07:桜の木
その神社には、古い桜の木があった。
幹は大人が何人かで囲まなければ手が届かないほど太く、枝は境内を覆うように広がっていた。春になれば見事な花を咲かせ、かつては町の人々が花見に訪れる場所だったという。
町の人間にとって、その桜は特別な木だった。
神社がまだ賑わっていた頃、子どもたちは木の下で遊び、年寄りたちは縁側に腰掛けるように石段に座り、花を眺めていた。いつからか、誰が言い始めたのかも分からないが、人々はその木を町のご神木のように扱うようになっていた。
しかし、時代が変わるにつれ、神社を訪れる人は減っていった。
境内の掃除をする人もいなくなり、拝殿の屋根は傷み、参道には雑草が生い茂った。桜の木だけは、昔と変わらずそこに立ち続けていた。
だが、年月には逆らえない。
幹の一部は空洞になり、大きな枝の先は枯れ始めていた。強い風が吹けば、枝が折れて落ちる危険もある。町から依頼を受けた専門家は、幹の腐朽が進んでおり、このまま残すのは危険だと判断した。
伐採が決まった。
その仕事を請け負うことになったのが、俺の勤める会社だった。
俺は現場の指揮を任される立場にあった。木を切る作業そのものは作業員が行うが、伐採の手順を決め、安全を確認し、全体を指揮するのは俺の役目だった。
古木の伐採は、難しい仕事ではある。だが、できない仕事ではない。
「俺ならやれる」
現地調査を終えた俺は、会社の人間にそう言った。
作業員の中には、少し顔を曇らせる者もいた。
「本当に切るんですか。あの木、町の人たちにとっては大事な木だったんでしょう?」
「大事だった、だろ。今はもう、誰も手入れしていない。危険だから切る。それだけだ」
俺は、そう答えた。
最初の伐採日は、冬の終わりに決まった。
ところが、当日の朝、神社へ向かった俺たちは、思いがけない光景を目にした。
桜が満開だった。
周囲の木々は葉を落とし、寒々しい枝を空に伸ばしている。吐く息も白い。春が来るには、まだ早すぎる。
それなのに、古い桜だけは、枝という枝に淡い桃色の花を咲かせていた。幹から広がる枝の先まで、花で埋め尽くされている。
まるで、そこだけ季節が違っているかのようだった。
作業員たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
「……こんなこと、あるんですかね」
ひとりが呟いた。
俺も驚かなかったわけではない。しかし、季節外れに花が咲くことくらい、自然現象として説明できる場合もある。
「今日の作業は延期する。状態を確認して、日を改めよう」
その日は、伐採を見送った。
数日後、花は一輪残らず散っていた。
改めて日程を組み直した。
二度目の作業日には、朝から機材の調子がおかしかった。前日まで問題なく動いていたチェーンソーが、いざ作業を始めようとすると何台もエンジンをかけられなくなった。作業用のロープを張り直しても、固定したはずの部分がいつの間にか緩んでいる。
作業員のひとりが、桜の幹を見上げた。
「……やっぱり、何かあるんじゃないですかね」
「何があるっていうんだ」
「分かりません。でも、ここまで続くと……」
「機材の不調なら整備すればいい。ロープなら張り直せばいい。仕事をするために来ているんだろう」
俺は作業を中止し、改めて準備を整えることにした。
その後も、伐採の日を決めるたび、奇妙なことが起こった。
晴天の予報だったのに、神社の境内だけに濃い霧が立ち込めた日もあった。作業を始めようとした途端、木の枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、耳をつんざくような羽音を響かせたこともあった。
そのたびに、作業員たちは伐採をためらった。
「いったん中止して、別の方法を考えませんか」
「枝を整理して、危険なところだけを処置できないんでしょうか」
「町の人にも、もう一度相談したほうがいいと思います」
彼らの言いたいことは分からなくもなかった。けれど、俺には俺の立場がある。仕事を引き受けた以上、何度も延期を繰り返すわけにはいかなかった。
「何があっても切るんだ」
俺は言った。
「俺たちならやれる。次こそ終わらせる」
それが最後の伐採日だった。
朝から空は曇っていた。風はほとんどない。機材の点検も済ませ、作業員たちは所定の位置についた。
俺は、桜の幹の前に立った。
近くで見ると、幹は思った以上に傷んでいた。長年にわたって雨風にさらされ、樹皮は剥がれ、根元には苔が張りついている。
「準備はいいか」
俺が声をかけると、作業員たちは互いに顔を見合わせた。
「……本当に、やるんですね」
「何度も同じことを言わせるな」
俺は幹に手を当てた。
冷たい樹皮の感触が掌に伝わった。
その瞬間だった。
耳の奥で、何かが弾けた。
周囲の音が消え、視界が暗くなった。
次に意識が戻ったとき、俺は自分の身体を見失っていた。
いや、正確には、自分の身体がどこにあるのか分からなかった。
目の前には、作業員たちが立っている。チェーンソーを持つ男も、ロープを握る男もいる。誰もが、俺のほうを見ていた。
俺は声を出そうとした。
だが、何も言えなかった。
手を動かそうとした。
動かない。
足を踏み出そうとした。
一歩も進めない。
俺は、地面に深く根を張っていた。
枝が風に揺れている。幹の表面には、硬い樹皮が広がっている。頭上には、長い年月をかけて伸びた枝が、空を覆うように広がっていた。
俺は桜の木になっていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
そのとき、作業員たちの前に立っている男が、ゆっくりとこちらを振り返った。
俺の顔だった。
俺の服を着て、俺の身体で、俺と同じ顔をした男が立っている。
そいつは、俺と目が合うと、わずかに笑った。
「始めてくれ」
そいつが言った。
俺の声だった。
「待て!」
叫んだつもりだった。
だが、声は出なかった。
作業員のひとりが、不安そうに俺の身体を見た。
「本当に、いいんですか」
「いいから、切れ」
俺の顔をした男は、淡々と答えた。
その声を聞いた瞬間、俺は理解した。
あれは俺じゃない。
俺の身体を使っている、何か別のものだ。
作業員がチェーンソーを始動させた。
甲高い音が、境内に響く。
刃が枝に触れた。
その瞬間、全身を引き裂かれるような痛みが走った。
幹の奥まで、何かが食い込んでくる。皮を剥がされ、肉を削られ、骨を砕かれるような痛みだった。
俺は必死に叫んだ。
やめろ。
やめてくれ。
だが、声は出ない。
俺は木なのだ。
ただそこに立ち、切られるのを待つしかなかった。
その痛みの中で、記憶が流れ込んできた。
まだ境内が賑わっていた頃の景色だった。
幼い子どもたちが、俺の木の下を走り回っている。転んで泣く子がいれば、母親が駆け寄って抱き起こした。誰かが幹に手を当て、願いごとをしていた。
春になれば、人々が花を見上げた。
恋人同士が写真を撮り、年寄りたちが縁側のような石段に座って、ゆっくりと笑っていた。
俺は、それらをずっと見ていた。
幾度も季節が巡った。
子どもたちは大きくなり、やがてこの町を離れていった。年寄りたちは姿を見せなくなった。神社から人の声が減り、境内を訪れる足音も消えていった。
それでも、桜はそこにいた。
毎年、春になると花を咲かせた。
誰も見ていなくても、誰も気に留めなくても。
やがて、人々は桜を見上げなくなった。
ただ、枝が危ない、幹が傷んでいる、倒れれば迷惑になる。そんな言葉だけが交わされるようになった。
かつては町の誇りだった木が、いつの間にか、取り除くべき邪魔なものになっていた。
その記憶の奥から、声が聞こえた。
誰の声でもなかった。
俺の声でも、作業員の声でもない。
幹の奥、年輪のさらに奥から響くような声だった。
――もう、誰も私を必要としていない。
枝が切られるたびに、痛みが増していく。
――長い間、ここにいた。人々を見守り、この町とともに生きてきた。けれど、人間たちは私を必要としなくなった。
俺は、目の前にいる自分の身体を見た。
そいつは、作業員たちに指示を出していた。
「次は、あの枝だ。続けてくれ」
――ならば、私もここに留まる理由はない。
その声は、怒りとも悲しみともつかない響きを帯びていた。
――人間になろう。ここから出ていこう。
俺は、ようやく理解した。
あの季節外れの花も、機材の不調も、霧も、鳥の羽音も。
あれは、この木が何かを伝えようとしていたのではない。
伐採を止めてほしかったのかもしれない。だが、それ以上に、自分がそこにいる理由を失った木は、すでに別のことを考えていた。
自分の身体を捨て、人間になること。
そして、自分を切ろうとした人間に、木としての痛みを味わわせること。
――あなたたちは、私を切ることにした。
――ならば、私も、あなたたちからひとつもらおう。
俺の身体に入ったものは、俺のことなど何も考えていなかった。
俺がどんな人間だったかも。
どれほど後悔しているかも。
ただ、俺の身体が必要だった。
枝が、もう一本切り落とされた。
俺は、激痛の中で思った。
違う。
俺は、切るべきではなかった。
この木を残す方法を探すべきだった。
これだけ長い時間、町を見守ってきた木を、ただ危険だからという理由だけで切り倒していいはずがない。
俺は木になって初めて、そう思った。
「待て!」
声にならない叫びを上げた。
「もう、切るな!」
だが、作業は止まらなかった。
俺の身体をした男が、作業員たちに告げた。
「何があっても切ると決めたんだ。続けてくれ」
作業員たちは、ためらいながらも作業を進めた。
刃が幹へと向けられる。
俺は、必死に止めようとした。
幹を揺らそうとした。枝を動かそうとした。
けれど、何もできなかった。
木は、自分で動くことができない。
俺は、ただ切られるためにそこに立っていた。
刃が、幹に食い込んだ。
痛みが、身体の奥深くまで走った。
俺は、それでも叫び続けた。
やめろ。
やめてくれ。
切らないでくれ。
けれど、誰にも届かなかった。
最後の一撃が加わった。
幹が大きく揺れた。
空が傾いた。
長い枝が、地面へ近づいていく。
俺は、町を見た。
石段。鳥居。かつて子どもたちが遊んだ場所。
そして、俺の身体をした男が、そこに立っていた。
そいつは、倒れていく桜を見上げていた。
ほんの一瞬、笑ったように見えた。




