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 誰かが泣いていた。

 真っ暗な闇の中、細い人影がしゃがみこんでいる。

 質素な身なり。ひとつにまとめた髪はばらばらにほつれ、華奢な肩に落ちかかる。

 あれは、母だ。

 また、殴られたの。

 その言葉に、母は曖昧に笑う。

 いい人なのよ。

 それが母の口癖。自分に言い聞かせているような、その言葉。

 本当にいい人は殴らないのよ。

 喉元まででかかった言葉を、胸の中に仕舞いこむ。きっと母もわかっているはずだ。

 いい人なの、本当に。

 幾度となく、母は繰り返す。

 ある男には殴られて。

 またある男には金をつぎ込んで。

 いい人だったのよ。

 騙されて、傷ついて、捨てられて。

 それでも母は「いい人だった」と振り返る。

 母さんさえいればいい。

 何度も伝えた言葉。

 父親なんていらないから、二人で生きて行こう。

 けれど本当に必要としていたのは、母の方で。支えとなる男性の影を追っていたのは、子供の為ではなく。

 お前さえ。

 華奢な背中が振り返る。その顔に浮かぶのは夜叉。母親はどこにもいない。醜く引き歪んだ、女の顔だ。

 お前さえ……

 絞り出すように囁かれた言葉。

 その先は、耳に届かなかった。我に返ったのかもしれないし、言わなくてもわかると思ったのかもしれない。

 悲しい、とは思わなかった。ただ息苦しかった。

 目の前の夜叉を憐れんだ。

 女としての幸せを渇望した、母が哀れだった。

 ごめんなさい。

 あなたの幸せを壊して、ごめんなさい。


 私は要らない子なのに。




 ぼろぼろ泣きながら、目が覚めた。

 涙と、首筋に流れる汗をタオルで拭い、布団から這い出した。暑い。

 携帯の表示を見ると、六時を少し回っていた。窓の外はすでに明るくなっていたが、さすがに日差しはまだのようだった。ガラス越しに、蝉の控えめな声が聞こえる。

 全身から水分が抜けたような気がして、溜息をつく。疲労でぐったりと重い体を起こし、畳の上に座り込んだ。

「ごめんなさい、か」

 随分殊勝なことをと夏美は笑う。

 母親に向けて言ったことはないが、内心ずっと思っていたのだろう。母のあの言葉を聞いたときから、常に思い続けていたに違いない。

 耳の奥で蘇る、母の声。

 「お前さえ」と母は言った。

 まだ母親と暮らしていた頃だ。高校に入学して間もない頃、夏美の家は経済的に逼迫していた。

 その頃は既に父親はおらず、母は夏美を女手ひとつで育てていた。

 父との離婚は、暴力が原因だったと聞いた。暴力に耐えていた頃の母は随分とやせ細っていたと、後々祖母が話していた。子供にもよくないからと、夏美が物心つく前に離婚させたのだと。

 それからの十数年、母は父からの養育費と、自らのアルバイトのかけもちで学費と生活費を稼いでいた。そんな日々だったから、母の心はギリギリだったのだろう。

 ある日、些細な口論の最中、母はぽろりと零した。

 「お前さえ」と。

 何と続けようとしたかはわからない。けれどそれだけで夏美は全てを理解した。

 母は心のどこかで夏美を疎んじている。理由は関係ない。疎ましく思っている、その事実が夏美の心に突き刺さった。

 それから夏美は母と距離をとるようになった。非行に走るようなことはなかったが、家を出たいと強く思うようになった。

 高校を卒業して、逃げるように飛び出した。

 少ない荷物をまとめて、素っ気無く母に別れの挨拶をした。

 また帰ってくるから。

 帰る気なんてさらさらなかったけれど。

 玄関先で見送る、華奢な姿。化粧っけのない顔には複雑な表情が浮かんでいた。どう表現していいか、悩んで悩んで…表情の選択をできなかったような、そんな奇妙な表情。

 今思えば、母の気持ちも理解できた。

 若くしてシングルマザーの道を選んだのだ。誰よりも強く、母親であろうと努力していたのだろう。

 けれどなりきれなかった。

 母親である前に一人の女でもあったから。女としての幸せを得たいと願ったことは、責められない。

 母は自分の心の支えになってくれる、或いは自分を守ってくれる男性を追い求めて次々と恋をした。

 そんな母の元に現れる「恋人」は、どの男も夏美の目には「最低」に映った。

 暴力、酒乱、ヒモ。

 幾度痛い目をみても、母は「夫」を探していた。娘の「父」ではなく自分の「夫」となる男性を。

 だから、母の結婚話を聞いても驚きは少なかった。一人で生きていくことが出来ない母だから、こんな日がくるのも自然な成り行きだと思った。本当ならもっと早くてもおかしくなかったのだ。夏美という、子供さえいなければ。

 『結婚するから』

 久しぶりに聞いた母の声が脳裏に蘇る。

 記憶の中のそれより、幾分元気そうだった。今度の相手は結婚するに足る人物なのだろう。

 きっと母はしあわせなのだ。

 畳の上に投げ出された携帯を取る。着信履歴には母の電話番号。

 結局「おめでとう」と言いそびれた。

 圏外の電波表示を恨めしく思いながら、どこか安堵している自分がいる。

 おめでとう。

 たったそれだけの言葉を、言うのが難しい。

「帰らなきゃ」

 溜息をひとつついて、携帯を鞄に放り込んだ。

 衣装掛けにかけた服を取って、身支度を始める。

 今日はバスを拾って、今度こそ寝過ごさないように目的地で降りねばならない。その前に百合江と聡にちゃんと挨拶を済ませてから、と夏美は今後の行動について考えを巡らせる。

 一通り支度を終えて、ひとまず夏美は廊下に出た。

 二階には夏美の他に部屋を使用している人はいないようだった。どの部屋にも人気はなく、物音ひとつしない。足の下で軋む板の音が、周囲にひどく響いて感じられた。

 まだ寝ているだろうか、と思いつつ階段を下りる。

 ガラス越しの中庭に、見覚えのある後ろ姿があった。白地のTシャツ。大きく描かれた英字のロゴが、汗でべったりと背中に張り付いていた。首にかけたタオルでしきりと汗を拭いながら、庭の木々に水を撒いている。

「ええと…聡、さん?」

 ガラス戸を開けて、おずおずと話しかけた。

 名前を呼ぶことには抵抗があったが、わざわざ名前で呼ぶよう言われているのに名字で呼ぶのも…それはそれで躊躇われる。

「あ、夏美さん」

 ぱっと振り向いた彼は、随分あっさりとそう返す。

 その呼びかけに無理や照れは一切感じられなかった。ごく自然な態度に、夏美は少し面食らう。

「起きたんだ。どう? よく眠れた?」

 にこにこと愛想良く聡は尋ねてくる。

「……あ、ええ。良く眠れた、方です」

 実際は悪夢に魘されてよく眠れなかったのだが、そんな告白をして相手に余計な心配をかける必要もない。

「朝早いんですね。日課ですか?」

「そんなとこ。中庭は俺の担当らしいから」

「担当?」

「この時期は結構客が多くてね、だから役割分担ってとこかな」

 夏美は軽く首を傾げた。民宿はもうやめたのだと言っていなかっただろうか?

「あ、客って親戚のことね」

 こちらの疑問に気付いたらしい聡が補足する。

「夏休みだからね。あちこちから帰ってくるんだ。まぁ山間だから避暑地のつもりなんじゃないかな」

 おかげでガキどもが煩くて、と言いながらも、その表情はまんざらでもなさそうだ。賑やかなことは嫌いではないらしい。

「そうなんですか。じゃあ、忙しい時にお邪魔しちゃったんですね」

「気にしないでいいよ。まだ皆到着してないから、余裕」

 言われて見れば、子供たちの声がするわけでも、慌ただしい人の気配がするわけでもない。まだ夏休みも序盤ということもあって、到着が遅れているのだろう。

「ね、夏美さん、時間ある?」

「え?」

「折角だから村を案内するよ。といっても田舎だけど、景色だけは抜群なんだ」

 夏美は躊躇う。

 8時を過ぎれば、すぐにもバス停に向かおうと思っていた。昨日の記憶では一日に2、3本しかバスがなかったはずだ。最初のバスは逃したとしても、その次のバスまで逃すわけにはいかない。

 その逡巡を見取った聡が、重ねて言う。

「バスなら、午後3時過ぎに最終があるけど」

 暫く考えて、夏美は軽く頷いた。

「……じゃあ、ちょっとだけ」




 鞄から携帯だけを取り出し、夏美は部屋を後にした。ジャケットのポケットに携帯を押し込みながら、階段を下りる。

 ふと、浮かれている自分に気付いた。

 地元の人の案内で、見知らぬ土地を散策する。観光のガイドブックにありがちな、そんな他愛もないことが何故か妙に浮き立つ。

 嫌だな、と夏美はひとり呟く。

 けれど胸の内にあるのは嫌悪ではない。ふわふわと浮き立つ気持ち。淡く甘いその感覚は、夏美にも覚えのあるものだ。嫌悪とは対極の位置にあるその感情だからこそ「嫌」だと思った。

 辛い記憶が脳裏を掠める。

 恋愛なんてもう十分だと思う。思い出すことすら辛い、散々な記憶。暫くは要らない、そう思っていた。

 確かに、聡は気になる存在であった。初めて出会ったときから、その穏やかな物腰に惹かれていなかったと言えば嘘になる。

 けれどここは見知らぬ土地で。夏美はただの旅行者にすぎない。何より、出会ったばかりの相手を簡単に信じられるはずもない。

 悪い人間ではなかった。だが、それは今までの話だ。彼の本質がどこにあるかなど、出会って間もない夏美に知る術はない。

 だから、深入りは禁物だと言い聞かせていたのだが。

「景色がキレイなところがあるんだ」

 そう誘われて、乗ってしまう自分がいる。

 ばかだな、と夏美は自嘲気味に笑った。

 信じていい相手かもわからないのに。

 理性が諦めたように忠告を寄越す。簡単に心を許してはいけない、と。

 それでも夏美にはわかっていた。いくら頭でわかっていても、止められないものはある。危険かもしれないと思っていても、どうしても手を伸ばしたくなる瞬間があるのだ。

 階段を下りて顔を上げると、玄関先に白いTシャツが見えた。

 心がふわりと揺れる。

「すみません、お待たせしました」

 近寄って声をかけると、振り向いた相手が笑って首を振った。

「じゃあ行こうか」

 穏やかな、優しい笑み。訳もなく夏美は安堵する。

 彼のこの表情は、好きだと思う。ささくれて刺々しくなっていた自分の感覚が、正常に戻る気がする。

 聡の家を後にし、並んで歩く。

 目の前には田舎としか表現しようのない、田園風景が広がっている。

 青々とした稲の海。

 その間を涼しい風が吹きぬけていく。夏が、さわさわと囁いて夏美の頬を撫でていく。

「おうい、聡」

 遠くからそう、声をかけられた。

 聡は特別歩みを止めるわけでもなく、声のした方向を見遣って軽く手を上げた。

「どこへ行くんだね」

 青々とした稲の向こうから、麦藁帽子が揺れている。顔は良く見えないが、あちらからは丸見えのようだ。

「山だよ、あの見晴らしの岩。案内しようと思ってさ」

「おお、そりゃいい。気を付けるんだよ」

 相手は朗らかに笑って、稲の向こうから手を振る。

 それに手を振り返して、聡は足を進めた。

「見晴らしの岩って?」

 暫くして、夏美は隣を歩く聡に尋ねる。

「あの山の中腹にあるんだ。大きな岩でさ、そこに立つとこの辺り一帯が見渡せる。大丈夫、ここからそんなに遠くないし、険しくもないから」

 聡が指差す先には、何の変哲もない山が聳えている。

 夏美が見る限り、それらしい岩もないように見えるが、地元の人間がそういうのだから間違いなくあるのだろう。

 聡の提案で、村の中心を流れる川に沿って歩く事にした。

 次第に幅を狭くし、表情をころころ変える川の様子に、夏美は目を奪われる。都会で育った夏美にとって、それはどれも新鮮で初めてみるものばかりだった。

 水辺に群生する、丈長い草。葦、という名だと聡から聞いた。生い茂る草花が水辺に垂れ、まるで短冊のように水面をひらひらと揺れている。陽光は水面で美しく乱反射し、浅瀬に金色の網目を描いていく。その下を幾つもの小魚の影が揺れ、水底の小石に影絵を作った。

 見つめている夏美の前で、何かがぴしゃりと跳ねた。

 驚いて思わず声を上げると、前を行く聡が振り返る。

「どうかした?」

「今、何か跳ねた……大きいのが」

 やや興奮気味な夏美を、聡は面白そうにみつめて、

「ああ、鯉じゃないかな。よく釣れるよ」

 笑いながらそう答える。

「鯉? 聡さん、釣りを?」

「俺じゃなくてガキ共だよ。保護者代わりに引っ張り出されて困りものでね」

「可愛がっているんですね」

「まさか。仕方なしだよ」

 言いながらも、苦笑いする表情は優しい。きっといい兄貴分なのだろう。その光景が目に浮かぶようで、夏美は微笑ましい気持ちになる。

「さぁついた」

 話しているうちに、目的地にたどり着いたらしい。

 なるほど、目の前には巨大な岩がある。黒っぽい岩肌は苔むし、大部分を蔦や下草に覆われて、一見するとただの茂みのようにもみえる。

「ここが、見晴らしの岩……」

 見上げていると、聡がひょいと岩によじのぼった。

「夏美さんも」

 ほら、と手を差し出されて、夏美はおずおずと手を伸ばす。

「ありがとうございます」

 礼を述べると、聡はにこりと微笑んだ。

 助けられてやっとの思いでのぼった岩の上は、想像以上に視界が広かった。

 周囲の木々が岩より少し上くらいの高さまでしか伸びておらず、そこに立つことで周囲より頭ひとつ分ほど飛び出す形になるのだ。遠目でみれば、ちょうど木々の緑の海からぽかりと顔を出しように見えるだろう。

 頭上に広がるのは、高く青い空。

 深い山々にかかる白い雲は幻想的に美しく、その下方に見える村とあいまって、一幅の絵のように見える。まるで古い昔話にでてきそうな、そんな懐かしい風景。

「わぁ…すごい」

 思わず感嘆の声を上げると、聡は得意げに胸をそらす。

「きれいだろ」

「すごく綺麗。昔話の世界みたい」

「ああ、田舎だからね」

「あ、悪い意味じゃなくて……」

 慌てて言葉を継ぐ夏美に、聡は笑いながら首を振る。

「わかってるよ。俺も最初は思ったんだ。現実とは思えないくらいキレイで田舎だなって」

 その言葉に安堵しつつも少しひっかかって、夏美は首を傾げた。

「最初?」

「あ、ああ、ここに最初に登った時。それより、どう? 気に入ってくれた?」

 慌てた様子が気になったが、大したことないと言い聞かせ、夏美は頷く。

「いい所ですね。こんなことならカメラを持ってくるんだったなあ」

「じゃあさ、いっそ移住しておいでよ」

 軽い口調で聡が言う。

「そうですね。でも、そんなことしたら通勤が大変」

 冗談と受け取って、夏美も軽い口調で返した。

「ああ、それじゃあ無理だな。でも来てくれたら嬉しいのに。……夏美さんが近くにいてくれたら、毎日楽しいだろうな」

 ふと、その眼差しに真剣なものを感じて、思わずどきりとする。

「……そう、ですね。きっと楽しいでしょうね」

 曖昧に返すのが精一杯だった。心臓がうるさく騒いでいる。覚えのある甘い感覚に、ふと酔いそうになる。

 過剰な期待をしてはいけないとわかってはいたが、反応してしまうのは夏美自身どうにも止めようがない。高鳴る鼓動に、頬がうっすら熱くなる。紅潮した顔を見られたくなくて視線を外すと、ポケットから飛び出した携帯のストラップが目に入った。

 そうだ、時間。

 現実に引き戻される。余韻に浸っていたいが、そうも言っていられない。夏美は帰らねばならないのだ。

 表示を見ると、バスの時間が迫ってきている。

「聡さん、その」

 折角の楽しい雰囲気を壊すことは躊躇われた。もっとこの時間を、と願う気持ちもある。しかし、このバスで戻らねばタクシーを呼ぶ羽目になってしまう。運賃の額を想像するとさすがにそれは避けたかった。

「そっか……」

 聡はそう言って岩から降りる。その笑顔が少し残念そうに見えるのは、夏美の気のせいだけではないようだった。

 聡に再び手を借りて、夏美も岩から降りる。

 触れた手のひらが、少し冷たい。

 川沿いに並んで戻りながら、夏美はなんとも言えない寂しさを感じていた。昨日出会ったばかりの相手。ただ一晩屋根を借りただけの、知人とも呼べない間柄だ。

 それなのに、夏美の中には親しみが生まれていた。まるで長年の親友のような。幼馴染のような。

 もしくは、恋心のような。

 だめ。

 夏美は首を振る。

 だめだ、こんなこといけない。

 数年前の出来事が脳裏をよぎる。

 社会人になったばかりの頃、夏美も人並みに恋をした。相手は会社の同僚。仕事ができて優しい人だった。初めての恋に、有頂天だったことを覚えている。

 けれど、結局彼は夏美の元を去り、別の女性と結婚した。

 夏美の、親友だった女性と。

 苦い記憶。

 もう恋愛は懲り懲りだと思った。あんな思いはもう沢山だと。傷が完全に癒えるまでは、恋はしないと決めていた。

 だから、万一、聡にそのつもりがあったとしても、夏美には応えることはできない。まして、聡は昨日出会ったばかりの相手。結論を出すには性急に過ぎる。

 そんなことを考えている自分が、ふと恥ずかしくなった。

 聡は何も言っていない。あくまでも自分の勝手な想像だ。聡には聡の事情があるだろう、恋人だっているかもしれない。ただ冗談を言っただけかもしれないのに。

 なんてばかな。

 自覚すると余計に恥ずかしくなり、足元に視線を落とした。

 丈長い雑草をかき分けて進む。草を踏む音。靴の下で折れる茎、朽ちた葉の音が、やけに耳につく。行きは物珍しさと話に夢中で気にならなかったのだろう。そう考えて、夏美は先ほどから無言のままだということに気付いた。

 夏美に歩調を合わせてくれている聡は、それに気付いているのかいないのか、表情に僅かな緊張を滲ませて足を進めている。

「どうしても……」

 暫く歩いて、ぽつりと聡が呟いた。

「どうしても、今日帰らなきゃダメかな」

「え……」

 思わず足が止まる。

 帰らなきゃいけない。それは当然のことなのに迷う。ぐらぐらと揺れてしまう。

「あと一日ここにいなよ。見て欲しいところがまだあるし……うちにもう一泊すればいい」

「でもそれじゃ迷惑が」

「大丈夫だよ、どうせ部屋は余ってるんだ。母さんだって賑やかな方が喜ぶ」

 どうかな、と促されて、夏美の気持ちは揺れた。

 帰りたい気持ちはある。見知らぬ土地で、成り行き任せになっている現状は不安だった。いわばこの状況は事故と同じなのだ。予定外のことが連続して、実家に連絡すらしていない。

 だがそれ以上に、もう少しここにと思う気持ちが強い。これまで訪れたどこよりも、居心地がよかった。

 そう思ってしまうと、気持ちは急速に傾いていく。

 元々旅行も兼ねて休暇を取っている。急いで帰る用事もなく、急いで家に帰りたい理由があるわけでもない。

 気付けば懸命に理由を考えている自分がいる。ここに残る理由。少しでも長く留まる理由。

「……なら、あと一日だけ」

 思わず口をついて出た言葉。

 聡がぱっと顔を輝かせる。その表情を見ただけで、夏美の不安は掻き消えた。自分の判断は正しいのだと、意味もなく信じることが出来た。

 聡と並んで川辺を歩きながら、夏美は胸の中で繰り返した。

 あと一日、あと一日だけだから。



 聡の言葉どおり、百合江はとても喜んだ。

「まぁよかった。お隣から山菜をたくさん頂いたのよ」

 今夜も奮発しなきゃ、といそいそと台所に消える姿からは、迷惑がっている様子はみられなかった。

 夏美は聡と顔を見合わせ、そっと微笑み合った。

 そうして食卓に並べられた料理は、山菜をふんだんに使った郷土料理風のもの。

 煮物にてんぷら、おひたし、お吸い物。

 どれも素朴な味ながら、美味しかった。

「何なら、このままずっといてくれてもいいんですよ、ねぇ聡」

 夕飯の後、さりげなく投げられた爆弾に、思わず夏美はお茶を吹きそうになった。

「ばか言うなよ」

 同じくお茶を吹きそうになったらしい聡が、力いっぱい反論する。

 夏美は内心その通りだと思いつつも、力いっぱいの否定をされたら…それはそれで微妙な気持ちになった。

「まったく、夏美さんの迷惑も考えなよ」

 呆れた口調で言う聡に、百合江は笑って、

「あら、聡ったら『夏美さん』って。幼馴染も名前で呼べない癖に……ちゃっかりしてること」

 意味ありげに含み笑いをする。

 その言葉に、夏美は驚きを隠せない。

 今朝のやり取りが脳裏に蘇る。随分あっさりと夏美の名を呼んだ。その様子にてっきりそういうことに慣れているものかと思っていたのだが。

 意外な気持ちで聡を見遣ると、目が合った途端に聡はぱっと視線を外した。その頬がうっすらと赤く見えるのは気のせいではないだろう。

「うるさいな、関係ないだろ。……俺、先に寝るから」

 一方的に会話を打ち切って、聡は席を立つ。

 どたどたと騒々しい足音を立てて、聡は部屋を後にした。

「ごめんなさいね、うるさい子で」

 その足音が遠ざかり、百合江が笑いながら夏美に言った。

「いえ」

 苦笑しつつ返す。仲の良い親子だな、と思う。

「でもね、夏美さん。勿論半分は冗談だけど、半分は本気なんですよ」

「え」

「あの子には、父親がいないことで随分苦労させてきました。母さん一人で十分、と言ってはくれますが…本心では父親を求めてることも、『ちゃんとした』家族を求めていることもわかっています」

 どきりとした。

 夏美にもそれは覚えのある感覚だったから。

 父親はいなくてもいい。そう母親に言い続けていた。それは偽らざる夏美の本心だったが、父親がいてくれれば、と思ったことも一度や二度ではなかった。

 母には決して気付かれてはいけない。父がいないことが悲しいなどとは、決して悟られてはいけない。

 だが、母はやはり気付いていたのだろうか。

 目の前の百合江が、母親の面影と重なる。

「だからあの子が、早く『家族』が欲しいというなら、望むようにしてあげたい。聡がこの人と決めた相手なら、どんな相手であれ」

 遠くを見る目で百合江は呟いて、思い出したように急須を取った。

「でもね、母親の希望としては夏美さんみたいなしっかりしたお嬢さんがいいんですけどねぇ。恋人がおいででないなら候補に入れてあげてくださいな」

 茶化して笑い、百合江は立ち上がる。

「そうそうお茶菓子にって、お饅頭頂いたんですよ。お茶、淹れなおしましょうね」

「あ、お構いなく」

 慌てて夏美は申し出るが、百合江はさっさと台所へと消えて行った。衣擦れの音が遠ざかる。

 一人残された夏美は、考えるともなしに考える。

 母もこうして、娘のことを考えたのだろうか。夏美が何を思い悩んでいるのか、胸を痛めてくれたのだろうか。

 百合江の、優しげな瞳が蘇る。

 そうであったら。そうと知ることが出来たら。

 お前さえ、と恨むような掠れ声が、耳の奥に残っている。

 ふと、母に逢いたくなった。

 この四年、一度として恋しく思ったことはなかった。母が結婚するなどと言い出さねば、戻るのは何年先になるかわからなかっただろう。

 ぎくしゃくとした関係に疲れていたし、ろくでもない男に泣かされてばかりの母にうんざりもしていた。

 だが、意地があったのも確かだ。一人でも生きていけると、母とは違うのだと、頑なに思っていた。

 その気持ちは今も変わらない。

 母に逢えばぎくしゃくもするし、疲労もするだろう。

 ただ、母の声が懐かしかった。

 恨み節さえも聞きたいと思った。

 胸をえぐる言葉を投げられても、それでも母の本音を聞きたいと思った。

 父のこと、母のこと。

 そして結婚相手のこと。

「帰らなきゃ…」

 湯飲みを握り締めたまま、夏美は窓の外を見る。

 外には夜の闇が迫っていた。

 明日こそは、戻ろう。




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