現実を喰らう夢
4-1
松木が来た晩のことを思い出しながら俺はウィスキーを口にした。酔っている。相当量飲んでいるのだから当然だろう。だが、意識はしっかりとしている。泥酔していてもおかしくない量なのだが。あの、泥酔したときの宙に浮いたような感覚はない。むしろ、座っているソファに根を生やしたように安定している。
「松木、か……」
松木とは、高校二・三年の時に同じクラスだった。思えば、松木とは三ヶ月足らずだが付き合った。けれど、友人という位置が俺たちにはしっくりくると考えた。だから、別れた。別れたくらいで、顔見知り程度だった月島と松木も仲良くなり、俺たち三人のグループが出来たんだ。
俺達は、いつも一緒にいた。月島が何かを企画して、俺が無理だと言う。そして俺と月島が喧嘩寸前になるのだが――とはいっても、大抵は月島から喧嘩を売ってきた――それを松木が間に入って仲裁した。俺達三人は、そのような関係だった。
何時間ファミレスで居座ったら店員から追い出されるか、という下らない企画を月島がたてたことがある。勿論俺はそれに反対した。すると松木は、時間制限をつけようといって――確か五時間になったはずだ――計画を実行に移した。結果的には、追い出されるようなことはなかったのだが、午後の授業をサボって行ったせいか、二時間も経った頃には担任とその他教師がぞろぞろとお出迎えにきたのだ。その後三時間近く徹底的に叱られて、結果的に初めの時間制限と同じ五時間を企画に費やした。
懐かしいな。
ウィスキーを口にすると、口先に当たる氷が冷たかった。そして、涼風の吹く夕暮れを部屋のソファからぼんやりと眺めた。
『キミジマ』と『ユキ』、俺の関係も似ているように思えた。まぁ、夢の世界の方がよっぽどドロドロしているんだが。
松木は、良い女だと思う。けして美人というわけではないが、それを補うだけの性格的な魅力を持っている。
「お見合いするって言ってたよな。どんな奴だ……」
バーで飲んでいた時は気にならなかったが、今は無性に気になる。その男は、松木を幸せにしてやれるのか。松木の魅力に気付いてやれるのか。顔を見ただけで値踏みしたりしないだろうか。そう考えると、体の奥がじわりと熱くなった。あいつの価値を分かってやれるのは俺しかいないんじゃないか。そんな風に思えてならなかった。そう思うと、どうしても松木の声が聞きたくなって携帯を手にした。
「はい」
三コール目のことである。
「あ、俺だけど」
「うん、どしたの」
そう言われて、用件なんてないことに気付き、返答に給してしまった。
「いや、まぁ、その……あの日は、ありがとう」
「あ、あぁ……うん、大丈夫なの」
「あぁ、平気だ」
「あんまり無理しちゃ駄目だよー。なんかあるんだったら里奈さんが相談乗ってあげるから」
「――いや、そうだな。うん、また会えるか?」
「え……平気だけど」
「今週末にでも会えないかな」
「え、今週って、いきなりだなー。予定見てからでいい」
「勿論」
携帯電話を持つ右腕が小刻みに震えていた。そして、それに伴う鼓動の高鳴りは、松木に対する俺自身の気持ちを知るには十分なものであった。そうか、俺は松木のことが好きなのか。どこか他人事のように思えた。ひょっとすると、そう思ったのは、自分のこととして考えることに耐えられる自信がなかったからかもしれない。
思い返せば、今までの恋愛は、ある意味ハンティングのようなものだった。合コンや紹介で良い女を見つけて、上手く落として、犯って、飽きたら次を探す。そんなものだった。だが、松木との関係はそれとは違う。友情が恋愛に代わる時、それは本気の恋愛でなければならない。何かの受け売りというわけではないが、格言めいた言葉が俺の脳裏をよぎった。
真面目な恋愛なんてしたことがあっただろうか。俺に、そんなことが出来るのだろうか。不安が付きまとう。出来ることなら、何もなかったことにしてしまいたい。しかしそれは無理だろう。
空回りしそうな心を引っさげて、俺は洗面所に入った。そこにある鏡と、そこに映る自身を見るためである。
「はは、ひどい面だな……」
フケのついた頭髪は、脂が乗って黒光りしていた。だらしなく膨れた顔はアルコールで赤剥け、目は焦点が定まらず、こうして立っているだけでもふらふらとしていた。蛍光灯は、何一つ隠そうとせず、この一ヶ月酒に溺れてきた男の醜い姿をまざまざと照らし出すのだった。
「ほんと、くさってんな、これは」
せめてシャワーでも浴びようと黒のタンクトップを脱ぐと、なんとなく鼻に近づけてみた。随分長いこと着替えていなかっただけに、汗と脂の混ざって饐えた臭いがした。
それを放り投げると、俺は全裸になってバスルームに入った。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、外はいつの間にか暗くなっていた。腰にバスタオルを巻いただけの格好でぼんやりと佇んでいると、若干アルコールの抜けた頭に妙な哀愁がよぎった。
月島に電話をかけていた。僅か三コールで留守番電話に繋がるその設定に腹立たしさを覚えたが、繰り返し電話をすることにした。
「なんだよ」
電話に出た月島の一言目である。
「何してるかな、と思ってな」
「あぁ、それだけか?」
「まぁ、言ってしまえば、それだけだな」
「け、ふざけんな。用もないのに電話するなよ」
相変わらず悪態を吐く月島であるが、不思議と不快にはならない。
「最近どうしてんだ」
「最近、絵描いてるにきまってんだろ、といいたいとこだがな」
「なんだよ、どうしたんだ、平成のなんとか君」
「てめぇ、切るぞ」
「はは、冗談だよ。いや、まじでどうしたんだ」
「なんていうか、いわゆる、スランプだな」
「ほう、お前が、か」
「なんかよ、お前の絵描いてから調子悪いんだよな」
「そうか……あ、そうだ」
ふと、月島にとっても良い企画が浮かんだのだ。
「俺の夢にしょっちゅう出てくる女の絵を描いてみないか?」
「は、なんだよそれ」
俺は、連続する夢の出来事を月島に要約して伝えることにした。初めうざそうに耳を傾けていた月島は、いつしか話に聞き入っていた。
「いいじゃねーか、面白そうだな」
全てを話し終えたときに月島の口から出た言葉は、好奇心に満ち溢れているものだった。
「だろう、面白いだろう」
「ていうか、その『タタラユキ』っていう女、何者なんだ。まったく検討がつかないわけか」
「皆目検討がつかない」
「まぁいい、今度うちに来い。話はそれからだ」
「分かった。今週末でも行く。近くなったら詳しい日にちと時間送るから」
「分かった」
そう言うと、月島から一方的に電話が切られた。まだ話が終わったわけでもないのだがな。思わず苦笑したものの、月島らしいという言葉でだいたいの説明がつく。さして気にはならなかった。
携帯をテーブルに置こうとした時、それはバイブレーションしながらメール受信の通知をした。松木から、である。胸の高鳴りを抑えながらメールを開くと、土曜日の夕方までなら、という内容が記されていた。場所と時間を指定したメールを返信すると、携帯電話をソファの隣席に軽く放り投げた。
昨晩、会社帰りによったデパートで、高級カジュアルブランドの洋服を全身一式買い揃えた。松木とのデート――松木はそのような認識ではないかもしれないが――のために買い揃えたのだ。スーツで仕事をしていると、普段着には無頓着になる。そのせいか、手持ちの洋服は、一枚千円のティーシャツや三千円のジーンズ、そんなものばかりだ。
しかし、靴とアクセサリー、洋服を合わせた総額が十五万と聞いたときはさすがにぼったくりだろうと思った。服の選択は、全て店員に任せた。下手に自分の意見を入れるより、プロの意見を素直に聞くのがベストだと考えたからだ。肌が透き通るように白く、えらく端正な顔立ちの店員は、俺をつま先から頭のてっぺんまでじろりと眺めると、右胸の辺りにブランドのロゴが刺繍された黒いポロシャツと若干タイトなユーズド加工のデニムを勧めてきた。投資した金額と比べるとなんとも凡庸なイメージではあったが、素材が違うだー、日本で染めているだー、と付加価値を熱く語られ、しまいにはどうでも良くなってしまった。ただ、まぁ、プロが良いというのだから、きっと良いのだろう。そう思って購入を決意したのだ。
店員は、ブランドのロゴが入ったこれみよがしにでかい紙袋をよこした。そうやってブランドを前面に出すことは、一つのステータスなのかもしれない。
休日の午後に都心に出るのは久しぶりのことだった。そのせいか、つい辺りを気にして見渡してしまう。老若男女問わず多くの人々が往来を行き来している。普段、通勤時に見かける人々とは何かが違う。殺伐とした感じがしない。柱にもたれかかったかっこつけの男は、鼻と口をめいっぱい広げてあくびをしている。あんな風にあほ面をさらす勇気は俺にはないなと思うと、思わず苦笑していた。
右手のブレスレットが気になるのは、普段見につけていないものだからだろうか。かすかに肩の凝りを感じた俺は、右肩を二度、三度回していた。
そうこうしているうちに約束の時間となった。もう、来ても良い頃だろうとキョロキョロとしているが、松木の姿はなかった。携帯を開くがメールはない。遅れているのかもしれない。ほんの数分のうちにイライラしていた。この俺を待たせるとは、何様のつもりだ、という言葉が脳裏をよぎった。いつもは俺が遅れて来るのだから怒る立場にないことは理解出来ているのだが、感情はそんなものには興味が無いと言わんばかりに俺を一段と苛立たせていった。
約束の時間から十分程遅れて松木は待ち合わせ場所に姿を現せた。
「ごめん、待たせちゃった?」
そう言って現れた松木は、普段のオフィスカジュアルとはまったく異なる格好であった。
「あぁ、待ったな」
「ごめんー。ゆうちゃんいつも遅れて来るからさ。ちょっと油断しちゃった」
「別に、いいよ……」
何故だろう、少し、涙がこぼれそうだった。軽んじられたからか? 来たことに安心したからか? 自分にはよく分からない感情だった。だが、狼狽するほどのものではなく、むしろほどよく好奇心が刺激され、さっきまでの苛立ちはすっかり過去のことになっていた。
俺の心理状態に気づかず、松木は気まずそうな表情を浮かべていた。
「とりあえず、どっか喫茶店でも行こう」
「うん、そだね」
笑顔を浮かべたものの、それからの会話はどこかぎくしゃくするものだった。そんなに苛立っているように見えたのだろうか。
喫茶店を見つけると、アーチ型の透明のガラス壁に備え付けられた席に着いた。折角、二人でいるのに会話はまるで弾まなかった。俺も待つ気も、行きかう人々をぼんやりと眺めていた。
「なんか、俺怒っているように見えたかな」
そう言ったのは、俺がカフェラテをストローで半分くらい吸った後のことだった。
「そんなこと、ないよ」
「そうか、それならいいんだけどな」
別の、何かを気にかけているのかもしれない。ひょっとすると、例のお見合いだろうか。
「最近、どうしてる?」
「最近? うーん、なんかねぇ……」
「どうしたんだよ」
そう言うと、少し目を大きくして俺に視線を向けた。俺が心配してみせたからに違いない。
「うん、なんかさ、前のお見合いだけど、向こうがうるさくてさー」
「あぁ、あれか……」
「断りきれないから、今度会う事になっちゃってさ。わざわざ実家まで行かなきゃいけないわけよ。もう、ほんと信じられない」
そういう態度をしていることは、お見合い結婚自体に否定的なのだろう。ほっとするところではあるが、やはり、他の男と会うというのは気がかりである。
「会わなきゃいけないわけか」
「まぁ、ねー」
つくづく嫌そうな表情をしている。そうなると、付き合ってる奴でもいるんじゃないか、という不安がこみ上げてくる。
「けど、付き合ってる奴いるわけじゃないんだろ」
「うん」
「だったら、いいんじゃねーの」
そう言って俺が口元に寄せたカフェラテのプラスチック容器が、緊張感と安堵感のコンボで小刻みにゆれていることなど松木は知る由もないだろう。
「うん、そうだけどさ。私にだって気になってる人がいるわけだしさ……」
その発言の後半部分は、少し小声で、それはその言葉に対する気恥ずかしさの表れだったのだろう。いや、そんな冷静な分析なんてどうだっていいわけで……
「そっか、好きな人がいたんだ」
「好きっていうか、気になってるっていうか……」
今、その男のことを考えてたんだな。クーラーがんがんの部屋だっていうのに、顔が微かに赤くなっていやがる。
「どんな奴なんだ?」
笑顔の裏では、どす黒い心がにじみ出ていた。
「うん、昔からの友達なんだけどさ。なんか、ちょっとあってね。最近すこし、ね……」
そう言うと、俺をちらりと横目にする。しかし、俺の視線に気づいたのか、すぐさま目線をそらしたのだった。
ひょっとして、それって俺、なんじゃないのか。ちょっとあってねと言ったのは、以前の俺の部屋での出来事を言っているんじゃないのか。いや、あんなことで俺のことを気になる、なんてあり得ないだろう。飲みまくって吐きまくっていたじゃないか。
「で、何で好きなの」
「え……」
なんでってなんだよ。同じ質問をされたら間違いなく苦悩するぞ。思わず心のなかで叫んでいた。
「そうだなぁ…… 強気で、自己中で、わがままで、いつも自分のことしか見えてなくて、一見しっかりしてるんだけど、なんだかすごく弱いところもあって、そんな感じの人?」
「ふーん……」
別人であってほしいが、その属性をすべて持ち合わせているのは、まさにこの俺じゃないか。そう思うと、何を都合の良い解釈をしているんだという声がする。耳元でささやくというよりは、鈍器で殴りつける感じで。
「デートとかは、したのか」
「うーん、そういう感じじゃないんだよね。たまに会ったりはするんだけどさ。ほら、なんていうか、今までが友達だったしさ」
「あぁ、そうだよな。友達から恋人のステップアップは難しいよな、特に長い付き合いだと」
自分のことを兼ねた発言だけに、妙に言葉に力がこもっていた。
「そう、だよねー……」
そして俺たちは、室外機の空気と負け犬臭を漂わせるのだった。
松木と分かれたのは、夕日が沈む少し前のことだった。
松木が気になっている奴の話を聞き出すことはしなかった。せめて一言、俺の知っている奴か、と聞きたかったが、その一言で全てを失ってしまうんじゃないかと恐ろしくなったのだ。
以前の俺にとっては、恋愛は、女を落とす勝率を競うだけのゲームにすぎなかった。そのために出会いを探し、言葉を操り、自分を偽ってきた。俺はそのことを無感情に、まるで自分というロボットを操縦するように、ただ繰り返してきた。今の俺は、松木の些細な言葉に一喜一憂して、勝算の不確かな恋愛に真剣になっている。
しかしおかしな話だ。真剣なはずなのに勝算があるかわからない。それどころか、空回ってばかりだ。俺は、本当はこんな人間だったのか。そう思うと、今までの自分が馬鹿らしく思えて仕方なかった。
何を、やってきたんだろうな。俺は、誰にでもなく問いかけていた。
足のつま先がさっきから靴ずれでジクジクと痛む。下ろし立ての靴は若干サイズがあっていないのかもしれない。痛いじゃねーかよ、くそ。昨晩見せたブランドの店員が見せた営業用の笑顔がちらついた。惨めだな、と思った。その思いにため息が続く。
こんな風になるくらいだったら、今までの恋愛の方が良かった。だが、今更どうしようもないという諦めに近い感情もある。これまでの俺は真剣に女と付き合うとういことから逃げてきた。その分のツケを支払わせられているのかもしれない。
ひとつため息をつくと、月島との約束を思い出してはっとした。今日、会う約束をしていたのだ。腕時計は七時を告げている。八時に行くことになっているから問題はない。だが、帰ろうと思っていたタイミングだったせいか面倒に思えた。別に、何か話があるわけではない。とはいえ、この沈んだ気持ちを幾分かごまかすことくらいはできるんじゃないか、と期待する気持ちもある。
月島の携帯に、『今から行く』と書いて送信した。
おせーよ、とも何しに来たんだよ、とも言われなかった。その代わりに「入れよ」と言われた俺は、「大丈夫か?」と声をかけていた。
「あぁ、大丈夫だ」
その言葉には、いつもの月島の力強さが感じられなかった。以前電話で話していたスランプというのは、今も続いているようだ。
月島の部屋はさっぱりとしていた。いつもなら絵の具やらくしゃくしゃに丸められた紙やら散らばってひどいありさまなのだが。
「ほらよ」
そう言うと、缶ビールを放ってきた。とっさのことで思わず床に落としたが、拾い上げて栓を抜いた。
「なんだ、調子悪いのか」
「まぁ、な……」
いつもの毒舌はなく、思わず拍子抜けしてしまった。毒舌は、月島の健康のバロメータのようなものに思えた。
「どうしたんだ」
月島のことを心配して言葉をかけるなんて、初めてのことだった。
「なんか、絵を辞めたいと思った。生まれて初めて」
「はぁ、なんでだよ」
「描きたい絵のイメージが、うかばん」
「そんだけで、辞めたくなるのか」
「あぁ」
俺には理解できない感情ではある。
「お前だって、営業で数字いってなかったら辞めたくなるだろ。それと同じだ」
それは、説得力のある言葉だった。
「まぁな……」
そう答えると、俺達は少しの間沈黙を続けた。
「そういえば、夢ってなんだ?」
「あぁ、あれか……」
俺はいつになく饒舌になって、夢の話を思い出せる限り事細かに伝えた。月島は、時折訝しげに首をひねったり、眉間にシワを寄せたりしながら聞き入っていた。最後まで話し終えると、再び沈黙が俺たちを包んでいった。
「――そうか、不思議な夢だよな」
月島はぼそりとつぶやいたの。
「だろ」
「タタラユキと、キミジマか……おそらく、お前の心の中の何かなんだろうけどな」
そういうと、床に転がっている鉛筆を拾い上げる。押入れを開けると、大きめなスケッチブックを取り出した。畳に腰を下ろすと、体育座りのようにひざをまげ、その上にスケッチブックを置いた。
「よし、特徴言え」
鋭い眼光が俺を突き刺した。さっきまでの月島が別人に思えるほど雰囲気が変わっていた。見た感じで何かが変わったわけじゃない。だが、月島から伝わってくる言葉にできない威圧感が俺を極度に緊張させていた。
「いきなり言われても……」
「イメージはなんとなくあるんだろ」
「なんとなくというより、結構くっきりあるけど」
「分かった、じゃぁ、俺の質問に答えろ」
そう言うと、月島は外見的特長を聞き始めた。俺は、思いつく限り答えていった。ふと、容疑者と検察が見せる取調べのワンシーンのように思えて、その瞬間だけ笑いそうになった。月島が鉛筆を走らせ始めたのは、顔や体型などの大雑把な特徴を一通り伝えてからのことだった。角度のせいで絵は見えなかったが手つきは実に鮮やかだった。
才能がある男だと思っていたが、懐疑的でなかったわけではない。俺の趣味に合う、という程度なのだと思っていた部分もあった。だが、こうして、月島が本気で作業に取り組んでいる様を見ていると、その才能を信じざるを得ないと思った。
「こんなかんじか」
そう言ってスケッチブックに描かれた絵を俺に向ける。それまでにかかったのはほんの数分足らずのことだった。
「あぁ、そうだな……」
再現率の高さは驚愕すべきものがあった。俺のイメージとさして違いがないのだ。
「ふーん、そうか。良い女じゃねーか」
そう言ってスケッチブックのタタラユキに食い入るように見る。
「ん、なんかよ。少し松木に似てるんじゃねーか」
「はぁ!?」
思わず大声を出していた。月島が、目を丸くして俺の方を見ている。
「なんだよ、びっくりさせんなよ。ほら、輪郭とか、なんとなくにてねーか」
そう言って俺に絵を向ける。
「松木こんな美人じゃねー」
「ははは、ひっでー」
俺は松木をブスだとか言いたいんじゃない。大声を出したことから、松木に対する気持ちがばれるんじゃないかと条件反射的に危機感を覚えてそう言ったのだ。
その後月島は、タタラユキに関する更なる特徴を俺から聞き出し、絵に修正を加えていった。
「そういや、お前って実はすげー奴だったんだな」
「は、なんだよそれ」
「いや、タタラユキの絵とかさ。まじですごいと思った」
「あぁ、あたりまえだろ。こんなん子供でも描ける」
そう言いながら、鼻を高くしていた。
「なんか、もっと売れそうな絵描いてもよさそうなもんじゃねーかなぁ」
「――たとえば」
「わかんねーけど、漫画とか描いてみたら」
「は、漫画、ふざけんな」
「いや、そうはいってもよ、今の時代、芸術だけじゃぁやってけねーだろ。一度名前が売れちまえば、あとは好き勝手やりゃーいいんだし、いいんじゃねーか?」
「うるせえよ。俺は俺のやり方でやってくんだよ」
そう言ってそっぽを向いた。
多分月島自身、ある程度の妥協が必要なことは理解しているんじゃないかと思う。そうでなければ、今頃俺めがけて何かしらの物体が飛んできていたに違いない。友人なりに力になってやりたいと思う気持ちがあって言った言葉だった。だが、例えそうだとしても、俺のような門外漢が軽々しく口を挟むべきじゃなかったのかもしれない。
「そろそろ、行くわ」
俺は、少なからぬ後悔を抱きながら立ち上がった。
月島は振り向くことはなく、ただ「あぁ」とだけ答えた。そして、アトリエの扉を開け、閉じる瞬間まで月島がこちらを向くことはなかった。
「なんだよ、くそ……」
わけも分からず涙が出そうになって、俺は目を腕でこすった。月島に対する自分の発言が、ただ月島を不快にさせただけだったことが原因なのか、と思った。だが、それだけじゃない。月島、松木、仕事、俺の周りの何もかもがうまくいっていない。その実感が、夏の夜の生暖かい夜風に吹かれた瞬間に俺の心を支配していったのだ。そして、無力感から、俺の目頭は熱くなったのだ。
「くっそ、足痛いし」
履きなれない靴、気になるほどではないが靴擦れで痛むかかと。俺は、歩みを止めて少し先の外灯を見上げていた。一匹の蛾が光の弧を描きながらヒラヒラと舞っていた。どこかで見かけた景色のような気がしたが思い出すことはなかった。ただ、次見かけることがあったとしたら、きっと今日のことを思い出すに違いないだろうと、根拠もなく確信するのであった。
月島の家に行ってから一週間が過ぎた晩のこと、広告以外入ることのない俺のポストに、郵便物の不在表が届いていた。通販か何かだろうと思ったが、差出人が月島となっていた。十年近い付き合いの中で、初めて月島から送られてきた郵便物であった。何かと思い、すぐ様郵便局に電話をし、翌日にそれを受け取った。それは、茶色の包装紙に包まれ、俺の上半身ほどもある長方形の平たい物であった。
リビングのテーブルにそれを置く。中身は容易に想像がついた。タタラユキの絵に違いない。包装紙を破くと、それは予想通りタタラユキの絵だった。
「なんだよ、これ……」
俺の思考は停止状態に陥った。上半身だけ描かれたそれは、俺の夢から飛び出してきたかのようにリアルだった。静止画だというのに、脈動感あふれる描写でもないのに、まるでそこで、今まさに生きているかのようだった。
細い指先が胸の前にあてられていた。その薬指には、小さなリングがある。その中央には透明な石が一つ。きっと、ダイヤモンドだろうと思った。
タタラユキが俺に微笑みかけている。俺を、待っていたとでもいうのだろうか。それとも、俺に会いに来たとでもういうのだろうか。いや、どちらでもない。分かりきっている。これは、月島が描いた絵なのだから。そんなことは分かっている。ただ、俺は、その絵がここにあることに運命的な意味を与えたいと思ってしまったのだ。
心が、自分のもとを離れて行ってしまう、そんなわけの分からない焦燥感から体が小刻みに震えていた。そして、こうなってしまったのは、月島の芸術性の高さに驚愕しているからだ、胸が高鳴っているのは……そう、きっと松木とそっくりだからだ、と不条理な理由をつけて自分の気持ちを無理に抑えこもうとするのだった。
絵から目をそむけると、リビングの壁に裏向きで立てかけ酒を取りに冷蔵庫に向かった。ウィスキーのボトルを取り出すと、それをグラスに注いだ。そして俺は、一気にそれを飲み干すのだった。
4-2
「ゆき」
声をかけたが、返事はなかった。
辺りはまだ暗い。てっきり朝だと思っていた。俺は、寝ぼけて声をかけていたのだ。
ゆきが目を覚まさないようにそっと半身を起こす。机の上のデジタル時計は、朝の四時であることを伝えていた。
何か、妙な違和感があるのだが、どうも思い出せなくて気分が悪い。頭を傾げて考えていると、瞬時に全ての記憶がよみがえった。そう、夢を見ていた。それも不思議な夢だ。俺は、君嶋にゆきの絵を描くように頼んでいた。そして、出来上がったそれを脇に抱えて家に戻るのだ。大きさは、ちょうど俺の上半身くらいだった。
実際にやったら、間違いなく殺されているだろう。思わず苦笑していた。
俺に背を向けて横寝しているゆきをぼんやりと眺めた。そして、恐る恐る自分に問いかけていた、これは現実なのか、と。少しだけ馬鹿馬鹿しくなった。だけれども、この数ヶ月のことを思い起こせば仕方のないことかもしれない。君嶋と結婚していたゆきと久しぶりに再会したのが三ヶ月前。諦めようとしても諦めきれず、悶々としていた。それが今、ここですやすやと寝息を立てているのは、そのゆきなのだから。
俺の気配を感じたのか、ゆきが目を覚ました。
「どうしたの」
「起こしちゃったか、ごめんな」
「ううん、かまわないけど。調子悪いの?」
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、ちょっとね」
「ちょっと、何」
「夢を見た。変な夢」
「夢?」
そう言うと、ゆきは上半身を起こした。毛布がはだけると、薄暗闇に裸の両胸がさらされた。
「どんな夢だったの」
胸が見えないように毛布を手繰り、体育すわりの姿勢をすると、今度は背中が俺の目に映った。そうなると、むしろ性的関心の方が高まってしまうのが男の性なのだろう。
「あ、あぁ……なんかさ、君嶋にゆきの絵を描いてもらった、夢」
「君嶋君に?」
心配そうな表情を浮かべるも、ほんの一瞬のことであった。
「な、変な夢だろ」
「うん……絵なんて描けないはずだしね」
嫉妬は、こんな些細な発言でいともたやすく湧き上がるものなのだろうか。その言葉は、君嶋とゆきが二人で重ねた時間を俺に思い起こさせたのだ。話を続けることで嫉妬心をまぎらわせることにした。
「それがさ、すっごい上手いんだわ。なんか、レベル違うっていうか。で、それをさ、多分、ゆきにプレゼントしようとしてるのかな」
「へー、夢の中だと、私たち仲がいいのかもね」
「はは、そうかもな。昔みたいにな……」
それが現実であったら、と心の底から思う。現実の君嶋はまったく別人だ。横暴で、粗野で、最低の人間である。悪を象徴するかのような奴だ。
君嶋は、ゆきが君嶋の元を離れたら俺を殺すという脅迫をしていたらしい。暴力もすさまじかった。ゆきと再開して相談を持ちかけられたときに見た無数のあざのことは今でも忘れない。そのとき、俺は君嶋を憎むと同時に、何も知らないで幸せな結婚生活を送っていると信じきっていた自分自身を憎いと思った。
「なんだかごめんな。君嶋の話題なんて持ち出して」
「ううん、いいよ。けど、そんな風だったら良かったのにね」
「あぁ……」
ふと思った。夢の俺は、本当にゆきに絵を渡そうとしていたのだろうか。考えてみると、夢にゆきは出てきていないのだ。もしかしたら、夢の世界ではゆきは死んでしまっていて、それで、ゆきの絵を描くように頼んだんじゃないだろうか。俺は、写真すらほとんど撮らない。そんな俺が、絵をほしがるということは考えづらいのだ。全身が総毛立った。ゆきを失うことなんて考えられるわけがない。自分自身を失うことのほうがよっぽどマシだ。絶対に、何があっても守っていくんだ。
ゆきの寝顔を横目に、俺は強い決意を胸に刻み付けるのだった。
4-3
「夢、か」
夢……そう、俺は夢を見ていた。夢で見た夢の話をしていた。確か、タタラユキの絵を君嶋が描いたとかどうとか……。
普通夢というのは、暇な時の頭の中のように目的がなく、取り留めのないものだ。時には、内面の何かを象徴するような内容なのだろうが、けして一つのストーリーを場面ごとに見せるようなものではない。しかし俺の見ている夢は、断片的ではあるがタタラユキを中心に展開され、まるで謎解きを強いられているようにさえ思える。
正直、どっちが、現実なのだ? ひょっとすると今の俺こそ夢の存在なんじゃないのか。そう考えていると、背筋に、ぞわっとするものが走った。そして、方向感覚を失った現実感は、俺に軽いめまいを引き起こした。そこに二日酔いからくる頭痛が重なると、ますます何がなんだかわからなくなって、急に吐き気を催した。
トイレから出ると、ソファに身を投げた。胸と喉がチリチリと痛む。胃酸ばかり吐き出したからだろう。すぐさま立ち上がると、台所の蛇口をひねり、流れ出る水道水をごくごくと音を立てながら飲んだ。
ずきずきとする二日酔いの頭をはたくと、バシッという小気味良い音がした。それは、現実と夢をきっちりと仕分けるために行った儀式のように思えた。実際、それを皮切りに、ようやく現実のプログラムが起動したような気がした。ただ、そうすることで思い出すことの多くは忘れたいことであり、酒と夢はそれを手助けする上で何より重要なものだと実感した。
壁掛け時計は十時を指していた。平日の、十時だ。それがサラリーマンにとって何を意味しているのか、分からないわけではない。
「会社、行かなきゃな……」
朝から疲労しきった体は、ソファに根を生やしたように動かなかった。なんとか立ち上がると、ふらふらする体を壁にもたせながらクローゼットに向かった。
「しかし、おかしいよね。この会社、担当分けとか、何考えてんだろ」
安い居酒屋の一角に俺と同僚の二人はいる。そして、そう声をかけてきたのは営業の吉田だ。メタボと禿は馴れ合うことが多いのだが、この男もその例に漏れず、といったとこだろうか。酒の席では必ず昔は良かった、と思い出話しからはじまり、会社の不満を延々と語る。脂臭い体臭もたまらないが、存在そのものから漂ってくる昭和の残り香は堪えられるものじゃない。
吉田の鼻の横には、大きなほくろがある。俺は、そのほくろに強い嫌悪感を覚える。気になるものにはつい目がいってしまうのは誰も同じだ。そして、不快な人間の持つ身体的特徴は、それそのものが嫌悪の対象になってしまう。もしも吉田のせいで、同じようにほくろが鼻の横にある他人に嫌悪感を抱いたとしたら、俺は正々堂々と全て吉田が悪いと主張するに違いない。
「そう、ですね」
一口ウィスキーを口にすると、いつもとまるで違うただの甘いアルコールの味がして吐き出したくなった。
「結城ちゃんもそう思わない?」
俺の顔を覗きこむようにして言った。
「はは、そうですね。ちなみに、吉田さんの担当って……」
話題をそらそうとするも、すぐまた同じような話になる。いい加減付き合いきれない。だが、それでも俺がこうして無能な連中と酒を交わしているのは、社内営業のだめである。吉田は、俺が入社した当時から営業部にいる。使えない男のひとりではあるが、社内外の調整には能力を発揮する。いわば、ベテランの特権のような部分なのかもしれない。だから、吉田と付き合っておくのは今の俺には必要な戦略なのだ。
「結城ちゃんは、結婚とかしないの」
「いやぁ、したいんですけどね。相手がいないことには……」
気安く俺の名前を『ちゃん』付けで呼ぶなよな。
「えー、そんなこといって、けどこれはいっぱいいるんでしょ?」
「はは、それも最近は縁がなくて」
その小指を切り落としても、今なら情状酌量の余地があるだろう。
「うそだー。噂は聞いてるよ」
「いや、ほんとですって。もう、ゼンゼン! そういう吉田さんこそ、噂は聞いてますよ」
「え、なんで知ってるの! ちょっと、岡島ちゃん、内緒って言ったでしょう」
「えぇ、俺、言ってないっすよ」
そう返したのは、オールバックの岡島だ。岡島は、俺より三歳年上の営業で、吉田とは仲が良い。そして、そんな噂の話など知るはずがない。だが、そう鎌をかけると、ぺちゃくちゃと暴露しはじめた。嫌々ながら耳を傾けていたが、酔いが回ってくると、吉田の饒舌に拍車がかかっていった。そして、いつしか、武勇伝を一つ一つ語り始め、まったく酔えないでいる俺はただ愛想笑いを浮かべるのだった。
今は、耐えるしかないのだ。俺は、自分に言い聞かせるのだった。
松木は、どうしてるだろう。そう思ったのは、三次会で訪れたキャバクラでのことだった。馬鹿な武勇伝野郎が、いい女がいるから、と言い出して来ることになった。俺の忍耐も限界値に近づいていたわけだが、今ここで断るわけにもいかないと付き合うことにした。ただ、ある程度予想できていたことだが、女が入ったことで、吉田は女と話すことに夢中になっている。おかげで俺は、たまに絵話に混ざっているふりをして「はいはい」と言ったり、頷いたりするだけですむようになった。
松木の好きな奴は、たぶん、俺だ。松木が言っていた強気で、自己中で、最近調子悪くてというその男の特徴を結びつければ俺以外に該当者が浮かばない。
松木と会った一週間前のことを思い出すと、学生時代にも経験しなかったような不器用な自分自身に思わず恥ずかしくなる。だが、今までに欠けていた現実っぽさがあった。
「あの、どうぞ」
そう言って空になったグラスに酒を注ぎ足したのは、ソフトクリームみたいな髪型をした小柄の女だった。
「あ、どうも……」
吉田がキープしていたウィスキーをグラスについでもらった。俺があんまりに無言でいるので、何か話の糸口を見出そうとしているのだろう。吉田に視線をやりながらも、ちらちらと俺の様子をうかがっていた。俺はため息を吐くと、少しくらいは話につきあってやろうと口を開くのだった。
俺が解放されたのは三時を過ぎた頃だった。電車は当然無い。店でタクシーを呼んでもらえたのだが、何故かそれを断った。
これからどうしたものだろうか。家まで歩いて帰るのは馬鹿げている。始発を待ったほうがよっぽど早い。ビジネスホテルでも探して泊まっていこうか。この際漫画喫茶でも構わない。漫画喫茶で泊まった経験は無いが、シャワーくらいなら浴びられるらしいし、それもいいかもしれない。
ふと、携帯電話を取り出していた。受信トレイの中から、最後に松木から受け取ったメールを開いた。一週間前、松木と会った日のメールだ。『うん、またね』と書かれているのは、別れた後に俺が送った『また会おうな』に対する返信だった。それを見ていると、様々な感情が入り混じる。
俺のこと好きなんだったら、メール送ってくれても良いだろう。そう思うと、イラっとするのが分かった。だったら自分からメール送れよ、用がないのに送ってくるわけないだろう、という声が続く。
苛立ちからは開放されたもののむなしさを覚えた。そもそも、俺のことを好きじゃないかもしれないよな。俺のことが好きだったら、あんな話俺に直接しないだろ。そうだよ、考えりゃ分かることだ。いや、けど分からない。松木は、感情表現に関してはわりと不器用なところがある。昔からそうだった。
結局、松木の気持ちは良く分からないな、と結論に至った。すると、その気持ちを確かめたいという強い衝動にかられた。気がつけば俺は松木に電話をかけていた。時間を考えればマナー違反なのは分かる。けど、そうすることで、相手の反応を見れば気持ちが分かるんじゃないのか、と思ったのだ。
何度目かのコールで電話に応じたのは松木ではなく、留守番電話サービスの自動音声だった。
『留守番電話サービスセンターへ……』
その通知を受けた俺は携帯電話を閉じた。まぁ、仕方ないだろと思った。それをカバンに入れようとすると、体が応じない。そして、二度目のコールをかけていた。それにも出ない松木に苛立ちながら電話を切った。
松木は、俺の気持ちを知っているんじゃないか? 知っていて、じらしているんじゃないのか。俺があんなふうに誘ったりすることなんて普通では考えられない。それくらい松木なら分かるだろう。付き合っていた当時だって、ほとんど松木任せだったんだから。だったら、自分に気があるのかもしれないと勘付いたっておかしくないじゃないか。
そして、三度目のコールを、激しい焦燥感とともにかけた。
「くそ、なんで出ないんだよ!」
思わず声を荒げていた。そうだ、今から家に押しかけていってやればいい。タクシーを走らせれば小一時間で着くだろう。眠っているんだったら叩き起こして、俺への気持ちを吐かせてやればいい。もし、俺のことを好きだと言ったらそのまま犯してやる、胸をすり合わせて、骨が軋むまで抱きしめてやる、肩の肉がちぎれるまで噛み締めてやる。
奥歯がゴツゴツと音を立てて浮き上がるような感覚がする。それを噛み締めると、そこからドロリとしたものが流れ出したような気がした。
甘く、とろけてしまいそうだった。
その甘いモノは、松木を思い通りにしているというイメージであった。精神的にも、肉体的にも、である。そのイメージが現実ではないと知ると、今度は自己嫌悪が俺を支配していった。それは、すぐさま全身を侵食し、自己憎悪へと昇華していった。
死んだ方が良い、こんな奴は。無意識に握り締めた右こぶしは、加減されることなく鼻柱に叩き込まれていた。目の覚めるような痛みとともに、血が滴ってくる。その痛みは、自分の想像を用意に上回っていて、自分の行為をすぐさま後悔するのだった。
帰ろう。中途半端に酔っているんだ、俺は。
帰って、酒を飲めばいい。そして眠ろう。夢の続きを見るんだ。
4-4
何時、だ。仰向けの体を少しだけ起こし、目をつむったまま時計を探った。手にあたる物体に指を這わせていくと、その質感は明らかに目覚まし時計だった。まだ目をつむったまま、頭に二つのベルがついた目覚まし時計を両手でまっすぐ掲げた。ゆっくりと目を覚ますと、中秋の柔らかい明かりが飛び込んできた。
「七時、か」
上半身を起こすと、大きなあくびがもれた。
「会社、いかねーとな」
ベッドから飛び起きると、両手を挙げながら伸びをした。硬くなった筋肉が心地よい痛みを伴いながら伸びる。
冷蔵庫から卵とベーコン、食パンを取り出す。食パンはトースターに、卵とベーコンはフライパンにそれぞれ放りこむと、簡単な朝食を作った。テーブルに並べると、五分足らずで全てを胃に放り込んだ。そして食器を簡単に洗うと、俺は大きく一つあくびをした。
リビングの隅においてある姿見を見ながら、ネクタイを整えた。ビジネスバッグを右手に左手で力強くドアを開け放つと、外気が俺の全身を包んでいった。
風が少しだけ冷たい。冬を微かに感じる冷たさだ。太陽も、あの夏のギラギラとした勢いはなく、哀しげに優しい。
「スーツ着ている分にはこれくらいが一番だな」
不思議と独り言をしていた。普段、そんなことをすることもないのに。そう、俺は、現実から目をそらそうとして普段より気丈に振舞っているんだ。というのは、今日は、俺の抱えている案件を発注されるか、結果が出る日なのだ。競合四社の中で、二社が残っている。その一社が俺だ。勝算は、今のところ五分五分といったところだろう。自信は、正直あまりない。会社では、上司や先輩の営業に強がって見せた。けど、どうだろうか。「結城は、いざって時は臆病だしな」と茶化す先輩がいた。見返してやりたいという気持ちもあったが、俺の本質を見抜いていると思う。たからこそ、俺は自分に打ち勝たなければならない。
電車に揺られている間、緊張で押しつぶされてしまうじゃないかと思う。ふと、本当にぺしゃんこに押しつぶされている自分を想像してみた。さっき感じた秋のそよ風が吹いて、俺はふわふわとどこかに飛んでいってしまう。そんなことを考えていると、吹き出してしまいそうになるのそ抑えきれず、満員電車の中で微かに笑い声をあげてしまった。
会社に着いてからの俺は、結果の連絡が待ちきれず、ずっとそわそわしていた。そして、別件で打ち合わせをしている間、平静を装おうとしてとんちんかんなは発言を連発させてしまった。
そして、結果を知ったのは午後三時のことだった。それは、留守番電話で知らせられる事となった。商談のために会社を出ていたため、直接聞くことができなかったのだ。
着信者表示に顧客の担当者の名前が表示されているのを見つけたとき、すぐに電話にでられなかったせいで案件を落としてしまったんじゃないかと不安になった。そのせいもあって、留守番電話に一件のメッセージが残っているのに気がついたとき、俺は異常なほど落胆をした。
「詳細は後ほどメールにて送りますが、御社の提案を採択させて頂きたいと想います」という留守番電話の内容を確認すると、俺はそのギャップに少しの間反応できなくなった。冷静に状況を理解し、歓喜のあまりガッツポーズをとったのは、会社に戻る地下鉄の電車内のことだった。向かい席の老けたスーツの男は、何事か、というよりは迷惑なんだよな、とでもいいたげな表情でめがねのフレームを指先でくいっとさせた。
「なんか、案件とっちゃったみたいです」
まず伝えたのは、社内で通りすがった俺の上司だった。
そうすると、その話を聞きつけたのか、同僚がちらほらと俺のそばに集まってきた。
「結城君、いや、まさかとれるとはねー……」
そう言ったのは、社内ではベテランの吉田さんだった。俺の上司は、少しむっとしたような表情を浮かべているのに気づく。
「いやぁ、正直僕も無理だと思っていたんですよねー、あはは」
なごませるためにそう言った。
いや、実際、無理だと思っていた。俺に、億単位の案件を転がせるとは思っていなかった。なんだか、吉田さんは、いつも皮肉を言う人だが、ひょっとするとそのことが俺の気持ちを楽にさせていたのかもしれない。そう思うと、けして悪い先輩というわけでもないんじゃないかと、今までの苦手意識が少しだけ軽減されるのを感じた。
「よし、じゃぁ、今夜は結城のおごりでぱーっといくか」
上司が軽口をたたくと、周りの人たちがそれに異議なし、と唱えた。
「ちょっと! せめてインセンティブ入ってからにしてくださいよー」
色々とつらいこともあったが、営業をしていてよかった、と思える瞬間だった。
4-5
そうか、あの糞みたいな案件が受注とはな。
「ははは……ざまぁみやがれ」
片腕をついて半身を起こそうとすると、視界に映るものがグルグルと周り、そのすぐ後で強い衝撃が自分の肩に走った。肩がズキズキと痛みはじめると、その鈍い痛みをして、ようやくベッド落下したのだと理解した。起き上がらず、その場で仰向けになると、しばらくこうしていようと思った。それは、ベッドから落ちたことによる精神的なショックから立ち上がるために必要な時間だった。
「スーツのまま寝てたんだな」
そう思うと何故か笑えてきた。
なんとか立ち上がると、ひどい立ちくらみがした。壁に手をついて体を支えると、やっとのことで歩くことができた。ドアノブに手を当てると、ちょうどそのタイミングでめまいと頭痛の同時に襲われた。思わず両膝を床に着くと、そのままうずくまって頭を抱えた。ズキン、ズキンという強烈な刺激と世界がぐるぐると回る感触はこれまで経験したことのないもので、自分の肉体が崩壊していくように思えた。
なんとかリビングに出ると、ソファに座った。座位を保とうとすると、徐々に頭から血の気がひいてくのが分かる。それを放っておくと、今度は吐き気を催した。座位姿勢を保つことが苦難であることを理解すると、そのまま横寝した。
最悪な体調だが、それに反して頭は冷静に動いた。
吉田達とキャバクラに行ったのは昨夜のことだった。その後、家に戻ったのは朝の五時を回っていたくらいだったはずだ。そう考えると、それから二時間少ししか睡眠を取っていないことになる。その後、会社に向かったことになるが…… 何かが、おかしい。朝はあれだけスッキリしていたはずなのに、今のこの状況はなんだというのだ。それに、よく見ればこのスーツ、昨日と同じものだ。そもそも、億単位の案件で勝てそうなものなんてあっただろうか。
脳裏に、案件を取った興奮と、同僚や上司の笑顔が浮かんだ。何かが、おかし……
突然、シューベルトの魔王の前奏が流れた。携帯は、ちょうど面前のテーブルに置いてある。無視しようかと思ったが、着信者が松木だと知るとすぐに繋いだ。
「はい」
「あ、私だけど」
「うん」
「昨日、夜に電話くれたよね。どうしたの」
「あれか……特に用はなかったよ」
「そうなの?」
「あぁ」
そう答えると、会話がぴたりと止まった。
「駄目、か」
「え……」
「用も無いのに松木に電話をしたら、駄目なのか」
「いや、そんなことはないけど……」
けど、のあとにどんな言葉が続くのだ。そもそもお前は、俺から電話をもらって嬉しいのか、迷惑なのか。どっちなんだ。
本心が読めないことに苛立ちが募った。
「明後日、日曜だけどよ、予定空けといてくれないか」
「え?」
「ドライブにでも行こう」
「…………」
迷惑だと思ってなければ、これを断る道理はないだろう。まして好きなら、当然受ける。
「うん、良いよ……」
その言葉に、俺の興奮はグンと高まった。
「じゃぁ、一時にうちの最寄駅でいいか。紅葉でも見に行こう」
「うん、分かった」
電話を切ると、思わず小躍りしたくなった。体中が歓喜にうちふるえているのが分かった。そして、思わず突き上げたこぶしは勝利のサインのように思えた。
松木の気持ちを試すつもりの提案だったが、功を奏したようだ。ふと気がつくと体が軽くなっていて、そもそも頭痛やめまいなんてなかったのじゃないかと思うほどだった。
ウィスキーを取りにキッチンへ向かった。壁に取り付けられたキャビネットを開けると、買いだめしておいたウィスキーが数本入っていた。それの一本を取り出すと蓋をあけた。洗い物が山積みになった流し台からグラスコップを一つとりあげると、流石にそのまま使う気にはなれず、水道水で軽くすすいでからウィスキーをなみなみとついだ。
しかし、今日は良い日だ。全てがうまくいっている。仕事は成功するし、恋も成功したようなものだ。ソファに戻った俺は、祝杯を上げる気分でグラスのウィスキーを一口で半分ほど飲み干した。きっとこの数ヶ月、運がなかっただけだ。二十八歳というのは、厄年なのだろうか。理由は分からないが、このところ、とにかく全ての運から見放されていた。急に態度を変えた同僚や上司、俺をあっさりと捨てた沙希の面が目に浮かんだ。
「お前ら、見てろよ。これから見返してやるからな。俺を裏切ったことを後悔させてやる」
思っていることが、言葉となって出る。きっと、興奮しているからだろう。そして、その勢いに任せてウィスキーをストレートのまま何杯もあおった。胸を焦がすそれは、勝利の美酒と言えるかもしれない。
4―6
「もう、付き合えないんだ」
「うん……」
ゆきが、そう告げた。
「どうしても?」
「どうしても……」
「こんなに好きなのに……」
「ごめん」
木枯らしの吹く冬のことだった。吹きさらしの屋上は、地上よりなおのこと寒いはずだ。だけれど、俺の身体は寒さなんて感じてはいなかった。いや、きっとそれを感じていられるほうが幾分かマシだったかもしれない、この、絶望感と比べたら。
話は、それだけだった。
ゆきは、「ありがとう」と言うと、小さな手作りの紙袋を渡し、まるで俺から逃れるかのように屋上を後にした。
ゆきがドアを開けたとき、「キィィ」と錆びた鉄が軋む音がした。きっと、その金属音に木枯らしの切なさをあわせれば、今の俺の心境を最もよく表すだろう。
別れ際ゆきが俺に手渡したのは、屋上の鍵だった。それは、今までは俺たちの始まりを象徴しているものだったが、今となっては終わりを象徴するものだった。そして鍵は、薄ら暗い太陽の光を受けて、鈍色に輝いていた。あの、太陽が落っこちてきそうな夏の日差しが反射させていた銀色の輝きは二度と見られないだろうと確信した。
それから一週間も経たないある日、ゆきと君嶋が付き合っているという噂を耳にした。その噂は、俺を再起不能なまでに叩きのめした。幸い、君嶋とは同じクラスだったがほとんど学校に来ないこともあって顔を合わせることはわずかだった。だが一度だけ、君嶋が教室の中で堂々とゆきを抱きしめているのを目にしたとき、俺は嫉妬で狂いそうになった。思わず殴りかかりたい気持ちになったが、君嶋と目を合わせた瞬間萎縮してしまった。俺の知っている君嶋の目ではなかった。まさに狂気に満ちていた。そして、君嶋をそのようにしてしまったのは俺なのだという後悔が、俺の行動をさらに抑制したのだ。
それから一ヶ月もすると三学期が終わり、三年の新学期を迎えると俺たちはバラバラのクラスに分けられることとなった。そのことの安堵感と失恋の痛手からだろうか、俺のことを昔から好きだったという女子と付き合うことになった。しかし、受験勉強に追われるようになると、その女子とも疎遠となり半年もしないうちに別れることになった。
こうして、俺は何一つやる気が起きないまま、付属大学に入れるぎりぎりの成績だけをキープして高校生活を終えることになった。




