1、能力の発現
――白刃の一閃。
無造作に振るわれた刃は、異形の筋張った首を刎ね飛ばす。断面から勢いよく吹き出す紫の体液が、木々と大地を汚した。
月明かりが照らしていた地面は、異形の血に濡れた所だけが、ぽっかりと闇に染まっているようだった。
雨神准市は、刀についた異形の体液を奮い飛ばすと、疾駆を止めないまま声を張った。
「隊長、目的地までは?」
「距離およそ3000m、到着予定は720秒後だよ」
雨神の問いかけに、巨体の男が走ったまま返事をかえす。
「予定通りに、いけば――か」
つぶやきと共に急制止、
そしてそのまま無拍子で抜刀。雨神の振るった刃は、音も無く迫っていた異形の胴を、さらなる無音で両断する。
断末魔が、夜の空気を引き裂く。
異形は赤い眼を憎しみに淀ませながら、声にならない声をあげた。
鈍い音を立てて、地に落ちる白い異形――『堕人』と呼ばれる、人喰らいの化け者だ。堕人は身体を腰のあたりからふたつに断たれてなお、雨神たちの方ににじり寄ろうとしている。筋肉を備えたまま体表だけ白骨化した様な、白くて硬質な両の手で、地面に爪を立て――
「ごめんね、雨神君。ボク、ちょっと油断してたよ」
――ようとしたとたん、命を絶たれた。
隊長と呼ばれた男が、まるでスイカでも割るかのように、堕人の頭蓋を踏み砕いた。
「……いえ、俺の方が耳は良いですから。それより隊長、怪我はありませんか。隊長の方に汚らわしい血液が飛ばないように気をつけて殺したつもりだったのですが、お召物など汚れていませんか――」
雨神が表情も変えずに、矢継ぎ早に問いかける。
「雨神君、ありがとう。でも君の気遣いが重すぎて正直、息がつまりそうだよ」
「……息が? た、隊長、どうすればよいですか。息がつまるだなんて……御病気ですか?」
「ごめん。君には軽いジョークも通じない事、うっかり忘れていたよ」
隊長はこれまで一度も崩していない穏やかな笑みを一層深めた。まったくの無表情の雨神とは対照的だった。
「さあ、早く先を急ごう。こんなところで無駄口を叩いている暇は、ボクたちにはないんだ」
ふたりはまた、夜の森を走りだす。
「隊長、やはり俺が先行します。夜目は効くように訓練してあります」
「……君はボクのこと心配し過ぎだよ。いくら死んだ弟くんに似ているからって、そこまで過保護にならなくても――」
ふたりの進む先には、ぼんやりとした複数の白い影。真っ白に塗られた甲冑で身を固めたような――堕人だ。
「――おやおや、団体さんのお出ましだ。多分8体くらいかな」
「後方からも、敵の気配。おそらく……4っ」
雨神の声を聞いて、隊長は走る速度を上げる。2mに届きそうか、という巨体。筋肉の塊。その重さを感じさせない軽やかさで、堕人の群れへとまっすぐに向かっていく。
「雨神くんは、後ろの奴らをお願い! ボクは前の子たちのお相手をするよ」
堕人たちは、凄まじい勢いで迫ってくる人間にひるむことはなく、キシイキシイと金切り音にも似た殺意の雄たけびを上げるだけ。
彼らに、恐怖心というものは、無い。
彼らにあるのは、ただ『餓え』のみ。
人の死が、人の死が、人の死が、足りない。
ただ、人間の血を浴びることだけが、彼らにとっての本能だった。
無手で向かってくる人間など、例えどんなに体躯が大きかろうと、ただの獲物にすぎない――はずだった。
「雨神くん、何度も説明しただろうけど――」
隊長は、なんの策もなさそうに、なんの気負いもないように、白い異形の群れの中央に入り込む。
月光でてらてらと濡れたように光る堕人達の外殻――ある程度距離が離れてしまえば、ピストルの弾丸でさえ弾く固い鎧を、隊長の裸の拳が、貫いた。
自然な動作で突きだされた大きな拳は、一体の異形の頭を四散させた。まるで爆薬でも仕掛けられていたのかのように、木っ端みじんに固い頭部が爆散した。
「――咎力者に対して、過度の心配は侮辱にしかならないってね」
その言葉と同時に放たれた蹴りは、数体の堕人をまとめて砕く。
次の一呼吸、さらにもう一呼吸後には、堕人たちはただの散らばった肉塊となり果てていた。
「さすが、『爆殺の矢那木』ですね」
雨神が刀についた体液をぬぐいながら呟く。後方にはばらばらに切断された堕人たちの死骸。
「やめてよ、その呼び方あんまり好きじゃないんだ……と言うより、咎力者で自分についている二つ名が好きな人なんていないんじゃないかな」
隊長――矢那木が微笑みを消さないまま少しだけ困ったように眉を下げる。
「そうなんですか? 俺は咎力を手に入れて、早く二つ名が欲しいです。だって――」
それまで表情に乏しかった男の顔が歪む。それは堕人たちが人間に向けていた感情とまったく同じもの――即ち、殺意。
「二つ名を貰うってことは、それだけ堕人を殺したってことなんでしょう……!?」
雨神の歯が、ぎしりと音をたてる。歪んだ口元、殺意に濡れた表情は、どこか笑っているようでもあった。
「……ま、それもそうだね。君もその内、咎力が手に入るよ。素質は十分だし……あとは、きっかけかな?」
――雨神君が堕人のことで冷静でないのはいつものことだ――内心ひとりごちながら、矢那木は、目的地の方向を見据える。予想以上に堕人の数が多い、なにか……あったか。
さあ、先へすすもう。そう矢那木が声を発しようとした瞬間だった。
雨神から迸る殺意が、一度に膨れ上がった。やや癖のある黒髪は逆立ち、呼吸は熱く荒い。
空気が重くなった。そんな錯覚をするほどだった。
雨神が、木々の先――暗がりの一点を睨みつけている。
「……子供の声だ」
「え?」
「子供の、悲鳴だぁ!! 隊長、俺先に行きます!!」
言うな否や、雨神が走り出す。木々の間を縫い、迷いなく一直線で。
「くそっ! こんなときに雨神君の悪い癖が……!」
――いや、むしろ良い癖なのか? 罪もない人が害されるのを見過ごせない――
矢那木は、雨神の堕人への強い敵意を、好ましく思っていた。表情に乏しくて、気だるげな態度の男が唯一熱くなる瞬間、それが堕人を屠る瞬間だった。
――急いで追いかけても、どうせ追い付く頃には片付いているだろう――そう判断した矢那木は、体力を温存できる程度の早さで雨神が駈けて行った先を追った。
しかし、結果から言えば矢那木の判断は間違いだった。
戦闘音の発信源、雨神がいるであろう場所にたどり着いた時、矢那木の目に飛び込んできた光景。ひときわ大きな身体の堕人とそれと対峙する血まみれの雨神だった。
猿のように手足が長く、全身が骨のような白い硬質で覆われている――ここまでは普通の堕人と同じだ。だが、身体が大きすぎる。194cmある矢那木よりもはるかに巨大で、それでいながら機敏な動きをしている。
大きな堕人の身体も血濡れているが、おそらく他の堕人のものであろう。地面にはばらばらに切り刻まれた堕人が散らばっている。
――形成は明らかに、不利。くそっ、ボクはなにをぐずぐずしてたんだ――
戦場に置いて、予測外のことが起こるのは当たり前のこと。常に予想の上の上を想定しなければならない、矢那木は自分の隊員にはしつこいほどに強調していたことであった。
「雨神くん! すまない、遅くなった!」
「――隊長! 俺の後方10m、保護対象、子供、ふたり!」
雨神の示す場所、深い草むらに、息を殺して子供がふたり潜んでいる。矢那木は周囲を警戒しながらふたりに近づくと、安心させるように柔らかい笑みを浮かべてから、振り返り、
「保護したよ! 雨神くん、ふたりを安全な場所に確保次第、参戦するからそれまで時間を――」
「その必要はありません」
低く小さく、その癖妙に通る声だった。
「こいつは、俺が殺します。俺の目の前で、ひとり殺しやがった。こいつは、俺が必ず殺す!!」
小さな呟きから、次第に慟哭。
もはやそれは誰かに向けられた伝言ではなく、自分の行動を自分に言い聞かせるような、叫びだった。
「うおぉぉぉぉぁぁぁぁ!!」
気合いをこめた、白刃の一閃。
地面から足裏、脚から腰、胴、肩、腕、手首、掌、指――。
身体全身を連動させて、切っ先が最高速で弧を描くように放たれた、渾身の袈裟斬り。刃の示す先は、『死』のみ。そう思えるほど、タイミングも、方向も、速度も、申し分ない一撃だった。
だが――
雨神の刃は、堕人の外殻、肩元を幾分か削っただけで、ぽきりという間抜けな音を立てて折れた。
幾人もの堕人を屠って来た刀は、あっけなくふたつに、割れた。
手元の不意な喪失感は、一瞬の意識の途切れを生む。
気付いた時には遅かった。胸元に鈍い打撃、次いで広く背中を襲う衝撃。かはっ、とひとつ血を吐いて、雨神は初めて殴りとばされ、地面に打ち付けられたことを自覚した。
――ダメだっ、ボクが助太刀に行くしかない! しかし――
矢那木は迷っていた。雨神の我儘を聞き入れるつもりは元よりない。矢那木を躊躇させていたのは、他の堕人の存在。この近くにはまだ他に堕人がいる気配がする。矢那木がここを離れれば早かれ遅かれ、この子供たちは殺されるだろう。
巨大堕人を瞬殺して、子供たちを保護する余力は、ふたりに無い。
雨神の主要な武器である刀は根元から折れている。
絶対絶命の状況。
しかし、
雨神は全身を苛む痛みに耐えながらも、不思議な感覚を覚えていた。
――自分の中に力が湧いてくるような、自分の中の足りないものを自覚できるような―― 今までとは違う、生きる世界の段階がひとつ上がったような、感覚。
――そうか、これが――
雨宮はその場に立ちあがり、堕人を正面から見据える。
遠くで、矢那木が何かを言っている様な気もするが、耳に入ってこない。
――俺が出来るのは、ただこの力を行使するだけ。
使い方は、わかる。自然と自分の内に入ってくる。
これが、咎力――
手を振り上げる。それだけで、自分の力が世界に何らかの変化をもたらしたのが分かる。
――貴様に、殺された者の痛みを味あわせてやる!――
「くらえっ!! 天堕!!」
力の奔流。
雨神が行使した咎力が、禍々しい輝きを持って堕人に襲いかかる。
これは殺意の塊。大切なものを奪われ続けた男の、悲痛な叫び。
白銀の槌が、月夜を引き裂く。
堕人の頭上、遥か上空から、裁きの槌が襲いかかる。
それは、銀色に煌めきながら稲妻のように降り注ぎ、まっすぐに堕人の脳天に突き刺さった。
べこん、という情けない音が、夜の闇に轟く。
亜鉛めっき鋼板、所謂トタンでできた金だらいが、堕人の頭を強かに打っていた。
たらいの直撃を頭頂部に受けた堕人は、鼻に相当する場所から真っ赤な血を噴き出すと、その場に昏倒した。
たらいが転がる軽い音だけが、その場を支配していた。