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3/6

終わりの始まり

3-1



「会社、行かなきゃな」

蝉時雨が耳障りだった。

「くそ、死ねばいいのに」

半袖ワイシャツの袖に腕を通した。少しよれたそれは、沙希と別れてから一度もアイロンをかけていない。

全部あいつがいけないんだ。俺のことを裏切りやがったあいつに、なんとかして復讐してやりたいと思った。出来れば賢く、俺だと分からないようにあいつを不幸にしてやりたかった。

部屋を出た途端、梅雨の頃となんら変わらない湿気と、目のくらむ強烈な日差しが俺を出迎えた。それでも、芝生の植えられたマンションの敷地内は幾分かましだったということを、マンションを離れたアスファルトの路面を歩きながら思った。

住宅街のまっすぐな路面は、熱せられて逃げ水を浮かび上がらせていた。靴底のゴムが溶けるんじゃないかと心配になる。冗談じゃない、なんで俺がこんなくそ暑い中歩かないといけないんだ。思わず、舌打ちをしていた。

部屋に引き返したい気持ちに駆られたが、そういうわけにはいかない。もう、何日も仕事を休んでいるのだ。ふと公園に目を向けると、ラブラドール・レトリバーを散歩している女がいた。四十代くらいだろうか。このクソ暑い中でよく散歩をしようと思えるもんだ。いや、飼い主なんてどうだって良いが、犬の方は悲惨だ。この熱せられた鉄板のような大地を歩かせられるのだから。

 駅に着くまでの間、初めはその犬のことを考えていた。しかし、いつしか犬によって連想された沙希のことを考えていたのだ。

なんで俺は飼い犬に噛まれたんだ。どこで飼育を誤ったのか。放任しすぎたのか。もしそうなら、あのラブラドール・レトリバーと飼い主のように、滅茶苦茶でも良いから構ってやるべきだったのか。分からないが、きっと俺はどこかで飼育を誤ったんだ。そんんなことを考えていると、電車が到着するアナウンスが耳に入った。


オフィスに入ると自分のデスクを目指した。

「おはようございます」

 俺が声を掛けたのは、同じ営業部の山崎という三十代の男だ。

「あ、おはようございます」

どことなくよそよそしい返事が返ってきた。ほんの少しだけ気になったが、数人の同僚が同じようによそよそしい挨拶をするのを見るまでは、おかしいとは思わなかった。その答えは、メールボックスに届いていた一通のメールを開くことで解決した。

俺の担当顧客が変わっていた。今まで俺が心血を注いできた顧客の担当から外され、代わりに売上にまったく縁のない会社や、聞いたこともないような会社の担当にさせられていた。

そうかよ、そういうことかよ、くそ。

思わずモニターを殴りつけたくなった。さっきまでキーボードに触れていた指は、掌の肉に食い込んでいた。しかしそれがモニターを殴りつけることはなく、ただ力がこもって微かに震えるだけであった。

何度か深呼吸をした後、俺はコンピュータ画面からスケジュールを開いた。ちょうど今の時間に『座長』とのミーティングが設定してあった。

『座長』とのミーティングは一時間ほどで終わった。最近具合でも悪いのかという話から始まり、俺の担当顧客が変わったという話が続き、最後に体調が悪いなら長期休暇をとったらどうか、と提案された。一言で片付けてしまえば、戦力外通告をされたのだ。その上、俺の代わりがあの小倉だと告げられた。

IT系は何もかもが早い。それだからと言って、ここ数年稼ぎ頭だったはずの俺を、こうも簡単に切り捨てられるわけなのか。『手の裏を返す』というが、これほどまでかと思った。


「結城さん、お疲れ様です」

 エレベーターが来るのを待っていると、すぐ後ろから俺を呼ぶ声がした。

 この声を知っている。小倉の声だ。

きっと、今振り返ったらこいつを張り倒してしまうかもしれない。俺は、今にも震え出しそうな自分を抑えるために目を閉じた。

「あぁ、お疲れ……」

「もう、お帰りですか」

 俺の横に並ぶと、声を弾ませながら言った。

 殺してやりたい、と心の底から思った。こいつは、俺が長年手をかけてきた顧客をなんの苦労もなく横取りしやがった。その代わりにゴミみたいな顧客を俺に押しつけた。

 それが『座長』の指示なのだとしても、この男に取られるくらいなら他の奴にくれてやったほうがどれだけ良いか。俺が無言でいると、さすがの木偶の坊も少しは無視されていることに気付いたようだ。

 気まずい空気が立ちこめる中、俺は一刻も早く小倉から離れたいと思った。しかし、そんなときに限ってエレベーターは一向に来ない。

「あの、俺頑張りますから」

 何を言い出すのかと思い、小倉に顔を向けた。

「結城さんの体調が良くなるまでは、俺がなんとかします……」

 大の大人が、しかもこの馬鹿でかい男が、眉間にしわを寄せながら仁王立ちで異様な気配を発している。

 ははぁ、そういうことか。こいつは、真面目に俺の体調が悪いと思い込んでいるのだ。そして、本気で俺のピンチヒッターをしようとしているのだ。どこまでおめでたい野郎だ。バカでバカで仕方ない奴だと思っていたが、俺の予想を遙かに上をいっていやがった。

「ははは、いや、うん。すまないな、ありがとう」

 そう告げると破顔一笑、気持ち悪い程きれいな真っ白い歯並びを俺に晒しながら何度も首を縦に振った。


 駅に向かう地下道、そこにいつものホームレスは居なかった。代わりに、薄汚れた黄色いTシャツの初老の男と、キャップをかぶったほぼ同年代の男がビニールのバッグを挟んで立ち話をしていた。

何を話しているんだろうか。耳を澄ませるものの、雑音にかき消されて聞こえたものじゃない。とはいえ、どうしても聞きたいというわけでもない。ただ、なんとなく気になるという程度のものだ。どうせ、景気が良いとか悪いとか、近頃は雑誌が手に入りづらいとかそういう話をしているんだろう。

俺が二人のすぐ横を通り過ぎた瞬間、確かに耳にしたその話の内容に愕然とし、思わず立ち止まっていた。俺の視線に気付いたのか、二人は会話を止め、俺から視線をそらすように辺りをキョロキョロと見渡しはじめた。

あいつは、死んだのだ。

「ここを場所担当してた山口さん、亡くなったんだってよ」それが、俺が耳にした言葉だった。

俺達は赤の他人だった。あいつは俺のことなんて知りもしないだろうし、俺だって、あいつが毎日あの場所に居なければ記憶にさえ残っていない。そんな関係だった。だから、あいつが突然居なくなったとしてもどうだっていい。ただ、あいつはダウンジャケットの謎を残して、その答えと一緒に逝ってしまった。


 九月だというのに、油蝉が鳴き止もうとしない。

「夜なのにうるせーんだよ、くそ!」

 グラスコップから溶けて角の無くなった氷を取り出すと、ベランダの外へ向けて投げつけていた。

 いい加減死にやがれ。そう思いながら、ソファのひじかけに頭をもたれさせた。そうしていると、ぼんやりと仕事のことを思い出した。会社に行っても殆どすることが無くて、営業だというのにまるで官僚のように定時上がりの日々を過ごしている。そのことが、俺を精神的に追い詰めている。

 なぜ、俺がこんな仕打ちを受けなければならないのかまるで理解が出来なかった。転職しようか、と何度となく考えた。俺くらいの実績があればどんな会社だってうまくやっていける。実際、引き抜きの話なんて今まで何度あったか分からない。それでもこの状況に耐えているのは、逃げ出したと思われることが耐えられなかったからだ。そして、あのバカどもを見返してから退職してやりたかったからだ。

小倉と沙希の面が脳裏に浮かんだ。それをかき消すようにウィスキーを一息で飲み干した。二人は勝ち誇った表情を浮かべている。

「くそ、くそ、くそ!」

 俺は握りこぶしを何度もソファに打ち付けていた。いつどこで歯車が狂ったんだ。今まで何もかもうまくいってきたはずなのに。

「俺が何かしたっていうのかよ」

 沙希が去っていった晩のことを思い出した。

「どいつもこいつも、なんだっていうんだよ」

 小倉の白い歯が脳裏をよぎる。そして、それをかき消そうとコップに残ったウィスキーを一気に飲み干した。

頭がズキズキする。それは、耐えられる限界近い痛みを発していた。俺は、出来る人間だ。なんだって人よりうまくこなせる。仕事だって、適当にやってても数字がついてきたんだ。女だって簡単に俺の前で股間おっぴろげてた。

「ははは、あの頃はよかったよなぁ」

 言葉に少し遅れて、自分の言うあの頃がいつなのかと疑問に思った。あの頃、といっても俺は自分自身に納得して生きてきたのだろうか。仕事がうまくいっていたといっても、女にもてたからといっても、俺自身は満足していなかったはずだ。

 ふと、俺には、心から懐かしく思えて安らげる思い出なんてないんじゃないかと思えた。いや、ないわけじゃない。そう、あの夢の中ならば。

 何故か、背筋がぞわぞわとするのが分かった。

「夢、か……」

 一言つぶやくと、俺はウィスキーをコップになみなみと注ぎ、それを一気に飲み干した。



3-2



赤いシーツ、俺が背中に感じているもの。黒い毛布、俺が胸に感じているもの。そしてゆきの髪、心地よい頭の重さ、俺が右腕に感じているものだ。

横になったゆきの微かな呼吸音が耳に心地よい。

 柔らかい乳房、それに左手をかける。俺のものだという思いが自尊心を満たす。右脚をゆきの足の間にもぐりこませる。これも、俺のものだ。きっと俺が子供だったら、そのことを自慢してまわっているかもしれない。

ゆきは、俺の幸せの象徴であり、俺が生きている意味でもあるんだ。

「ねぇねぇ、あきら」

 その声は、俺の緩やかな充足感に優しく割って入ってきた。

「お、なんだ」

「あの時のこと、覚えてる?」

「あの時って?」

「ほら、高校の時さ私とあきらが付き合うことになったけど、別れたったじゃない」

「あぁ……忘れられるかよ」

 横向きになると、ゆきの顔がすぐ傍にあった。

 ぱっちりとした瞳が俺を捉えていた。

「お父さんが死んじゃって、なんだか色んなことがめちゃくちゃになって、あきらのこと、すごく傷つけちゃったと思うんだ」

「ばか……俺だって、ゆきのこと傷つけてたし。あの時のこと、今でもすげー後悔してるから。あの時、ゆきの手を離してなければ、君嶋にとられたりしてなかったって」

「そんなことないよ。なんだか分けわからなくなっちゃってたし。別れた後、君嶋君すっごく親切にしてくれて、つい君嶋君に甘えちゃって……それなのに結局、長い時間かけてもやっぱりあきらのこと忘れられなくて、君嶋君のこと傷つけちゃったし」

「うん」

「私、なんかこれでいいのかなって思っちゃうんだ。あきらのこと傷つけて、君嶋君のこと傷つけて、今だってあきらに迷惑かけてるもん。それなのに、私だけ幸せなのって、なんだか……私だけどこかに消えた方がいいんじゃないかなって思っちゃって」

 ゆきは、俺の元を離れたいんじゃないのか。そんな疑念が心に浮かんだ。

 考えてみれば、これまで君嶋に散々愛された体だ。それも、俺のことを裏切ってあんな奴とくっついた上でのことだ。そう考えている自分自身に思わずはっとした。これが俺の本性なのだろうか。優しく愛してやれない自分自身に対する怒り、君嶋の女だったということへの嫉妬、どちらの感情も手なずけることはできそうになかった。

「じゃぁさ、俺はどうしたらいいの」

「え……」

「なんで、そういうこと言うんだよ。ゆきがいなくなったら……俺どうしたら良いんだよ」

 ゆきがいなくなったら俺は死ぬから、と言いかけた。もちろん死んでしまうということが本心なんかじゃない。由紀の言葉に対して、脅してでも俺の元を離れさせたくないということを主張しなければ不安は収まりそうになかったのだ。

「ごめんね……」

 視線をそらすゆき。

その瞬間に俺の脳裏に描かれたのは、俺の元を離れていってしまうゆきの姿だった。

 どこかに閉じ込めてしまいたい。だがそうすることは不可能だ。心が、現実と欲望の狭間で、苦しみのうめき声をもらした。

「俺が、ゆきのこと傷つければいいんだ。それなら、対等だろ」

…………

「じゃぁさ、服脱いで」

「え……」

「俺のキスマーク、ゆきの体中につけて傷だらけにしてやるから」

「そ、それってちが……」

 最後まで言わせずに、俺は、ゆきを抱きしめていた。

「離せるかよ……俺が、どれだけ愛してるか分からねーのかよ」

 怒りを抑えた声は少しどもりそうになりながら、それでもそうはならず、ゆっくりと口からこぼれた。

少し骨ばった肩に歯を当てて強く噛み付いた。ゆきの体が、痛みで瞬間びくっとなる。だが、やめてとは言わない。こらえているのだろうか。そんなことでよければ我慢してあげたいと思ってくれたのだろうか。

いとおしい気持ちが胸にあふれた。

俺は、かみつきを少し緩めると、そこに舌を這わせ、何度もキスをした。そして、違う場所で同じ事を繰り返した。それから、ゆきの唇に荒々しくキスをした。

ゆきを傷つけることで自分を納得させようとした。その発想自体は、傷の大小の差こそあれ君嶋と同じものなんじゃないかと思う。だが、君嶋のようなことをしないという自信があった。俺と君嶋が同じであるわけがない。そう自信を持って主張できると思った。

「私で、いいの?」

 ゆきがぽそりとつぶやいた。

「おいおい、まだ言うのか……」

「だって、あきらだって、私のせいで会社辞めることになっちゃったし」

「ばか、それは君嶋のせいだろ」

 返事をしないゆきを胸元に抱き寄せた。そして、二度と離れることのないように強く抱きしめた。

「これ以上失ったら、俺は生きていけないから……」

 さっき、ためらった言葉が無意識にこぼれていた。

 それからどれくらい経ったのか、俺の意識が限りなく眠りの近くに傾いた時、ゆきの口から「ありがとう」という言葉が聞こえた気がした。いや、聞こえたんだと思うけど、どうだろう……朝になって、それを確認しよう。



3-3



「ねぇ、どうしたの?」

 松木が、心配そうに言葉をかける。いつものバーだ。俺は、松木が来るよりも三十分も早くそこに居て、ウィスキーを何杯か空にした後だった。

松木が来てからさらにもう何杯か飲んだ、ウィスキーばかりを。

「あぁ、なんでもないよ……」

「あんまりそうは思わないけど……そんな風に飲むの、おかしいって」

「いや、大丈夫だよ」

 心配して声をかけてくれていることだけで、少しだけ気が楽になるように思えた。

「何かあったんでしょ? 言ってよ、聞くからさ」

「はは、大丈夫だよ」

「ひょっとして、沙希ちゃんと何かあった?」

 鋭い指摘であった。

「あぁ、別れたよ」

「えぇ、いつ」

「いつだったかな。一ヶ月くらい前か」

「どうして?」

「どうしてって、さぁ。元々好きで付き合ってたわけじゃねーし」

 そう答えると、松木の質問攻めは止んだ。その代わりに松木は、寂しげな視線を俺に向けた。ひょっとするとそれは哀れみの視線だったのかもしれない。いずれにしろ、それはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはまだ半分くらい残っているチャイナブルーのカクテルグラスに目を移していた。

「それより、そっちはどうなんだよ。最近なんかないのか」

「私? うーん。私、お見合いするかもしれない」

「お見合い?」

「うん、なんか、親戚のおばさんがうるさくてさ……」

「へー……お見合いか。ていうか、いまどきそういうおばさんも珍しいよな」

「でしょでしょ。いつの人よって感じだもん。まぁ、断りきれない私も駄目だなーって思うんだけどさ」

「松木の家って、結構金持ちなんだろ」

「親戚が、ね。私の家はぜんぜんよ」

「親戚が金持ちなのに、おこぼれにあずかるってのはないのか?」

 そう言うと、少しだけ面倒くさいような表情を浮かべたが、事情を細かく説明してくれた。松木の母親は東北のとある大家の出身なのだが、父親と結婚する際に相当激しい反対があったらしい。駆け落ち同然で結婚したらしく、それ以降実家とはほぼ断絶状態だったのだそうだ。ところが、松木の父親が亡くなってから――この話は、ちょうど高校時代の話しだったので知っていた――は、金銭的な問題もあり、何かと関係が続いているということらしい。

「ふーん、そうだったのか」

 何杯飲んだのだろう。もはや意識が明瞭とはけしていえない状況にあるのだが、なんとか話にはついていくことができた。

「けど、それだったら、お見合い相手って結構金持ちなんじゃないのか」

「まぁね……」

「へー、だったら良さそうなもんじゃん」

「嫌だよ。写真送られて来たんだけどさ、もう、超いもおやじなの!」

 いもおやじという言葉に、思わず噴出してしまった。

「そっか……松木が結婚かー」

「ちょっと、勝手に決めないでよ!」

「あはは」

 なんだか、結婚が決まったと言うわけでもないのに、松木がずっと遠くに行ってしまったような気がした。

「そんなことより、明、大丈夫なの」

「何がだよ」

「何がって、なんだか変だよ。いつもそんな風な飲み方しないじゃん」

「そんなことない、普通だよ、普通」

「嘘でしょ。付き合い長いんだから、これでも明のこと分かってるつもりだからさ」

 体を俺の方に寄せて言った。

「大丈夫だって言ってるだろ」

 松木の気遣いよりも、現状を把握されることが怖かった。

「そう、分かった……」

 俺の考えを察したのだろうか。体を向き直すと、その勢いでグラスのチャイナブルーを口にした。それにあわせるようにウィスキーを一気に飲み干すと、すぐさまもう一杯をオーダーしていた。松木の心配をよそに何杯もウィスキーを飲んでいると、ついには意識が俺から剥がれ落ちていくのを感じた。



3-4



「まったく、しっかりしなさいよー」

 おぼつかない現実感の中でその声を耳にした。

 ここは……

あぁ、そうか。俺のマンションじゃないか。エレベーターの前にいるんだな。この声は松木か。そう、俺は松木と会っていて……酒を浴びるくらい飲んでいたな。それで、店を出てから記憶がとんでいる。

「部屋、何階なの?」

「――に、かい」

 俺の肩を担いだ松木は、ふらふらしながらエレベーターに乗った。

 あぁ、少しだけ意識が飛んでいた間のことを思い出した。松木は、俺を家まで送ると言った。それを聞いて俺は妙に安心して、後は松木に任せようと思ったのだ。

「わるい、な。もう大丈夫だ」

 離れようとして松木の首に回されている俺の腕を外すと、俺はその場で崩れ落ちた。自分の足で立つことがこれほど不自由に思えたのは初めてだった。小説で、今の俺みたいに力なく崩れ落ちることを『糸の切れた操り人形のように』と表現するが、まさにその表現がぴったり当てはまる状態であった。

「ちょっと!」

 そう言うと腰を下ろし、もう一度俺の肩を担いで立ち上がった。姿勢が崩れるたびに二度、三度とエレベーター内部の壁に体をぶつけた。なんとか体勢を立て直すとエレベーターから降りた。部屋の番号を伝えると、松木は、ふらつきながら俺をそこまで運んだ。部屋の前まで来ると、そこで力尽きたかのように、半ば乱暴に俺をおろした。

ドアに背をもたれかけていると、両ひざに手をついて前かがみになっている松木の荒い呼吸音が聞こえた。松木に、大変な迷惑をかけたことを実感した。

「ほんと、ごめんな。もう、帰ってくれて大丈夫だから」

「馬鹿、そんなことより鍵貸しなさい。タクシーには待ってもらってるから。部屋まで入れたら帰るから」

「すまん」

 カバンを指差すと、松木はカバンを開けて鍵を手に入れた。なんとかリビングのソファまで行くと、松木はその場でへたりこんでしまった。

「あー、もう、これ、明日絶対筋肉痛になるから」

「悪い……」

 下手に善意だけ見せられるより、文句の一つでも言われた方がましに思えた。

「もう、大丈夫?」

「あぁ……」

「そっか、じゃぁ、そろそろ行くから」

「うん、すまなかった」

「あんまり無茶な飲み方しちゃ駄目だよ、分かった?」

「あぁ」

 そう言うと、床でへばっていた松木は腰を上げた。その瞬間、なんとかこらえていた嘔吐感が不意に限界に達しかけた。両手を口に押さえた俺は、なんとか台所まで駈けようとするものの、足をもつれさせてそのまま台所の壁に頭をしたたかに打ち付けた。そして、その場で何度も吐いた。

「ちょっと、大丈夫!?」

その声が耳に入ると同時に背中をさする松木の手のぬくもりを感じた。全てを吐き出してもなおも続く胃の痙攣に俺は苦し涙を流していた。だがそれは、己のあまりの無様さに対して流れる悔し涙に思えてならなかった。

 松木に助けられてなんとか流しにたどりつくと、蛇口をひねって水道水を口にした。それが胃にしみこむと、まるでそれを拒絶しているかのように胃が収縮し、殆ど水分だけの嘔吐物を吐き出した。

吐き終わると喉は水分を欲した。それを満たしてやると、今度は胃がそれを押し戻した。おなじことを何度か繰り返すと、さすがに吐き気はおさまっていた。頭痛はひどいものだが、胃のむかつきが幾分か落ち着いただけさっきよりははるかにマシに思えた。

 壁に手を着きながらソファのあるリビングに戻ると、俺の吐瀉物を片している松木の姿があった。ちょうど、片付け終えているところのようだ。自分の家でもないのにどこから見つけてきたのだろうか、ゴミ袋とその中につまっている俺のゲロを吸った大量のティッシュが目に入った。

「松木、今日はほんとにごめん……」

「もう、ほんとびっくりしたわよ。大丈夫なの?」

「あぁ、なんとか」

「そっか、良かった」

 そう言って向けた笑顔は、俺の心に強い印象を残した。そして何故か、俺は松木に愛されているんだと実感に変わった。それは、別に男女としての意味ではない。言ってしまえば、人類愛的なものなのかもしれない。

「ほら、座ってなよ」

「あぁ……」

「ちょっと、待っててね。すぐ戻るから」

 そう言うと、俺が言葉を返すよりも早く部屋を出て行った。

タクシーに帰るように話をしに行ったに違いない。戻ってくるんだな、と思うと心が暖かくなったように思えた。普段俺が感じることのない感覚で戸惑いを覚えた。きっと、無力になって、人に助けられたことで初めて感じる事のできる感覚なのだろう。

 松木は少しして戻ってきた。俺は一言「ありがとう」と告げた。

「まぁ、誰だって辛い時はあるしね」

 松木はそう言うと、ソファに座っている俺の横に腰を下ろした。俺は、多少の羞恥心とともに、松木の肩にもたれかかった。そんな俺の肩に手を置いた松木は、ぽんぽんとそこを叩いた。それは、魔法の言葉のように俺に安心感を抱かせ、しばらくするとウトウトとし、そのまま眠りについていた。


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