婚約破棄? そんなことより上腕二頭筋を追い込みたいので、浮気相手共々バーベルになってもらえますか?
シャンデリアの豪奢な光が、磨き抜かれた大理石の床に幾重もの影を落としていた。
王立学園の卒業パーティー。着飾った若き貴族たちがグラスを片手に語らい、未来への希望に胸を膨らませるはずの晴れ舞台である。しかし、広間の空気は氷点下まで凍りついていた。楽団の優雅な調べは途絶え、数百の視線が壇上の一点へと突き刺さっている。
「ヴィオレッタ・オルディス! 貴様のような醜悪で冷酷な悪女との婚約など、もはや一分一秒たりとも耐えられん! 今この場を以て、貴様との婚約を破棄し、王立学園からの即時追放を命じる!」
壇上の中央、第一王子フィリップ・フォン・ルクスリアが、腹の底から絞り出したような大音量で叫んだ。金糸の刺繍が施された豪奢な礼装に身を包み、勝ち誇った笑みを口元に歪めている。
彼の腕の中には、今にも倒れそうなほど儚げに震える少女がいた。男爵令嬢ルイーズ。淡い桃色の巻き髪を揺らし、濡れた瞳で私を見つめながら、フィリップの胸元へ縋りついている。
「まあ、フィリップ殿下……私のような者のために、ヴィオレッタ様をそこまで責めないでくださいまし。恐ろしいですわ。あの冷たい目で睨まれるだけで、階段から突き落とされた時の痛みが、足首の疼きが蘇ってまいりますの……!」
ルイーズは両手で顔を覆い、か細い声で啜り泣いた。その仕草のなんと計算し尽くされたことか。周囲に侍る令嬢たちからは、わざとらしい同情のため息と、私への鋭い侮蔑が混じった囁き声が漏れ聞こえてくる。
「なんて惨たらしいことを……」
「いくら公爵家の令嬢だからといって、身分の低い男爵令嬢を階段から突き落とすなんて」
「ええ、フィリップ殿下のお心を奪われたからと嫉妬に狂って……。あんな氷のような女、妃の器ではありませんわ」
冷ややかな嘲笑と蔑視の視線が、針の山のように私の全身へと降り注いでいた。貴族社会において、この状況は破滅を意味する。名誉は地に堕ち、家名は泥に塗れ、社交界からの永久追放は免れない。本来ならば、青ざめて膝を折り、無実を訴えて涙を流すか、怒りに我を忘れて取り乱す場面なのだろう。
だが、私の頭の中にあったのは、世間体でも、裏切られた悲しみでもなかった。
(……長いですわね)
私は扇を胸元で静かに折りたたみ、無表情を維持したまま、そっと天井の大時計を仰ぎ見た。
針は無情にも午後八時四十分を指していた。予定されていた卒業パーティーの閉会時刻から、すでに十五分が経過している。本来ならば、私は八時三十分には馬車に乗り込み、オルディス公爵邸の地下トレーニングルームへと直行しているはずだった。
今夜のメニューは、週に一度の『腕と肩の集中破壊デイ』。高重量バーベルカールからのインクラインダンベルカール、仕上げのショルダープレスとライイングトライセプスエクステンション。筋肉の限界を越えて乳酸を充填し、筋繊維を微細に破壊した直後に、三十秒以内のプロテイン補給を行う完璧なスケジュールが組まれていたのだ。
それが、どうだろう。この男のくだらない寸劇のせいで、私の筋肉は冷え切ろうとしている。
(血流が……私の腕から、あふれるようなパンプ感が引いていきますわ……)
私は背筋を伸ばしたまま、薄手のシルクで仕立てられたドレスの袖口を密かに気に病んだ。完璧な貴族令嬢としての淑女の笑みを貼り付けてはいるが、苛立ちによって無意識に上腕二頭筋へ力が入ってしまう。力が入るたびに、仕立ての良い袖の縫製が内側から張り詰め、ピキリと微かな悲鳴を上げるのだ。今ここで力瘤を作れば、確実にこの最高級シルクは弾け飛ぶ。それだけは淑女の嗜みとして避けねばならない。
会場の壁際、柱の陰に控える我が忠実なる専属侍女、ハンナへと視線を送った。ハンナは無表情のまま、懐から取り出した真鍮製のストップウォッチを掲げていた。そして、音を立てずに口パクで私に伝えてくる。
『お嬢様。タンパク質同化の黄金時間まで、残り十分を切りました』
背筋に冷たい戦慄が走った。血の気が引くとはこのことだ。
飢餓。ストレス。血中アミノ酸濃度の低下。それらが引き起こす最悪の生体反応――カタボリック。すなわち、筋肉の自己分解である。せっかく昨日までの地道な鍛錬で肥大化させた筋繊維が、エネルギー不足を補うために自らを削り、溶かしていくのだ。そんな悪夢があっていいはずがない。
人は裏切る。婚約者だろうと、友だろうと、甘い言葉を囁きながら平気で背中を刺す。前世の記憶がおぼろげに蘇る。信じていた者に裏切られ、何もかもを失ったあの虚しさ。だが、転生したこの世界で私は知ったのだ。裏切らない唯一の真理を。
鍛え上げた筋肉だけは、決して人を裏切らない。かけた負荷の分だけ強くなり、与えた栄養の分だけ応えてくれる。筋肉こそが、この不条理な世界で唯一絶対の友であり、神聖なる神殿なのだ。
その神殿が今、愚昧な男の口先三寸によって侵食され、分解の危機に瀕している。
私の胸の奥底で、静かに、しかし超高熱のマグマのような怒りがふつふつと湧き上がった。
「おい、ヴィオレッタ! 聞いているのか! 己の犯した大罪の重さに、言葉も出ないようだな!」
私の沈黙を恐怖や絶望と受け取ったのか、フィリップが鼻を鳴らして嘲笑した。そして、舞台袖に向かって仰々しく手を打ち鳴らす。
「モーリス! 証拠をここへ持ってこい!」
王子の呼びかけに応じ、一人の痩身の青年がおどおどと進み出てきた。丸眼鏡の奥の目を落ち着きなく泳がせ、青ざめた顔で羊皮紙の束と小さなガラス瓶を抱えている。薬師見習いのモーリスだ。王子の取り巻きの一人であり、学問所での身分保障をエサにフィリップに従わされている哀れな小男である。
モーリスは震える手でガラス瓶を掲げ、かすれた声を張り上げた。
「こ、これが……ヴィオレッタ様の私物から押収された、証拠の毒薬です! 極めて微細な白い粉末で、ほんの耳かき一杯で成馬すら即座に心臓麻痺を起こすという、大陸北部原産の猛毒……! 彼女はこれを、ルイーズ様のハーブティーに混入させ、毒殺しようと企てていたのです!」
広間が再びざわめいた。猛毒。暗殺未遂。もはや貴族の不貞劇の枠を越え、国家反逆にも匹敵する重罪の告発である。
「どうだ、ヴィオレッタ! 動かぬ証拠が挙がったぞ!」
フィリップが得意満面に胸を反らし、ルイーズが「恐ろしい……なんて恐ろしい方なの」と身を縮める。貴族たちの軽蔑の眼差しが極限に達し、司会を務める式部官シルヴァンが青ざめた顔で衛兵を呼ぼうと手を挙げた。
私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……モーリス殿」
静謐な、しかし広間の隅々まで澄み渡る声で呼びかける。私の靴音が、静寂に包まれた床に硬く響いた。モーリスの肩がビクリと跳ねる。
「な、なんですかい……! 今さら命乞いをしても、証拠はここにあるんですよ!」
「その瓶を、少し拝見してもよろしくて?」
「えっ……あ、いや、危険ですから――」
躊躇するモーリスの制止を待たず、私は優雅な所作で彼の前に歩み寄り、その手からガラス瓶を指先で滑らかに奪い取った。モーリスは私のあまりの身のこなしの速さに、息を呑んで硬直する。
私はコルク栓を抜き、瓶の口元に鼻を近づけた。微かに漂う、独特の乳製品の香り。そして瓶を傾け、親指と人差し指の腹でその白い粉末を極少量だけつまみ取った。
指先を擦り合わせる。粒子は極めて細かく、湿気を含まずにサラサラと滑る。この触感。この比重。そして、鼻腔をくすぐるわずかなバニラ香のマスキング。
私は冷ややかな笑みを浮かべ、モーリスを見据えた。
「……モーリス殿。貴方は薬師見習いとして、非常に恥ずべき過ちを犯しておいでですわね」
「は、はい……? な、何を言って――」
「この粉末のどこが大陸北部原産の猛毒なのですか? これは、良質な乳清から水分と乳糖、乳脂肪分を極限まで分離・精製し、純粋なタンパク質含有率を九十二パーセント以上にまで高めた、極めて貴重なクロスフローマイクロフィルトレーション製法の最高純度ホエイプロテインアイソレート(WPI)ですわ」
広間がしんと静まり返った。誰一人として、私の発した単語の意味を理解できていない。フィリップが怪訝そうに眉をひそめ、ルイーズの嘘泣きがピタリと止まる。
私は構わず、指先の粉末を掲げながら、流れるような早口で論理を叩きつけた。
「匂いを嗅ぎなさい。毒草特有のアルカロイドの刺激臭など微塵もありません。あるのは、アミノ酸スコア百を誇る完全なる栄養の芳香だけです。さらに、この粉末百グラムあたりのアミノ酸組成を申し上げましょうか? ロイシンが約十一グラム、イソロイシンが六グラム、バリンが六グラム。いわゆる分岐鎖アミノ酸(BCAA)が黄金比率の二対一対一で美しく構成されております。筋肉の合成シグナルを司るエムトール(mTOR)経路を直接刺激するために、私が半年もの歳月をかけて魔導分離抽出機を自作し、精製した至高の結晶ですのよ」
「エ、エム……? アミノ……?」
モーリスの眼鏡がずり落ちかけた。彼の薬学の常識を遥かに超越した、未知なる栄養生理学の奔流。だが、本物の研究者である彼には、私の言葉に嘘偽りがないこと、そしてその論理が狂気的なまでに精緻であることが、本能的に理解できてしまったのだろう。
「な、なぜ……そんな物質を、令嬢が……」
「決まっているでしょう。カタボリックの阻止ですわ。筋破壊後のゴールデンタイムにおいて、消化吸収速度の遅い固形物を摂取していては血中アミノ酸濃度の上昇が間に合いません。ペプチド結合を素早く分解し、二十分以内に筋繊維へ送り届けるには、この超微粒子粉末の経口摂取が唯一無二の解なのです。それを……毒ですって? 命を育み、肉体を修復し、神聖なる筋肥大を促すこの恵みの粉を、貴方は毒と呼んだのですか!?」
私の声に、無意識のうちに魔力が乗った。ビリビリと大気が震え、モーリスの膝がガクガクと音を立てる。
「ひ、ひぃっ……!」
「モーリス殿。嘘はいけませんわ。貴方の良心に問います。貴方はこの粉末を、本当に毒物として鑑定したのですか? それとも、学問所からの除籍をチラつかせたどなたかからの脅迫によって、偽りの鑑定書を書かされたのですか?」
私は一歩、モーリスに詰め寄った。ドレスの裾を踏みしめた私の足首から、床を通じて大理石を軋ませるほどの重圧が放たれる。
モーリスは真っ青になり、たまらずその場に崩れ落ちた。
「す、すいませんでしたぁぁぁっ! 嘘です、全部嘘なんです! フィリップ殿下に『これを毒薬と証言しなければ、お前の生家を取り潰して学問所からも叩き出す』と脅されて……! 私には逆らえなかったんです! その粉末は、私が公爵邸のヴィオレッタ様の私室から盗み出してきたただの栄養剤です! 毒など微塵も入っていません!」
モーリスが床に頭を擦り付け、涙と鼻水を流しながら絶叫した。広間に巨大などよめきが走る。貴族たちが互いに顔を見合わせ、信じられないものを見る目で王子を見つめ始めた。
「き、貴様、モーリス……! 何を血迷ったことを口走っている!」
フィリップの顔が屈辱で真っ赤に染まった。自らの不正が暴かれた狼狽を隠すように、彼は隣のルイーズを強く抱き寄せ、声を荒らげる。
「た、仮にその粉末が毒でなかったとしてもだ! 貴様がルイーズを階段から突き落とした事実に変わりはない! 現にルイーズは全治一ヶ月の重傷を負い、今もこうして痛みに耐えているのだぞ! この冷酷な暴力女めが!」
「そうですわ……!」
ルイーズが息を吹き返したように、悲劇のヒロインの仮面を被り直して叫んだ。
「あの日の夕方、中央校舎の三階階段で、ヴィオレッタ様は私の胸元を両手で強く突き飛ばされたのです! 私、怖くて……石の階段を転がり落ちて、気を失ってしまって……足首の骨にヒビが入る大怪我を負いましたのよ!」
しくしくと泣き崩れるルイーズ。哀れみを誘う完璧な演技。貴族たちの視線が、再び私への疑惑へと傾きかける。暴力行為。それが事実であれば、毒薬の件が冤罪であっても私の立場は危うい。
だが、私は思わず小さく吹き出してしまった。
「……ふふっ」
「な、何がおかしいのよ!」
ルイーズが涙を拭い、キーキーと金切り声を上げる。
私は冷ややかな眼差しで、彼女の頭からつま先までをスキャンするように観察した。骨格、体脂肪率、筋肉量、推定体重。そして、あの日の中央校舎の階段の構造を脳内で立体的に再構築する。
「ルイーズ男爵令嬢。貴女、嘘をつくにしても、もう少し物理学と解剖学の初歩を学んでからになさるべきでしたわね」
「な、なんですって……!?」
「貴女の公称身長は百五十二センチ、先ほどの肉付きと骨格から推測する現在の体重はおよそ四十三キロ。そして中央校舎の階段は、一段あたりの踏面が三十センチ、蹴上がりが十八センチ。傾斜角は約三十一度です」
私は扇の先端で、空中に美しい幾何学模様を描くように軌道を示した。
「貴女の主張によれば、踊り場の最上段から胸元を押され、転落したとのこと。もし成人女性が両手で押し出した場合、一般的な令嬢の腕力から算出される初速度はおよそ秒速一点五メートル。その外力が水平方向に加わった場合、四十三キロの物体が重力加速度九点八メートル毎秒毎秒の下で描く放物線軌道は、四段目から五段目の角に最初の衝突点を迎えます」
私はルイーズの足元を指差した。
「階段事故における運動エネルギーの分散計算をお教えしましょうか? 初速と位置エネルギーが運動エネルギーに変換され、段鼻に衝突した際、人体に加わる衝撃力はおよそ三千ニュートン。これは骨密度が正常な人間であっても、大腿骨骨折や骨盤骨折、あるいは頭部外傷を引き起こすのに十分なエネルギーです。しかし、貴女が診断書で主張している負傷部位はどこでしたかしら? 『右足首の外果骨折』と『軽度の打撲』だけでしたわね?」
「そ、それは……運良く、途中で止まれたからで……!」
「あり得ませんわ」
私は一刀両断に切り捨てた。
「傾斜角三十一度の石段において、四十三キロの質量が途中で停止するためには、摩擦係数ゼロ点八以上の制動力が必要です。しかし貴女があの日身につけておられたのは、摩擦抵抗の極めて低い滑らかなシルクサテンのドレスでした。滑落係数から逆算すれば、一段目から最下段の踊り場まで滑り落ちずに途中で停止することは、重力に逆らう魔術でも行使しない限り、物理学的に絶対に不可能です」
私の淡々とした、しかし反論の余地を一切許さない力学的証明に、広間の貴族たち――特に魔導工学や建築学を修めた貴族の男性陣が「おお……確かにそうだ」「あの傾斜で足首のヒビだけで済むはずがない」と頷き始めた。
ルイーズの顔から血の気が完全に引いていく。
「さらに言えば」
私は歩みを進め、ルイーズの至近距離に立った。冷徹な瞳で見下ろす。
「もし仮に、この私が本気で貴女の胸元を両手で突き飛ばしていたとしましょう。私の握力は三百キロを超え、ベンチプレスのマックス重量は測定不能。魔力を乗せずとも、私の瞬間最大筋出力は一万ニュートンを容易に凌駕します。そんな私が貴女の華奢な胸郭部を押した場合、どうなると思いますか?」
「ひっ……!?」
ルイーズが息を呑み、後ずさる。
「貴女は階段を転がり落ちる暇などありません。胸骨と肋骨が瞬時に粉砕され、衝撃波によって後方の石壁まで一直線に消し飛び、ミンチとなって壁の染みになっておりますわ。今こうして五体満足で、優雅に足首を痛がっていること自体が、私が手を出していない何よりの動かぬ証拠ですのよ」
「ひぃぃっ……! ば、化け物……!」
ルイーズは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。完璧な論理と、そこから滲み出る圧倒的な生物学的格差の前に、彼女の薄っぺらな狂言は完全に粉砕されたのだ。
「き、貴様ぁぁぁっ! ヴィオレッタァァッ!」
己の権威を二度にわたって泥に塗られ、最愛の愛人を震え上がらせられたフィリップが、ついに怒気で我を忘れて絶叫した。もはや論理も法も関係ない。王族のプライドを傷つけられた獣の咆哮だった。
「屁理屈を並べ立ておって! 王族を愚弄し、ルイーズを脅迫した罪、万死に値する! ユーゴ! ユーゴはおらんか! この狂った悪女を今すぐ捕らえろ! 抵抗するなら手足を叩き折っても構わん!」
王子の狂乱の叫びに応じ、重厚な金属音が広間に響き渡った。
近衛騎士見習い、ユーゴ。王子の側近であり、学園最強の剛力を誇る筋骨隆々の巨漢だ。全身を分厚い白銀のフルプレート甲冑で包み、身長はゆうに二メートルを超える。その手には、成人男性の背丈ほどもある巨大な両手剣が握られていた。
「殿下の仰せのままに! ヴィオレッタ嬢、大人しく縛につきなされ!」
ユーゴが地響きを立てて突進してきた。甲冑の重さと自らの体重を乗せた、恐るべき突進力。その大剣が空を切り裂き、鋭利な切っ先が私の肩口へと容赦なく振り下ろされる。
悲鳴が広間に木霊し、白銀の切っ先が肉薄する。
だが、私の視界には、その大剣の軌道が酷く緩慢に見えていた。
(……あの日課を邪魔された怒り。そして、迫り来る筋分解への恐怖)
私は懐の時計を見るまでもない。ハンナの視線が突き刺さっている。残り時間は、あと五分。ここでこの鉄屑と戯れている時間すら惜しい。
私は深く息を吸い込み、体内の魔力回路を全開にした。
通常、貴族たちが使う魔術とは、体内の魔力を体外へ放出し、火球や氷の刃、あるいは防壁として具現化するものだ。肉体を鍛えることなど野蛮と蔑む彼らにとって、魔術とは知的な遠隔行使こそが至高とされる。
だが、私は知っている。魔力の最も美しく、最も尊い使い道を。
古代秘術――『魔導筋力共鳴』。
魔力を体外へ一切漏らさず、己の数十兆個に及ぶ細胞、筋肉の筋線維一本一本へと直接流し込み、共鳴同化させる。筋小胞体からのカルシウムイオン放出を極限まで加速させ、アクチンとミオシンのクロスブリッジ運動を神の領域へと引き上げる禁忌の肉体強化。
私の全身の筋肉が、ドレスの下で鋼鉄を遥かに超える超高密度の繊維へと変貌を遂げた。
「ハァッ!」
振り下ろされるユーゴの巨剣。白銀の刃が私の首筋を断ち切らんと迫る。
私は、右手の親指と人差し指をスッと伸ばした。
パチン――ッ!!
硬質な、しかしどこか場違いなほど軽やかな音が広間に響いた。
ユーゴの突進が、完全に静止した。彼が渾身の力を込めて振り下ろした重量二十キロを超える大剣の刃先が、私の右手の二本の指先に挟まれ、ピタリと止められていたのだ。
「な……っ!?」
ユーゴの兜の奥の目が、信じられないものを見たように見開かれた。彼がどれほど体重をかけ、柄を両手で押し込もうとしても、私の指先は一ミリたりとも動かない。
ドォォォンッ!
次の瞬間、私の足元から衝撃波が炸裂した。大剣を受け止めた反作用を、私の鍛え抜かれた下半身が床へと逃がしたのだ。最高級の大理石が蜘蛛の巣状に砕け散り、凄まじい風圧が広間のカーテンを吹き飛ばす。
「う、うそだろ……指先だけで、俺の大剣を……!?」
「大剣の重量バランス、および刃の焼き入れが甘いですわね」
私は冷然と告げ、指先にわずかに魔導筋力を込めた。
メキメキメキッ、バキィィィンッ!!
乾いた破壊音が轟いた。ユーゴの誇る名剣が、まるで乾燥した小枝のように、私の指先によって粉々にへし折られたのだ。飛び散る鋼鉄の破片が、床に突き刺さる。
「ひ、ぎゃあぁっ!?」
武器を失い、衝撃でよろめく巨漢のユーゴ。私は折れた切っ先を投げ捨てると、流れるような動作で彼の間合いへと踏み込んだ。
そして、フルプレート甲冑の胸当ての縁を、左手一本で鷲掴みにした。
「なっ……何をする気だ――」
「邪魔ですわ」
フンッ、と私は短く息を吐き、広背筋と僧帽筋を一気に収縮させた。
甲冑を含めて総重量百五十キロを超える巨漢のユーゴが、私の片腕によって、まるで藁人形のように軽々と宙へと持ち上げられた。
「う、浮いて――あ、あがぁぁぁっ!?」
「退場なさい」
私は持ち上げたユーゴの身体を、そのまま頭上から大理石の床へと叩き伏せた。
ズドォォォォォンッ!!!!
大理石の床が陥没し、白煙が立ち上る。全身の甲冑を歪ませたユーゴは、白目を剥いたまま痙攣し、やがて動かなくなった。
広間は、もはや静寂を通り越して、死の静けさに包まれていた。
誰も声を出せない。息をすることすら忘れている。目の前で起きた光景が、あまりにも現実離れしすぎていた。優雅なはずの公爵令嬢が、素手で剣を折り、片手で重装騎士を床に叩きつけて沈めたのだ。
立ち上る噴煙の中から、私は静かに歩み出た。
ドレスの乱れをそっと整え、冷徹な視線を壇上の二匹の獲物へと向ける。
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ……!」
フィリップが悲鳴を上げた。先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、顔面を蒼白にし、ガクガクと震える足で後ろへと退り始める。ルイーズに至っては、あまりの恐怖に涙も出ず、這いつくばったまま後退しようとしていた。
「に、逃げろ……! 化け物だ! あの女は人間の皮を被った魔物だぁぁっ!」
二人は壇上の裏手にある退場口へ向かって、みっともなく背中を向けて逃げ出そうとした。
逃がすはずがない。
私は大殿筋とハムストリングスに爆発的な収縮を命じた。床を蹴る。
ドンッ!
私の身体は音を置き去りにして加速した。人間の目では捉えきれない超人的な瞬発力。逃げ惑うフィリップとルイーズの視界から私が消え、次の瞬間には、二人の行く手を塞ぐように正面へと回り込んでいた。
「あ……?」
フィリップが間抜けな声を上げた。
私は無言のまま、左右の腕を同時に伸ばした。万力のように硬化し、鋼の腱が張り巡らされた私の両手が、アイアンクローの如く二人の首根っこ――正確には首筋と僧帽筋の付け根を、寸分の狂いもなく鷲掴みにした。
「がっ……!?」
「ぎゃっ……!?」
二人の身体が、私の両手の中でピタリと止まる。指先を少し食い込ませるだけで、頸動脈が圧迫され、二人は声にならない悲鳴を漏らした。
私は二人を捕獲したまま、氷のように冷徹な、しかし内なる筋肉の歓喜を湛えた声で宣告した。
「私の神聖なトレーニング時間を邪魔した罪は、あなた方の肉体で償っていただきますわ」
「な……な、何を言って――」
「重量測定完了。フィリップ殿下、推定体重六十八キロ。ルイーズ男爵令嬢、推定体重四十三キロ。合計重量、百十一キログラム」
私は二人の体重差を瞬時に脳内で弾き出した。左右非対称のウェイト。筋トレにおいて、左右の重量差はフォームの崩れを招く最も忌避すべき要素である。しかし、私ほどの筋肉のコントロールがあれば、左右の筋出力配分をアジャストすることなど造作もない。
右腕には約一点五八倍の出力を指示。体幹のコアスタビリティを最大化。腹圧を高め、脊柱起立筋を完全にロックする。
「よし……いきますわよ」
「や、やめ――何を――」
「リフトオフ(挙上)!!」
私は二人の首根っこを掴んだまま、背筋のバネと肩の三角筋の爆発的筋力によって、二人を一気に頭上高くへと掲げ上げた。
スチャッ!
二人の身体が、私の両手の中で一直線に固定される。右手にフィリップ、左手にルイーズ。二人を繋ぐ一本の見えないシャフトが、私の肩のラインと完全に平行を保っていた。即席の人間バーベルの完成である。
「ぎゃあああああああああっ!?」
「た、助けてぇぇぇぇっ! 高い! 落ちるぅぅぅっ!」
頭上で足をバタつかせ、阿鼻叫喚の叫びを上げる王子と令嬢。豪奢なシャンデリアの熱が、彼らの顔を間近で照らし出す。広間の貴族たちは、もはや腰を抜かして床にへたり込み、ただ口をあんぐりと開けてその異様な光景を見上げるしかなかった。
「お静かになさい。バーベルがブレると、フォームが乱れますわ」
私は冷ややかに一喝した。そして、肩幅よりもわずかに広く足を開き、つま先を外側へ三十度開いた。完璧なスクワットの構えである。
「さあ、始めましょう。失われた十五分間を取り戻す、至高のパンプアップを!」
私は息を吸い込みながら、骨盤を前傾させ、股関節から折りたたむように腰をゆっくりと沈めていった。
大腿四頭筋が強烈に引き伸ばされる。百十一キロの生きた質量が、私の肩と腕を通じて全身の骨格へと圧をかける。だが、私の鍛え抜かれた筋肉は、その負荷を最高の悦びとして迎え入れていた。
太ももが床と平行になるパラレルを越え、さらに深く――フルボトムの位置まで完全に沈み込む。
「ひ、ひぃぃぃっ、落ちるぅぅぅっ!」
「ボトムで一秒静止! 筋肉の緊張を絶対に抜かない!」
そして、呼気とともに一気に大臀筋と大腿四頭筋を収縮させる!
ドンッ!
床を踏み抜き、爆発的な力で立ち上がると同時に、頭上の二人をさらに高く腕の力だけで突き上げる――ミリタリーショルダープレスへのコンボ!
「一ッ!」
私の凛とした掛け声が広間に木霊した。
「ふ、フィリップ殿下ぁぁっ! 死んじゃう、私死んじゃいますぅぅっ!」
「お、降ろせ! 王族に対する反逆だぞ! 誰かこいつを撃ち殺せぇぇぇっ!」
「二ッ!」
私は聞く耳を持たない。沈んで、上げる。吸って、吐く。完璧なストローク。人間バーベルが上下するたびに、広間に突風が巻き起こる。
「三ッ!」
「ぎゃぁぁぁっ!」
「四ッ!」
「うぐぇっ!」
「五ッ! 声が出ていますわよフィリップ殿下! 腹圧が抜けますから口を閉じなさい!」
阿鼻叫喚の絶叫マシーンと化した第一王子と愛人。上がっては下がり、下がっては突き上げられる極限の恐怖と、頸動脈を圧迫される苦痛。フィリップの豪奢な礼装は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「六ッ!」
「七ッ!」
「八ッ! ネガティブ動作を丁寧に! 下ろす時に三秒かけますわよ!」
私は極上の負荷に陶酔していた。生きている。私の筋繊維が、今まさに限界を越えて悲鳴を上げ、そして新たな進化への産声を上げている。血液が怒涛の勢いで腕と肩へ流れ込み、筋肉がパンパンに張り詰める――これぞパンプアップ! これぞ我が人生の至福!
「九ッ! ラストォォォォッ!」
「ぎ、ぎもぢわるい……もう……ゆるじ……」
「十ッ! 追い込み完了!!」
ドズゥゥゥゥンッ!!
最後の十レップ目を完璧なフルレンジで完遂した私は、二人を頭上から無造作に放り出した。
床へと叩きつけられるフィリップとルイーズ。二人は白目を剥き、口から泡を吹き、もはや声すら出せない状態で床に折り重なって痙攣していた。王族の尊厳も、悪女の計算も、絶対的な筋力による上下運動の前に完全に粉砕され、ただの抜け殻と化していた。
私は深く息を吐き、乱れた息を整えた。肩と腕の筋肉が熱く脈打ち、心地よい疲労感が全身を満たしている。素晴らしい追い込みだった。
静まり返る大広間。貴族たちは誰一人として動けない。彼らの目にあるのは、公爵令嬢への侮蔑などではなく、神話の巨神を前にしたような絶対的な戦慄と畏怖だった。
私は、壇上の隅でガタガタと震え、演壇の陰に隠れようとしていた式部官シルヴァンへと歩み寄った。
「シルヴァン殿」
「ひ、ひぃぃぃっ!? は、はいぃっ! 何でございましょうかヴィオレッタ様ぁっ!」
シルヴァンは腰を抜かして床に膝をつき、両手を挙げて命乞いのポーズを取った。
ドレスの隠しポケットから取り出した一枚の羊皮紙を、彼の目の前へ叩きつける。
「これに、王室公認の決済サインをいただきとう存じます」
「は、はい……? け、決済……?」
シルヴァンが震える手で羊皮紙を拾い上げ、眼鏡をかけ直して記載された文字を読んだ。
『慰謝料および損害賠償請求書』
一、不当な婚約破棄宣告に伴う精神的苦痛への補償:金貨五万枚
二、神聖なるトレーニング時間の遅延に伴う筋分解危機への緊急補償:最高級ホエイプロテイン原料三年分、およびアミノ酸製剤一括納入
三、今後の円滑なる筋力増強環境の確保:オルディス公爵領内における最新鋭魔導ジム施設の建設費用全額(王室負担)
「こ、これは……あまりにも法外な……」
シルヴァンが引きつった顔で私を見上げた。私は無言のまま、右腕の上腕二頭筋にクイッと力を込めた。
メリメリッ!
ついに耐えきれなくなったドレスの右袖が弾け飛び、彫刻のように美しく、そして鋼鉄のように筋張った見事な力瘤が露わになった。血管が浮き出たその圧倒的な肉体の威圧感に、シルヴァンは「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。
「……サインをなさらないのでしたら、次は貴方にバーベルになっていただきますが?」
「書きます! 今すぐ書きます! 王室代理人として全額決済を承認いたしますぅぅぅっ!」
シルヴァンは猛烈な勢いでペンを走らせ、震える手で王室の印章を押し込んだ。契約と絶対筋力の前に、王家の財政は完全に屈服したのだ。
「契約成立ですわね。結構です」
私はサイン済みの請求書を回収し、満足げに微笑んだ。
その時、広間の人混みをかき分けて、凛とした足取りで歩み寄る影があった。専属侍女のハンナだ。彼女の表情は崩れていなかったが、その手にはしっかりと、銀色に輝く特製シェイカーが握られていた。
「お嬢様。トレーニング終了から二十五秒経過。タンパク質同化の超黄金時間、ギリギリ間に合いました」
「よくやってくれました、ハンナ」
私はシェイカーを受け取った。蓋を開けると、水で溶かされたばかりの最高純度プロテインが、黄金色の輝きを放っている。筋繊維が歓喜に震え、栄養を求めて渇望していた。
私はシェイカーを高く掲げ、広間に転がる元婚約者と愛人、そして凍りついた貴族たちを一瞥した。
「愚かな裏切りに満ちた社交界に、乾杯」
そして、一気に煽った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……プハァッ!
滑らかな喉越しとともに、高濃度のペプチドとアミノ酸が胃壁を通過し、瞬く間に血流に乗って破壊された筋繊維へと送り届けられていく。細胞が満たされていく感覚。超回復のスイッチが、カチリと音を立てて入った。
婚約破棄? 王立学園からの追放? そんな世俗の塵芥など、私の筋肉の成長に比べればミジンコほどの価値もない。手に入れた莫大な慰謝料と最新鋭のジムで、私の筋肉は明日からさらなる高みへと到達するのだ。
私は弾け飛んだ右袖から覗く鋼の腕を誇らしげに晒し、破滅した壇上に一度も振り返ることなく、大広間の大扉へと向かって歩み出した。
人は裏切るが、鍛え上げた筋肉だけは決して裏切らない。
その確固たる信念を背中に刻みつけ、私は、夜の本番メニュー――背中と腹筋の深夜追い込みセッションへ向けて、堂々と凱旋していったのである。




