試しにペンを走らせると、一度は滲んだように見えたインクが、綺麗に紙の上で滴を作っている。
ちなみに、ダンダ牛の革もこんなふうに水を弾く。
日記をつけるためのこの本は、水に濡れても平気なように作られているらしい。
初めに本を作り出した先人は、本当に偉大なものである。
「それから、ミナヤシはとても燃えにくいの。このあたりは火難は少ないけれど、もしもの時にも大丈夫なようにできているわ」
ジミーは手に持っていたランプを開け、ページの一枚をちぎって炎に近付けた。なるほど、紙は燃える様子もなく、炎の揺らめきに合わせて揺れている。
「それじゃあ、このペンの使い方を教えておくわね」
本を机に広げ、近付くようにジェシカに促すと、自身は木製のペンをゆっくりと白いページへと近付ける。
「このペンはインクを使わないの。これもミナヤシの特徴なんだけどね。この紙は、同じミナヤシ製のペンでなぞるようにすると……」
ジミーがすっと線を描くようにペンを走らせると、ペンが走った後が黒く浮かび上がる。
「わっ、すごいすごい!」
ぐっと顔を近付けて文字を観察するが、インクで書いた文字とほとんど変わりない。
黒色はしっかりと紙に馴染んでいて、薄くもなく、丁度いい濃さだ。
書き損じを直したい時は、火であぶれば綺麗に文字だけ燃えてしまうのだという。
棺に日記を入れて共に燃やすのも、記憶だけをその者に還すことができるから、燃え残った紙はまた本に重ね合わせるのだそうだ。
「これで、日記の説明はおしまい。あとは自由に書きなさい。ただ、1日1ページを超えてはいけないよ。記憶を正しく綺麗にまとめることも大切だから」
母の笑みに、ジェシカも微笑みを返す。
「あまり遅くならない様にね。おやすみ、ジェシカ」
「うん、ありがとう。おやすみ、ママ」
改めて本に向き直り、ミナヤシのペンを軽く握る。
成人の儀のこと。宴のこと。母に日記を譲り受け、それについてを教わったこと。
どんな風にどこから書こうか。
思うままに書いていたら、きっと1ページなんてあっという間だ。きちんと整理してから書き始めることにしよう。
ともあれ、だ。
一番最初に記すのは、やはり、この本を譲り受けたことからにしよう。今日という良き日が、記憶の中にしっかりと刻まれますように。
部屋のランプが不規則に揺れている。
ジェシカはペンを休めることはなく、本に向き合い、一日を書き連ねていった。
これから毎日を共にする大切な本。
母から、母は祖母から、引き継がれてきた歴史の束。
どうか明日も、素敵な日だったと綴れますように。