現実は斯くも儚く
1-1
「結城、もう帰るのか」
「はい」
「なんだ、せっかく今日は結城のおごりで飯を食えると思ってたのにな」
「えぇ! 聞いてないですよ、それ」
「いやいやー、独身で稼ぎまくってる営業は上司に飯をおごるもんなんだよ」
「そ、そんなルール勝手に作らないでくださいよ」
「ははは、うそうそ、いやまぁ、それはそうと……昨日はご苦労だったな」
「はい、無事受注させて頂きました。部長の最後『御社のシステムは、我々が命に代えても守って見せます』って言ったアレのおかげですよ」
「ははは、あんなこと言ったの初めてだったよ」
「えぇ、いつも言ってるんじゃないですか?」
「考えてみろ、普通に言われたら胡散臭いったらないぞ。結城の提案が良かったから言えたようなもんだ」
「はは、ありがとうございます」
「まぁ、そういうわけで、飯は来週の頭ってことでな。週末はゆっくり休めよ、じゃ、お疲れ」
「お疲れ様です」
がに股でノシノシと歩いていく部長の後ろ姿を目で追っていると、知らず識らず溜息がこぼれ落ちた。まったく、その様は、IT企業の営業部長というよりも演劇の『座長』にしか見えない。
熱血系の上司、バカじゃないが利口でもない。趣味は酒と風俗、まったくバブル時代の遺産のような男ではあるが、営業部としては常にトップの成績を残している。けして無能と言うわけでもないのだろう。俺のことをなにかとひいきにしてくれるところもあって、やりたいようにやらせてもらっている。その意味では恩が無いわけじゃないが、数字はしっかりつけてやっているのだから感謝をする必要もない。
でかい案件か……
下らない。
机上の書類とノートパソコンをレザーの鞄にしまうと、チャックを閉めて席を離れた。
エレベーターの前に着くと、鞄を右手から左手に持ち替えてエレベーターの下りボタンを押した。
薄い橙色に光る下向きの三角形の表示灯と腕時計を交互に見る。
まだ、来ないのか。そう思ってから首を一度だけ回すと、『ゴリゴリ』と頸骨が鈍い音を立てた。
何、イライラしてんだ。
ふと何かに気づかされたようにネクタイに指をかけると、それを解いて鞄の中に突っ込んだ。
「はぁ……」
ため息がこぼれた。仕事モードのスイッチがオフになったのだろうか、さっきまで俺を支えていた体の芯が歪んだような気がした。きっと、俺の心だけさっさと自宅モードにシフトしたのだろう。そんなことを考えていると、後ろから俺を呼ぶ声が聞こえて振り返った。
「お疲れ様です。これからお帰りですか」
図体のでかい男が『ニカニカ』と白い歯を輝かせている。体育会系の男で、俺と同じ営業部の小倉だ。元気の良さだけで他はカスという男だ。しかし、『座長』からの寵愛をうけている。売上でひいきにされている俺とは違って、根本的なところで相性が良いのだろうな。
「あぁ、今日は帰るよ」
「なんか、珍しいですよね、いつも遅くまで残ってらっしゃるのに」
額の皮脂をテカらせ、屈託無い笑顔を向けて言った。
「はは、たまにはな。早く帰りたいこともあるのさ」
「そうですよね、わかります」
満面の笑みを浮かべて言った。
真っ白い歯でにっかりとされると、健康的すぎてイライラする。
少し上目遣いにして合わせていた目線を下げ、エレベーターに向き直った。それでも、視界の外側から圧迫感が伝わってくるのは、本人が知る由もないであろう長身の奴にある独特な威圧感のせいだろう。そしてそれは、ついさっき自宅モードになったばかりの俺にとっては不快なことこの上ないものであった。
まったく、なんでこのでかい男が『小さい倉』なんていう名前をしているんだ。どう考えても『大きい倉』だろう。そんなことを思っていると、小倉の視線が俺に向けられるのを感じた。
「良かったら、これから食事でもどうですか」
「――あぁ、そうだな……」
何を言い出すんだ、こいつは。ついさっき、早く帰りたいこともあるんだと言ったばかりだろう。
「悪い、今日は先約があるんだ」
「あ、ひょっとしてこれですか?」
そう言うと、笑顔を浮かべ、小指を立てて見せた。
「はは、まぁ、な……」
まったく、俺に予定がある時は女じゃないといけないのだろうか。どういう思考回路をしていたら、俺が定時で上がることと女が結びつくのか。
そういえば、以前同じことを言う奴がいた。確か、リストラされたおっさんの営業だった。妙に元気で、不思議な『出来ない人間』オーラを身にまとった奴だ。視線をそっと小倉に向けると、まったく同じオーラが漂っているように思えて仕方なかった。
「さすが結城さん! いやぁ-、羨ましいなぁ」
「ま、小倉もあと数年すれば、な」
「本当ですか!」
「あぁ、約束する。小倉はポテンシャルあると思うぞ」
俺に言われると、満更でもなさそうに笑顔を見せた。
イラッとする。お前にポテンシャルなんてねーよ。こういう単細胞馬鹿は、おだてるとすぐその気になるから滑稽でしょうがない。しかもこいつは、そのことに気づかない。そんでもってこいつと同じような頭の軽い彼女に、「先輩にポテンシャルあるって言われた」とか、自慢気に話したりするに違いない。
生理的に受け付けないタイプだ。1秒以内に俺の前から消えてくれないと耐えられそうにない。トイレにでも逃げ出そうかと思った矢先に『チン』という音が鳴った。
エレベーターのドアが開くと、不運なことにそこは無人だった。誰かいれば、小倉から声をかけられずにすんだというのに。舌打ちをかろうじて抑えた俺は奥に移動した。
「そういえば、いつも家で何してるんですか」
「…………」
聞こえないふりをするが、そのせいで同じ質問を二度されることになった。
「特に……」
そう答えたのは、一階で止まったエレベーターのドアが開くタイミングだった。
「テレビとか見てるイメージないですよね。あ、家に居るってことがなさそうですよね」
「ははは、そうだな……」
口数が減っていく俺を無視してしゃべり続ける小倉に、「お願いだからその白い歯を俺にちらつかせないでくれ」と吐き捨ててやりたくなった。
いつまで側に居るつもりだ、と思っていたが、社員通用口の少し前で「あ、忘れ物した!」と言って突然踵を返していった。障害は去った。けれども胸がスカッとすることはなく、わけの分からないわだかまりが俺を支配していた。
社員通用口のドアを開けると、梅雨入りを前にした六月の湿った突風が俺の髪の毛を吹き乱していった。
「なんだよ、くそ!」
不意に強風を当てられ簡単に苛立った。
こうなったのは、小倉のバカのせいに違いない。
悩み一つなさそうな屈託のない笑顔を思い出すと、続けて整った白い歯を思い出した。能力もないくせに何の悩みもなく明るく元気で生きている、そんな雰囲気が俺をイライラさせるのだろうか。まじめに分析するのも馬鹿らしくなると、オフィスビルの群れからのぞく空に目が行った。そこには、お前の頭に雨を降らせてやろうか、とでも言いたげなどんよりとした雨雲がのっしりと一面に広がっていた。
ため息が一つこぼれた。
「ふー、やれやれだよ。ほんとうに、まったく」
俺は、ため息一つで、苛立ちから解放されていた。それはたぶん、雨にふられることに比べたら小倉の態度のことなんてちっぽけで、そのことに囚われている自分が馬鹿らしく思えたからだろう。
「くだらねぇんだよ……」
そして俺は、頭の中で交互にちらつく上司と部下の面を、革靴の踵で蹴りつけてやった。
人のまばらな地下通路を歩いていると、ブルーシートを広げた初老のホームレスが通路の脇で雑誌を売っていた。
俺は、この男を知っている。この時間帯になるとこの場所で雑誌を売っている男だ。
男は、今日もいつもと同じ黒ずんだ色のダウンジャケットを身にまとっていた。
肩をすくめながらポケットに手を入れた男は、小さく足踏みをしながら伏し目にキョロキョロと辺りをうかがっていた。その目は、このビジネス街において明らかに異質で、独特で、男を中心にテリトリーがはられているように思えた。
どんな人生を歩んできたのだろうか。暑くはないのだろうか。その服に何かしら秘密でもあるのだろうか。男を見かけるたびに思うことだが真実を探ろうと思ったことは一度もない。側を通り過ぎてしまえば、男のことなどすぐに忘れてしまう。そして俺は、何事もなかったかのように地下改札に向けて歩みを進めるのだった。
電車に乗り込むと、中は少しだけ混雑していた。
何駅か進むと乗客は徐々に増え、ドアの側に居た俺はいつしか中央に押し寄せられていた。すると、俺より頭一つ分背の低い黒髪のオフィスカジュアルの女が、ほとんど消えかけた柑橘系の香水の匂いをかすかに漂わせながら背中をぶつけてきた。
なんだよこの女、酒でも飲んでるのか。つり革にくらいつかまれよな。
何度かぶつかってきた後俺が舌打ちしたのは、いい加減にしろという意思表示であるが、けして苛立っていたわけではなかった。だが、それはそれなりに効果があり、以後ぶつかってくることはなかった。
最寄り駅で降りると、閉まるドアの隙間からその女と目があった。それは一瞬のことだったが、俺をにらみつけているように見えた。俺が舌打ちしたことに対して苛立っているのかもしれない。多分そうだろう。だからなんだっていうんだ。ぶつかってくるお前が悪いんだ。
電車を出てすぐ手前の階段を登り改札を出ると、馬鹿でかいスポーツバックを抱えた長身の男子学生に目がいった。学生は、キヨスクの前に立って改札の方をしきりに覗っている。
バスケ部だろうか。だったら、あの黒いスポーツバッグにはバスケットボールが入っているのかもしれない。しかし、誰を待っているんだ。彼女、か。
横目にしている僅かの時間では、その答えが得られることはなかった。だからといって、その答えがどうしても気になるということもなく、俺の関心は、視界に映るものに次から次へと移りゆくのだった。
自宅までの道をぼんやりしながら歩いた。
なんとなく、頭がしっかりと働いていない気がする。そう思って見上げた外灯の周りを一匹の蛾が舞っていた。それは、外灯を中心に、まるで光の尾をひきながら舞っているように見えた。
自宅のマンションのドアを開けると、重たい空気が俺を迎え入れた。自分の部屋だっていうのに、まるで空き家にでも入ったみたいだった。
リビングに入り明かりをつけると、空き巣にでも入られたような散らかった部屋が広がっていた。神経質なほど整理された社内のデスク周りと比べると、このギャップは奇妙に思える
「ふぅ、だるいな……」
レザーのビジネスバックをソファに置くと、そのすぐ側に腰をかけた。
しかし、つまらない部屋だ。テレビもなければステレオもない。飾りの一つもありゃしない。俺が座っているソファと、足の低いコーヒーテーブルが一つあるだけだ。
白地に黒の線が入ったストライプのワイシャツが目に入ると、それを掴み上げた。どこか湿っぽいそれの首周りは垢で汚れていた。きたねーな、と思うと同時に、それを隣の座面に押しつけてやった。
台所にある冷蔵庫の『ブブブブブ……』というモーター音が耳についた。
「お帰り」とでも言っているのだろうか。いや、ひょっとすると、「なんで帰ってきたんだ」と言っている気もする。
下らないことを考えているなと思ったが、何故かこの冷蔵庫には愛着があった。
身を投げるようにしてベッドに横たわる。毛布を手繰り寄せると、それを肩までかけた。
外灯の明かりが差し込んだ天井は、まるで定規で線を引いたかのように暗闇と微かな明かりの境界をくっきりと描いていた。
デジタル時計が十一時を寡黙に伝えていた。
今日は妙に眠い。前日の残業のせいだろうか。
枕に沈んだ頭がずっしりと重かった。気がつけば、腕から背中、足にかけてまで、まるで俺の感覚が及ばなくなってしまったかのようにベッドに張り付いていた。
疲れているんだろう。寝れば、なんとかなるさ。そう思って目をつむると、まるで何者かに引っ張られるように意識が遠のいていった。
1-2
激しい、鼓動が、呼吸が。
口が渇く、もう何日も水を口にしていないみたいだ。
俺の身に何が起こっているんだ。
目を覚ました瞬間……何だ、何が起こったというんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。それより、なんだ、この目からあふれ続けている、世界をぼやけさせているものは。それに、この胸の痛みはなんだ。
分かる……これは、動悸の激しさ呼吸の乱れからくるようなものなんかじゃない。何かが、俺の胸を貫通していった後の痛みだ。鋭利なものか、違う。痛みにごまかされてしまいそうだが、そんなものじゃない。そこにはとんでもなく巨大な穴が開いている。だから、もっと大きなものが、ものすごい速度で俺の胸元を貫通していったんだ。それを埋めようとして、俺の色んなモノが、例えば感情が、例えば唾液が、例えば涙が、ぽっかりと空いた穴をめがけて流れ込んでいるのだ。だから、この痛みであり、この渇きなのだ。
身じろぎをしようとすると、筋弛緩剤でも打たれたようにピクリとも動かない。仰向けの背中が物凄い力で引っ張られているような感覚がする。いや、引っ張られるというよりは、上からすさまじい力で抑えつけられているような感覚だ。
金縛りか、そう思うとほぼ同時に体に自由が戻った。動く手足の先で、恐る恐るシーツの布地をまさぐる。
指先を滑るサラサラとした質感。
俺は、安堵の溜息をついていた。
半身を起こすと、面前には俺の見知った現実が広がっていた。
左胸に手を当てると、鼓動が掌にじわりと伝わった。
落ち着いては、いる。
ふと、生暖かい感覚が背中に広がった。
「汗、か」
言葉が零れた。それにしてもひどい量の汗だ。尻や股間のあたりも汗でびっしょりとしていた。
上着を脱ぎ捨てると、それを無造作に放った。
「何が、起こったんだ」
まるで他人事のように声にするが、それに返ってくる言葉はなかった。
無意識のうちに今日の出来事を思い出していた。小倉の整った白い歯を真っ先に思い出した。それから、ホームレスの薄汚れたダウンジャケット、OLの柑橘系の香水、黒いスポーツバックの学生、外灯を舞う蛾など、次々と思い出していった。だが、そんなものが金縛りと関係するはずがない。
外でざわざわと葉音がすると、思わず身をすくめていた。
ベッドから降りると、隣室のリビングルームに移ることにした。なんとなく、この場所には居たくないと思ったのだ。
ちらりと横目にしたデスク上の銀色のデジタル時計が深夜三時を告げていた。
照明の電源を入れると、シーリングライトに電球色の暖かい明かりが灯った。夜目に慣れきっていた俺は、まぶしさから目を細めていた。そして、狭まった視界でソファの位置を探り、そこに腰をおろした。
「さっきのアレ、はなんだったんだ」
台所の冷蔵庫は、それこそこのタイミングにセットされた目覚まし時計のようにモーター音を鳴らし始めた。そしてそれは、外の風音と重なって奇妙な旋律を奏でていた。
顔を上げると、前のめりになった上半身裸の俺自身がベランダのガラス戸に映し出されていた。
ふと、何か直感でしか分からない呼び声のようなものを感じ、ガラス戸に近づいていった。窓ガラスに手を当てると、それは少しだけ冷たく、俺の手の平の温度を少しだけ奪っていった。特に意図もなく吐息を窓に吹きかけると、そこの部分がわずかに白くなった。そこから見渡す世界は、白い靄に包まれてどこかぼんやりとしていて、まるで霧の帳が降りているような、または夢の世界を見渡しているように思えた。
次の瞬間、俺の直感が『ピン』と音をたてた。
「夢……」
そうか、夢の出来事だったんじゃないのか。俺はさっき泣いていたはずだ、それだったら……そう思って指先で目の下をこすると、そこに涙の形跡はなかった。
やっぱりそうだ。俺は、夢を見ていたんだ。
「そうか、夢だったのか……」
思わずにやりとしていた。そして次の瞬間には、さっきまで俺を支配していた不安感や恐れから解放されていた。それに代わって広がってゆく安堵感から、両腕を上に伸ばして伸びして大きなあくびをした。
「さ、寝るか」
立ち上がって寝室に戻ると、倒れこむようにベッドの上で仰向けになった。
目をつむると、強力な磁場が働いているかのように眠りの世界に吸い込まれていった。
『ブルルルル』
携帯のバイブ音で俺は目を覚ました。
「誰だよ……」
頭を掻いた手で目をこすった。携帯電話を手にすると、『菊池 沙希』と表示されていた。
そうか、今日は馬鹿女と会う日だったか。
「あぁ、おはよう」
「ゆうちゃんおはよ。まだ寝てるの?」
「あぁ、悪い……」
今日は、沙希と会う約束をしていた日だ。
「今、どこ?」
「近くの公園。良い天気だよー」
「そうか」
「家、上がってもいい?」
「あぁ、部屋きたねーぞ」
「あはは、いつもじゃん。掃除してあげるよ」
「悪いな……部屋開けとくから入っててくれ。シャワー浴びてるから」
デスクの時計に目をやると、二時を十分ほど過ぎていた。それはつまり、待ち合わせ時間を十分過ぎていることになる。俺は、一つだけ舌打ちをしてベッドから起き上がった。
シャワーを浴びていると、「おじゃまします」の声が聞こえた。それを無視していると、リビングで人が歩き回る気配が微かにした。沙希が、俺の洗濯物をまとめているのだろう。
バスルームを出ると、洗面台の鏡に映る自分の姿をまじまじと眺めた。
普段は、あまり気にならないんだがな。鏡に近づいてみたり、角度を変えて見たりとしていると、自分の容姿を初めて真面目に観察したように思えてくるから不思議だ。
面前に映る自分の容姿はまんざらではなく、よく似ていると言われる二枚目俳優と比べても『イイセン』いってるんじゃないかと思う。
「まぁ、かっこいい、よな……」
ぼそりとつぶやいていた。
ふと、腹回りが気になって横向きになってみた。右手で腰回りの肉を掴むと、掴める肉の量がわずかだが以前より多くなっている気がする。付き合いで飲みにいくことは多いし、だからといって鍛えているわけでもないしな。苦々しいことだが、日々の生活習慣を考えれば仕方ない。
「腹筋を、しろ、と……」
一人つぶやいた。そして、適当に体を拭くと、腰にバスタオルを巻いたままで脱衣室を出た。
リビングでは、エプロン姿の沙希が掃除機の電源コードを伸ばしているところだった。
「あ、おはよう」
「あぁ、おはよう。いつも悪いな」
そう言って沙希を抱きしめた。こういう馬鹿女は、何かされるごとにご褒美を与えてやると、なんの不満も言わず一生懸命に尽くすから面白い。
頭の中が家事モードに入っていたのか、沙希はそれを一瞬振りほどこうとしたが、俺が腕に力を入れると抵抗をやめた。
抱きしめていると、沙希の香水の香りがした。甘いフローラルの匂い、嫌いな匂いじゃない。むしろ好きな香りだ。そしてその香りは、この女を抱きたいという性欲のスイッチを押させるのに十分な効果があった。
沙希を振り返らせて強引にキスをすると、舌先を絡めた。目を瞑っている沙希と対照的に俺は瞳を開き、沙希の睫毛の先を見つめていた。
長いキスの間に俺は、なんでキスなんかすんだろうな、と考えていた。正直、ただの唾液の交換じゃないか、こんなもの。そう思うものの、さっきまで強ばっていた沙希の体が今ではだらりとして俺を受け入れる感じになっていることに気づくと、どんなことで下準備が必要なんだな、とキスの必要性を理解することが出来た。
沙希の指の間に自分の指を絡め、それを強く握りしめた。そうしながら俺は、下準備に連想されたのか、太ったコックがステーキ用の生肉を包丁の背でバンバン打ち付ける姿を思い浮かべていた。
沙希の腰に両手を回すと、キスをしながら軽く体を抱きかかえ、ソファの元に移動した。ソファの座面に押し倒し、瞳を見つめる。沙希の反応に僅かな戸惑いがあった。
それでも、「好きだよ」という言葉をかけて再びキスをすると、俺を受け入れていくのが分かった。
欲望のおもむくまま腰を振っている自分に、どこか醒めた俺が冷笑を浴びせていた。そして、小声でつぶやく「遊びの女」と。嘘だとは思わない。合コンで俺に好意を持っていたから引っ掛けた女である。沙希が許す範囲で好き勝手していいと思っている。飽きれば別れるまでだし、飽きられれば勝手に消えてくれれば良い。だからそんなことはどうでもいい。ただ、その醒めた自分の出現のせいで、楽しいセックスが興ざめしてしまうことが苛立たしかった。
セックスの後の一言目というのは難しい。男にとっては射精までがセックスだが、女にとってはその一言目までがセックスなんだと思う。だから、その一言目をどういう言葉で飾るのか、というのは重要なのだ。もちろん、こういうときは『好きだよ』のありふれたフレーズにつきるのだろう。ただ、好きでもない女にその言葉を告げることには幾分か後ろめたさがある。ヤル前の俺には簡単な一言だったのに、セックス後の無垢な心には負荷が高い。
結局、何も言葉をかけなかった俺は、ただ、沙希の裸の胸に頬を押し付けていた。汗で湿った頬は、俺の頬がそこに張り付いているような錯覚を覚えさせる。
「目、切れ長だよね」
そう言いだしたのは沙希だった。
「そう、か」
「うん、あと、少しつり目だね」
「そうらしいな」
何を言い出すのだろう、と思った。片膝を立て両腕を伸ばして体を起こすと、沙希をじっとみつめた。すると、沙希は条件反射的に顔を背けた。
「そういう沙希は結構たれ目だな」
「うん、アライグマって言われる」
「はは、まぁ、うん、そうだねぇ……どうだろうねぇ……」
「あ、そう思ったんだー」
そう言うと、俺の首に両腕を回してきた。
「うわ、よ、よせって」
自分プラス沙希の体重に、思わず体勢が崩れ、浮かせていた体が沙希の背中ごとベッドに沈んでしまった。
こういう無邪気さには嫌気がするんだがな、と思いながら半身を起こしてあぐらをかいた。
窓越しに空を眺めると雲がたなびいていた。
「いい、天気だね」
「あぁ……昨日は曇りだったのにな」
「公園、ぽかぽかだったよ」
「そうか、行って見るか」
「うん、行く。シャワー、かりていい?」
無言でうなずくと、さっき俺が沙希から剥ぎ取った衣服を拾い上げ、少しだけ小走りに脱衣室に向かった。ただ、一つだけ、白いカーディガンを拾い忘れたようだ。それを拾い上げたのは、ソファからは死角になったキッチンの冷蔵庫の側だった。
こんなところに放り投げていたんだな、俺は苦笑いに口の端がわずかにつり上がった。拾い上げたカーディガンの匂いを嗅ぐと、沙希を抱く前に俺を刺激したあの甘いフローラルの香りがした。
沙希が戻る前に洋服に着替えた。黒いジーンズにロゴの入った白いティーシャツである。
ベランダ越しに外を眺めていると、子供のはしゃぐ声が耳に入った。ちょうど、これから向かう公園からである。
脱衣室のドアが開くと、スリッパが床をする音がした。その音は俺の方に近づくと、やがてぴたりと止まった。
「ほんと、いい天気だね」
沙希の声である。
「――あぁ。行くか」
「うん」
振り返ると、チェックのワンピース姿の沙希がいた。
さっきまでは沙希の服装など無関心だったのに、今になってワンピースだったんだな、なんていうことを思った。
髪に目がいく。それは、ゆるやかにウェーブしたボブスタイルで、少しだけ赤みの加わったブラウンの色をしていた。
女というのは、自分に似合うものをよく理解しているよな、と思った。
エレベーターで下の階に降りていくと、無意識に見上げていた階を示す電光板から目をそらした。そして、すぐ斜め後ろで電光板を見上げている沙希を後ろ目に見た。すると、それに気づいた沙希が俺に視線を合わせ、笑顔を浮かべて首をかしげる。どうしたの、とでも言いたげな表情だ。それに答えず視線をそらすと、再び電光板を見上げた。
沙希みたいな女を清純系、とかいうのだろうか。健康的な肌には化粧なんてしていないように見えるが、『ナチュラルメイク』とか呼ばれているやつなのだろう。
正直、かわいいとは思う。その上家事も出来るし、もてる要素はたくさんある。
普通の男なら、そんな彼女が自分のものだとして一体何を思うんだろう。嫉妬するのか、それとも優越感に浸るのか、はたまた一生守ってやりたいとでも思うのだろうか。
どうだろう。まぁ、分からないが、少なくとも俺は…… 胸に当てた手に心臓の微かな鼓動が伝わる。きっと、どうでも良いものの一つにすぎないのだろう。だからといって胸をときめかす恋などという幻想に憧れる気はない。それでも、俺の心にふっと湧いた虚しさは無視出来るものではなく、俺に小さなため息をつかせるのだった。
マンションの玄関口にある認証式の自動ドアが開くと、梅雨だというのにやけにまぶしい日差しが俺を出迎えた。
両方のポケットに手を入れた俺は、目を細めながら空を仰いだ。
「季節感のない太陽だな、梅雨だってーのに」
「うん、けどこの時期にこの天気は嬉しいよね」
「そう、だな」
公園に続くまっすぐに伸びたレンガ歩道の両脇には、それに沿うように桜の若木が等間隔で植えられている。そして支柱に支えられた若木は、それぞれ公園を向いて影を少しだけ伸ばしていた。
公園は、このマンションの敷地内にある。ほとんどおまけで作られたような小さな公園で、シーソーと砂場くらいしかない。普段は、休日であってもほとんど誰もいない廃れた公園である。しかし、天気が良いせいか、親子連れが何組かいた。
おもちゃを砂場に広げた子供たちは、嬉々としてはしゃいでいた。母親は、子供たちを少しだけ気にしながら、井戸端会議に夢中になっていた。俺は、母親たちに軽く会釈すると、公園のベンチに座った。
空を見上げていると、小さな雲が点々とあった。それをぼんやりと眺めていると、いつまでもこの時間が続くような気がする。それは、俺にしてはわりと好きな感覚で、そうあって欲しいと感じた。
「仕事、どう?」
俺の憩いを邪魔するかのような話題だった。
「あぁ、いつも通りだよ」
「そっか、ゆうちゃんなら余裕だよね」
「ま、そういうことさ」
「いいなー。私なんて、仕事二年目で新人の教育任されてて、もう全然駄目だもん。向いてないのかなー」
そう言うと、両肘を両膝に乗せて前屈みになった。
「はは、なんとかなるもんだよ」
「そうかな」
「あぁ、そういうもんさ」
そう答えたものの、正直なところ真剣になど考えてはいなかった。
「ゆうちゃんは、新人の教育ってどうする?」
「俺か? 俺は、そういう仕事を他の奴にやらせるからな。あんまり考えたことないな」
これは、沙希との会話を打ち切るための単なる嘘である。貴重な休日を沙希の愚痴の聞き役として使おうなど、そんな考えは俺にはないのだ。
「あはは、良いなー」
「そうだ。沙希って、夢、見るか」
話を逸らすために、昨晩の出来事を話してみようという気になった。
「え、夢? うん、見るよ」
「そうか……」
「昨日、変な夢を見てな」
「へー、どんなの」
一瞬、全てを話したものか、と悩んだが、すぐに問題ないだろうという結論に至った。
「寝てたら、いきなりすごい苦しくなったんだよ。目を覚まそうとしても醒めないし、泣いてたし。それで、何度か体を動かそうとしたら、やっと自由が利くようになったんだけどな」
「うんうん、それで?」
「初めは、なんで泣いてたんだろうって不思議でしょうがなかったけど、涙の跡がなくてさ、あぁ、夢で泣いてたんだって気づいた。最初は、夢と現実がごっちゃになってて、わけわかんなくなってたんだ」
「その、夢の内容は覚えてないの?」
「あぁ、まったく」
「そっかー……けど、よっぽどなことがあったんだろうね」
それは、俺が普段から無感情だから、よっぽどのことがないと泣くことなんてない、と言っているように思えた。
「私が死んじゃったりとか」
そう言って屈託のない笑顔を浮かべる。
「はは、そうだな……」
俺は、引きつりかけた顔の筋肉を強引に笑顔に変えて言った。
部屋に戻ると、沙希は家事の続きを始め、俺は仕事用の資料作成を進めた。その後、キッチンから美味そうな匂いがしてきたので部屋を出ると、いつの間にか買い物を済ませていた沙希が見慣れないスープを作っていた。料理の名前を尋ねると、ビーフストロガノフと答えられた。そう言われて、以前、その料理を俺に作りたいといっていたことを思い出した。沙希の得意料理ということらしい。得意料理というだけあって、いざ食べてみると実においしかった。俺がうまいと言うと、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、隠し味にサワークリームを使っている、なんていうことを語っていた。
その後、洗い物を済ませると、夜の九時を回ったくらいに沙希は家を出ていった。
今時、これほど家事が完璧な女というのはなかなかいないだろう。木製のカーテンレールに釣らされたハンガーには、俺のワイシャツが丁寧に掛けられている。一通り掃除機を掛けられたフローリングは、先日まで埃がうっすらとたまっていたはずだ。そう考えると、沙希との生活は、まんざらでもないと思う。沙希も、俺のことを好きでいるわけだし、同棲するのもありなんじゃないだろうか。
「沙希か……」
そう考えていると、さっき公園で覚えた胸焼けを思い出した。そのことで、同棲の可能性が断たれたことを理解せざるを得なかった。
ベランダのドアを開けると、空がうっすらと曇っていた。月のない灰色の空だ。風がそよぐと、少しだけ肌寒くて、すぐにリビングに戻った。
雨が、降るのだろう。
ガラス戸を隔てて公園を眺めていると、ため息が一つ音もなくこぼれた。
「くだらねぇよな、ほんとに」
言葉を漏らすと、さっさと寝ようという気になった。
1-4
「明、そっちに本棚置こうよ」
黒髪の女がリビングの角を指差して言った。そして俺の方向を振り返ると、澄んだ大きな瞳を幾度か瞬かせた。
「えー、本棚はこっちが良いなー」
俺の後ろから声がする。振り返ると男が居て、リビングと寝室を隔てる扉のすぐ横を指差していた。
「まったく、明はセンスないんだから。そんなところに置いたら部屋が狭く見えちゃうでしょ?」
「あぁ、そうか……」
そう言って、男は頭を一つ掻いた。
この男のことを俺は知っている。少しつり上がった切れ長の目、明という名前……俺自身だ。そしてこの部屋……がらんとしているこの部屋は、まさに俺の部屋じゃないか。
「俺の部屋でなにしてやがる!」
声を上げていた。しかし、それに返す言葉はなかった。
「ねぇねぇ、明さ、私たち結婚したらさ、結城になるのかな。多々良になるのかな」
「え、なんで、突然?」
「だってさ、私、由紀じゃない。結城になったら、結城由紀。なんか、ユキユキみたいだなーって」
「あははは、ほんとだ! けど、それを言うなら、俺だって多々良明だよ。呼びづらいじゃん」
「んー、タタラアキラ……ほんとだ。呼びづらい! タタラキラって省略されそう。何人?」
「あははは『タタラキラ』と『ユキユキ』どっちもどっちだなー。なので、ジャンケンで決めるとか」
「えー、そういうロマンスない意見反対―」
二人は、目と目を一度も離すことなく、幸せな笑顔をたたえていた。
「けど、結婚は当分出来そうにないな」
「――うん、そうだね」
「それでも、俺はお前を愛してるから」
「うん、ごめん……ありがとう」
そう言って、二人は抱きしめ合っていた。その一部始終を眺めていた俺は、この、まるでドラマのワンシーンのような展開に思わず鳥肌を立てていた。しかし、この澄んだ大きな瞳の女は俺の好みのタイプで、微かに欲望を覚えた。そして、その女を抱きしめている俺自身に嫉妬を感じると、様々な感情が入り交じって、口中に奇妙な苦味を覚えた。
1-5
目を覚ました俺が最初に目にしたものは白いレースのカーテンだった。
「夢、見てたよな……」
覚醒しきっていないもうろうとしたまま頭で言葉をこぼした。どんな夢だっただろう。思い出そうとすると、記憶が淀んでいて形を成そうとしない。それでも、夢を見ていたという実感はある。
思い出せないのは癇に障るな。
半身を起こして辺りを見渡すと、当たり前だがいつもの俺の寝室が広がっていた。それなのに、心なしか違和感がある。きょろきょろと辺りを見渡すものの、やはりいつもの部屋だ。ただ、沙希が掃除をしていった部屋は、俺からしてみれば異常なほど片付いている。
きっと、それだろう、この、なかなか拭えない違和感の原因は。理由付けが終わると、腹の虫が『ギュルギュル』鳴った。
昨夜のビーフストロガノフが残っていることを思い出し、キッチンへと向かった。沙希がパックにつめて冷蔵庫に保存しておいたのだ。冷蔵庫を覗くと、一食分ずつのパックが三つ入っていた。
電子レンジで暖めたビーフストロガノフと、こんがりと焼いたフランスパンをトレイに載せ、ソファの前のガラステーブルに乗せた。いつもよりマシなブレックファーストだ、と思っていると、違和感が心をよぎった。それは、奇妙な感覚だった。自分の部屋にいるというのに、まるで別の場所に居るような感覚だ。さっき寝室で感じたものと同質のものかもしれない。ただ、さっきよりも強いし、部屋がきれいだからというさっきの理由付けがしっくりこない。
「誰か、ここに居たよな」
その言葉は、意図したものなんかじゃなく、至極自然に口からこぼれていった。
背筋に悪寒が走る。馬鹿らしいと思いながらも、嫌な感触に思わず席を離れることにした。
寝室に戻ると、デスクのノートパソコンの電源を起動させた。仕事の提案用の資料を作成し終えようと思ったのだ。
「さぁ、仕事仕事」
何故か鼻歌までしている自分に思わず苦笑いしてしまったが、早いところ気持ちを切り替えたいという思いがあってのことだ。
これといった趣味のない俺は、暇つぶしという口実で仕事をしていることが多い。きっと、仕事量だけ見れば、紛れもない仕事人間なのだろう。では、仕事が好きか、と問われれば、好きではない。いや、正確に言うとすれば仕事にそこまでの興味がない。
ふと思い立つと、ベッドの脇にある携帯電話を手にした。連絡帳で『マツキ』と検索すると、『松木 里奈』が表示された。
「おー、久しぶりじゃん。どうしたの?」
松木は、数コール目で電話に出た。
「おう、久しぶり、たまには会おうかと思ってな。いつでもいいんだけど、空いてるか?」
「うん、構わないけど。ちょっと予定確認するね」
「あぁ、急ぎじゃないからいつでもいいぞ。とりあえず場所はいつものとこな」
「はーい」
用件だけ伝えて電話を切った。
松木は、俺が高校時代にほんの少しだけ付き合っていた女である。数は多いがどれも短い期間で別れた女の一人ではあるが、その後友人として付き合いが続いていると言う意味で希有な存在である。更に言ってしまえば、たった二人しかいない友人の一人である。
松木とは、多いと一年に四回くらい会う。少ないと二回くらいだ。だいたい松木から声をかけてくるので、俺から声をかけるというのは珍しい。
ちょっとした会話で気分がそがれたのか、その後俺のデスクワークは思った以上にはかどった。ほぼ完成した提案資料をプリントアウトして見直していると、その出来栄えに満足したのか、程よい睡魔が俺を襲った。それに抗う理由もなく、俺はデスクトップの電源を落としてそのままベッドに移るのだった。
「よう」
カウンターに肘をついている松木に声をかけた。
「久しぶりー」
振り返った松木が、目をこすりながら答えた。
「悪い、俺から時間指定してたのに遅れた」
スーツの上着を脱ぎながら言った。
「ううん、そう思って私も少し遅らせてきたから、ちょっと前に着いたところ」
「はは、さすが、わかってんな」
席に着くと、折りたたんだ上着を隣の席に置いた。
「そりゃー、長いしね」
松木は、少しだけ苦笑してみせた。
長いしね、の言葉には、俺の遅刻癖だけではない、色んな意味が含まれているんだろうな。長い年月が、お互いを言葉以上に理解させるようにさせているのだろう。その中には、俺のことを分かって無いと言いたくなるような誤解もあれば、俺すら知り得ない内面的な真実も含まれているんだろう。
「かれこれ……十三年か?」
そう答えると、アルコールを頼むためにドリンクのメニューを開いた。
「うん、高一からだしね。そうでしょ」
そして、また少しだけ会話が止まる。その、会話が止まっている微妙な時間に、ジントニックをオーダーした。
「はい、かしこまりました」
オールバックで口ひげを蓄えた少し昔のジャズミュージシャン風のバーテンダーが、うやうやしく頭を下げた。ちょうど、ダウンライトの白熱灯の明かりが頭に照ると、そこの部分がうっすらとはげかけているのが目に付いた。
「俺たちも、もうじき三十か」
バーテンのはげ部分を見たせいか、おじさんまで残りわずかな自分の年齢をしみじみと実感した。
「ちょっと、言わないでよねー」
松木が顔をしかめる。すると、松木の眉間に少しだけ皺がよっていて、以前と比べて――といっても、学生時代との比較であるが――歳をとったんだな、と実感した。
「ははは、悪い悪い」
その実感は心の奥のほうに収めておいて、とりあえず謝っておいた。
「こんなデリカシーない奴のくせに会社では『出来る君』なんでしょ?」
「まぁな、世の中不条理に出来てんだよ」
「うっわー、何、今の余裕の発言、昔はもっと可愛らしかったのにねー。俺は学者になるんだー、なんて言ってたのに」
「はは、それ言うなら、松木も昔は優しかったぞ」
「今でも優しくて可愛いですー」
そう言って、テーブルに両肘をついて、すこし前のめりの姿勢になった。腰をほんの少しだけ反らしていて、そのラインが色っぽくみえた。友人にこんな感情を抱くのもなんだな、と思うと、無意識に視線を逸らしていた。
それにしても、松木はスタイルが良い。モデルほど、ということはけしてないが、痩せているし背も高い。そのくせ胸は結構ある方だ。ただ、何よりもすらっとして長い脚は際立っているかもしれない。今日みたいにスリットの入ったタイトスカートにワイシャツ、なんていう格好をすると、随分と色っぽく見えるものだ。
「ははは……なんか、久しぶりだな」
「ん、何が?」
「いや、なんか普通に笑ったのって久しぶりだなと思って」
そして、残りのジントニックを一気に飲み干した。
「そうなんだ。苦労してんのねー、はげちゃうんじゃない」
そう言って俺のおでこをちらりと見る。
「おまぇ、不吉なこと言うなよなー」
「あはは、がんばってねー」
「そういや、パーマあてたんだ」
「うん、気づいた?」
「なんか、こう……表参道か代官山のカフェとかに居そうな感じだよね」
「あはは、何それ」
「要は、悪くないってことさ」
「だったらそう言えば良いのにー。正直じゃないねぇ、こ・の・子・は!」
そう言うと松木は、少し目を細め、まんざらでもないといった表情を浮かべ、カルアミルクのグラスに口づけをした。その瞬間の仕草が妙に艶めかしくて、俺は一瞬だけ見入ってしまっていた。
「で、今日はどうしたわけ?」
グラスがテーブルに置かれるタイミングで松木が言った。
「え、何が?」
「何がって、明から連絡入れてくるなんて、すごく久しぶりじゃない」
「あぁ、そうだよな……」
理由がなければ誘っちゃいけないのだろうか。ただなんとなくというのが正直なところだ。
「何かあるのかと思って、先約キャンセルしてきちゃった」
少し間を置いて松木が言った。
「おいおい、良かったのかよ」
「うん、同僚との飲み会だし。たまにはサボりたいのよ」
そう言うと、上目遣いに、うんざりしたような表情を浮かべた。
「はは、そういや、女って本音はわりとすごいよな、一見楽しそうにしてたりするのに。」
「そりゃー、いつも笑顔でなんてやってられるわけないじゃん。表情筋がひきつっちゃうわよ」
「あはは、まぁ、そうだよな」
ふと、俺が見た夢の話を松木にしてみたいと思った。話したいという欲求は、俺の内面で急激に膨れあがり、あたかもそうすることが松木を誘った目的であったかのような感覚にさせた。
「そうそう、松木さ、夢って見るか」
「え、夢? うん、見るよ」
「じゃぁさ、夢見て泣いたこととかってある?」
首を傾げると、考え込むように口元に手をあてた。
「えー……私は、無いかな。けど、たまにいるよね、そういう人。それがどうかしたの」
「先週さ、変な夢を見てな……」
俺が話し始めると、松木は、話を急かすように頭を縦に振った。
「夢で、泣いてたんだ」
「えぇぇ! 明が?」
「なんだよ、その異常な驚き方は……というか、最後まで聞け」
「ごめんごめん」
そう言って、松木は照れ隠しのように頭を掻いた。
「気がつくとすごく喉が渇いていて、呼吸は苦しいし、胸が締め付けられるようでさ、それで泣いてるわけよ。なんか、金縛りにでもあってたみたいな感じだった」
「どんな夢だったの」
「うん、それが思い出せないんだ。苦しいところから意識があったからさ」
「え、それだったら何で夢だって分かったの?」
「なんとか起き上がったんだけど、涙を流していたっていう感覚はあったのに、涙を流した跡がないんだよ。それで、泣いたり苦しかったりしたのも夢の中だったって気づいたんだ」
「え、どういうこと」
「泣くとさ、涙の跡って残るじゃん」
「どんな?」
「ほら、目が腫れぼったくなったり、涙が乾いた跡とかさ」
「あぁ……」
そう言うと、松木は首を二回縦に振った。
「そういう感じがなかったんだよね」
そう言って視線を松木に向けると、腕を組んで首を傾げていた。
「けど、実際に苦しかった感覚はあるんでしょ」
「うん」
「なんか変じゃない」
「何が」
「だって、実際苦しかったんでしょ。それなのに夢だったって決めつけられるわけ」
「うーん、けど泣いてなかったし」
「それってさ、例えばさ、泣いてたったいうのが錯覚で、本当に苦しかったとか」
言われてみれば松木の説にも一理ある気がする。
「あれ、けどさ、夢で苦しいのと実際に苦しいのって、何が違うんだろ」
「うーん……なんだろ。現実の方が苦しい、とか」
俺たちは、示し合わせたように言葉を途絶えさせた。
沈黙の合間をジャズベースの低音が通り過ぎていく。
奥のテーブル席の客が会計を済ませると、ドアを開けて外へ出て行った。そのドアの奥から、微かに、雨の匂いと湿った街の空気が入り込んできた。
時間は、どこか不自然な程ゆっくりと俺たちの真横を忍び足で通り過ぎていった。
「分からないけど、それって夢なのかなぁ」
「まぁ、確かに……」
そう言ったものの、夢であると決めつけていてしまったせいか、同意をしながらも松木の言葉に納得しきれない自分がいた。
「けど、不思議な話だよね。なんなんだろ」
それは、俺というより松木自身への問いかけに思えて言葉を返さなかった。
二人とも黙り込んでいた。松木は、この謎の現象を紐解こうと頭をひねっていた。俺もまた、大筋は夢であるに違いないと思いながらも、安易に答えを出していたことの後悔から、思い当たる節がないものかと思い巡らした。
「タタラ……タタラ、ユキ」
「え、何よいきなり……」
訝しげな表情を浮かべる。
「いや、なんか浮かんだ。お前、知らない?」
そう言うと、眉をしかめ、口元に手をあて、小刻みに首を横に何度も振った。
「なんだろ、それ。地名? 名前?」
「わかんねー、けど、たぶん、名前かな」
「さっきの話と関係あるのかな」
「わかんない……」
「タ・タ・ラ、ユ・キだよね」
「あぁ」
そう言うと携帯を取り出し、何やらいじりはじめた。
「きっと、この漢字だよ」
そう言って俺に向けた携帯画面には、『多い』という字と『良い』という字を合わせた『多々良』という漢字だった。
「そうだな。これかもしれない……」
「この人のこと、知らないんだよね。元彼女とかじゃないの」
「――あぁ、知らない」
ひょっとして、一度会ってセックスしただけの女かもしれない。そう思って思い当たる節を探るものの、皆目見当が付かなかった。
「じゃぁ、ユキは、この漢字かな」
「由紀……あぁ、その漢字かもしれない」
「なんでそう思うの」
「――なんでって言われてもな…… ただ、そう感じただけだ」
「そっか……」
俺達の間を沈黙が通り過ぎた。腕を組み、時折首を傾げる松木。その姿を見ていると、なんとなく沙希の姿が脳裏に浮かんだ。二人をそれとなく比較して見ている俺がいる。すぐに自分の話に切り替えようとする沙希と、真剣に考える松木、どちらを男が好むのかという話をすれば答えは簡単だろう。だからといってどちらが男に好かれやすいかと言えば沙希に違いない。
「ん、何よ。じっと見つめて」
俺の視線に気づいたのか、松木が怪訝そうな表情を浮かべる。
「いや、なんでもないよ。ていうか、そろそろ出ようか」
少しだけ首を傾げると、「うん、分かった」と応える。
バーから出ると、小雨が降っていた。
「あ、雨……」
松木が言葉を漏らした。そして、カバンから折り畳み傘を出した。
「サンキュー」
松木の差した傘にちゃっかりと入り込んだ。
「ちょっと、持ってないわけ」
松木は、俺の肩をぐいと押す。
「はは、悪い悪い。俺が持つから」
半ば強引に松木の傘を奪うと、小雨の中、俺と松木はお互いの肩がぶつからないよう微妙な距離をとりながら歩いた。
「なんか、こういうの久しぶりだな」
それに答えようとせず、松木は、視線を落としていた。
「そういえば、沙希ちゃんとはうまくいってるわけ」
「沙希? あぁ、いつも通りだよ」
「そっか、四ヶ月だっけ」
「あぁ、そうだったと思う」
「明にしては長い方じゃん」
「まぁ、な。今度は少し長く続くかな」
「へー、うまくいってるんだ」
「たぶん、な」
「そっか、良いな-」
「そういう松木は、前言ってた証券マンとはどうなった?」
「あぁ、あれね。ははは、別れた」
「なんだよ、その『ははは』って」
目元が笑ってない、そう思った俺はつい詮索をしていた。
「いや、なんだかいろいろあってね。人と付き合うの下手だなーって」
「そっか……」
これ以上の詮索は、きっと良くないだろうと思った。
「まぁ、後二日で土曜日だし、それまで頑張ろうってことで」
「はは、そうだね……」
さっきまでの小雨が、少しだけ雨粒を大きくしていた。俺も松木も急に言葉を失って、下向き加減に歩いていた。所々にある小さな水溜りが街の明かりを映していて、俺はそこに映る街の切れ端を眺めていた。
1-6
「由紀、いよいよ明後日だね」
「――うん」
「これからも、ずっと一緒でいような」
そう言うと、俺は由紀を背中から抱きしめた。
「うん!」
由紀が答える。それから、少しだけ二人から声が消えた。
手の甲に触れる由紀の細い指先。少しだけ、冷たい。
髪に香るシャンプーの香りが、甘く、俺の鼻腔で遊んでいる。
幸せが、全身を巡る。それなのに、こうして結んでいる腕を解いたら、由紀はどこかに消えてしまうんじゃないかと不安に駆られる。
無意識に、腕に力がこもる。もっと強く、抱きしめていれば良いんだ。そういう声がする。けれど、その声の持ち主は、暴力的で、由紀を不当に傷つけてしまいそうで恐ろしくなった。
「本当に私でよかったの?」
由紀の指先に少しだけ力が加わる。
「おいおい、なに言ってんだよ、今更」
俺は、少し呆れてため息混じりに答えた。
「だって……仕事、辞めちゃったんでしょ?」
「――あぁ、ま、しょうがないだろ? あんなことになっちまったら……」
まぁ、確かに仕事は辞めた。仕方ないだろう、君嶋が職場に脅迫電話をしてきたりするもんだから。これ以上周りに迷惑かけられない。そして、その一件があって、俺は由紀と結婚するという決断をした。
「うん……」
由紀が、一層強く俺の手を握る。覚悟と、迷いと、不安の入り混じった想いが俺に伝わった。
不安なのは、俺独りじゃないんだ。由紀は、俺なんかより百倍も怖い思いをしてきた。俺が弱気になっていてどうする。俺、結城明が、多々良由紀を守るんだ。そんな声がした。神に誓っても、そうしてやる。由紀の背中に合わせた胸から、俺の鼓動が伝わっているだろうか。もし伝わっているなら、それは、この気持ちをちゃんと伝えてくれているだろうか。
呼び鈴が、鳴った。俺も由紀も、ドアの方向に顔を向けた。
「誰、だろう?」
「さぁ、管理人さんかな」
君嶋か? 一瞬だけ不安がよぎる。まさか、君嶋であるはずがない。君嶋は、傷害事件を起こし、警察に捕まった。その後俺と由紀は、この場所に引っ越した。この場所は、親友にさえ伝えていない。引っ越してから数ヶ月経っているとはいえ、君嶋が俺たちの居場所を簡単に特定出来るはずがない。
「ちょっと、行ってくるね」
「あぁ……」
由紀の後ろ姿を見ると、俺はいつも切なくなる。俺の手元に何か大切な物を残して、そのまま戻ってこないんじゃないかと思う。簡単に壊れてしまいそうな華奢な体格が俺にそう思わせるのかもしれない。理由はよく分からない。だが、これは、おそらく俺が由紀と初めて会った高校生のときから続く不思議な感覚だ。
俺は、その何かを自分の手元に引き留めるために、由紀を後ろから抱きしめるんだと思う。
ふと、ドアのチェーンをかけていたっけかな? と不安を覚えたが、その時にはすでに由紀はドアを開けようとしていた。
「きみじまく……」
一瞬そう聞こえた。俺の全身から血の気が引く。由紀の方に向き直ると、こちらに向いて由紀が立っていた。首に腕を回され、目先には……刃物が突きつけられている。由紀は、真っ青な顔をしていた。現実に起こっていることがはっきりと理解できていないに違いない。俺は、管理人かもしれない、と安易なことを言った自分を呪いの言葉を浴びせていた。
「由紀!」
後ろの男は、顔こそ見えないでいるが君嶋に違いない。なにか最善の解決策がないか、と考えたが、どれも最悪な結果を想像させた。由紀の死、俺の死、もしくは、ゆきと俺の二人の死のどれかである。その後の一瞬で、周りに何か武器になる物がないか目で探った。台所ならまだしもここは居間である。何一つ武器になるようなものはなかった。
「君嶋か!?」
打つ手は何もなく、仕方なしにその名を叫んだ。
…………
答えはなかった。その代わりに由紀が小さく、痙攣のように小さく首を何度も縦に振った。
馬鹿! 君嶋を挑発するようなことをするな! 俺は、心の中で叫んだ。そしてそれは、由紀の元に駆け寄るための右足の踏み込みを起こさせてしまった。
「動くんじゃねー!」
君嶋が叫んだ。ドスの利いたその声に、俺は一瞬気おされてしまいそうになった。
「君嶋、何しに来た?」
「あぁ、何しに来たじゃねーだろ……人の女二度も奪っておいて、何しに来たじゃねーだろ!」
狂気に満ちたその声は、人間の、まさに悪を象徴していた。俺は、自分の足が情けなく震えているのを感じた。それはつまり、逃げ出したい、そういう意味であった。
ズリ……君嶋が、由紀を盾に一歩俺の方に近づいて来た。その一歩は、死刑台を登る一歩と等価値に思えた。
ズリ、ズリ、ズリ。
一歩、一歩近づいてくる。それに従って由紀の表情が鮮明になる。由紀と目が合う。涙が何筋もこぼれた跡があった。ただでさえ白いユキの肌が、青白くなっていた。
恐怖で思考が麻痺しかけていた俺は、不思議と、それを見た瞬間、何かが燃え上がるのを感じた。
俺が、由紀を守るんだ。その声は、心の内側で何度も何度も反響した。そして、生まれて初めて勇気が全身に満ち溢れる感覚を覚えた。
「君嶋! 俺を恨んでるなら、殺したいなら、殺せば良い。その代わり、由紀は逃がしてやってくれ」
そう言うと、君嶋の歩みが止まった。
「お前は、殺す。言われなくてもそうする」
「由紀には、それ相応のお仕置きをしてやる。今までもそうしてた通りにな」
そう言うと、舌先を由紀の耳に這わせた。由紀が恐怖に目を閉じる。君嶋の顔半分が覗いた。そこには、高校時代の親友の顔はなかった。
あいつは、君嶋なんかじゃない。俺から、由紀を、全てを奪おうとする略奪者だ。そう考えると、怒りが、ぐっと音を立てて膨らんだ。今だったら、君嶋を殺せるに違いない。俺は、いつでも踏み込めるように、腰を僅かに落とし、右ひざを曲げ、いつでも飛びかかれるような姿勢をとった。すると、次の瞬間、由紀が君嶋のナイフを持つ手の手首を両手で掴んだ。一瞬の出来事であった。君嶋は、その手を振りほどこうともみ合いになった。俺は、その瞬間を逃さず、溜め込んでいたばねを一気に開放し、君嶋の元に駆ける。もみ合ってる間に、都合よく君嶋の背中が俺の面前にさらされた。今なら、後ろから君嶋の後頭部に殴りかかるなり、首を押さえるなりいくらでも手がある。
君嶋の両肩を両手で掴んで、めいっぱい後方に引っ張った。君嶋は、もんどりをうってリビングに放りだされた。それを逃さず、君嶋に掴みかかると、格闘技でいうところのマットポジションの体勢になった。ナイフはどのタイミングか分からないが、すでに君嶋の手にはない。それを確認してから、俺は、めいっぱい君嶋の顔面を拳で強打した。一撃、鼻頭をしたたかに打ち付けると、少し遅れて両腕で顔をガードするようにした。
それを見て、とっさに、ぴったりと重なる両腕の僅かな隙間に指先をもぐりこませ、全体重をかけてそのガードを開き、首に手を巻きつけてめいっぱい締め上げた。初めは、激しく身体を振って俺を振りほどこうとしたり、逆に俺の首を絞めようと手を伸ばしたりしたが、明らかに体位において有利な俺は、それを許さずに首を絞め続けた。
徐々に、君嶋の身体から力が抜けていく。何度か痙攣すると、ついには、その場で伸びてしまった。
ころして、しまったのか? そんな不安が胸をよぎる。いや、今はそんなことじゃない、由紀の安否が気になる。
君嶋ともみ合っている間に、いつの間にか俺は、居間の中央のあたりに居た。
「由紀!」と声をかけると同時に、由紀が居るべきはずの、後ろ側に向き直った。
きっと、その時、俺は、由紀の安否を気にかけると同時に、君嶋を倒したことと由紀を守ったことの安心感から、僅かに笑みを浮かべていたのかもしれない。いや、そうだったはずだ。そして、そのまま、由紀を抱きしめて、泣きじゃくる由紀を胸に抱き寄せていたに違いない。しかし、その現実は、どこにも居なかった。
それとは異なる、別の、異世界か夢か、はたまた嘘の世界がそこで胡坐をかいていた。そ知らぬ顔で、無関心で、まるで、初めから決まった筋書き通りであったように、構成作家のように、当たり前な顔をして、居座っていた。
「――由紀?」
肩をゆすった。
「なぁ、おい、由紀?」
もう一度、ゆすった。
「へんじしてくれよ……」
白いワンピースの赤い染みは、左胸を中心に、それでもなお拡がっていった。
「へんじ、してくれよ……」
1-7
ベッドから飛び起きた俺は、抑え切れない吐き気からトイレに駆け込んでいた。
便座に顔を突っ伏すと、胃が激しく痙攣すると同時に「おぇ」というくぐもった声が漏れた。だが、胃が空っぽだった俺の口からはすぐに何かが吐き出されるということはなく、幾度か同じことを繰り返した後、便器内の水面に数滴の胃液こぼれ落ちただけであった。
それでも止まらない吐き気は、胃の内容物なんかではなくて、何かとんでもなく危険な毒物が体内に注ぎ込まれていて、それを体外へ排出しようとする肉体の拒絶反応に思えた。
やっとの思いで便所から出たが、姿勢を保つことすらままならないほど消耗していた。
白い壁に背中を預けると、まるで全力で走ったかのように呼吸が上がっていることに気付いた。
喉がチリチリと痛む。
水が飲みたくて仕方なかったが、このまま台所まで歩いて行く気力はなかった。
せめて、ソファで横になりたい。そう思うと、壁から背中を離し、なんとか数歩進んだ。しかし、最後の一歩で脚をもつれさせ、横向きに肩から床へ倒れ込んでしまった。
「くっそ!」
滑稽な自分に対する悔しさから、思わず叫んでいた。
その場で仰向けになると天井に目をやった。暗闇の中にあっては、白いはずの天井も薄暗い。無機質で、どこか重苦しい。だが、安心させる落ち着きもある。そう思っていると、どのような鎮静作用が働いたのか、少しずつ平静を取り戻していった。
一つ、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。そして、夢のことを思い出した。
「なんだよ、さっきの夢……」
目をつぶると、夢で起こったことがまるで現実で起こっていたことのように鮮明に思い出された。いや、それどころじゃない。実際に自分が当事者であったような感覚さえする。
由紀という女の顔を思い出した。澄んだ大きな瞳、白い肌、独特な雰囲気のある女だ。ふと、女の後ろ姿が脳裏をよぎった。背中まである黒い髪、そして簡単に壊れてしまいそうな華奢な体型、思い出していくと、抱きしめたい、守りたいという気持ちが突然沸き起こってきた。
なんで、俺は守れなかったんだ。俺が代わりになれなかったんだ、そんな後悔の言葉が脳裏をよぎる。
愛、恐怖、後悔、怒り、嫉妬、憎しみ、様々な感情が俺の中でうごめいているのが分かった。それは、とてつもないエネルギーを秘めていて、ちらりと覗いただけの自分でさえ、制御できるものであるはずがないことは容易に想像がついた。
女の表情が、まるでコマ送りのように変わっていった。少し上目遣いで微笑みを浮かべたかと思うと、大きい瞳いっぱいに今にもこぼれそうな涙を溜める。
もう、届かないところに居るんだな。心の中でつぶやくと、急に目頭が熱くなった。胸が締め付けられ、このまま止まってしまうんじゃないかと思った。こんなことは生まれて初めて経験する。極度の緊張、心臓がバクバクと高鳴る感じ、大学受験の結果発表の時の感覚に似ているかもしれない。しかし、それとは違う。どこか嬉しいような、そして懐かしいような感情も入り交じっている。
女を思い出せば出すほど、俺の胸はギリギリと音を立てて締め付けられていく。
今度はキミジマという男を思い出した。俺に向けた鬼の形相、どすの利いた声、存在そのものが悪を象徴しているかのような男だった。その男は、精神的に何かを逸脱しているように思えた。
その男に恐怖を感じると同時に、怒りがふつふつと込み上がってくるのが分かった。怒りといえば、ここ最近では小倉に対して強い怒りを覚えた。しかし、同じものとして考えるにはやや無理がある。今俺が抱えているものは、もっと生命活動の重要な部分に関わる怒りに思える。それに比べれば小倉に対する怒りなんていうものは、暇つぶしの延長線上にあるものにすぎないだろう。
怒りが、ある一定量を超える。頭が熱くなると同時に周囲の景色がどこか赤みを帯びているように見える。殺してやりたいという思いが胸をよぎった。今ここにキミジマが居れば、俺の体は、社会規範や道徳という『ルール』を無視して挑みかかるだろう。
これが殺意というものか。
「くそ、なんだよ、さっきから」
いつもの自分を取り戻そうと声を上げた。
気がつけば、冷静ないつもの自分も存在していた。少しだが冷静さを取り戻すと、俺は再び大きく息を吸った。
だいぶ落ち着いたが、そうなるまでに結構な時間が経過した気がする。何者かが、俺の心を浸食してしまったんじゃないだろうか。まるで、自分の中にもう一人の自分が居るような感覚だった。
なんとか自分を取り戻すと、這うようにしてソファに辿りつき、その座面に上半身をもたれかけた。全身の汗は引いたものの、寝巻き代わりのタンクトップは、雨にでも打たれたように濡れ、俺の体にひんやりとまとわり付いていた。
はっとして辺りを見回す。目に映る物と夢がリンクする。
家具こそ違うが、間取りがまるで一致するじゃないか。
あれは、この部屋で起こったのか……
背筋にぞくっとしたものが走る。
このソファの場所は、俺がキミジマとかいう奴の首を絞めた場所だった。
ふと、掌に生暖かくて柔らかいような奇妙な感触を覚えた。
人間の、肉の感触だ。
呼吸が徐々に上がってくる。さっき抑えたはずの怒りが、殺意が、そして恐怖が呼び覚まされていく。冷静になろうとするがどうしようもない。
「くっそ!」
こんなのナンセンスだ。たかが夢なんだ。その言葉を呪文のように反復すると、一刻も早く寝室に逃げ出したいという気持ちでいっぱいになった。
なんとかソファの上で上半身を起こすと、背もたれに手をついて体を起こした。その瞬間だった、見つめられているような嫌な感覚がしたのは。
さっきから、誰かが見ている。そう感じ、確信した。
女だ。何故か、分かる。
そしてそれは、玄関の方から来る。
見てはいけないという感覚が芽生えるほんの一瞬前に、俺の網膜は薄暗がりの玄関を映し出していた。
次の瞬間、俺の精神は錯乱しそうになった。そこに人間が居るわけないし、実際に見えてなどいない。分かりきっている。だが、俺の肌にまとわりついた恐怖感を押さえ込むことなど出来なかった。
寝室へ逃げ込むと、ドアを力一杯閉めた。そして、そのドアに背をもたれると、何かとてつもない恐怖が背中越しのドア一枚隔てた先でうごめいているように感じた。その途端、腰から首筋にかけて、悪寒が、まるで波のように走った。
感覚が過敏になっているのが分かる。今なら、空気の微かな動きにさえ反応できそうだった。
何やってんだよ俺は。あんなのただの夢だろ! いい歳してびくびくしやがって!
俺は、自分の頬を平手で打った。
「よく考えろ、これは、夢なんだ。これは夢なんだ……」
同じ言葉を呪文のようにつぶやくと、少しだけ恐怖感がひいたような気がする。
よくよく考えれば、ただの夢の出来事なんだ、と考えるように努めた。最後にはだいぶ気持ちが落ち着いていたが、そこから離れた途端に何者かがドアを蹴破って押し入ってくるような錯覚がして、なかなかそこから動き出せなかった。
なんとかベッドに向けて歩を進める。汗をたっぷりと吸ったタンクトップを脱ぎ捨て、そのまま毛布を頭から被り、ベッドの中で丸くなった。
目を覚ますと、激痛が頭の側頭部から走った。『ズキズキ』としたその痛みに耐えきれず、前のめりになって頭を両腕で抱えた。それは、耐えられるものなんかじゃなくて、今すぐにでも救急車を呼んでしまいたい程だったが、少しすると、まるで嘘だったかのように和らいでいった。
不意打ちでも喰らわないものかと、用心しながらゆっくり身を起こすと、小窓から差しこんでくる斜光に視界が奪われた。
「梅雨だってのに、なんて光だよ……たく、日曜日でほんと助かった」
その少し皮肉ったような言い方がいかにも普段の自分らしく思えて、妙に懐かしかった。
あくびを一つすると大きく一つ背伸びをした。
「さて、資料でも作ってるか」
そして俺はベッドから飛び起き、肩を回しながらキッチンへ向かうのだった。




