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2/6

夢に惑う

2-1



「で、次に結城、報告よろしく」

…………

「――おーい、どうした」

「あ、はい」

 自分の名前を呼ばれていることに気づきはっとした。

「えっと、先月から取り組んでいる例の案件ですが、RFPの回答期限は今月いっぱいです。今のところ問題は特に起きていないので、あとはエンジニアと打ち合わせて対応していきたいと思っています」

 用意された原稿を読み上げるようにすらすらと話していた。

「で、感触はどんな感じだ」

「そうですね、現状ではなんともいえません」

「なんだ、受注できるかも分からない案件追っかけているのか」

「確度は低いことは事前にお伝えしたとおりです」

「まぁそうだな、だがあまり悠長にすぎないように」

「はい」

「進捗があったら報告してくれ」

「はい……」

 話し終えた瞬間、まるでたった今目が覚めたような感覚がした。

 周囲に目を配る。そこは会議室だった。営業部の同僚が長方形の白いテーブルを囲むように座っている。『座長』を合わせて八人くらいだろうか。

 隣の同僚が俺に続いてやたら大きな身振りで営業報告をしている。良く聞けば案件を落とした言い訳をしていた。目を見開いたり咳き込んだりする姿は滑稽の一言につきる。

そうか、これは営業部のミーティングだ。いや、そんなことは最初から分かっている。だが、なんだろうかこの違和感は。朝起きて今になるまでの時間が、まるで自分のものではなかったような、例えるなら、つまらないテレビ番組をぼんやりと眺めていたような感覚だ。

テーブルの上の両手を開くと、手のひらをじっと見つめた。

これは、現実だよな? 無意識に自分自身に問いかけていた。


「今日はどうしたんだ」

 ミーティングが終わって会議室を出ると、ちょうど前を歩いていた『座長』が振り返って声をかけてきた。会議中俺が惚けていたことを言っているのだ。

「いや、大丈夫です。申し訳ありませんでした」

 すぐに離れようとしたが、とりあえず自分のデスクに戻るまで話をしていようと思った。

 デスクに戻ると、俺はそこで少しの間ぼんやりとしていた。そうしているうちに、自分の心を再起動させているような感覚と共に、自分の為すべき事が鮮明になっていくのが分かった。仕事、しないとな。心の中で声をかけるが、俺の体は、いつものルーチンワークをこなすときのようには動こうとはしなかった。

 会社帰りに地下通路を歩いていると、いつものホームレスがブルーシートを広げていた。ふと立ち止まると、俺はその男の所作をじっと眺めていた。それを訝しく思ったのか、男がちらちらと俺に視線を向けた。

 それでも眺めていると、徐々に警戒心を高めていくのが分かった。それでも構わず眺めていると、男が突然足をもつれさせてブルーシートの上に尻餅をついた。

俺のことを私服警官とでも思ったんだろう。それで、焦ってすっころんだんだ。まったく馬鹿な奴だ、ただのサラリーマンだっていうのに。そう思うと何故か愉快で仕方なく、無意識に笑い出していた。それが顔に出ないように、思わず右手で口元を押さえると、急ぎ足でその場を立ち去った。

 

 シューベルトの魔王が流れる。深夜二時のことである。

俺の携帯の音楽。

「誰だよ……寝てるってところに……」

 ぼそっと言葉をもらしたが、俺の知り合いでこんな時間帯に電話をかけてくる無作法者は一人しかいない。

ベッドの脇に置いてある携帯電話を手に取ると、仰向けのまま電話に出た。

「月島……なんだよ?」

着信者を確認せず、そう告げた。

「あぁ、わりーわりー。特に用事ねーんだけど、なんとなくかけた」

 思ったとおり月島だった。

「今何時だと思ってんだよ……」

「二時だろ?」

「って、わかってんじゃねーか……」

「ていうか、こんな時間に出るお前が悪い。俺は、後三回コールして出なかったら諦めるつもりだったしな」

「おいおい、どういう理屈だよ……」

 とはいえ、平日の深夜二時に電話に出る俺もどうにかしているのかもしれない。

「ていうか、今から出られねー?」

「おい……明日会社だよ」

「うぉ、お前まだ社会人やってたのか?」

 親友とはいえ、この電話といい、毎回毎回、常識では考えられない身勝手さにほとほと呆れる。まぁそうはいえ、こんなような性格が今に始まったわけでもなく、慣れてしまっているわけなのだが……

「当たり前だろ、しかも明日火曜日じゃないか。それよりなんの用だ」

「おぉ、絵が描きあがったんだ」

「ついに描きあがったのかよ! どうなんだ?」

 その報告は、少なからずサプライズであった。俺は、体を起こして、髪の毛を掻き揚げた。

「へへへ、すげーぞ。マジで良い感じだ。なんつっても平成の怪物君だからな」

 その言葉に思わずにやけていた。

「ははは、なんだよそれ」

「エニウェイ、苦節六ヶ月、ようやく描きあげたぜ」

「おぉ、じゃぁ、今度観にいかせてもらうわ」

「来い来い。泣けるぞ」

「はは、てことは笑えるんだな?」

「ちっげーよ! おめーぶっ殺すぞ!」

 そう言うと、一方的に電話が切られた。

相変わらず口汚い奴だ、『ツーツー』と鳴る電話を眺めながら、そんなことを思った。

社会人になって六年が過ぎたが、昔と何も変わらない。自意識過剰で、短気で、口が悪くて、本当に、ただ自分の好きなように生きている男だ。確か、前回会った時は平成のルネサンスを自称していたな。今回は平成の怪物君か。

「ははは、月島らしいよ」

 半開きの目をこすると、頭を二三度横に振った。

『自称』シリーズも毎回バラエティーに富んでいる。まったく、月島との会話は毎回おもしろくて仕方がない。

俺は、絵画の世界を良く知らないのだが、月島の才能は本物だと思う。ただ、生きている間に成功するタイプではないだろう。いわゆる天才型というやつなんじゃないかと思う。

絵画における月島の世界観は、ポップアートと印象派と浮世絵がごちゃごちゃにまざったようなわけの分からないものだ。月島に言わせると、東洋と西洋が出会い、過去が現在に遭遇することで織り成される究極のアートということらしいが……その究極を理解できる人間なんて俺と月島以外に存在するのだろうか、正直疑わしい。

月島の絵は、一つ一つのまったく属性の異なる絵画の技法――月島に言わせると因果らしい――が、奇妙な連携をとっている。以前、浮世絵風に描かれたドレスを着たフランス女と、印象派風に描かれた着物の日本女が向かい合っている絵を描いていた。そして、フランス女はパリのエッフェル塔を槍のように構え、日本女は東京タワーを同じように構えて向き合っているというものだ。そんな絵を描く奴なのだ。その絵を見たとき時、何が言いたいのか尋た俺は、散々馬鹿にされた後で、「芸術は、文化同士が融合するように見せかけているだけで、実はそれぞれの文化に相手を染め合っている、いわば侵略戦争なのだ、他国の芸術にひかれる、文化の迎合、即ち敗戦の恥辱に等しい!」と熱く語られた。

時々思うことだが、月島と俺の接点ってなんだろう。月島と俺は、価値観も性格もまるで異なる。

あんな情熱的な男は、あいつ以外では会ったことがない。逆に俺は、クールというか無関心というか……人並みの三大欲求に支えられてようやく生きていられるようなものだ。

『太く短く生きる』というのは、あぁいう奴をいうんだろうな。そして、そんな生き方を羨ましいとも思うが、自分には無理だろう。

俺の下らない六年間、社会的な意味では俺のほうがよっぽど成功している。だが、そんなものは下らない。いくら俺が営業成績を上げた所で、俺の変わりはいくらだっているのだから。それに比べれば月島は、まかり間違えば歴史に名前を残すかもしれない奴だ。別に、もしもあいつが成功した時に、ゴッホの弟テオみたいにちゃっかりと有名になりたいというわけじゃない。ただ、俺のつまらない日々と比べると月島の創作はあまりにも鮮明で、リアルそのものに思えるのだ。なんというか、大層なものじゃなくて、ただ、月島と会うのは楽しい、それだけで十分なのだと思う。

そういえば、俺とあいつの接点ってなんだろう。考えを巡らすものの、何一つ見あたらない。それなのに、高校時代から付き合いが続いている。ひょっとすると、性格がまったく逆だから良いのかもしれない。あれだけ個性が強い奴だと、大抵の人間とは付き合っていられないに決まっている。

 そんなことを考えていると大きなあくびが一つ、眠りの世界から睡魔が俺に声を掛けてきたようだ。その誘いに抗うこともなく、俺は眠りにつくのだった。


 月島は、古い二階建てのアパートに住んでいる。

正直、安定した生活を送っているとは言い難い。芸術家を目指しているというのだから仕方のないことなのだろうが、俺との所得差はかなりあるだろう。そのことは、月島もよく理解している。だからといって俺も月島もそのことを気にかけてなどいない。多分、俺の所得や社会的地位をもって「俺の方がお前よりもましな人間だ」なんて言おうものなら、「お前みたいな人格破綻者がほざくな」と一笑に付すだろう。月島は、そんな奴だ。

月島の部屋の前で呼び鈴を右手の人差し指で何度か鳴らす。

少しすると、ドア越しに、『ドスドス』と足音が聞こえてきた。

足音が荒々しい。なんだかしらないが怒っているようだ。

危険を察した俺は、ドアから一歩退いて月島に備えた。すると少しして『ドカ』、と激しい音とともにドアが乱暴に開いた。案の定、そこに居たら頭をぶつけていただろう。

「よう」

「おっせーよ!」

「何言ってんだよ。時間より十分はえーよ」

「だからおせーんだよ!」

 何を言い出すんだこいつは……

 一瞬唖然としたが、その言葉の本意はなんとなく想像がついた。きっと、「俺様がお前のために絵を飾って待ってやってんのに、なんで早くこねーんだよ」と言いたいのだろう。まったく、本当に理不尽な男だ。だが、そのことが嬉しくも思えた。

「わりーわりー。これもってきたから許せ」

苦笑いをかろうじてこらえると、こんなこともあろうとあらかじめ用意しておいた焼酎やつまみなどの賄賂の品々を差し出した。

「おぉ! さすが明! よっしゃ、入れ!」

 態度がコロリと変わり、喜々としてそれを俺から奪い取ると、ビニール袋から透けて見える焼酎の銘柄をまじまじと眺めていた。

 まったく、この一つで態度が百八十度変わってしまうから面白い。

招かれたは良いが、面前にはゴミの山が広がっていた。

俺の部屋もきれいだとは言いがたいが、月島の部屋はその比じゃない。玄関のすぐ先は、ゴミ袋が堆く積み上げられているし、二三メートル程度の細い廊下の至る所にに紙が散在している。

まったく、俺が思うのもどうかと思うが、少しは掃除したらどうだろうか。そう思うのには、単に部屋が汚すぎるということ以外にもう一つ大きな理由がある。この廊下の先には月島の部屋――自称アトリエらしい――があるのだが、一見ゴミにしか見えない紙くずの中に、月島にとっては重要なものが混ざっているらしく、それを踏むと鬼の形相で怒鳴ってくるのだ。とはいえ、そんなことは月島以外分かるはずもなく、ほぼ毎回怒鳴られている。俺が取り得る対処法といえば、月島の踏んだ絵を踏みながら歩くことくらいなのだが、そうした結果怒鳴られる時もあり、もはや理屈じゃないんだなと諦めの境地に達している。

 恐る恐る月島の足跡に合わせて行くと、怒鳴られずにゴールであるアトリエに至ることができた。

 おぉ、なんか嬉しいぞ。

下らないことかもしれないが、思った以上に嬉しかった。それは、仕事で小さな案件を受注することなんかよりよっぽど大きいもので、ひょっとすると、前回受注した大型案件の時より嬉しいかもしれない。

月島の部屋に入ると、いつもの悲惨な状況かと思いきやこざっぱりとしていた。

畳がちゃんと、一、二、三……六枚、あるのが分かる。

 何かあったのか、という意味の視線を月島に向けると、俺の心を見透かしたようににやっとした。

「へへ、一応鑑賞会だしな。片付けてやったんだよ」

 なんだか月島らしくない発言に、俺は一瞬背筋に嫌なものを感じた。

月島は鼻をすすると、俺が見落としていた黒いイーゼルに立てかけられた白地の布をぽんと叩いた。それに覆われた四角い形状のモノが月島の絵画に違いない。

「こいつだ」

そう言って誇らしげにその布をはぐと、甲冑に身を固めた一人の太った男が現れた。

「これ、か……」

えらく滑稽な男だなぁ、というのが第一印象であった。

月島の絵画は、だいたい第一印象がぱっとしない。だがそれは印象が薄いというわけではなく、今回がそうであるように、あまりに個性的で『なんだこれは』と思ってしまうのだ。

戦国の鎧武者のような兜をかぶっているのに、西洋の騎士を思わせる白銀の鎧に身を固めている。それが、レンブラントを彷彿させる色調で描かれている。

それにしても、その鎧は、この男にしてみれば小さすぎるんじゃないか。男がでっぷりとしているのか、それとも鎧が極端に小さいのだろうか。いずれにしろ、鎧のサイズがきつすぎて、脱げないんじゃないのか。

右手には剣を握り、そして左手には何故かビジネスカバンを携えている。すねのあたりから下が真っ黒で、背景の黒と同化してしまっている。

男は、三十代くらいだろうか。いや、二十代後半くらいかもしれない。口髭とあご髭が実年齢より上にみせているのかもしれない。

切れ長の目か……心にひっかかるのは、以前沙希に俺の目が切れ長だと言われたからかもしれない。その目は、一見精悍そうなのだが、どこか寂しげでもあった。

何故、足の先まで描かなかったのだろうか。よく見ていると、そのすねから下側は、ただの漆黒ではなく、何かどす黒いものが流れ出しているように見える。

 一通り見た後、俺はあれこれ考えることを止めた。

「これ、なんだ?」

 俺が言うと、月島はほくそ笑むだけで何も言わなかった。てっきり、「お前馬鹿かよ」と言われるものだと思っていただけに拍子抜けしてしまう気持ちと、なんだか薄気味悪いなという気持ちが去来した。

「わかんねーか」

「――あぁ、わかんねー」

 俺から視線を背け、次いで顔を下に向けると、何かをこらえるように少し震えあがった。

「これは、あれだよ。お前だ」

「は?」

「ははははははは」

 俺の反応に、大きな声で笑った。そこまで大声で笑われると多少不愉快になるというものだが、そんなことよりも、これがどう俺なのか理解したい気持ちが働いた。

「今回な、お前を題材にして絵を描いてみたんだわ。苦労したぞ。この、滑稽な感じをだすのに」

 そう言われて、再度絵画に目を向けた。

「切れ長の目は、俺っていうことか……けど、他は……うーん、分からんな」

「馬鹿、全部だよ。さ、そんなことはどうだっていいから酒飲むぞ! 酒!」

 首を傾いでいる俺を相手にもせず、月島は台所に向かう。そして、ばかでかいグラスのコップを二つ持ってきた。

「さ、飲め!」

 月島に手渡されたコップには、焼酎の原液が並々と注がれていた。

「おい、ストレートかよ」

俺は、少しだけ呆れながらも、月島との宴に興じてやろうじゃないかという気になり、それを一気に飲み干すのだった。


 タクシーは赤信号で止まると、左折のウィンカーを出した。

『カチカチ、カチカチ』とウィンカーランプの乾いた点滅音がする。それは、月島に散々飲まさせられて泥酔している俺をより一層不快な気分にさせる。だが、それにもまして、この鼻にまとわりつく柑橘系の芳香剤の匂いは耐え難いものがあった。

「お客さん、IT関係の方でしょう」

「――分かるんですか?」

 この際しゃべるほうが楽なんじゃないか、と思った。

「分かりますよ。この仕事長いとね、そういうの」

 ルームミラーが、運転手の目じりのしわを映し足していた。

「お客さん、モテルでしょう?」

「え、いや、どうでしょう……」

「いやー、そういうオーラ出てますよ」

「はは、どうも……」

「ひょっとして、コレのところからお帰りですか?」

 そう言って、左手の小指をくいっと上げて見せた。その仕草、野卑な表情……俺の会社の使えない同僚と同類だ。話していれば酔いから少しは解放されるかと思ったが、まったくの逆効果となったことに後悔を覚えた。

「まぁ……」

 良いから、黙って死んでくれと心でつぶやいた。

 気がつくと、酒酔いに車酔いが合わさって悲惨な状況となっていた。それは、自分の部屋のドアを開ける瞬間、まさに最悪の水準に達した。胃圧がぐっと高まる。もはや、耐える必要などない、とトイレに駆け込んだ俺は、便器に向かってめいっぱい嘔吐した。


あぁ、この感覚、最近もあったよな。リビングで大の字になっていると、そんなことを思った。

喉が焼ける。息を吸う度に痛む。

「くそ」

 ぼそりとつぶやいていた。

多々良 由紀だっけか。その名前を思い出すと同時に、あの晩感じた悪寒がよみがえってきた。

「くそ、気持ち悪い」

 何かをぶち壊すように右手で床を強く打った。「バン」という音を立て、すぐにあたりは静寂を取り戻していった。

夢、なんかに怯えている自分が苛立たしかった。しかし、そうしたところでゆっくりと俺の内側に忍び込んでくる恐怖心はどうにもしようがなかった。そして、その場を離れるべきだという無意識の声が俺の心に響いた。それは、至極真っ当なプロセスを辿って俺の心がもたらした防衛機制なのだろう。

室内の鍵をかけ寝室に籠城すると、体を小さく丸めて毛布を頭までかぶった。

安堵感が俺を包む。そこは心の聖域なのだと思わず思い込んでいた。そして、そう思うと同時に意識がゆっくりと落ちていくのだった。



2-2



「初めまして。結城 明です。えっと、趣味とかは、特にないです。よろしくお願いします」

 教師も他の生徒も興味なさげに耳を傾けていた。そりゃしょうがないよな、と思った。自己紹介は名前順だ。や行の俺はほとんど最後の方で、俺の後ろといったら四人くらいである。だから、みんな聞き飽きてきているんだと思う。その上俺の自己紹介は、まったくもって平凡というか、笑いどころも突っ込みどころも何一つないつまらない内容だった。

「はい、次」

 担任の田島が言うと、後ろの男子がすっと立ち上がる。体格がいいというかデブというか……縦と横の幅がほとんど同じような奴で、吉田とかいう奴。去年は、別のクラスだったから会話したことはない。名前を知っているのは、たまたま誰かが声をかけていたからだ。

「えっと、吉田です。柔道部です。味噌バターラーメン、あと、袈裟固めが大好きです」

 一瞬、クラス内が静まったかと思ったらどっと笑い声があがった。

「わけわっかんねーよ!」

 一際大きな声で言ったのは君嶋だった。

「うっせ。ファクれ」

 ファクれっていうのは、ファックしてろ、の略語のようなもので、俺の学年で最近流行っている言葉だった。

「はいはい、君島、少し黙りなさい」

 君嶋は、ふてくされた表情を浮かべながらそれに従った。

「吉田、他に言っとくことねーか?」

 田島が言うと、吉田の反応を期待するようにみんなの視線が吉田に集まった。

「え? あぁ、じゃ、昨日元彼女により戻そうって言われたんだけど、どうしたらいいっすか?」

 クラス中がまた笑いの渦につつまれる。

「俺に言うかよ!」

 田島も思わず噴出しながら答えた。

「もういい、座ってくれ。次!」

 田島に言われると、まだ何かいいたげにしぶしぶとしながら席についた。

周りのみんなが笑っている中、俺だけがそれに乗れなかった。別に、俺の自己紹介の後で吉田の自己紹介があったこと、つまり、つまらない自己紹介の後で面白い自己紹介があったことが原因ではない。ただ、どうしても、こういう皆が一つになっているような状況に自分を合わせられないのだ。それでも、周りが笑っているのに俺だけ無表情というのも、吉田と俺の席位置関係から目立ってしまいそうだから作り笑いを浮かべた。

 ふと周りを見渡すと、同じ作り笑いっぽい女が居た。根拠はない。けど、俺は、それがそういうものであることを直観で知っていた。

 澄んだ大きな瞳、あれは、確か多々良 由紀……



2-3



 ここは……

見知った天井。そう、ここは俺の部屋だ。

瞼が重い。

眠っていたのか。

指先や足先をもぞもぞさせると、感覚が戻ってくるのが分かった。ところが、左腕だけまるで無感覚だ。なぜ、と思って左手の方向に首を傾げると、左頬に柔らかい感触があった。一瞬訝しく思ったが何ていうことはない、沙希である。仰向けに眠っているが、器用なほどまっすぐの姿勢だ。

沙希の頭に鼻を寄せると甘い香りがした。俺と同じ安物のシャンプーを使っていて、何でこんな匂いになるんだろうか。もう一度匂いを嗅ぐと、それは俺の鼻腔を抜け、甘いしびれとなって脳天に伝わっていった。そして、この女を犯したいという男の原初的な感情を引き起こす。だが、行為に及ぶほどの強い感情ではなく、俺は天井に向き直った。

 夢を見ていた。多々良 由紀の夢だ。

記憶に、ある。

夢の中の俺は高校生だったようだ。おそらく、高校二年なのだと思う。根拠はないのだが、クラスの雰囲気が、受験を控えた高校三年に比べると穏やかな気がした。

 俺は、いかにも昔の俺らしい自己紹介をしていたな。シャイなわけじゃないんだが、なんというか、適当というか冷めているというか……

 他に登場人物が何人かいたが良く覚えていない。ただ、『キミジマ』という名前は覚えている。『キミジマ』……多々良 由紀を殺した男じゃないのか。そうに違いない。ということは、多々良 由紀、『キミジマ』、そして俺は同じクラスメートだったのか?

 俺たちの間で、一体何が起こったのだろうか。

「ん……」

別に、沙希が目を覚ますようなことはしていないはずなんだが……

「悪い、起こしちゃったか」

「ん、ん……」

 寝ぼけているのか。仰向けの沙希は寝返りを打つと、俺の右肩に腕を回した。そして、胸に顔を乗せると、うつ伏せのままスヤスヤと眠りについた。腕が頭の重みから開放されると、感覚が麻痺していた腕に血が一気に流れ込んだ。むず痒いようなチリチリとした痛みが腕全体に広がっていく。

 呼吸が少し苦しくなった。沙希の重みが俺の肺を圧迫しているのだ。だが、触れ合う胸の部分だけは柔らかくて、そこだけむしろ軽くなっているような錯覚を引き起こした。そうしていることで気付くのは、俺が心で思っている以上に、体は沙希を必要としているという現実だった。それはつまり、内心馬鹿にしているこの女に振り回されているということかもしれない。

「沙希……」

 寝息だけが「すー、すー」と返事をした。すると、まぁ、それも悪くないんじゃないかと思えた。

それにしても、まったく、うらやましい限りの寝つきの良さだ。やれやれ、と言った具合に大きなため息が一つ零れた。

そうだ、朝になったら夢の話を沙希にしよう。自然にそう思った。子供が親に自慢話をしたいと思う気持ちに似ているかもしれない。

だが、夢の内容なんて次の瞬間にでも忘れてしまいそうだ。少しの間考え込んだ俺は、メモを残しておくことにした。ひょっとすると、夢の内容を一つ一つ紡いでいったら、何か重大なことが分かるかもしれない。そんな期待感が俺をちょっとした興奮状態にするのだった。そして、今からいちいち起き上がってメモを残すという億劫な作業と引き替えにしても意味があることに思えた。

 張り付いている沙希の体を、起こさないように引き剥がすと、ベッドからそっと降りた。

床に脱ぎ捨てられた二人の衣類が月夜に浮かぶ。そこからトランクスだけ取り上げた。そして、ワーキングデスクからペンとプリンター用紙を一枚取ると、隣の部屋に移った。

 ドアを閉じると、急に背筋に嫌な感触が走った。指先にピリピリと電流が走るような感覚がする。神経が、必要以上に敏感になっている。ふと、玄関口に目をやるとキミジマとやりあった夢を見た晩の記憶が脳裏に浮かんだ。

舌の裏側にざらっとした嫌な感覚がした。

 寝室に戻ろうか、このまま続けようかと悩みはしたものの、夢を記録したいという好奇心が打ち勝ち、俺の体を動かし続けていた。

 夢の内容は、何一つ漏れることなく思い出すことができた。すらすらとペンを走らせると、止まることなく書き上げることができた。

 腕を組んで背もたれに寄りかかると、書き終えたメモを凝視した。

多々良 由紀、この女は何者だろう。多々良という名前は変わっている。聞いたことのない名前だ。携帯で変換すると、以前松木に指摘された『多々良』という漢字が表示された。

きっと、この漢字だ。いくつか表示される『タタラ』の漢字の中で最もしっくりくる。しかし、俺の知るはずのない名前だ。

じゃぁ、何で俺が知るはずのない名前を夢で知っているのだろうか。前世とか、幽霊とか。そう考えると、不思議と空気が重く俺に張り付いてくるような感覚がした。

馬鹿馬鹿しい……そんなもの信じるはずないだろう。

「ゆーちゃん?」

「うわ!」

 振り返ると、Tシャツ一枚の沙希がすぐ側にいた。

「さ、沙希か、なんだよ?」

「ごめん、驚かせちゃった? なんか、ごそごそ音がしたから……」

「あぁ、ちょっと、な」

「――うん、大丈夫、なの?」

「うん」

 そう言うと、俺の横にちょこんと座った。そして、俺の手にある紙に興味を示しているのか、覗き込むような仕草をするのだった。

「ちょっと、またあの夢を見たもんでさ。ちょっと、まとめてたんだ」

「あの夢って」

 そう言われて、沙希には多々良 由紀の話をしたことがないことを思い出した。

 大まかに説明すると、沙希は強く感心を示して話に聞き入っていた。

「それってさ、以前公園でちょっと話してた苦しかったっていう話と関係あるのかな」

 そう言われると、確かにそうかもしれない。

「そうだな……」

 少し前屈みになり膝に肘を付けて手を組むと、その上にあごを置いた。夢との関連性について考え込んでいると、俺の肩に沙希が寄り添ってきた。

内心イラッとした俺は、その女の生存価値がセックスと家事以外にはないんじゃないかという思いに駆られた。それと同時に生じた自分自身に対するいくらかの嫌悪感は、俺が未だまっとうな人間でいることの証明に思えてむしろ望ましいものだった。

 気がつくと沙希は俺の膝に頭を乗せてスヤスヤと眠っていた。

性的に、精神的に、沙希をめちゃくちゃにしてやりたいという欲望が不意に起こった。無防備なこの女を仰向けにし、乳房に爪を立て、首筋に噛みつき、そして犯したいという衝動だ。

しかし現実にそうはしない。いや、そうしてはならないのだ。

少女漫画のうぶな主人公にでもなったように沙希の頬を優しく撫でると、そっと口づけをした。沙希は、少し瞳を潤ませながら俺を見つめていた。

寝たふりだったのか。少しでも可愛く見せようとする女の底の浅さが見透かせて嫌な気がした。しかし、そこまで思うのも卑屈に思えて、いくらかの後悔を交えながら微笑みを浮かべた。そして、セックスのための最も厄介な前戯という事務手続きをなんとか手短に終わらせたいと考えながら再び口づけをするのだった。



2-4



「なぁ、君嶋。お前は、誰が良いわけ?」

「あぁ 俺? 俺は、別にいねーな。結城は?」

「うーん、俺も特に、な」

「はは、なんか、女日照りだよなー、あのクラス。すっげ、ブスばっか。ファクる気になれねーよ」

「だな」

 俺と君嶋は、授業を途中で抜け出して屋上でさぼっていた。俺達は、抜け出す前の社会の授業でもらった近代世界史のプリントを尻の下に敷いて、その上で胡坐をかいていた。そして、一学期が始まったばかりの初春の青空から降り注ぐ太陽を浴びていた。

「なんかよ。進路とか、どうするわけ」

 君嶋が言う。

「進路かー。今んとこ、付属の大学にいっとくか、ていうところだろ」

「そんな感じだよな。なんか、平和すぎるよなー」

 俺は、その場で仰向けにねっころがると、空を仰いだ。

「良い天気だよなー」

 俺が言うと、君嶋が突然笑い出した。

「なんだよ?」

「おめー、馬鹿だなー。ここ、床すっげー黒いんだぜ。背中見てみろよ」

「え?」

 そういわれて、半身を起こす。背中に視線を回すと、地面に触れていたワイシャツの白い部分が、黒いインクトナーをこぼしたみたいな色に染まっていた。

「げ、お前言えよ!」

「ははははははは、ばーかばーか。なんのためにプリント持ってきたんだよ」


 俺と君嶋が教室に戻ったのは、お昼休みが終わる少し前だった。三時間目の授業が終わってからずっと奥上にいたから、二時間くらい授業をさぼっていたことになる。そのことで、担任に呼び出されるかもしれないが、知ったことではない。

そんなことより、落としきれなかった背中の黒い跡の方がよっぽど気になっていた。

「あれ、結城、背中どうしたの?」

 後ろから声をかけてきたのは多々良であった。

「あぁ、屋上で寝てたら、こんななってた」

「え、屋上って、行けるの?」

 多々良は、疑わしげな目を俺に向けた。まぁ、それもそうだろう。屋上は、鍵がロックされているから。しかし、俺と君嶋は、屋上の鍵を盗み出してこっそりスペアキーを作っていたのだ。

「うん、まぁ、な。あ、やっべ!」

口に手を当てるも、すでに零れ落ちた言葉をすくい上げることなんて出来なかった。このことは、俺と君嶋の二人だけの秘密にしていることなのだ。

 俺の表情を見ると、多々良は、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

「私も、行きたいなー」

「えー……」

「――先生に言ってこよー」

 俺に選択肢はないようだ……

「ちょ、待って!」

「んー?」

 勝ち誇ったような表情を俺に向ける。

「分かったよ。今度君嶋に相談してみるよ……」

「やったー!」

 そう言うと、大げさにはしゃいで見せた。その姿を横目にしながら、まずいことになったぞ、と思った。


「わー、すごーい」

 多々良は、屋上に足を踏み入れると声を上げて辺りを小走りした。

「いいか、絶対誰にも言うんじゃねーぞ」

 君嶋がすごんで見せた。

「はいはーい」

 後ろをチラリと見ると、大きな瞳を細めて、君嶋をあしらうように微笑みを浮かべた。

「ったく、一番やっかいな奴にばれやがって」

 俺の方を振り向くと、眉間にしわを寄せて言った。

「わるい……」

 全て俺が悪いわけで、返す言葉が見つからなかった。

「おい、あんま柵の方寄るんじゃねーぞ、下から見えっから」

 あたりをうろちょろする多々良に向かって君嶋が言った。

「はいはいはーい」

 君嶋の心配などそっちのけで柵の方に向かって行った。

 多々良が向かった方は校庭と反対の方向で、比較的死角になっているところではあった。

 柵の前に立つと、多々良はそこで足を止めた。多々良の、動から静に移るその瞬間、春の風が後ろから通り過ぎていった。俺も君嶋もその風に押されるように多々良のそばに寄った。

「そうだ、ここ三人の秘密基地にしようよ」

多々良が言った。澄んだ大きな瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。

 唖然とする俺と月島の横を冗談のように春風が吹き去っていった。

「はー、んだよそれ。ガキじゃねーんだぞ」

 君嶋がかみつく。

「へー、良いのかな-、そういう態度で。せんせーい、君嶋君が鞄の中にタバコ入れて……」

「てめー、ファクんぞ!」

 多々良、不思議な奴だなと思った後、俺は声を出して笑っていた。



2-5



 ここは……初めに目にしたのは、白いワイシャツと紺色のパンツだった。

視線を上げると、右手を手すりにかけたサラリーマンが立っていた。角刈りの、俺と同い年くらいの男だ。

一瞬目が合う。俺が視線を上げたのが分かったのだろう。

お互い、何も見ていなかったように視線をそらす。条件反射であった。

 夢、か……また、あの夢か。

 ちらりと辺りを見回す。車窓は、街明かりの点々と暗闇を映し出している。人は、多いわけじゃない。会社付近は、東京の中心地ということもあって混雑しているが、最寄り駅に着く頃はガラガラとまではいかないが、座ることに不自由はしない。

 辺りに視線をやると、みな、疲れた表情をしていた。眠っている奴、音楽を聴いている奴、本を読んでいる奴、色々な奴がいるが、一様に無気力な表情を浮かべている点において共通していた。

俺もそう見えるのだろうか。この、目の前の連中と同じ単位で数えられたくないと思ったが、すぐに、何も変わらないだろうなという諦観に至った。

向かい席の車窓が、うっすらと俺を映し出していた。ほうれい線にうっすらと影が映っている。いつの間にか老けたんだな、と実感した。三十代まで残り僅かという微妙な年齢にあると、こんな風にして忍び寄る老いの気配を感じるのかもしれない。

何故か、苛立つ。その苛立っている自分に更に苛立つ。何もかもがもどかしくて怒鳴り散らしたい衝動に駆られる。

何でだ、全て、上手くいっているはずなのに。仕事だって、女だって、全部上手くいっているはずなのに、なんでこんな風なんだ。分からない。だが、何かが、ひょっとすると何者かが、俺の感情を逆撫でる。この感じは、サイズの小さい上着を無理に着込んだ時の肩にまとわりつく圧迫感に似ているかもしれない。

電車のドアが開く。プラットフォームに降りると、小雨が俺のスーツに小さな水の粒子を付着させた。

 警笛が鳴ると、夜の暗闇を追いかけていくように電車は遠ざかっていった。それをぼんやりと見送った後で俺がはっとしたのは、湿気った夜気が俺の鼻腔に漂ったからだ。干し忘れた洗濯物のような臭いがした。すると、俺は今ここにいるという実感が湧いた。

 急に、辺りのものがよく見えるように思えた。だからといってなんていうことはない、いつもの駅の風景だ。線路があって、石の枕木が等間隔に線路の下に敷かれている。反対側のプラットフォームにはまばらだが人がいる。スーツ姿の背の高い若い男と濃紺の鞄を持った数人の女子高生だ。耳を澄ますと、もうずいぶん遠くに行ったはずの電車の音が聴こえるような気がした。

現実って、こういう感じだよな。そんな声が自分の中でこだました。すると、さっきまでのイライラがすっかり解消していた。

自動改札のICカード機の読み取り部分に定期をかざすと、ストッパが勢いよく開いて、乾いた音をたてた。この駅のこのストッパだけ、何故か異様に開く速度が早い。それは、以前から感じていたことだった。

マンション敷地内の公園にある外灯を通り過ぎると、すこし先のマンションの一棟に目が行った。ちょうど各部屋のベランダと向かい合う位置になっているのだが、その中の一部屋、外よりも薄暗い一室に目に止まった。一瞬足を止め、気味の悪い部屋だなと思って眺めていると、思わず笑いがこぼれていた。

「はは、俺の部屋じゃないか」

思わず独り言をしていた。

部屋に入ると、スーツの上着を脱ぎ捨て、ソファに腰を下ろした。そして、電気も付けず、ただ窓越しの細雨を眺めていた。

雨足が、少し強くなっている。

サー、サーという雨音、時折ピチャ、ピチャと鳴る。その音に意識を向けている、何もするというわけでなく、ただぼんやりと。こうしているのはけして嫌いじゃなかった。いや、むしろ好きな部類に入るかもしれない。こうして暗闇の中にいると、闇がゆっくりとうねっているように感じる瞬間がある。それは不規則なように思えるが、一定の規則性があるようにも思える。どうなのだろうかと思うが、俺がそのことを考えようとするとその感覚は消えてしまう。だから、俺はより一層ぼんやりとして、その不規則な何かに焦点を合わせようとした。

そういえば、今日は七月七日、七夕じゃないか。ふと、そんなことを思い出した。あいにくの雨だったわけだな。そう考えていると、多々良と夢の俺のことが脳裏に浮かんだ。あいつらも、一緒になれなかったわけだよな、結果的には。

雨が一層強くなっているのを感じた。

あいつら、と言いながらも他人事に思えなかった。夢とはいえ、自分に関係する出来事だったからだろうか。それとも、現実生活のどの感情体験よりも夢の方が強烈だったからだろうか。

夢を思い出すと、それだけで心にじわりと熱いものがたぎるのが分かった。まるで、俺の心の内に炎が隠れているように思えた。それは、乾ききった俺の心に燃え移って焼き尽くしてしまいそうで恐ろしくなった。だが、いっその事燃やしてしまえばいい、という好奇心があるのも事実だった。

気がつくと、両腕を組んでうずくまっていた。薄々感じていたことだが、俺は、この乾ききった世界、自分自身をどうにかしてしまいたいと願っている。何でもいい、嘘でも構わない、何か、俺を別のものに変えてしまいたくて仕方ないのだ。だからといって、今の自分を失いたくもない。その矛盾する心のせめぎ合いが、日々の苛立ちになって現れているんだ。

耐えられるのか、という声が心の中で頼りなく響く。どこかしら情けない声だった。それにおれは、分からない、と一言返すと、何もかもから逃げ出すように瞳を閉じて頭をソファの肘掛けにもたせかけた。



2-6



「なぁ、結城」

 いつもの屋上で授業をサボっていると、君嶋がおもむろに声をかけてきた。

「なんだよ」

 君嶋の方を向くと、とっさに俺から視線逸らした。

「た、多々良、どう思う」

「多々良? なんでだよ」

 そう言うと、もどかしそうに足踏みをして、怒ったような表情を浮かべた。

「良いから、どう思ってるんだ?」

 そう問われると何を答えたら良いのか正直と惑う。

「別に、変わってるけど面白いし、いい奴じゃねーの」

「それだけか?」

「あぁ」

「そっか」

 普段と態度の違う君嶋を心なしか不気味に思いながら空を見上げた。

 夏休みが終わってかれこれ一ヶ月くらいが過ぎていた。梅雨の間は雨で殆ど来ることはなくなり、夏の間はさすがに直射日光の照りつける屋上に来ようなどとは思うことはなく、結果的にこの場所に来ること自体久しぶりのことだった。しかし、例え秋の日差しとはいえ、直射日光を浴び続けているとさすがに暑い。

内輪の一つでも持ってくればよかった。そんな風に思った。

「俺さ、多々良のこと好きなんだよな」

 …………

「えぇー!」

「しー! うるせーよ! 授業中だぞ」

「悪い悪い、けど、お前いきなり、なに、それ」

「しょうがねーだろ。好きになっちまったんだから」

 そう言うと、君嶋はポケットからタバコの箱を取り出した。複雑な表情をしながら、箱から一本取り出して口にくわえた。今度は、パンツのポケットからライターを取り出す。何度か火を起こそうとするが、なかなかつかない。

「くそ」

 何度か着火を試した後、不満が口から漏れた。そう言った後の数度目の着火で、ようやくライターに火がついた。風を手でさえぎりながらタバコに火をつけると、白煙が立ち上った。一息タバコを吸った後それを吐き出すと、少し落ち着きを取り戻したように見えた。

「で、どうすんだよ?」

 俺が言うと、その言葉にすぐには答えず、もう一度タバコを口にくわえた。

「まぁ、どうするもこうするもねーだろ」

「お、まさか、告白するわけ?」

「あぁ……」

「おぉ、さすが君嶋」

「いつ、するんだよ?」

「まぁ、今週中には」

「今日って……月曜だよな。まだ六日くらいあるぞ」

「あぁ、分かってる」

「はは、まぁ、がんばれよ。応援してるぞ」

 そう言って俺は、仰向けにねっころがった。

「おい、お前、馬鹿じゃねーのか?」

 そう言われて、俺は、飛び上がった。

「やべー。また黒いのついちまった!」

「はははははは」

 君嶋が笑い声をあげる。俺にとってはあまり面白くは無いことだったが、何故か、その笑いにつられて俺も大きな声で笑った。その時目に映った空が、なんだかいつもよりも大きく見えた。そう思ったのは、親友の行動力を素直に尊敬できると思ったからなのか、今までの三人の仲が崩れてしまいそうで寂しかったからなのか、俺には分からなかった。

その日の五時間目の授業が終わると、多々良から携帯のメールが届いているのに気付いた。

『話があるから放課後残って。いや、残って下さい。ていうか残れ』とあった。

思わず口から「ぷ」っと笑い声がこぼれた。そして、俺はそのメールに『良いよ』という内容を沿えて返信した。内心、君嶋の告白を耳にした手前、多々良と二人では会いづらい気もしたが、だからといって二人で会っちゃいけないということもないだろうと思った。

鐘が鳴って六時間目の授業が終わりを告げた。

帰る者、友達と話をする者、ロッカーからジャージを取り出して部活に向かう者などさまざまあったが、俺はその有様をぼーっと眺めていた。大きなあくびが一つ漏れると、眠気に任せてその場で突っ伏した。

次第に教室内の声がなくなっていった。そして、いつしか教室内から全ての声がなくなっていた。それでも耳をすませると別のところから声がする。せみの声、未だいるのかよ、と思う。野球部の掛け声、「らっさーふぁい」と聞こえる。あいつら何言ってるんだかわからねーよな、と君嶋が言っていたことを思い出した。ラッキー、さぁ行こう、ファイトの略だと結論付いたが、本当にその通りだと聞いたときは爆笑した。女子バレー部の掛け声もあった。ぶっさいくな連中が粒ぞろいで、仲間内ではブス収容所と噂されている。

いつもの、当たり前の学校の声がそこにあった。それは、とてもつまらないものでしかないのだが、大切なものに思えた。

開け放たれた窓から偶然そよいだ風が俺の耳元をくすぐっていく。それは、なんともいえず心地よかった。

 携帯のバイブ音が響いた。

多々良からだろう。俺は、顔を上げて携帯を開いた。

『いい加減に起きなさい』と一言ある。

 周りを見回すと、俺の席の少し後ろに多々良が居た。窓の方に斜めに机三つ分離れたところである。そこの机に座って、窓から覗く校庭を眺めていた。

 多々良の長い髪が風にそよぐ。少し陰りはじめた日の光に映えてキラキラと輝いて見えた。その姿があまりにも美しい絵になっていて、ほんの一瞬魂が吸い取られてしまっていた。そして次の瞬間、俺が見とれていたのを知っていたように多々良が顔を向ける。

俺は思わず顔を背けた。

「い、居たんだ」

「あぁ、居たわよ」

 向き直った多々良が、少しだけ不機嫌な声をあげた。

「いつから」

「さっきからずっと」

「うっそ。声かけろよ」

「だって、寝てるんだもん。声かけづらいじゃん」

「あぁ、わりぃ……」

 俺は、驚くほど緊張していた。

「良かったらさ、屋上行かない?」

「あ、あぁ。いいよ」

 椅子から腰を上げると、ついて来るように顔で合図を送った。

屋上の鍵を開けると、君嶋と来た時よりも時間が経ってちょうどよくなった秋の日差しがあった。多々良は、それを全身で受けるように両腕を後ろにして伸びをした。そうすると、半袖の白いセーラー服の胸元がしまって、その形がやけにはっきりと映った。俺の視線は、その小さな山形に釘付けになっていた。

「んー、やっぱりいいな。ここ」

 そう言って、多々良は俺の方に振り返った。

「う、うん、いいよな。うん。それで、今日はどうしたんだ?」

 どもりそうになりながら、なんとか答えた。

「あのさ、明って、気になってる子とかいる?」

「別に……」

「そっか、それはよかった」

「え、あぁ、そうなの?」

「う、うん。そう、だね……」

 俺はどうしたっていうんだろう。何、おたおたしてるんだろう。期待と不安が交錯している。いや、罪悪感もある。ふと、脳裏に気恥ずかしそうな君嶋の表情が浮かんだ。

「えっと、ほんと突然なんだけど」

 そういうと、俺から視線を逸らすように頭を下に向けた。

「う、うん。何?」

 俺も、同じことをしていた。

 多々良の紺色のハイソックスが目に付いた。次に、上履きに描かれたうさぎの絵に目がいった。

 ひょっとすると、多々良も俺の足先を見てるんじゃないか。そう思うと、一瞬心臓が止まるような思いがした。いや、俺の足先になんかまずいことがあるわけじゃない。そりゃそうなんだが、思わず自分のつま先に目がいく。

 いや、こんな風にびくついたのは、そのせいじゃない。股間を見られてるんじゃなか、と思ったからだ。頭がショートしていて、昨日のオナニーがばれたんじゃないか、とか思ったのだ。何を、何をわけわからないこと考えてるんだ。普段の俺はこんなじゃない、と支離滅裂になっているからこんなことを考えてるんだ。

「あのさ、好き、なんだよね……」

 まるで電子レンジの「チン」という音が鳴った後のように思考がぴたりと止まった。無駄な思考は止まったが、正常な思考まで止まっていた。

「――うん」

 別に、告白されたことがないわけじゃない。焦ることなんて何もないはずなのに、今回は何かが違った。だから、俺は、ガキみたいに緊張して、頭をのぼせさせているのだ。

 急に、部活動の生徒達の声が耳に入ってきた。

カキーンという金属音がする。これは、野球部だろう。ひょっとすると、ソフトボール部かもしれない。

「ファイト-、ファイト-」というかけ声がする。どこだろう、女子の声だから、女子バレー部かもしれない。いや、ひょっとするとバドミントン部かもしれない。

いや、そもそもそんなことはどうだっていい。どうだっていいんだが、頭がめちゃくちゃで、正しい頭の使い方がわからなくなっている。

ふと、多々良への気持ちはどうだろうかと思った。だが、次の瞬間、そう思うまでにどれだけの時間がかかったのかと不安になった。なにか、なにか喋らなきゃいけない。それまでの持ち時間はあと僅かなはずだ……

「結城明八段、十回目の考慮時間です。十秒…二十秒…」と、将棋番組で時間を読み上げる女の声が何故か脳内で響いた。

冷静になれ、結城明! 目一杯心で叱咤激励した。

無意識に、強く握りしめた右手を自分の胸の前に当てていた。

俺は、多々良のことがずっと気になっていたんだ。自己紹介の日、多々良を目にしてからずっと。そして、そんな多々良に君嶋も好意をよせた。それは俺達の関係が始まった最初の頃のことで、俺は君嶋に遠慮して自分の本当の気持ちを押し殺していたんだ。

はっきりしていることが一つだけある。それは、どちらにしろ、俺は多々良か君嶋を失うことになる。今までのように三人で遊ぶことは出来ない。どちらも失いたくない。それは、涙が出そうなほど真実だった。君嶋の表情が浮かぶと、罪悪感に押しつぶされそうになる。

「えっと、ありがとう……」

「――う、うん」

 手を後ろに組んで、もじもじする多々良。

 俺の言葉を待っているんだ。何か、何かいわなくちゃ。そう思えば思う程、なおさら言葉が出なくなる。

 このままだと、興味が無いと勘違いされてしまうかもしれない。この場から走り去って、そして君嶋に奪われてしまうかもしれない。

 それでも良いんじゃないか……

 急に、胃の辺りから何かがこみあげてきた。思わず吐き出してしまいそうになったそれは、俺が胸の内に押し込めようとした多々良への想いだったのかもしれない。

「少しだけ、近づいて、いい?」

 言ってから、血の気が引いていくのを感じた。まったく、どこに、そんな言葉を吐く勇気が残っていたんだろうか。けれども、その言葉は、思っていたよりもずっと自然に口から零れた気がする。

「え、うん……」

 一瞬、驚きのような怪訝なような表情を浮かべて俺に目を合わせた。多々良はすぐに視線をそらしたが、俺は視線をそらさなかった。

 一歩、近づいた。鼓動が何百倍も早くなったように思える。

さらに一歩進めた。

また、一歩進めた。

 そして今、もう一歩で、多々良を抱きしめられるという距離にいる。

風が、場違いな程強い風が吹いた。多々良はスカートを手で押さえ、俺はそれに背を向けてしのいだ。

「――ぷ、なにその髪。おもいっきり七三」

「え? あぁ!」 

慌てて髪の毛を直しながら、その、タイミングの悪い突風に少しだけ救われたような思いがした。

「けど、今のすごかったね……」

「あぁ、ほんと。ここ、高台だからさ。たまにあるんだよね。こういうの……」

 その風のせいだろうか、気がつくと俺の中で一つの意思というか覚悟のようなものが出来上がっていた。

「あのさ、俺も、好きだよ」

 だから、俺は自然にその言葉を、笑顔で言えたんだと思う。



2-7



離人感、そう呼ぶのが正しいかもしれない。随分昔、こんな症状は、わりと誰にでもあるという話を聞いたことがある。その話を聞いた時は、自分にはまったく無縁なものだと思っていた。それがどうだ、今の俺は。ぱさついた現実、それに比べて異常に強烈な夢のセンセーション。まるで、現実と夢が逆転しているようだった。

ふと、目の前に多々良 由紀の面影がちらついた。よりによって、月島に刺されたあのヴィジョンだ。むずむずとする右の掌に目をやると、そこには鮮血に染まっているように思えた。

全身に鳥肌が立つ。恐怖感が俺を支配していた。しかし、それは肉厚な現実感を俺に与えるのだった。

「たく、どうしちまったんだよ、本当に……」

この際、誰だろうと構わないから俺の側に居て欲しいと思った。しかし、脳裏に浮かんだ沙希の姿に俺は吐き気を覚えた。

誰かにいて欲しいと思いながら、そうされたらきっとプライドが傷つく。きっと、耐えられない。自分より下の人間にこの俺が頭を下げて救いを求めるなんていうことは死んでも許容できる分けがない。まして、沙希なんかに。

「くそ」

 頭を抱えていた。自分が何を欲しているのか、どうすれば良いのか分からず途方にくれるしかなかった。

ふと、過去を思う自分がいた。栄光の過去、だろうか。散々手玉にとってきた女達、俺のことを尊敬する男ども、上司の期待に満ちた眼差し、両親の安心しきった笑顔、全て俺がこの手で掴んできたものだ。それは今でもなんら変わらない。

なのに、何故、俺はこんなに乾いているんだ。

「乾いている? は、なんだそれ。俺はそんなんじゃねー」

心の声を肉声で批判してもむなしくなるばかりだった。

ふと、月島が以前置いていったウィスキーがあることを思い出し、しまってあるはずの食器棚をあさった。

キャップを開けて瓶のコップに注ぎ、一杯目を一息で飲み込んだ。

胃の中がかっと熱くなる。それに少し遅れて軽い嘔吐感がした。ソファに戻ると、立て続けに二杯飲んだ。

四杯目を注ぐが、さすがに気持ちが悪い。そのままにしてソファに背をあずけると、暗闇に映るウィスキーが、くすんだ黄金色の輝きを放っていた。

少し時間が経つと、頭が、螺旋状にゆっくり回っているような感覚がし始めた。酔い初めの感覚だ、とても心地良い。そのまま放っておけば、自分はきっとこの虚無感から解放されるに違いない。

何かの合図かのように冷蔵庫が機械音をあげた。それに気付かされたように俺はコーヒーテーブルにある携帯を手に取った。

新着メールが二通あった。一通は沙希からだ。もう一通は同僚からだ。

急に現実との接点を感じた。とても嫌な感覚だった。そのせいか、俺はメールの中身を見ずに携帯を閉じていた。


 独り、ベランダのガラス戸の前で佇んでいた。

雨音がひどく寂しげな夜である。そのせいかだろうか、人恋しい気持ちになって沙希を呼びつけたりしたのは。沙希に電話をする前松木に電話をしたのだが、予定があると言われた。その前は月島に電話をしたのだが、留守だった。

沙希は、三番目か。それは、俺に必要な人間の順番に思えた。

随分と上の順位なんじゃないか。そう思ったときに淡い喜びがこみ上げてきたのは、これまで付き合ってきた彼女の存在価値が、底辺から脱出することなど一度たりともなかったからなのかもしれない。

いや、違う、最下位だ。俺にとって、必要な人間は三人しかいないんだ。そして、俺が沙希を必要としているのは、性欲処理に家事という特典があるからだ。

沙希とはこの二週間近くの間、一度も連絡を取っていない。携帯メールは何度か受けたが、全て無視した。

 沙希が家に着いたのは、それから二時間が過ぎた九時過ぎのことだった。

いつもならば笑顔で挨拶をする沙希が、「おじゃまします」の一言を無表情で告げただけだったことが気にいらなかった。

「夕ご飯、食べてきたから」

 その一言は、俺のために夕食を作る気はないということを暗に伝えていた。

「そっか……」

 いつもよりどこかよそよそしい沙希に少し戸惑いを覚えたが、文句をたれる腹の虫の方に意識の大半は向いていた。

「今日はどうしたの。突然だからびっくりしちゃった」

「いや、たいしたことないよ」

 ただ会いたかっただけだ、という白々しい嘘が口から出なかったことは、俺なりの善意だったのかもしれない。いや、待てよ。それもおかしい。ただ、会いたかったというのは嘘ではない。嘘ではないのだが、会いたかった理由が、恋人として沙希を求めていたのではなく、誰でもいいから、ただ、人に会いたかっただけなのだ。

「今日、仕事早かったんだね」

「――最近は、わりと早い日が多いな」

 嘘をついた。

「この時期はそうなの?」

「あぁ……」

 これも嘘だ。

「そっかー……」

 そう言って俺の隣に座ると、沙希がいつも使っているフレグランスの香りがした。鼻腔をくすぐる香りが性欲を掻き立てた。沙希は、肉体的な意味で魅力があるわけはないが、そういう欲求をくすぐる匂いを持っている。それに耐え切れず沙希を抱きしめると、首筋に鼻を寄せた。甘い香りが俺の理性の大半を支配すると、セックスをしたいという欲求にすんなりと転化した。思えば、それが沙希に会いたい理由だったのかもしれない。

薄いピンク色をしたカットソーは、形の良い鎖骨を隠さないでいた。その部分に唇を寄せると、優しくソファに押し倒した。セックス前の優しさや前戯なんていうのは、男からすればもどかしく苛立たしい時間でしかない。だが、それが正しい筋書きというものなのだ。

胸に手を添える瞬間、いつになく理性がハザードを発しているように思えた。

「いや、今日は、ごめん」

 俺の体を押し戻すと、俺の理性が発していた警告の意味が分かった気がした。そう、理性は、拒絶されることに感づいていたのだ。

「え、なんで?」

「ごめんね、今日はそういう気分じゃないの……」

 俺から顔を逸らせている沙希を見ていると、怒りがぐんと高まっていく。

 そう言って視線をそらしたのは、俺のことが好きじゃなくなったからなのか。そう言ってさっきからよそよそしい態度をとるのは、今までの俺がお前にとってきた態度に対する仕返しなのか。

 引き剥がされた俺の体が、意味もなくリビングをさまよう。そしてベランダの窓の側で立ち止まると、公園の外灯がもらす薄明かりが目に付いた。

「こういうこと、分かってきたんだろ?」

 …………

そういわれると、沙希は黙ったままうつむいた。そして俺は、空振りした自分の欲求に苛立ち、それをごまかすようにまたリビングをうろうろするのだった。

何も答えない沙希により一層苛立つと、寝室に向かって歩いていた、まるで何かから逃げ出すように。

ドアが、乱暴な音を立てる。どれだけ苛立っているのかを沙希に思い知らせるために意図的にそうしたことなのに、その余韻が寝室にこだますと、自分の取った行動のあまりの幼稚さに思わず頭を抱えていた。

俺は、それからあまりにも長い一時間をベッドに腰掛けたままで過ごした。

リビングに戻ると、外灯と月明かりが差し込むだけの薄暗闇がそこにあった。

「電気、消してったんだな」

沙希は、三十分ほど前ここを去った。寝室から、沙希が去っていく音を聞いた。部屋の電気を付けずにソファに座ると、キミジマとやりあった夢が思い出された。それでも、寝室に居るよりはマシに思えた。寝室には、沙希に暴言を吐き捨てた幼稚な自分がベッドに腰掛けているように思えたのだ。

「くそ、何やってんだよ、俺は……」

 立場において、自分が完全に上位だと思っていた。だから、沙希が俺の言う通りにしないなんてことが許される分けがない。

 今日の俺は、珍しく沙希を必要とした。欲求不満がたまっていただけだが、例えどんな理由でも、必要だった。それなのに、あいつは、そんな俺の心を見透かしたようにいきなり他人行儀の態度を取りやがった。

 今までのことを復讐でもしてるつもりだったのか、くそ。

 あいつは、どんな顔をしてこの部屋を出たのか。ザマ-見ろ、とでも言いたげだったのだろうか。

「くそ、くそ、あんな女!」

上から俺を見下ろすような沙希の表情が浮かぶと、俺はくやしさから床を何度も踏みつけた。


 空気がやけに重い。なんだか押しつぶされてしまいそうだ。

 ソファの腕に頭をもたれかけた。天井をぼんやりと眺めていると、少しずつ冷静さを取り戻していくのが分かった。しかし、そうしていると、自己分析が得意な自分が現れて、自分自身を傷つけはじめていく。

 セックスを迫って退けられた俺の間抜け面が目に浮かんだ。

どこからともなくせせら笑いが聞こえる。

「くっそ!」

 右手の拳をコーヒーテーブルに叩きつけると、打ち付けたところからじわりじわりと痛みが走ってきた。

悔しさが心ににじんでいった。だからといって何も出来ない俺は、無意識のうちに何がいけなかったのかと考えはじめていた。

沙希が俺の思う通りにならなくなったとき、俺のプライドにはたやすくヒビが入ったのだ。俺は無意識のうちに、それを覚られないようにしようとした。けれど、心に受けた負荷の総量は感情の荒立ちまでは隠しきれなかった。それどころか、下手に隠そうとして力で押し付けた分余計強い反発が起こったのだ。それは、不条理な攻撃的欲求となった。その衝動への変異はあまりにも急で、ブレーキをかける頃には沙希に暴言を吐いていた。

 見てもいないはずの自分の顔が脳裏に浮かんだ。醜い面だった。

「はは、こりゃー駄目だろ……」

 自分の行為を顧みれば、百パーセント俺が悪いことがよく分かる。それは、自己嫌悪を通り越して自己憐憫に至っていた。

 指先に力がこもると、少し伸びた爪が手のひらに食い込んだ。そして、固く結んだ拳で、何度か自分の頭を打ちつけた。すると、打ち付けるたびに『どん、どん』という鈍い音が右耳に響いた。


 沙希から一通のメールが届いたのは一週間後のことだった。そこには『ごめん、別れたい』とだけ書かれていた。

『分かった』と一言だけ書いて送った。そのメールを送るまで、長文から短文までいくつものメールを書いては送らずに削除した。散々考えた結果俺に言える言葉は何もないのだと悟り、一言だけ返したのだ。

どうせ、遊びの女だからな。次、また探せばいいんだ。どうせ、遊びの女だったんだから……反復する言葉は、むなしく、心に響いた。

心臓が、ドクン、ドクンと音を立てながら鼓動する。

気持ちの悪い音だ、吐き気がしてくる。

胸が締め付けられるように痛い。思わず胸の上に手を当てると、心臓が異常に激しく動いているのが分かった。

「クソ! なんでお前なんかに……」

 抑えようとしていたものは、容易に臨界点を超えていた。

全て、俺の方が上だった。社会的地位、所得、ルックス、人脈、知性、全てだ。それなのに、あいつは俺を裏切った。俺は裏切られた。この俺が、信じようとしていたんだ。普段、誰も信じようとしない俺が。そして、この俺が、あいつの存在を必要としていた。それなのに、よりによって、あいつから捨てられた。それも、たかがあの程度のことで、だ。他に男が居たのか、俺はキープだったとでもいうのか。ふざけるんじゃない。

怒り心頭に発し、携帯電話を逆にへし折っていた。沙希の代わりに、破壊されるべき対象を必要としていたのだ。ばき、というか、ぼきというか、そのような音がした後、へし折られた電子部品はその機能を停止させた。それに目をやると、何故か汚いモノのように思えてくる。いっそのこと地面に叩きつけてやりたいと思ったが、辛うじて抑えることができた。その代わり、どこからともなく笑いがこみ上げてきた。きっと、俺に捨てられたこの携帯電話が自分と重なったのだ。

俺は、携帯を拾い上げると、それを両手で握りしめた。

そして、嘔吐しそうに胃の辺りが何度か収斂すると、瞳から大量の涙がこぼれ落ちた。



2-8



由紀との待ち合わせ。三年ぶりのことだ。そしてその三年とは、君嶋と由紀が結婚してから経過した時間と同じ期間であり、同時に俺が由紀を忘れようとして失敗し続けてきた期間でもある。

由紀からの連絡は突然のことだった。先週の夜のこと、寝る前に携帯をチェックしていたら電話が鳴り、見知らぬ番号だったがついそれに出てしまった。久しぶりと言われたが、どちら様ですか、と訝しんで聞き返したのだ。本当は、由紀の声だと瞬時に分かっていたが、無意識にそうしていた。それは恐らく、あまりに多くの想いが込みあげてどうにかなりそうだった自分の心が瞬時に働かせた防衛機制だったのかもしれない。

ほんの少しだけ話した後、今度会えないか、と誘われた。そこまでの会話では、由紀のことを未練たらしく引きずってなどいない風に装っていたが、会いたいと言われてはどうすることもできなかった。

諦めの悪い奴、と心の声が響いた。それに反論する気はない。むしろ肯定するばかりだ。分かっちゃいるんだ、由紀のことをいつまでも引きずっていてもしょうがないってことは。だけれど、変われない自分がいる。諦めきれない自分がいる。会いたいと言われれば、どんな理論武装をしたところで断ることなんてできない。たとえ都合よく使われているだけだったとしても、ひと目会える、それだけのためになんだってするだろう。そんな自分自身に自己嫌悪を抱きながら、渋谷駅の改札を出てすぐ側の広場で由紀の到着を待っていた。

 由紀は、約束の時間よりも少しだけ早く来た。俺達はほんの少し立ち話をしたが、緊張のあまり頭がクラクラして立ち続けていることに不安を覚え、喫茶店にでも行こうと誘った。


「元気してた?」

「うん……」

「なんだよ。元気ないな」

「ごめんね」

「ごめんねって……」

 そう言われて、心に針が刺さった。昔、別れる時に言われた言葉だからだ。

 話したいことがありすぎて出てこない俺の言葉は、過去の痛い思い出のせいでより一層詰まっていった。

「急に呼び出しちゃってごめんね」

 短い間に二度目のごめんね、だったが、何かを話そうとする意思を感じさせる語感だった。

 顔を少し上げると、俺からサッと目をそらせた。

ほんの一瞬、瞳が重なった。

澄んだ大きな瞳、そう、由紀の瞳だ。

 視線をテーブルに向けると、白いティーカップに由紀の指先が触れていた。

 長くて細い指、あぁ懐かしい、俺の好きな由紀の指だ。

 何一つ変わってない。よく分からないが、そう確信した。すると、詰まっていたものが瞬時に流れていくようだった。そして、妙な高揚感を抑えながら、俺は一つだけ咳き込んだ。

「いや、うん、ゼンゼン、いいよ」

「うん、元気してるかなって思って」

 由紀は瞳を伏せながら、軽く笑みを浮かべた。

「うん、元気だよ」

「そっか、それなら良かった」

 そう言うと、目線を手元のカップに向けたまま微笑を浮かべた。

「そういう由紀は、どうなの?」

…………

 返事は、すぐには無かった。

 由紀の黒い髪が微かに揺れた。俺から逸らした瞳は、どこか遠いところに向けられていた。

何か、あったんだ。なんだろう……君嶋とのことかもしれない。きっとそうだ。そうじゃなければ、俺と会おうなんてするはずがない。ひょっとすると、何か危険なことにでも巻き込まれているんじゃないだろうか。三年前の君嶋を思いだせば、そうだったとしてもなんら不思議ではない。今になって考えれば、俺達が会うことの意味はそれだけ深いのだ。それなのに俺は、そんなことも気付かず自分のことばっかり考えていた。

 思わず、手を強く握りしめていた。自己嫌悪に押しつぶされそうだった。それは、さっきまでの自己嫌悪とはまったく異質のものだった。由紀に会うまでは、由紀を忘れられない自分自身に向けられていた。それが今は、由紀が俺に連絡をとったことの理由をまるで想像もしなかった思慮の足りない自分に対して向けられていた。

「うん……」

 長い長い沈黙の後、聴き逃してしまいそうな小さい声で言った。

「君嶋と、何かあったの」

 そう言ってゆきの顔に視線を向けた俺は、由紀の表情の変化にはっとした。由紀の顔色が真っ青になっていくのだ。

「あ、いや、あのそういうことじゃなくて……」

 何か言わなきゃ。その気持ちだけで先走った言葉は、何のフォローにもならなかった。

由紀は、突然顔を手で覆った。体が、小刻みに震えている。泣いてるんだ。いや、泣かせたんだ、俺が。状況を確認するように、心の声がした。

どう対応したらいいか分からず、俺は少しの間呆けていた。すると、徐々に周囲の連中がちらちらと好奇の目を向けているのに気づいた。そのことで臆しそうになった自分の尻を蹴飛ばすと、俺は由紀を立ち上がらせ、肩を支えながらカフェを後にした。

 休日の昼下がり、顔に両手を当てた由紀とその肩を支えて歩いている俺達は、明らかに目だっているだろう。実際、すれ違う人々は俺たちに好奇な視線を向ける。俺は、その視線から由紀を守るように、より強く由紀の肩に力を込めるのだった。

なんとか公園を見つけると、由紀をベンチに座らせた。そして、水道水でハンカチを濡らし、きつくしぼったそれを由紀に手渡した。

「――ありがとう」

そう言った由紀の声は、まるでどこかに消えうせてしまいそうにか弱く、か細かった。

横に座った俺は、由紀の次の言葉を待ちながら、まるでボディーガードにでもなったみたいに警戒して何度も辺りを見回した。

「明、ごめんね」

「あぁ……」

 そう一言だけつぶやいた。さっきみたいに失言を重ねてしまいそうで、それ以上の言葉を伝えられなかった。

 そして俺たちは、言葉をなくした。

 俺はポーカーフェイスを装っていたが、心の中はそんな穏やかなものじゃなかった。高まる焦燥感でどうにかなってしまいそうだった。

微かに首を横にすると、由紀はすぐ側にいて、俺が渡したハンカチを強く握りしめていた。

手を伸ばせば、俺と反対側の左肩に手が届く。頭を寄せれば、右頬にキスが出来る。そんな距離だった。この距離、恋人の距離、何年ぶりだろう。若干のやましい気持ちも沸き起こったが、なんとかして由紀を落ち着かせてあげたいという気持ちが大半を占めていた。

手を、握った方が良いんじゃないか。そう思うものの、由紀に拒まれたら立ち直れそうにないなと思った。次第に、そうなった時の言い訳ばかりが頭に浮かんで、本当はただ手を握りたいだけなんだという動機の不純さが浮き彫りになるだけだった。

俺は、小さい男だな、空を見上げながら思った。ため息が自然とこぼれた。それは、由紀に声をかけられないもどかしさと共に空にフワリと浮かんでいった。そうすると、何かが吹っ切れたような感じがした。

「あ、あのさ……」

「――うん」

「高校のときさ、吉田が自己紹介したじゃん」

「あは、なんか懐かしいこと言ってる」

「はは、いや、うん……それでさ、あの時さ、クラスのみんな笑ってただろ?」

「うんうん、吉田君すっごく面白かったもんね。なんだっけ、味噌ラーメンと袈裟固めだっけ」

「そうそう、だけどさ、あの時、俺、実は作り笑いしてたんだ」

「え、そうだったんだ?」

「うん。なんかさ、みんなが一緒になってるみたいの苦手でさ」

「そういうとこあるよね。昔から」

「でさ、そのとき、ちらっと見た由紀の笑い顔もさ、つくり笑いっぽかったんだよね。今更だけどさ、あれって、本当に笑ってた?」

「えー……実は、私もつくり笑いでした」

「やっぱりそうなんだ!」

「へへへ、だって、みんな盛り上がってるのに、一人だけってまずいかなーって」

「分かる分かる」

由紀に笑い顔が戻った。なんだ、簡単なことだったじゃないか。話してしまえば、なんていうことはなかったんだ。妙に戸惑っていたさっきまでの自分が、えらく滑稽に思えた。

気がつくと、俺たちは高校時代の思い出話に花を咲かせていた。それが一段落済むと、さっきとは違った心地よい沈黙が訪れた。

突然、沈黙の合間を縫うようにして通り風が吹いた。それは、今朝、ワックスで完璧なセットを施した俺の髪をめちゃくちゃにしていった。

「あはは、変な頭」

 由紀が笑う。

「うっせ!」

「あ……」

目が、合った。

その瞬間、時間も空気の流れも止まってしまった。それだけじゃない、何もかもが、その瞬間だけ止まっていた。俺は由紀を見つめたまま、由紀は俺を見つめたまま。


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