実は実の娘でもない
「何…何だ…?」
家の中で…白咲の家の中で妙な物音が聞こえ、俺は体を強ばらせた。彼女の話では、日中は誰も家にいないはずだった。高鳴る心臓の音を耳の奥に響かせながら、俺はもう一度耳を凝らす。
…間違いない。下の階に誰かいる。最初は聞き間違いかと思ったが、今度はよりはっきり聞こえた。何者かが廊下を歩き回る軋んだ木の音。誰か帰ってきたのだろうか。だとしたら見つかるのは非常にマズイ。何せ俺は今目隠しをされたまま縛られて、彼女のベッドに放置されているのだ。しかも彼女の体で。
ぎし…ぎし…。
「……!」
ゆっくりと足音が階段を上ってきた。俺は声を出さないよう必死に息を潜めた。家の者か、万が一強盗だったらどうしよう。どうしようもない。気がつくと、背中が汗でびっしょりと濡れていた。
ぎい…。
「!!!」
俺は声も上げず叫んだ。足音の主が、俺がいる部屋のドアを開けた。だが、何も見えない。目隠しの向こうに誰かがいるのを感じる。恐怖で全身が凍る思いだった。どこにも逃げ場はない。
「だ…誰?」
自分でもびっくりするくらい不安な声が喉から漏れた。これじゃまるで女の子だ。足音の主がゆっくり俺に近づいてくるのが分かった。俺はごくりとつばを飲み込んだ。
「返せ…俺のこころ…返せ…!」
次の瞬間、俺の耳に飛び込んできたのは、普段聞きなれた俺自身の声…つまり橘誠一郎その人の声だった。
「きゃあああっ!」
「大丈夫!? 雪ちゃん! 何があったの!?」
気がつくと俺は目隠しを外されていた。目の前にはどこかで見たことがあるような女性の顔…おそらく白咲のお母さんの、困惑した顔があった。全身にびっしょりと汗をかきながら、俺は何度も肩で息をしていた。どうやら夢を見ていたらしい。そう気がついたのは、白咲のお母さんが作ってくれた紅茶を飲んで、居間で一息入れてからだった。
「びっくりしたのよもう! 急に休み取れたから早めに帰ってきたら、雪ちゃんが縛られてるんだもの。しかも男物の制服なんて着させられて」
「はは…」
俺は火照った顔を手で仰ぎながら苦笑いした。警察に電話しようとする白咲のお母さんを、俺は人生でこんなに必死になったことはないってくらい必死で止めた。これ以上話がややこしくなるのはごめんだ。白咲のお母さんは怪訝な顔をしつつも、何とか踏みとどまってくれた。
だがそれから彼女は嫌がる俺を無理やり風呂に入れ、娘の…白咲の服を着せた。風呂のことは墓場まで持っていくつもりだ。もし途中で持って行けなかったとしても、その場で白咲に墓場送りにされるので同じことだ。まてよ?だとしたら話した方が得なのだろうか? いや、とにかく、今思い出すだけでも、顔から火が出るほど恥ずかしい体験だった。
それにさすがに男物の服を着続ける言い訳は考えつかなかった。白咲がスカート派じゃなくて良かったと、俺はこんなにも心から感謝したことはない。もちろん「俺自身」はスカート派だが…そんなことはどうでもいい。スカートなんて恥ずかしくて、自分で着れる訳ないじゃないか。白咲本人が帰ってきたら、きっと俺は服もろとも燃やされるに違いない。だが目下問題なのは、煉獄の炎に身を包まれる前に、今この場をどう切り抜けるかだ。
「さあ、落ち着いた? お母さんにはちゃんと話して」
白咲のお母さんが俺の手を握り、じっと俺の目を覗き込んできた。俺はまだ冷めない顔のまま思わず息を飲んだ。
「実は…信じてもらえないかもしれないけど…」
「いいのよ」
「…お母さん、入れ替わりって信じますか?」
「ええもちろんよ。お母さんが雪ちゃんのこと疑ったりするものですか。実の娘でしょう?」
どうやらダメっぽい。実は実の娘でもない。それでも俺は正直に話すしかできなかった。だって、ほかにあの状況をどう説明できる?
「怪我はない? 一体、誰があんなひどいことをしたの?」
「それは…貴方のお子さんが…」
ガシャン、と音がしてコップが床に落ち砕け散った。
「まさか…弟の雅人に…!? ああそんな…」
「いや…!いや違います!勘違いです!!」
「ああ!私どうすれば…!」
「お…お母さん!」
哀れ気絶してしまった白咲のお母さんを抱え、俺はソファで途方に暮れた。やはり正直に話すべきではなかったかもしれない。まだ会ったことはないが、弟の雅人くんには悪いことをしてしまった。とりあえず今夜は家族会議が開かれるかもしれないと、白咲に伝えておかなければ。俺はスマホを取り出した。だがそこで俺の目に飛び込んできたのは、それ以上に衝撃的な文面だった。
《アンタ、誠一郎普通に出席してるけど》
《アンタは誰なの?》
白咲から送られてきた短い言葉に、俺はしばらく釘付けになっていた。