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最終話です。

 村のただなかを、夏美は必死で走った。

 止まることはできなかった。

 背後を振り返ることすらできずにいた。追ってくる百合江を目にしてしまったら、自分がどうにかなってしまいそうだった。

 中心部からだいぶ離れ、雑木林が目立つ斜面にたどり着いた頃、夏美はようやく背後を振り返った。

 荒い呼吸を繰り返しながら、百合江のいた家を探す。

 村は闇の中に沈んでいた。ひっそりと、変わらず穏やかな風景が広がっている。夏美が目にしたものはまるで夢だったかのような、そんな錯覚すら覚える。

 百合江の姿も、追ってくる様子もない。

 少し落ち着いてきて、夏美は首の汗を拭う。

 すると、百合江の家の玄関口にぽつりと人影が出てきた。

 夏美は慌てて近くの茂みに体を隠し、息をひそめた。呑気に見つめている場合ではないことはよくわかっていたが、確認せずに走るのも怖かった。

 人影はあまり急ぐ様子もなく、ふらふらと頼りない風情で通りを歩いてくる。その細いシルエットからはよくわからないが、おそらく百合江だろう。

 やがて、近くの民家の明かりが付いた。その玄関口に人影が現れる。そうこうしているうちに、遠くの家までぽつぽつと明かりがつき始めた。まるで呼びかけているかのように、次々と通りに人影が現れる。

けれど夏美の耳に届くのは静寂ばかり。風の音と葉擦れの音。

 息を押し殺して夏美が見守る前で、人影はぞろぞろと通りを歩いてくる。こんなに大勢の人間が住んでいたのかと驚くほどの人数だ。彼らは皆、一様に無言だった。ただ黙々と歩いている。

 夏美の後を追うように。

 背筋に悪感が走った。

 震える手足を叱咤して、夏美はそろそろと茂みの中を移動した。

 大きな音を立てるのは怖かった。もし見つかったらと思うと、恐怖で発狂しそうだった。

 夏美は人々の影を横目に、道なき道を移動する。

 月光にうっすらと浮かぶ夏草。かさかさと騒ぐそれにいちいち怯えながら、雑木林を奥へ奥へと進む。

 どこをどう進んでいるのか、方向感覚はなくなっていた。ただあの人影から逃れたい。その一心だった。

 周囲を見渡すと、上方に薄く白い線が見えた。ガードレールだと思い至る。それならばトンネルがある。そこから町に戻れる。

 白いガードレールの線を目指して、夏美は茂みを急いだ。枝葉が顔に当たるのも構わず、茂みを掻きわけて進む。

 茂みを抜け、斜面を這うように登って、アスファルトの道路に出た。

 人工のその路面に、訳もなく安堵した。

 やっとの思いで道路に踏み出し、夏美はぎくりと足をとめた。

 闇の中にぽつんと浮かぶ人影。

 真っ白なTシャツが、目を引く。

 月光に照らされて、足元に長い影が伸びていた。

「どうしたの?」

「……聡さん」

 肩で息をしながら、そう呟くのがやっと。

「すごい汗だ。顔色もよくないし……こんな夜中に一体どうしたんだよ。とりあえず戻ろう」

 駆け寄ってきた聡は、言って心配そうに覗きこんできた。普段と変わらないその様子に、僅かに夏美は安堵する。

「あ……私」

 どこから説明をすべきか迷った。

 中庭の血まみれの少女。

 百合江の白い顔。赤い唇。

 思い出して、恐怖が蘇る。

「いや!」

 伸ばされた聡の手を咄嗟に振り払って、夏美は後退った。

 聡が驚きに目を瞠る。

「夏美さん?」

「私……私、帰らなきゃ」

 目の前の聡は、夏美の目にも普段と変わりなく映った。恐ろしげな様子も、不安を掻きたてられる要素もない。ただ、突然の夏美の反応に驚いている、そんな風に見えた。

「帰る? そうは言ってもなぁ……こんな夜中にバスは通らないし」

「歩いて帰る……そこ、どいて」

 聡の背後にはトンネルがある。

 夏美がここに来るときに、バスで通過したトンネルだ。そのトンネルを抜けて歩き続ければ、町にたどり着くはずだ。

 けれど、夏美には聡を避けてそのトンネルを目指す勇気はなかった。

 別段、聡がトンネルの入口に門番のごとく構えているわけではない。聡はただ、夏美の向かい側にいる。それがたまたまトンネル側だったというだけに過ぎない。

「聡さん、お願い、どいて」

 手足が無意識に震える。その震えの意味も、胸に渦巻く不安の意味もよくわからない。

 夏美の懇願に、聡は困惑気味に首を傾げた。

「どくのはいいけれど……歩いて帰るなんて危険だ。夜中だよ、何があったの?」

 心配そうに尋ねるそれに、答えようと口を開きかけて、夏美ははたと気付く。

「聡さんこそ。どうしてここに」

 彼の言うような夜中に、一体何をしているのか。

 寝静まった家を夏美は飛び出してきた。当然、聡はまだ家の中にいるはずだった。それが夏美よりも先にこの場にいる。

「何をしていたの」

 尋ねる声が震えている。

 聡は答えない。黙って、夏美の真意を計るように見つめている。

 永遠にも感じられる沈黙のあと、聡が溜息とともに呟いた。

「夏美さんを止めにきたんだよ」

 じゃり、と小石を踏んで、聡が夏美に近寄る。

 夏美は気圧されるように一歩下がった。

「本当に、帰るつもりなの?」

 夏美は頷く。

 帰りたかった。一刻も早く、ここから逃げたかった。

「戻るの? あそこに、居場所があるの?」

 鼓動が跳ねる。

 居場所。

 耳に電話越しの母の声が蘇る。

 『結婚するから』

「もう彼女はしあわせなんだよ、夏美さんなしでも」

 その通りかもしれない。

 母は、幸せになれる。

 夏美のために犠牲にした時間を、これから埋め合わせていく。ならばその人生に、自分が現れることは既に邪魔でしかないのではないだろうか。

 電話が来てからずっと、密かに繰り返してきた問答。

 母の結婚相手の前に自分が現れることは、母にとってマイナスでしかないのではないか。もう何年と顔をあわせていない娘。今頃、会う理由はどこにあるのか。

 お前さえと疎む母の声が耳に蘇り、夏美は体を震わせる。母の夜叉の表情が、網膜に焼き付いて離れない。

「辛いことが待ってる。今までも、そうだっただろう」

 小石を踏んで、聡が近づく。

 その両目を呆然と見つめて、夏美は立ち尽くす。

「いままで……」

「恋人は親友の元に。何年も会っていない母親と、顔も思い出せない父親。その母親も結婚する」

 君は、ひとりだ。

 そっと聡が囁いた。

 すうっと血の気が引いていく。

 誰も自分にはいない。

 ただひとり。

 ならば自分はどこに帰るのだろう。

 ぐらぐらと足元が揺れる。

 恐怖と不安で、夏美は余裕をなくしていた。

 でなければ、話したことのない夏美の事情をすらすらと口にする聡に、疑念を抱いた筈だ。怪訝に思い、警戒しただろう。けれど、このときの夏美にはそれに気付くだけの余裕がなかった。

 突きつけられた現実に、ただひたすらに怯えていたのだ。

「ここにいよう、夏美さん」

 間近で聡が言う。優しく、穏やかに。

「俺と一緒に帰ろう。大丈夫だよ、ここなら辛いことも怖いものも、何ひとつない。寂しい思いなんてさせないよ」

 差し出された優しい手に、縋りつきたい衝動に駆られる。

 このまま聡と帰れば、色々な苦しみから解放される気がした。

 そうだ。帰ろう。

 夏美はよく回らない思考で繰り返す。

 帰ろう。きっと怖いものは何もない。帰るんだ、あの場所に。

 聡の吸いこまれそうな双眸を見つめたまま、夏美は無意識に手を伸ばす。

 ちりり。

 不意に、微かな鈴の音がした。

 くぐもった、鈴の音。

 冷たい風が夏美の頬を撫で、視界が開けた。

 手を伸ばしかけた不自然な体制で、夏美は動きを止める。

 違う。

 これは、違う。

 ここは、おかしい。

「夏美さん……」

 我に返って、呼びかける聡を見る。

 歪んでいる、と感じた。

 見た目が、ではない。その姿は普段どおりの聡であり、どこにもおかしな点は見受けられない。けれど、夏美の感覚が違和感を訴えていた。

 感覚で夏美は理解する。

 ここにはいられない。

「だめ……」

 首を振る。

 聡が訝しげに夏美を見た。

「やっぱり駄目、ここにはいられない」

「どうして」

「だって……」

 ここは何かがおかしい。

 歪んだ、閉じられた世界。

「そこにいるの?」

 突然、闇の中に第三者の声が響いた。細く、語尾が僅かに反響している。

 夏美は体を強張らせ、声の方向に視線を転じた。斜面の下方から複数の人の気配がする。あの声は、百合江のものだ。

 途端に記憶が蘇り、全身に震えが走った。

 鮮やかな赤。鮮血に染まる制服。赤い唇。

 真紅の、凄惨な光景。

「いや……!」

 捕まる、という恐怖で、夏美の思考は埋め尽くされる。

 聡の存在など忘れて、トンネルの方向へ駆け出した。

 その先が安全な保証などどこにもなかったが、何より百合江が怖くてたまらなかった。

 その肩を聡が掴んだ。

 はっと振り仰ぐと、真剣な眼差しとぶつかる。

「だめだ」

「放して!」

 下から声が上がってくる。百合江が、くる。

 聡から視線を外して、斜面を見つめる。木々や草の黒々としたシルエットが揺れる。人の気配がすぐそこに感じられる。

「怖い!お願い放して!」

「駄目だ……」

 消え入りそうな弱い声とは対照的に、肩を掴む力は強い。締め付けられる激痛に夏美は一層もがいて、再び聡を見上げ、

 息を呑んだ。

 闇。

 聡の目の中に、光がなかった。

 月光を鈍く反射する、闇そのものの眼。

 井戸の底を覗きこんでいるような、暗い眼窩うろ

「行かないで……」

 かさかさに乾いた声が唇から漏れる。風の音のような、囁き。

 紙のように白い顔からは表情と言う表情がすべて抜け落ちていた。

 まるで、離れで見た少女のように。

 背筋を冷たいものが這いあがった。

 生きていない。

 胸に落ちた自分の呟きに、慄然とする。

 そうだ、生きていない。

 これは、生き物じゃない。

「いや!」

 渾身の力で振り払った。

 弾みでポケットからストラップが飛び出し、地面に転がる。

 

 ちりん。


 潰れたはずの鈴が、涼やかな音を立てた。

 聡が数歩、後ろによろめく。

 顔を覆い、急な眩暈にでも襲われたようなその頼りない姿に、夏美は冷静さを取り戻した。

「……あ」

 胸に罪悪感がこみ上げてきて、夏美は棒立ちになる。

 背中を向けて走り出せば、トンネルはすぐそこだ。

 姿はまだ見えないが、前方からは百合江や、村人たちが迫っている。

 ありありと思い出される、離れでの光景。

 怖くてたまらなかった。恐怖で手足の震えがとまらない。

 聡もまた、何かがおかしい。

 聡の様子にそれを確信した。だがそれでも踏み出せずにいた。

 心のどこかで、聡は違うのだと、あれは見間違いだと信じたい気持ちがあった。

「そうか……帰りたいんだね」

 聡は片手で顔を覆ったまま、ぽつりと呟いた。

「ご、ごめんなさい、怪我は」

「怪我なんかしないよ」

 自嘲気味に笑って、聡は顔を上げた。

 その両目には、穏やかな光がある。

 内心、再びあの闇の色を見出したら、と戦慄していた夏美はほっと安堵の息を付く。きっとあれは何かの見間違いだったのだ。否、そうであってほしい。

「俺は……俺たちは、怪我なんてしないんだよ……もう」

 聡は奇妙な言い回しをして、背後を一瞥する。

「居場所がないまま生きていくことは辛いよ。

 戻ったらまた走りださなきゃいけない。辛くても悲しくても、立ち止まることはできない……その覚悟はある?」

「覚悟……」

 夏美はぼんやりと繰り返す。聡の言っていることは、夏美には半分も理解できなかった。ただ聡が真剣に話していることだけはわかる。

「そう、覚悟。戻るなら、また同じ……いやそれ以上の辛い現実が待っている。逃げないでいられる覚悟はあるかい?」

 辛い現実。

 その言葉に幾つかの映像が閃いた。確かに、戻れば辛い現実が待っている。居場所が曖昧なまま、傷口を癒す暇もないだろう。

 そう考えると気分が塞いだ。けれど、帰りたいと思う気持ちは変わらない。どれだけ辛くてもきつくても、帰りたかった。母に逢いたいと思った。

 夏美が戸惑いながらも頷くと、聡は寂しげに笑った。

「そうか……じゃあ仕方ないね」

 背を屈めて、聡は地面に転がったストラップを拾った。潰れた鈴が、ちり、とくぐもった音を立てる。

「俺たちはね、走ることをやめたんだ。ここにいることを決めた。でも、間違いだったのかもしれない。留まっていると苦しくてたまらないんだ。……寂しさに耐えられなくなる」

「聡さん」

「これ、手作りだね」

 ストラップを夏美の前に差し出した。

 それをそっと受け取って、夏美は頷く。

「そう……母さんの」

「……そうか」

 言って、聡は静かに笑った。今まで夏美に向けられた笑顔の、どんな時よりも優しい笑みだった。

「大丈夫、居場所はあるよ」

 ストラップを握り締めた夏美の手を指差し、そしてトンネルの向こうを指差した。

 居場所。

 手の中で、ストラップがほんのり暖かい。

 母は、自分を待っていてくれるだろうか。

「君の居場所はちゃんとある……鈴が鳴ったんだから」

「え?」

 聡の言葉に思わず夏美は目を瞠る。しかし聡はそれに微笑で応えて、トンネルの先に視線を向けた。

「トンネルを抜けるまで、振り返ったら駄目だ。まっすぐただ前だけを見て」

「聡さん」

 何を言おうとしているのかわからないまま、口を開く。

 聡は、わかっている、というように頷いて、笑った。

「夏美さんと逢えて楽しかった。でも、もう二度とここに来ないで。……さよなら、夏美さん」

 夏美の肩を軽く押して、聡は手を振る。

 夏美は首だけでそんな聡を見つめた。

 早く帰りたいと逸る心とは裏腹に、後ろ髪をひかれる思いがする。

 ゆっくりとトンネルの入口に踏み出した。

 トンネルの中は薄暗い。等間隔で、ぼんやりとしたオレンジ色の明かりがあるだけだ。

 足を進めると、背中に幾つもの視線を感じた。重く、息苦しい視線。羨むように呪うように、夏美に絡み付いてくる。

 後ろを見ろ。振り向け。ここに戻れ。

 暴力的なまでに強く訴える視線を、懸命に無視する。気を抜けば、恐怖心ごと囚われてしまいそうだ。 夏美は必死に重い足を動かして進んだ。トンネルを進むにつれ、絡み付く視線の圧力は弱まっていくようだった。

 そして、静かな視線に気付いた。何も訴えてはこない、静かで穏やかな視線。

 訳もなく、聡だと思った。

 目頭が熱くなった。何故だか無性に悲しかった。

 優しい視線が、悲しくてたまらなかった。

 聡は夏美の背中を見送っている。きっと、穏やかな微笑を浮かべたまま。寂しさに耐えられなくなる、と零した聡の表情が、脳裏に蘇る。諦めたような悲しげな顔。

 聡の言葉を思い出すたび、姿を思い出すたび、涙が溢れた。

 怖くてたまらなかったはずなのに、気付けばそれ以上の悲しみで胸がいっぱいだった。

 前方に白い明かりが見えた。

 トンネルの出口だ。

 近づくとそれは大きく、明かりは強くなる。眩しくて、眼を開けていられないほどの強烈な光。出口に立つ頃には、前方は白い光で埋め尽くされていた。

 外へと足を踏み出したとき、微かに名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 耐え切れずに振り返った。その声はきっと、聡だと感じたから。

 真っ白に漂白される世界。白く視界が弾ける一瞬、闇の向こうで小さく手を振る姿が見えた。




 花束を抱えて、夏美は車を待っていた。

 携帯電話を見て時刻を確認する。

 そろそろ来るころだ、と思う。

 夏美が生まれ育った町の中心。待ち合わせ場所として名高いブロンズ像の前で、夏美は母を待っていた。

 季節は秋から冬に移り変わろうとしている。髪を弄る風は冷たく、足元を枯れた葉がひらひらと転がり過ぎていく。上着の前を掻き合わせ、夏美は携帯電話に再び視線を落とす。

 揺れるストラップ。鈴が潰れた、ビーズ製のそれを眺め、夏美は記憶をたどる。

 トンネルを抜けた後、気付いたら夏美は病院のベッドの上にいた。

 母の心配そうな顔を見出し、酷く驚いたことを覚えている。母は警察から連絡があって飛んできたと言った。

 夏美は事故にあったのだと聞かされた。実家に向かう途中、乗り合わせたバスが追突事故にあったのだと。夏美はその事故で意識不明となり、三日間生死の境を彷徨っていたらしい。

 とてもではないが、俄かには信じられなかった。

 トンネルから出た後か、とも思ったがそれでは母の言うこととつじつまが合わない。そして何より、あの家に置いてきたはずの鞄が夏美のベッドの脇に置いてあった。事故の名残か、あちこち破損した状態で。

 夢をみたのだろう、と母は言った。

 夏美自身、そうとしか思えなかった。意識不明の間に、つかの間見た悪夢。そう考えた方がうまく説明がつく。

 けれど退院してから数日後、夏美はふと気付いた。

 鞄に付けていたストラップが失われていた。慌てて探したが見つからない。もしやと思い、事故当時着ていたジャケットのポケットを探った。

 そこには、破損した状態のストラップがあった。

 「夢」と同じように、鈴の潰れたストラップ。

 夢じゃない。

 あれは、きっと現実だ。

 記憶がまざまざとよみがえる。恐怖と悲しみと、せつなさ。

 夏美は再び実家に戻ることにした。土日の休みを利用して、寄り道せずにまっすぐ母のいる町に向かった。あらかじめ母に連絡を入れると、車で迎えに来てくれるという。

 夏美は迷った末に花束を買った。

 言い忘れた言葉を、言うために。

 クラクションが鳴った。

 夏美ははっと我に返る。顔を上げると、見慣れない白い車があった。一瞬勘違いかと思ったが、助手席に母の姿がある。夏美を見て、微笑んでいる。運転席には見知らぬ男性。おそらく、彼が母の結婚相手だろう。

 携帯電話をぎゅっと握る。ストラップの鈴が、くぐもった音を立てた。

 「お前さえ」と呟いた母の顔が脳裏をよぎる。母は、今も自分を疎ましく思っているだろうか。真実を尋ねるのは酷く恐ろしく感じられる。それでも、夏美は決めていた。母にとっての自分の存在。それをもう一度、きちんと確かめようと。

 自分がもう一度、生まれ直すために。

 もう一度、この世界で生きていくために。

 『居場所はあるよ』

 耳の奥で聡の言葉が蘇る。

 そうだね。

 声に出さず、呟いた。

 例えこの先何が待ち受けていても、夏美にとっての居場所はここにある。

 母の笑顔が、目にしみて痛い。

 今なら心から言える。

 花束を抱え直して、夏美は車へと駆け寄った。

 

「お母さん、おめでとう」




長々とお付き合いありがとうございました。ちょっぴり涼しくなって頂けたら嬉しいです。まだそんなに暑い時期ではありませんがw

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