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 ごめんね、夏美。

 泣いているのは、親友だ。長い睫に、涙が朝露のように溜まっている。

 黙って、手元の珈琲カップを見つめた。茶色の鏡に映るのは、表情のない、女の顔。

 こんなつもりじゃなかったの。

 目の前で、親友は懸命に舌を動かしている。大きな瞳からぼろぼろと涙を零しながら。

 どうして泣くの。

 声に出さず、思う。

 泣きたいのは、私の方。

 責めるのも、嘆くのも、私のはずじゃないの。

 けれど、珈琲カップから見つめ返してくる女からは何の動揺も見られない。

 泣き出したくて、喚きたくてたまらないのに。

 あの人は私のものだと高らかに宣戦布告をしたいのに。

 ごめんな、夏美。

 親友の背後に男性が現れる。

 見知った姿に、目頭が熱い。

 涙が溢れそうになるのを、我慢した。

 何もかもを投げ出して彼の袖に縋りたい。

 愛してくれと、恥も外聞もなく叫びたい。

 それはまるで、哀れな母の姿そのもののようで。男に縋って、愛を求める、あの時の恐ろしい夜叉そのもののようで。

 わたしは、違う。

 わたしは違うの。

 気がつくと、男性の姿は消えていた。少し離れたところに、親友がぽつんと立っている。こちらに背を向けたままで、何やらぼそぼそと呟いていた。

 私が憎いでしょう?

 私がねたましいでしょう?

 胸の中がざわりと波立った。暗い感情が、体の奥からせり上がってくる。

 思わず手を伸ばして、親友の肩を掴んだ。

 強く引いたわけでもないのに、親友はくるりと振り向く。その手を、待っていたように。

 死ねばいいと、思うでしょう?

 真っ赤な唇が、そう紡いだ。

 その虚ろな両目からは、赤い涙。

 親友の胸が真っ赤に染まっている。

 私を殺すのね。

 鮮血と共に吐き出された言葉。

 落とした視線の先、両手が赤い。右手が握り締めているのはナイフ。鋭利な、その切っ先は赤く濡れていた。


 …ちりん。


 鈴の音を聞いた気がして、夏美は目を開けた。

 動悸が激しい。全身がどくどくと脈打っている。

「…?」

 自分が何をしていたか、どこにいるのか、一瞬分からなくなる。

 周囲の暗闇を見回して、布団の感触にふっと力が抜けた。

 夢を見ていたのだと気付く。

 ここには親友はいない。夏美の手も、赤く濡れてなどいない。

 あれは、寝苦しさが見せた悪夢だったのだ。

 昨夜の記憶が蘇る。

 百合江と別れて、入浴の前にと一旦部屋へ引き上げたこと。携帯電話をいじりながら、どうやらいつの間にか眠ってしまったこと。

 畳まれたままの布団に、昼間外出した時の格好のまま、不自然な体勢で眠ってしまった。

 それは悪夢もみるだろう。

 苦笑して、夏美は重い体を起こす。汗ばんだ首筋に、髪が張り付いている。

 鞄を引き寄せてタオルを取り出した。首筋を拭いながら、ふと、静寂に支配された闇の中で微かな気配を感じる。

 不思議に思って耳をそばだてると、人の声のような、葉擦れのような、ざわついた気配がある。

 立ち上がって廊下を覗き込んだ。闇に沈んだ廊下には、人の気配はない。

 ならばどこ、と廊下に取り付けられた窓から中庭を見下ろす。

 幸い、今夜は月が明るい。

 雲があるのか時折薄く翳りはするが、それでも月明かりで庭の様子はよく見える。

 木々や茂みに混ざって、華奢な人影が見えた。白っぽい服はどこかの制服のようだ。長い髪を垂らした、恐らくは学生と思われる少女。

 百合江の言葉が蘇る。

 『離れに、親戚の子を預かっている』

 見れば確かに、少女は離れに近い位置に佇んでいた。

 あんなところで何をしているんだろう、と思う。

 しかもこんな時間だ。

 いくら真夏で寝苦しい暑さとはいえ、涼みに出るにはあまりにも不自然に思えた。不気味なものを感じて、夏美は見なかったことにしようと結論付ける。

 だが部屋に戻ると、やはり気になってきた。

 学生で、預けられた理由ありの少女。

 もし、この後あの少女が行方不明にでもなってしまったら? 果たして自分は後悔しないだろうか。せめて一言、声をかけておくんだったと。或いは百合江に知らせておけばよかったと。

 畳に座りこんだまま暫く考えて、腹を括る。

 やはり、大人としてはこのまま見過ごすのは良くない。一言声をかけて、部屋に戻る素振りがなければ百合江に知らせるとしよう。

 決心して立ち上がる。立ち上がりしなに、膝が鞄に当たった。

 ちりん、と鈴の音が響いて、はっとする。

 脳裏に先ほどの悪夢が蘇る。同時に、響いた鈴の音。

 ストラップを持っていこうと思った。

 何故そう思ったのかはわからない。何の脈絡も確たる理由もなく、そうしなければいけない気がしたのだ。夏美自身、その不自然な思考を少しも疑わなかった。

 ストラップを手早く鞄から取り外すと、そのままジャケットのポケットに突っ込んだ。鈴はポケットの中でちりちり、と潰れた音を奏でる。そういえば壊れてしまっていたのだと思い出し、夏美は首を傾げた。

 けれど確かに、先ほどは鳴っていたのだ。その前もきちんと鳴っていた気がしたのに。ちょっとした金具の具合かしら、とあまり気にせず、夏美は廊下に出た。

 暗い階段をそろそろと下りる。ぐっすり眠っているであろう、百合江と聡を起こしたくはなかった。

 一階は闇に沈んでいた。

 物音ひとつしない所をみると、百合江も聡も寝入っているようだ。

 夏美はそっと廊下を移動し、中庭に通じる廊下に出る。

 ガラス越しに見遣ると、少女はまだ佇んだままだった。何をする風でもなく、ぼんやりと庭木を見ている。白地に濃い色のセーラーの襟。同色のプリーツスカートを、夜風にひらひらと揺らしている。

「あの……」

 ガラス戸を開けて、縁側から外へと踏み出しながら、夏美はそっと声をかけた。

 少女は振り向きもしない。

 寝静まった夜とはいえ、夏美の場所からは少し距離がある。聞こえなかったのだろうと踏んで、夏美は縁側に揃えてあったサンダルをひっかけた。

 湿った土を踏みながら、極力刺激しないよう近づく。

「ねえ、何してるの?」

 近寄り、尋ねるが反応はない。

「夜は冷えるよ。風邪ひく前に中に入ろう?」

 肩に何かかけてあげればよかったろうか、とちらりと考えて、すぐに打ち消した。こちらに背を向けたその様子が、先ほどの悪夢と重なり、少女に触れるのが躊躇われたのだ。

「部屋に戻った方がいいよ」

 夏美に背を向けたままの少女が、その言葉に少し反応を見せた。

「戻る……」

 鸚鵡返しに、細い声が繰り返した。

「え、ええそうよ。部屋に戻った方が」

 緩慢な仕草で少女が振り向く。

 心臓が跳ねる。

 その双眸は虚ろだった。

 長い髪が、幼い顔に張り付いている。顔には血の気がなく、その白い肌は瞳の無表情さと相まって、まるで人形のよう。

 色のない唇が、ぽつりと呟く。

「戻りたい」

 声はひび割れて夏美の耳に届いた。

「戻りたい、疲れたの……」

 たどたどしい言葉。

 わけもなく不安に駆られて、夏美は慌てて唇を動かす。

「そうね、早く部屋に戻った方がいいわ」

 さあ、と離れを指差すと、少女の虚ろな視線がその先を追った。一応、こちらの言葉は届いているらしい。

 それに安堵しつつ、夏美は更に少女を促した。

「疲れて……疲れて、わたし」

 けれどその場を動くことなく、少女はぼそぼそと呟いている。それは夏美に語りかけているというよりは、独り言めいていた。

 よく見ると、白地の制服に茶色のシミがある。

 液体が飛び散ったような小さなシミ。それが服のそこかしこにあるのが夜目にもわかった。

 何のシミだろう、と疑問に思うより先に、夏美の脳裏に『血痕』という単語が浮かんだ。

 慌てて夏美は己の想像を否定する。嫌な想像だ。先ほどの悪夢の名残だろう。何かの染料をこぼしただけかもしれないのに。

 そう考えつつも、少女の体をまじまじと見る。先ほどまでは気付かなかったセーラーの襟に、プリーツの裾に、同じようなシミがある。その範囲は広く、しかも僅かに色みを帯びて見えた。

 月明かりに照らされ、青ざめた色。けれどそれは確かに赤い色をしていた。

 まだ、乾ききらないその色。

 息を詰めて、夏美は硬直する。

 少女の服には、血が付着している。

 悪夢が頭を掠めた。叫びたい衝動と、恐慌に陥りそうな心を必死に宥めて、夏美は口を開く。

「……怪我してるの?」

 自分でも驚くほど、静かな声が出た。

 よくみれば、制服のあちこちに血が滲んでいる。けれど、目だった傷口がない。きっと、指先か腕か、庭木にでもひっかけたのかもしれない。

 そう自分を納得させて、夏美は少女をくまなく観察した。

 その合間も、少女は何やら呟いていた。その内容は、およそ夏美の問いに対するものではない。どこか常軌を逸した響きを帯びた、独り言だ。

「わたし、切ったの……でも、苦しさはなくならなくて」

 手当てをして、早く百合江に知らせよう。

 先ほどの悪夢も手伝って、夏美には少女が薄気味悪くて仕方なかった。少し神経質、ということは聞いていたが、血を流したまま独り言を言い続けている相手にどう対処しようもない。

「切ったの? どこ?」

 だから、少女が漏らした傷口に関係しそうな単語に、夏美は問いを重ねた。まともな返答を期待せずに。

「楽になりたくて、切ったの……ここを」

 茫洋とした口調で少女が呟く。

 ぼたり、と赤い色彩が夏美の目の前に散った。

 闇の中に咲く、真紅の彩り。

 こちらを仰ぐ少女。

 その喉元が真っ赤だ。

 鮮烈な、赤。

 目の前の光景がうまく処理できなくて、夏美はただ硬直したまま立ち竦む。瞬きも忘れて、夏美は少女に釘付けになっていた。

 先ほどまで白い肌を晒していた喉元が、赤い色で染まっている。滑らかだったそこに一筋の深い傷が、ぱくりと口をあけていた、

 夏美の背筋を冷たい汗が流れる。

 口の中がからからに乾いて声が出ない。

 止血をせねば、と夏美の理性が訴える。このままでは命の危険がある。止血をして、救急車を呼ばねば。否その前に百合江に。

 そう訴えかける理性とは裏腹に、夏美は指一本動かせずにいた。

 少女は笑っている。

 喉元から鮮血を滴らせ、笑っている。

 人形めいた血の気のない青白い顔に、薄い笑みを貼り付けて。

 鮮血の溢れる傷を押さえることすらせず、少しも痛みを感じさせない表情で佇んでいる。虚ろな双眸に、怯えた表情の女が映りこんでいた。あれは、夏美の顔だ。

 これは、一体なに。

 かちかちという音が、己の歯の根が合わない音なのだと、気付く。

 帰らなきゃ。

 胸の中に湧き上がったのは、そんな思い。

「夏美さん?」

 不意に、背後から声がした。

 硬直した首を無理やり動かし、振り向く。

 そこには綺麗に髪を結い上げた、浴衣姿の百合江が佇んでいる。

「……百合江さん!」

 助かった、とばかりに夏美は声を上げた。

「百合江さん、救急車を!」

 逃げ出したい衝動と必死に戦いながら、辛うじて残った理性が夏美にそう叫ばせた。恐怖で震える体を抑えて、夏美は百合江に縋らんばかりの勢いで言う。

 けれど、百合江は困ったように表情を曇らせる。

「こちらの離れはご遠慮してくださるよう、お願いした筈ですけれど……」

 百合江はほっそりした頬に手をあて、少し首を傾げた。

「百合江さん! 怪我をしてるの、早く!」

 そんな問答をしている場合ではないのに、と夏美は非難の声を上げる。

「彼女は少し心を病んでしまって、他人との交流が得意ではないの」

 あまりにも冷静なその姿。まるで、慌てる夏美こそどうかしていると言わんばかりの、その態度。

「だから可哀想に……自分で来てしまったのよ」

 夏美の前にいる少女に気付いていないはずはない。この距離と月明かりだ。少女が血を流している事に、気付かないとは思えなかった。

 それなのに、どうして冷静なのか。

 或いは、自分こそが錯覚をしているのか。

 混乱して、夏美は己の感覚を疑う。しかしそれを確かめたくはなかった。少女を顧みて、あの薄い笑みを見出したくはなかった。

「私たちはね、夏美さん。彼女を助けるためにここに連れてきたんです。ここに迷い込んだ彼女を、もっと自由にしてあげるために。でも駄目ね……若すぎて、捕らわれ過ぎてしまっている」

 百合江の言っていることは少しも理解できなかった。

 けれど、体が勝手に反応する。本能に近い部分で、強烈に拒絶している自分がいた。

「百合江、さん」

 がくがくと揺れる膝を滑稽に感じながら、夏美は百合江を見つめた。

「夏美さん、必要ないんですよ」

 百合江は優しく微笑む。月光に晒された白い肌、くっきりとした目鼻立ち。

 綺麗だった。この世のものとは思えない程に。

「救急車なんてものは、もう(・・)要らないんです」

 背筋が凍った。

「大丈夫、さぁ、こちらへ」

 差し出された、百合江の手。

 細くて綺麗な指。

 月光に照らされた白い、白すぎる、手。

 百合江は笑っている。

 紅を履かない唇が、不思議と赤い。

 まるで、血のように。

「いや!」

 百合江の手を振り払い、夏美は駆け出す。

 大きく百合江を避けて、中庭からまろび出る。一瞬振り返ると、庭に佇む二人が見えた。

 百合江は完全に表情を失して、夏美を見つめていた。その向こうに佇む少女は首から下を赤く染めて、薄く笑みを浮かべている。

 戦慄する。

 おかしい。

 何もかもが、おかしい。

 夏美は足をもつれさせながら、必死に走る。

 逃げなければ。

 一刻も早く、ここから逃げなくては。

 その思いに突き動かされて、夏美は走った。

 玄関を抜けて、外へ。



 夜空にはぼんやりとした月がひとつ。




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