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7 真夜中の契約

 掛け時計の小窓が開き、羊を伴った少年が現れた。右手で持つ角笛を体を上下させて吹くと、羊飼いの動きに合わせて十二回、鐘の音が低く響いた。


 史緒の曾祖母が娘の為に祖国、独逸ドイツから持ってきた掛け時計だった。娘というのは祖母、柏崎男爵家の一人娘のことだ。


 鐘で目をさましやしないか、懸念したが、それは杞憂だった。解熱剤を飲んだ田中は、ついさっき寝付いたところで、しばらく目を覚ましそうにない。


 一息に水を飲み干したとき、胃を締め付けているコルセットに気付いた。



「いいや、着替えよう……」


 ドレスなんて窮屈で仕方ない。額の上のタオルを水で冷やして乗せ替えてから、書き物椅子から文字通り重い腰を上げる。


 とたんに足がもつれて、世界が回った。


「あっ」


 音を立てちゃ駄目だ、と咄嗟に腰から落ちないよう、足を折るように倒れる。その先には壁がある。

 ぶつかって痛くたっていい、病人が目を覚ますことよりは大したことじゃない。訪れる痛みを覚悟して目を瞑ったが、その支えとなるべき壁は、きしんだ音を立てた。


「やだ、私、そんなに太ってない──」


 言いかけて、気付く。それが壁とは違う感触でできていて、壁に細い割れ目があり、綺麗な垂直を描いて床に伸びていることに。


「扉、だ……」


 壁になっていると思っていた空間には、扉があった。取っ手があるべき部分に目をこらすと、四角い金属の板がはまっていた。押すと予想通りくるりと裏返って、小さな取っ手が現れる。掴んで回してみると、あっさりと回った。扉を押す。


 中は暗かった。扉から入り込む光を頼りに、扉の側の壁から電灯のスイッチを探り当てる。ぼんやりとしたオレンジ色の中に、景色が浮かび上がった。


 窓一つない三畳ほどの空間は、壁という壁が本棚と棚で埋められていた。


「そっか、部屋が廊下より小さいと思ったのは、こんな部屋があったからなんだ」


 不思議と、誰かが掃除していたように、埃は積もっていなかった。


 壁に据え付けられた、祖母の部屋の物よりも古そうなビューローは机の天板が下げられ、そこに何冊かの本が、誰かが読んだままのように散らばっている。その周囲には用途不明の、色とりどりの液体の入った瓶や水晶らしき玉が転がっている。


 本の側面から、あちこちに栞が飛び出している。題名に目を滑らせる。


 植物図鑑、薬草についての本、毒物についての本、それに。


「ま……魔術?」


 何の悪い冗談かと思って、周囲の本棚を見回すが、それらは伝承文学、民俗学や図鑑や、外国語の辞書、“いかがわしい”オカルトの本がぎっしりと詰まっていた。


 手に取った本の栞の場所を開いてみる。それは霊魂についての、つまりは自縛霊についての項目だった。まるで今の状況を言い当てているような偶然にぎくりとする。


「そうだ、こんなものが見られる前に、閉めないと。起きても困るし」


 扉に近寄ると、細く開けた扉の間から、ベッドがもぬけの殻なのが見えて、もう一度、ぎくりとする。


 そして足下にすり寄る小さな影に悲鳴をあげようとして、やっと飲み込んだ。


「なんだ、まるじゃない。何処にいたの」


 三毛猫がいつの間にか足下にちょこんと座っていた。


 しかしおかしい。さっきまでまるはいなかった。猫が隠れられそうな所なんてなかったし、ここの扉は閉まっていた。猫が扉を開け閉めしたりしない。疲れていて見落としたんだろうか。


 猫は黄金色がかった薄茶色の瞳で見上げ、にゃーと鳴く口で、その言葉を、日本語を喋った。


「あーあ、見つかっちゃいましたね」


「ひっ!?」


「いずれはこうなると思ってましたよ。桜子さんの言ったとおりでしたねぇ。でもまぁ、可能な限り遅い方が都合が良かったんですけどね」


 自分の頭がおかしくなったのか疑って、それから耳を疑ったが、猫の口は、確かに日本語を発していた。しかもその声は、聞いた覚えのある声だった。それもついさっきまでベッドで寝ていた男の。


「怯えないでくださいよ、と言っても確かに無理でしょうね」


 と猫は田中の声で喋り、それから急に床にぺたりとお腹をつけた。


「どうしたの」


 慌てて抱え上げると、酷い熱だった。田中と同程度に。だらんと長いしっぽが垂れ下がっている。


「ちょっと、寝てなきゃ駄目じゃないですか」


「うーん、流石に猫の姿でベッドに寝てて、人に見つかるのはまずいので。人間に化ける余力が残ってないんですよね、お恥ずかしい」


「つまり、あなたは──」


「有り体に言うと化け猫です。まるっていうのは昔人間に付けてもらった名前で、人間に化けた後は田中崇と名乗ってます」


 まるは、こともなげに言った。


「さて、ここで問題です。あなたの記憶に俺が出たのは何時でしょう」


 史緒はちょっと考えるが、確か物心付いた時にはもうまるは家の飼い猫だった。そして母に訊いたことがあるが、母も祖母が飼い始めたのがいつ頃なのか覚えていないという。


「十年二十年やそこらは目じゃないのよね」


「長く生きた猫は化け猫になるんですよ」


「化け猫が人間に化けるんですか?」


「狸や狐の専売特許の時代はもう古いですよ。江戸期には既に遊女に化けられるのも出ましたし。今や時代は文明開化・大正デモクラシー、進歩的で開明的でぐろーばるな国際社会へまっしぐらですよ?」


「何ですかその妙な英語は。いいやとりあえず、寝ててください」


 史緒はまるをとりあえず元のベッドに寝かせて、またタオルを猫サイズに小さく畳んで、耳の間に乗せてやった。


「じゃあ、あの部屋を掃除してたのはまる?」


「そうです」


「まるはいつからこの家にいるの?」


「桜子さんに助けてもらってからだから、多分五十年くらいですかね」


「さっきから言ってる桜子さん、って、桜子おばあちゃんのこと?」


「そうですよ。当時は色々悪さもしてたので、退治されそうなところを助けてもらったんです。それから桜子さんの魔女猫になったんですよ。あの人は使い魔に化け猫を選んだんです。今思い出しても不思議な人ですよ」


「ごめん、話自体が突拍子もないんだけど」


「いくら俺でもこれが普通なのはどうかと思いますから、突拍子がなくていいんですよ」


 平気でまるはそんなことを言う。でもこれで謎が解けたと史緒には合点がいった。何で下の名前や家の場所を知ってたのか。住んでるんだから当然だ。


「じゃあ、私が突拍子もないことを言っても平気?」


「どうぞ」


「そこの隠し部屋の本に栞が挟んであったのは、白木蓮に行って、新条さんに会ったから?」


「はい。正確にはあなたの通学を護衛するように、桜子さんから言われてまして、付いていったら見えました。こっちが驚いたのはあなたが普通に彼女と会話してることにですけどね」


 驚いた、と強調するようにまるはまばたきする。


「あなたに幽霊が見えたのにもですが、話すのは普通じゃないと思いましたね。しかも頼み事まで引き受けてしまって。普通は自分がおかしくなったと思って無視したり逃げたり、気のせいだと思って、後でなかったことにするものですが」


 うんうんと一人で頷いている。


「それも桜子さんの血のなせる技でしょうね。あの人はすごい魔女でしたから」


「話を元戻すと、その血のせいで新条さんが私には見えたのね」


「見えちゃった、とは言わないんですね、やっぱり」


 田中は、猫の口でくすくす笑う。人間の姿より表情が豊かだ。


「な、何よ」


「何でもないです。とにかく、もう彼女のことは忘れてください。普通に生きるつもりなら関わらない方がいいんです。霊だの魔女だの、そんなのに今まで興味なかったでしょう?」


 そうしたら佐和子はどうなってしまうのか。黙ってしまった史緒の顔が難しいのを察し、


「死んだらそこで終わりなのは、不公平ではありません。……とはいえ俺も彼女には倶楽部で世話になりましたし、あのままは流石に可哀想なので、どうにかできないか考えていました」


「自縛霊なんてよく分からないけど、新条さんの状態って具体的にはどうなの?」


「人は死ぬと入れ物である肉体が朽ち、その中の魂は天や冥界に行くという考えがあります。それが何らかの事情で行けなくなるのが自縛霊ですね。ここまでは分かりますか?」


「うん」


 神話や神道、仏教の思想でもあるから、ここまでは分かる。もっとも、頭では、だが。


「自縛霊にも種類がありまして、彼女は死んデレってヤツです。死んでからでれでれする──他人に無防備な状態ですね。女学生に多いんですが。あ、これは桜子さんの造語なので正式にどう言うかは知りませんけどね」


 まるは熱があるにもかかわらず、それを感じさせずに説明する。


「何故女学生に多いのか、あなたなら分かりますよね」


 史緒は大人しく頷く。嫌と言うほど分かっていた。女学生は、親の財力と理解があって初めて許される学園生活。だが、どうせ将来は良き家庭婦人になることを期待され、教育もそうなっている。だから逃避としてすばらしい思い出、永遠の女学校生活を自分たちで作り上げた。


「桜子さんは、童話とかけて灰被り姫(シンデレラ)と呼んでいました。彼女たちはいつも王子様を待っている。一番自分の素敵な姿を見せたいと。そして逆にありのままの自分を受け入れられたいとね。魔女はね、童話の通りに、その手伝いをすることができるんです」


「具体的にはどうするつもりだったの」


「俺は魔女じゃないので大したことができないんですよ」


 まるは目を閉じた。その声は少し歯切れが悪い。聞かせられない内容が含まれているだろうことは容易に想像できた。


「もし、魔女がいたら、彼女を助けることができるのね?」


「できますが、滅多にいません。ここ日本ですし。神主呼んでくると、俺も一緒に成敗される恐れがあるので個人的には嫌ですね」


 彼は化け猫だ。化け猫は害を為す。だから、本来は、いてはいけない生き物だった。


「たとえば、私が魔女になるなんてことは、できるの?」


 おそるおそる史緒が聞いてみると、


「それもできますが、超お勧めしません。非日常に足を踏み入れると、夜道でああいう危険に遭うんですよ。それに、どうも彼女の死には腑に落ちない点があります。近づかないことです」


 まるは非常に嫌そうに、閉じた目を細める。ああいうとは、馬車襲撃事件のことなんだろう。


「死と言えば、新条さんは最期に会った日と同じ着物だったわね。死んだときの格好のままだったら、手がかりになると思ったのに」


「そう上手くいかないんですよ。史緒さんがパジャマで死んで、それで人前に出られますか? お芝居で浦島太郎の背景の松とか、馬の下の人を演技しているときに急死してしまったら?」


「……嫌ですねそれ」


「そういうことです」


 分かったような分からないような説明をする。


「その人に相応しい格好になるわけですよ。っていっても善人が金ぴかで現れるようなのじゃなく、その人の日常でってことですが。これを俺は日常補正と呼んでます。もし桜子さんが生きていたら、綺麗なドレスを用意することだってできたんですがね」


 まるで灰被り姫の童話に出てくる魔女のように。


「桜子おばあちゃんは、どうして魔女になったのかな」


「お母様が魔女だったからだそうです。お母様の住んでいた村で魔女狩りがあって、混乱の中洋行されていたお父様に出会い、一緒に日本に来たそうですよ。桜子さんは自分のルーツをずっと気にされていて、魔女であることを肯定的に受け取り、小さい頃から学んだのです」


 史緒と祖母の思い出には、いつも微笑んでいる祖母がいた。西洋菓子を焼いてくれたり、庭でハーブを育ててお茶をいれてくれたり。さしこでクッションを作ってくれたりした。


「ええ。あの人は凄い魔女でした。本当の魔法が使えたんです」


「本当の魔法?」


「勿論、薬草を使ったり、占いをしたり。何もないところから火を出したり、空を飛んだり、そういう魔法も使えましたけどね。ただそのせいで、色々な厄介ごとに巻き込まれましたが」


 史緒は少しの間、考えて。そして言い切った。


「分かった、私──“魔女”になる」


「聞いてたんですか人の話。本当に意味分かってるんですか? 普通の人とは違うんですよ」


 そう、普通の人にはなれない。灰被り姫には絶対になれない。魔女は──灰被り姫の魔女は、王子様と結ばれることはない。


 それはでも、元からだ。女学校になじめない自分は深窓のご令嬢には絶対になれないし、多分、本心ではなりたくないとも思っている。


 何故なら、魔女や王子様が伸ばしてくれる手を待ってるだけなのは嫌なのだ。


 自分で何も決められない、できないなんて嫌だ。


「魔女になれば新条さんを助けられるんでしょう? それに今だって魔法なんて何にも分からないのにあんな目に遭ったんだもの、自衛手段が必要よ。しかも私が無関係になったところで、あなたはそのまま危ない目に遭い続けるのよね。第一、めんどくさいことは嫌いなの」


「めんどくさいって」


「飼い猫一人守れないふがいない飼い主にはなりたくない」


「俺は普通の猫じゃないですし?」


 二人はしばしにらみ合っていたが、先に折れたのはまるの方だった。耳をたれて深いため息を吐き出し、


「分かりました。じゃあまず、俺のご主人様になってください」


 史緒は一瞬の沈黙の後、


「嫌な言い方ね」


「いや、ご主人はご主人って決まってるんですけど」


「ロリコン逆メイドプレイしたがるような変態だと思わなかった。それとも何、最近流行の執事プレイ?」


「……なんですかその胡乱な単語は」


 開いた目に若干困惑の色を漂わせて、まるは呆れたように呟く。やはり人間らしい表情もできるらしい。猫の顔だけど。


「契約しといた方が色々便利なんですよ。精神的な繋がりができるんで、俺が猫語で話しても相互通話可能になります」


「どうやるの?」


「接吻です」


 見返したが、まるの目は本気だった。


「飼い猫と?」


「お望みなら人間の姿になりましょうか」


「いや、……いい。仕方ないわ」


 史緒は心を決め、まるに顔を近づけた。初接吻(ファーストキス)はカルピスの味がするとかいう、女学生のたわいのないうわさ話は、結局嘘だと判明した。


 そしてそのまま浪漫も何もなく、あくびをして──まるはベッドにうつぶせになって、眠ってしまった。史緒は、でこピンをしかけて、やっぱりやめた。

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