彼のにおいにつつまれて。
私はソファーに寝転びながら、じっと睨んでる。キッチンのテーブルにどっかりと乗っかって、こちらを向いているVAIOの文字を。
その向こう側には普段はかけない薄い眼鏡をかけている、恭平の姿がある。寝転んだ状態だと顔は見えないけれど、彼は真剣な表情でパソコンの画面とにらめっこしているはずよ。私が起き上がれば、その真剣な表情を観察できる。
でも、見ない。
だって悔しいじゃない。あの切れ長の目が、真剣な光を宿しているのを見ると、どきどきしてきちゃうんだもの。私を見てるわけじゃないのに。パソコンに嫉妬するなんて、馬鹿馬鹿しい。
だから、見ない。
聞こえてくる音は、カタカタと文字を打つ音とパソコンの起動音。そして、換気扇が回る音。
恭平も私も、大学生。
恭平が今、必死になっているのは明日提出のレポート。私は取っていない科目だから、みてもわからないし、ましてや教えることなんて、出来ない。
いつもなら、必殺技『コピーアンドペースト』を使っているところだけれど、今回はそれが出来ないみたい。曰く、全員違う課題を出されたらしい。教授もよくやるよね。人数分レポート読むのも重労働のはずなのに。
「ねえ、かまってよ」
そう言えば、この状況は変わるだろうか。変わるかな。……絶対変わる。もちろん、嫌な方向に。私だって、レポート中に邪魔されたら怒るからね。
恭平は、明日提出のレポート。いつ終わるのかさえわからない。いつもなら邪魔しちゃ悪いと思って帰るんだけど、今日は別。そばに居たかったの。
だから、こうして静かに終わるのを待っている。
カチン、と聞こえたのは、恭平のジッポの蓋が開く音。
BLACK DEVILーブラックデビルー恭平愛用の、タバコの名前。タバコにしては甘ったるいにおいがする。
換気扇が回っているのは、タバコの煙にむせちゃう私がいるから。さりげない気遣いに少しだけ、嬉しくなってにやけてる。ああ単純な私。
そういえば、私が好きになる男の人って、みんなそれぞれきれいな指をしている。
恭平だって、細くてきれいな長い指だ。タバコに絡む指に見惚れて、目で追ってみたりして。でもやっぱり、ここからじゃあ見えない。
ここから見えるのは、テーブル、パソコン、恭平の足。パソコンからあがってるように見える、タバコの煙。レポートが終わるまでは、間違っても恭平の顔は見ちゃいけない。きっと彼の邪魔をしてしまうから。……かまってほしくなってしまうから。
いけないいけない。ちょっとだけ、きゅんときてしまったわ。他のこと、考えよう。
恭平が言うには、タバコは一分ちょっとで一本終わってしまうらしい。私はタバコというものを毛嫌いしていて、一度も吸った(飲んだって言う?)ことがないから、その時間が長いのか短いのかはわからない。そもそもどうしてタバコを毛嫌いしはじめたんだっけ? 小学生の頃だったかな……
そんなことを思いながら、ゆらゆらと、換気扇に飲まれてゆく煙を見つめていた。
いつの間にか眠っていたみたい。髪をすかれている感覚が、気持ちよくてすり寄った。いつから頭を撫でてくれていたんだろう。恭平が少し、笑った。
「お前、ほんと猫みたいだな」
恭平は、ソファーによりかかってあぐらをかいていた。少し低めのソファーだから、彼の腰の高さほど。私が起き上がったら、ソファーに座る私のほうが頭一個分高い位置にきた。この位置から恭平を見下ろすのって、なんだか新鮮だ。私はいつも、これくらいの位置から見下ろされているんだ。
「終わった?」
外はもう暗い。あれから2、3時間くらい経ったのか。
「おう。こんなもん、ヨユーだし」
恭平が言いながら体をこちら側に向ける。同時に、私は恭平の首に腕を絡め、髪に顔をうずめて目を閉じた。甘ったるいタバコのにおいと、彼の香水のにおいが混ざったにおい。私が好きな、恭平のにおいだ。
恭平のにおいと、ぬくもりを感じて、人恋しかった私の心は一気に満たされる。どうしてこんなに温かくなるんだろう、不思議。
恭平が私の背中に手を回して、ぽんぽんとたたきながら、
「なんか、あった?」
って聞いたけど、
「恭平のにおいって、落ち着く」
私は心からそういった。
的外れな答えではあるけれど、こうしていると癒されている気がして、ほかのことは、もうどうでも良くなってしまうんだ。
どれだけそうしてただろう。長かったような気もするし、短かかったような気もする。絡めていた腕を緩めると、恭平の輪郭が視界に入る。
「癒された?」
いつも私が言う言葉。今日は恭平に先取りされた。それがちょっとくやしくって。ちょっとだけ、頬を膨らませた。
「まだ足りない」
突然恭平が、ソファーにすわったままだった私を引きずりおろして、膝の間に抱きこんだ。引きずりおろされた私は、びっくりしてどきどきしてる。どきどきする理由はそれだけじゃあないんだけど。目を閉じて、肩に頭を預ける。
……暖かい。背中に回された腕も、頭を撫でてくれる手も。彼のにおいに包まれて、今日初めて私は心の底から安心した気がしたんだ。
「どう? 足りる?」
耳元で恭平がいう……わかってるくせに。
でも声がひどく優しく響いたから、今日はもっとよくばってしまおう。
「ね、キスして」
視線が絡んだのはほんの一瞬。恭平のきれいな指が、私の顎をすくう。
あなたのすべてが私を癒す、薬なの。