試すような真似をした時点で既に冷めていたんです
「ねえ、結愛。明日の放課後さ、ちょっと用事ができちゃったから、一緒に帰れなくなった」
放課後の教室。夕刻のオレンジ色が窓から差し込み、誰もいなくなった室内の床に長い影を落としていた。
机の端に腰かけた白石蓮は、どこかソワソワとした落ち着かない様子で、私の顔を盗み見るようにして言った。私は鞄に教科書を詰め込む手を一瞬だけ止め、彼の顔を見上げる。
蓮は学年でもかなり目立つタイプの男子だ。整った顔立ちに、サッカー部のエース。社交的で明るい彼は男女問わず人気がある。そして私——黒瀬結愛とは、家が隣同士の幼馴染で、半年前から「付き合っている」関係だった。
「用事? 部活の居残りとか?」
「いや、そうじゃなくて……まあ、ちょっと個人的な用事。ごめんな?」
そう言って蓮は、チラッとこちらの反応を伺うような視線を向けた。
その瞳の奥には、どこか期待するような、私の感情の揺れを待っているような妙な色が浮かんでいた。
――ああ、またこれか。
私は胸の奥で、誰にも気づかれないように小さな溜め息をつく。
ここ数週間、蓮の言動にはあからさまな「違和感」が増えていた。
生まれてからの付き合いである彼は、本来なら何でもストレートに話す性格だ。しかし最近は、わざとらしい「隠し事」を匂わせるようになった。
私の前でスマホを隠すように操作してみせたり、会話の端々に「最近、後輩の女の子から頻繁に連絡が来て困る」だの、「他校の女子に連絡先を聞かれた」だのという報告を不自然に挟み込んできていた。
要するに、私に嫉妬してほしいのだ。
「誰と会うの?」
「女子と会うの?」
「行かないで」と、必死にしがみついて焦ってほしいのだろう。
恋愛経験が乏しく、周囲からお似合いのカップルだと持ち上げられて調子に乗った高校生の男が陥りがちな、あまりにも幼稚で不格好な駆け引き。それが、今の蓮の姿だった。
「そっか。わかった。じゃあ、明日は先に帰るね」
私が至極平然とした声で答えると、蓮の表情が目に見えて硬直したのが確認できた。
彼が喉から手が出るほど欲していた焦る私、取り乱す私のリアクションが得られなかったからだ。
「……え、あのさ。気にならないの? 俺が誰とどこに行くのか、とかさ」
「本人が言いたくないなら、無理に踏み込むことじゃないでしょう。プライベートもあるだろうし」
「いや、まあ……そうだけどさ。彼女なら、もうちょっと踏み込んできてくれてもいいんじゃないか? 普通はさ」
「余計な束縛をして、蓮を窮屈にさせたくないだけだよ。じゃあね」
私はそう言い残し、鞄を肩に掛けて教室を後にした。背後から、蓮が苛立ったように自分の髪を激しく掻き揚げる気配がした。
静まり返った廊下を一人で歩きながら、私は冷えていく胸の内にそっと手を当てる。
蓮は重大な勘違いをしている。
私が彼の行動を追及しないのは、大人だからでも、寛容だからでもない。
――ただ単に、呆れて、好きという気持ちが冷めかけているからだということに、彼はまだ気づいていなかった。
①
翌日の放課後。
私は図書委員の業務を終え、図書室のカウンターで日誌の記入を進めていた。
「黒瀬さん、お疲れ様。今日の日誌、これで終わりで大丈夫そうだよ」
「あ、高橋くん。ありがとう、確認助かったよ」
一緒に委員を務めている同級生の高橋くんに微笑みかけると、彼は少し照れたように目元を緩めた。高橋くんは控えめだが非常に誠実な性格で、作業の手際もいい。変な駆け引きも嫌がらせもしない、心地よい距離感を保てる友人だった。
日誌を提出し、図書室を出て下駄箱へ向かう途中。
校庭へと続く中庭のベンチ付近で、人集まりができているのが見えた。
「うわ、見てよあの二人。付き合ってんのかな?」
「でも白石くんって、二年の黒瀬さんと付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「えー、じゃあ浮気? でも女子の方、すごく嬉しそうだけど……」
ヒソヒソと噂し合う女子生徒たちの視線の先。
そこにいたのは、蓮だった。
そして彼の隣には、一年生の可愛らしい雰囲気の女子生徒――確か、吹奏楽部の後輩で、最近蓮の周りをチラチラと気にしていた子だ。
二人はベンチに並んで座り、楽しそうに談笑していた。
いや、『楽しそうに』というのは正確ではない。後輩の女の子は本当に嬉しそうに頬を染めているが、蓮の方は時折、校舎の窓や階段の方、まさに私が歩いてくるであろうルートへチラチラと視線を送っていた。
「わざわざ、ここでやってるんだ」
目撃させるために、人が頻繁に通る中庭のベンチを選び、私が図書委員の仕事を終えて降りてくる時間を見計らっていたのだ。
蓮の視線が、二階の廊下にいる私と一直線にぶつかった。その瞬間、彼の顔に「勝った」と言わんばかりの、歪んだ笑みが浮かんだ。
彼はわざとらしく後輩の女の子の頭をポンポンと優しく撫で、何かを囁いた。女の子は顔を真っ赤にして恥ずかしそうに縮こまる。
「……はぁ」
私は、その光景を見下ろしながら、ただただ深い溜め息を漏らした。
もし私が、蓮の期待通りキャパシティが狭く、嫉妬深い恋人であったなら、今頃涙を浮かべて走って逃げ出すか、現場に乗り込んで後輩の女の子を睨みつけていたかもしれない。
だが、私の中に湧き上がってきた感情は、激しい怒りでも、胸を刺すような悲しみでもなかった。
『なんてダサいんだろう』という、猛烈な冷め感。それだけだった。
自分を優位に立たせるために、何の関係もない下級生の純粋な好意を利用し、思わせぶりな態度をとって弄んでいる。
私を嫉妬させるというちっぽけな自己満足のためだけに、他人の感情を踏みにじみ、彼女である私を傷つけようとしている。
なんて底が浅く、恐ろしく浅ましい男なのだろうか。
半年前、部活にひたむきに打ち込み、仲間を大切にしていた頃の蓮は、一体どこへ行ったのだろう。
周囲からちやほやされ、「学園一のお似合いカップル」だと持て囃されているうちに、彼はすっかり「自分は選ぶ側の特別な存在だ」と勘違いしてしまったらしい。
私は中庭の二人からすっと視線を外し、何事もなかったかのように下駄箱へと向かった。
靴を履き替え、校門を出ようとしたその時。
背後から、大急ぎで駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「結愛! 結愛、待てって!」
肩を激しく上下させながら追いついてきたのは、先ほどまで後輩と仲良くしていたはずの白石くんだった。
後輩の女の子をその場に置き去りにして走ってきたのだろう。息を切らしながら、彼はどこか誇らしげな、そしてこちらの様子を探るような顔で私を見下ろした。
「……なあ、さっき中庭にいただろ? 見てたろ?」
「うん。見てたよ」
私が淡々と答えると、白石くんは待ってましたと言わんばかりに口角を上げる。
「あー……いや、誤解しないでほしいんだけどさ。あの子、俺に部活の相談があるって聞かなくてさ。断れなくて。俺って頼られると弱いじゃん?」
「そうなんだ」
「頭撫でたのも、なんというか、妹みたいに可愛くてついな? 結愛が嫌なら、もう二度としないけど……どうした? なんか顔色悪くないか? もしかして、焼モチ焼いちゃった?」
ニヤニヤと、意地悪そうに顔を覗き込んでくる彼。
嫉妬したと言え。
泣いて自分の嫉妬深さを恥じろ。
もっと俺に執着しろ。と、彼の全身が物語っていた。私は足を止め、真っ直ぐに白石くんの目を見つめる。
「ううん。全然」
「え……?」
「嫉妬なんて、一ミリもしてないよ」
私の声があまりにも感情のこもっていない、冷ややかなものだったからだろう。
証拠に白石くんの顔からニヤけた笑みが消え、困惑の色が広がった。
「え、あ……強がらなくていいって。そりゃショックだったろ? 自分の彼氏が他の女子とあんなに仲良くしてたら……」
「強がってないよ。本当に、何とも思わなかったの。ただ、『あ、この人とはもう無理だな』って思っただけ」
「……は? 何言ってるんだ……?」
「白石くん、私達、別れよう」
夕暮れの通学路に、冷たい風が吹き抜けた。
白石くんは一瞬、私が何を言ったのか理解できないというように、口を半開きにしたまま固まった。
②
「……は? あ? 別れる……? なんで急にそんな話になるんだよ!?」
数秒の沈黙の後、白石くんは大声を上げた。通学路を歩く他の生徒たちが、驚いてこちらを振り返る。
「急じゃないよ。ずっと考えてたの」
「意味が分からない! 俺がちょっと他の女子と話したからって、そんな怒ることか!? 束縛しないんじゃなかったのかよ!」
「怒ってないよ。さっきも言ったでしょう?」
私は平静を保ちながら、粛々と語りかけた。
「私が冷めたのはね、あなたが他の女子と話したからじゃないの。私を試すために、そんな惨めな真似をしたからだよ」
「試す……? 俺はただ……」
「後輩の女の子の好意を利用して、私の前に見せつけて、焦らせて、嫉妬させようとしたでしょう? 最近の『男友達に誘われた』とか『後輩から連絡が来る』とかいうアピールも、全部そうでしょ?」
図星を突かれた白石くんの顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。嘘をつくならもう少し表情筋にまで気を使った方がいいのに。
「それは……結愛が全然俺に執着してくれないからだろ! 俺たち付き合ってるのに、結愛はいつも冷静で、俺のこと本当に好きなのか分からなくて……だから、ちょっと揺さぶってみただけで……!」
「揺さぶるために、関係のない他人を巻き込んで傷つけるの?」
私の冷徹な問いかけに、彼は言葉を詰まらせた。
合理的に考えれば、いや普通に考えれば彼が間違っていて、それを正当化するなんて到底受け入れられない事実である。
「あの後輩の子、本気であなたのことが好きな顔をしてたよ。それをあなたは、自分を優位に立たせるための『道具』として使ったの。……それって、人間としてすごくダサいし、最低だと思う」
「っ……!」
「それにね、恋愛ってさ、相手を不安にさせて優位に立つゲームじゃないんだよ。そんな回りくどくて人を傷つける方法でしか愛情を確認できない人と、これからも一緒にいたいとは思えない」
白石くんの肩が、ワナワナと震え始めた。
彼のプライドはズタズタだっただろう。学年一のモテ男である自分が、幼馴染の彼女を嫉妬させるという計画を完璧に見抜かれ、あまつさえダサい、最低と切り捨てられたのだから。
「ま、待てよ結愛! 俺が悪かった! 謝るから! もうあんな真似しない! だから別れるとか言うなよ! 俺は結愛が好きなんだ!」
慌てて私の腕を掴もうとしてくる彼。
私はその手を、サッと素早くかわした。触れられることすら、今の私には耐えがたかった。
「触らないで」
「結愛……!」
「ごめんね、白石くん。一度冷めた気持ちは、もう戻らないの。私を試した瞬間に、あなたへの尊敬も好きっていう気持ちも、綺麗さっぱり消えちゃったから」
「そんな……嘘だろ? 半年も付き合ってきたんだぞ!? 幼馴染だろ!?」
「幼馴染だからこそ、今のあなたの浅ましさが見えて悲しかったよ。……じゃあね、白石くん。今までありがとう」
私は最後にもう一度「白石くん」と呼び、一礼すると、一度も振り返ることなく歩き出した。
「結愛! 結愛!!」
背後で白石くんが私の名前を叫んでいたが、追ってくる気配はなかった。
周囲の生徒たちの好奇の視線に晒され、その場に立ち尽くすしかなかったのだろう。
胸の中は、驚くほどスッキリしていた。
夕方の風が、火照った頬に心地よかった。
③
それからの学園生活は、私にとって快適そのものだったが、白石くんにとってはまさに「地獄」の始まりだったようだ。
私と白石くんが別れたというニュースは、翌日には学年中に広まった。
最初は「白石が黒瀬を振った」「黒瀬が重すぎて嫌になった」という嘘の噂を彼自身が流そうとしていたらしいが、事態は思わぬ方向へ転がった。
中庭で白石くんと一緒にいた吹奏楽部の後輩女子が、泣きながら友達に真相を暴露したのだ。
『白石先輩に「相談に乗るよ」って誘われて喜んで行ったら、先輩は全然私の話を聞いてなくて、ずっと校舎の方ばかり気にしてて……結局、黒瀬先輩に見せつけるために私を利用しただけだったんです! 私、すごくバカにされて……!』
この後輩の告白により、噂の真相が一気に拡散された。
「白石って、彼女を嫉妬させるために後輩女子を利用したんだって」
「うわ、最低……。しかもそれで返り討ちに遭って振られたらしいよ」
「うわー、ダサい。めちゃくちゃイタいじゃん」
「黒瀬さん、速攻で切り捨てたらしいね。賢明すぎるわ」
男子からも女子からも、彼に向けられる視線は羨望から『哀れみと蔑み』へと一変した。
特に女子からの評判は壊滅的だった。
「付き合ったら自分も試されそう」
「他人を利用する性格の悪さが無理」と嫌悪され、あれほどあったモテ期は完全に終了。彼を囲んでいた親衛隊のような女子グループも、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
さらに、部活でも影響が出た。
「お前、後輩の女子利用して振られたんだって? ダサすぎだろ」、「集中しろよ」と呆れられ、エースとしての面目は丸潰れ。焦りからプレイの精度も落ち、大事な公式戦のスタメンから外されるという憂き目に遭っていた。
一方の私はというと、図書委員の仕事に打ち込み、テスト勉強に励み、充実した毎日を送っていた。
高橋くんとは相変わらず仲が良く、たまに一緒に本の話をしながら下校したりしていた。
④
別れてから一ヶ月が経った、雨の日の放課後。
私は一人、傘を差して校門を出ようとしていた。高橋くんは今日は塾の補習があるとのことで、先に帰っていた。
ポツポツと降る雨の中、校門の脇に立つ人影が。傘も差さずに濡れているその男は――白石くんだった。
部活を外されたのか、あるいは自暴自棄になっているのか、彼の髪は湿り、かつての華やかな面影はどこにもなかった。
「……結愛」
掠れた声で、彼が私を呼ぶ。
「……白石くん? 傘も差さずにどうしたの? 風邪ひくよ」
他人行儀に心配すると、彼は藁にもすがる勢いと目で私を見た。
「結愛……頼む、もう一度やり直してくれ……! 俺、反省したんだ! 本当に俺がバカだった! 結愛がいないと、俺ダメなんだよ……!」
雨に濡れながら、必死に頭を下げる白石くん。
かつて学年の中心で輝いていた彼の姿を知っているだけに、今の見苦しさは哀れでさえあった。だが同時に因果応報という惜別の思いも込み上げてきていた。
「みんな俺のことバカにするんだ……部活もうまくいかない、友達も離れていく……! 俺には結愛しかいないんだ! 結愛なら、昔みたいに俺のこと分かってくれるだろ!?」
結局、彼は自分のことしか考えていないのだ。
自分が傷ついたから、自分が惨めだから、私に助けてほしい。私を自分を全肯定してくれる便利な存在として元に戻したいだけなのだろう。
そこに、私という一人の人間への尊重も、本当の意味での反省もない。私は静かに、傘を少し傾けて彼を見つめた。
「白石くん。あなたが変わったのは、私が別れを告げたからじゃないよ。あなたが自分の手で、周囲の信用を失うような行動をしたからでしょう?」
「それは……でも、俺は結愛を好きすぎたから、あんな真似を……!」
「私のせいにするのはやめて」
私の強い拒絶のトーンに、彼はびくっと身体を強張らせた。
「人を試して、傷つけて、その結果自分が一人になったからって『お前しかいない』なんて言われても、迷惑なだけだよ。……私はもう、あなたの母親でも、都合のいいファンでもないの」
「結愛……」
「これ以上、惨めな姿を見せないで。幼馴染としての最後の思い出まで、嫌なものにしないでよ」
私の言葉は、一切の揺らぎがない刃となって、彼の胸を突き刺したようだった。
彼はガクッと膝を折り、雨でぬかるんだ地面へと項垂れる。
もう、私を呼び止める声すら出てこないようだった。
「じゃあね。今度こそ、本当にさようなら」
私は一度も足を止めることなく、雨の街へと歩き出した。
開いたビニール傘に当たる雨音が、パツパツと規則正しいリズムを刻む。
自業自得、という言葉がある。
自分を高める努力を怠り、安易な駆け引きで相手の愛を確かめようとした代償は、あまりにも大きかったはずだ。
添加、それは彼自身が撒いた種。彼自身がこれからの人生で引き受け、反省すべき課題だ。
私はもう、彼の物語の登場人物ではない。
前を見ると、雨の向こうから、傘を差した高橋くんが歩いてくるのが見えた。
補習が終わったのかな。
「黒瀬さん! 奇遇だね、今帰り?」
「あ、高橋くん。うん、今終わったところ」
追いついてきた高橋くんが、私のとなりに並ぶ。
彼は決して私を試したりしない。素直で、誠実で、一緒にいて心地よい時間を与えてくれる。
「雨、強くなってきたね。駅まで一緒に行っていい?」
「うん、もちろん」
二人で差し出す傘が、並んで雨の街を歩いていく。
後ろを振り返る気は、もうどこにもなかった。
私の新しい毎日は、すでに心地よい音を立てて始まっているのだから。




