平穏
ここは本当に素晴らしい場所だ。
人はこの地を忌み嫌い遠ざけるが、こんなに静かで全てが揃っている所はない。
「ただいま」
このセリフが言える事も私にとって重要だ。言葉に出すだけでとても安心する。
返事はないが、気に病む必要はない。だいたい私が先なのだ。
――さて。
マッチをこすりランプに火を点ける。
ほんのり灯った部屋の中に、準備しておいた食事を並べ早速口に運ぶ。
――うん、上出来。
悪くない。求めすぎなければ十分な環境だ。
――おや?
後方に何やら気配を感じた。かたかたと物音が聞こえる。
どうやらお帰りのようだ。
「もう来られてたのですね」
「ああ」
細く、しかし艶のある声。私に安心感を与える声。私の明日を生かす声。
彼女がいるから私は生きようと思えている。
陳腐かもしれないが、とても大切な存在だ。
「ゆっくりくつろいで下さいね」
いつもそうさせてもらっているつもりだし、彼女だってそれを知っている。それでも丁寧に彼女は必ずそう言うのだ。こんな私を丁重に扱ってくれるその姿勢がまた彼女を愛しく思わせる。
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
暮らしを共にするというのは、もっと窮屈なものだと思っていた。
世間の声を聞いていても、文句や不平不満の声の方が圧倒的だった。
そんなに窮屈ならば一人でいればいいじゃないかと思うのだが、社会のせいなのか、現実は独り身の者に対してどちらかと言えば好意的ではない。昨今は徐々に認められているようだが、それでもどこかまだ風当りは強いように思われる。
自分は一人でいい。ずっとそう思ってきた。兄弟がいなかった事も大きいかもしれない。
一人という気楽な環境は心に平穏を与えた。争いも諍いもない自分だけの世界。
これで良かった。現実的にそれが不可能な状況に陥ってからは、諦めどころかもはや悟りの境地に近かった。
「いいえ。礼を言うのは私の方ですから」
人生とは分からないものだ。
まさか自分にこんな風に声を掛けてくれる女性が現れるだなんて想像もしなかった。
求めすぎないという姿勢が神に認められたのだろうか。
最初は確かに驚いたが、今となってはこの上ない幸せだ。
「もったいない言葉だよ」
求めすぎない。そうやって今を生きている。
ただ。
出来れば欲しいものは一つある。
しかしその願いを叶える方法は、まだまだ先になるだろう。
「では少し」
彼女はそう言って遠ざかる。
彼女といるとどうも時が経つのが早い。楽しい時というのはどうしてこうなのだろう。
まあしかし何も問題はない。
こんな日々がずっと続けばという想い。
しかしそれ以上を求めたい心もある。
いけない。欲というものは身を滅ぼす一番の害だ。そんなものはなるべく持たない方がいい。だが彼女がいるとどうしても求めてしまう。
食事を終え、ゆったりと私は身体を横にしくつろいだ。
心地良い風と蟲の音。身体を撫でる優しい風と耳を震わす夜の生の音。
「もう寝られるのですか?」
彼女の声が戻ってきた。
「うん。とても心地良くて、今にも眠り落ちそうだ」
「横にお邪魔させてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
彼女の足音がすりすりと私の横に近付く。
「君が遠慮する必要なんてないのだから。お邪魔どころか、願ったり叶ったりだよ」
「嬉しい御言葉です」
そんな彼女の言葉が何より嬉しいとまではさすがに照れくさくて言葉にはしなかった。
「待っておりますから」
「ああ、ありがとう」
この幸せがどこまで続くのだろうか。
「――ん?」
静けさの中にあって、少し遠くの音でもいつもと違う音が混じれば、耳は敏感にそれを捉える事が出来た。
「……またでしょうか」
「どうやら、そのようだな」
はあとため息がもれる。彼女も呆れ果てている。
せっかく眠りの世界に入り込もうとしていた眼をこすり、身体をもたげる。
――これさえなければな。
平穏が乱れる気配に、苛立ちが溢れ出た。




