4・斬らずして斬れ 前編
ざり、と足が踏み出される。
ただの一歩。それで全てが始まり、全てが終わった。
「たは~、鍛えあげたもんやのお。今のワシと互角かい」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま一歩踏み出した姿勢で、弦は苦笑する。
「全力強化かけてやっと五分かよ。どこまで化けモンになりやがった」
左頬に術式回路の文様を浮かべた萬が、冷や汗を流しながら愚痴る。
再会した途端、まるで申し合わせたかのように戦闘モードに入った二人は、しばらく対峙した後同時に一歩踏み出した。
ただそれだけでお互いの力量、そして実際手合わせした結果が分かったらしい。
傍目から見れば一体何が何だか、理解が追い付かなかった。
「ええっとジェスター姐さん、どうなったか分かるですか?」
「いや。こちらも全力強化すれば萬の思考には追い付けるが……さすがに今の一瞬ではな」
「大将は多分なんも考えてねっすよ。ありゃ本能のやりとりっすね」
頭上にクエスチョンマークを山のように浮かべた使い魔達は後頭部に汗を流しながらこそこそ言い合っていた。ちなみに3匹とも使い魔形態であり、ワイズはトリコロールカラーのオウム、ハーミットはトラ柄の山猫の姿となっていた。ジェスターも合わせた生き物三匹が神妙な顔をしているのはどうにもおかしな光景だ。
「千日手、と言うヤツだね。互いに決め手が当てられない。あの速度じゃ自分なんか到底追い付けないな」
『……理解できる人いたよ』
隣でうんうんと頷いている伊達眼鏡の姿に、三匹は呆れながらぼやいた。同レベルの化け物が何を言うやら。実戦となったらまず間違いなく同レベルの戦いを繰り広げるクセに。
「ともかくこれで、三人は揃った。仕上げは上々、正直人が死に物狂いで過ごした数年分を半年かそこらで達成したのはかなりムカつくが」
萬の言葉に、弦はおやと僅かに虚をつかれたような顔をする。
「お前さんがそんな物言いをするとは。えらい感情豊かになったな」
弦が覚えている八戸出 萬という人間は、嫉妬や羨望とは無関係……とはいかないが、あまりそう言う感情を表には出さないタイプだった。力量に関しては弁えているというか、在る程度のところで限界を見極め、手数を増やすのに専念していたように思う。現実的で、上を向いて嘆く男ではなかったはずだが。
そういう意味を込めて見据えると、萬は憤慨したような表情で応える。
「半分死にかけになってまで手に入れた力が、そう容易く通用するものではないと悟れば嘆きもするさ」
「話には聞いてたけどどんな苦労して来たの君」
「よう帰ってこれたモンやの。いやマジで」
おどろ線を背負う萬の様子に若干退きながらしみじみ語り掛ける二人。萬は肩を落し、溜息を吐きながら言う。
「ジェスターが“咄嗟にデュランダルを投げ捨てなきゃ”、まだ異世界異次元彷徨ってたさ」
「! なるほど、デュランダルをマーカーにしてこの世界を探索してたんやな」
最強の武装をわざわざこの世界に残していたのには意味があったのだ。自身の一部とも言えるそれを、全次元全世界のいずこにあっても道標となるよう最大限のリンクを繋げて結界の外に投げ捨てたジェスターの判断。死地にあってなおその判断を下せたのは奇跡に近い。総合的な時間感覚はさておいて実質半年程度の時間で萬が帰還できたのは、そのようなフォローがあってのことだった。
「綱渡りも良いところよ。咄嗟にしては上出来であったがな」
それでも結局萬に死地を渡らせる事となったがと、ジェスターは苦笑いを浮かべる。半年前の戦いで開いた次元の穴から脱出さえできていれば、あのような苦労をする必要はなかったし、萬も死にかけるような目に遭わずにすんだ。不可抗力とはいえ後悔の思いは後からいくらでも湧いて出ると、彼女は苦々しく思う。
そんな彼女の思いを知ってか知らずか、萬は気遣うような言葉をかけた。
「謙遜すんな、お前のおかげでオレは生きている。……まあとにもかくにも、それぞれ鍛え直されたって事にゃあ違いない。鈴のところにも迎えはやった。全員が揃えば……動くぞ」
萬の目が鋭さを増す。ゼンと弦はそれぞれ不敵な笑みを浮かべた。4人が……チームインペリアルが再集結したその時、人類の反攻は再び始まる。
今度こそ、雌雄を決する。その思いは彼らのものだけではない。GOTUIの、いや、反攻の狼煙が上がるのを待ち望んでいる全ての人間の思いだ。
にしてもだと、萬は言葉に出さずに呟く。
「この二人がこれほど変わってるたあな。この分じゃ鈴も相当に化けてるぞ」
ただ強くなったというレベルではない、悟りに入ったと言ってもいい変化。実質的な戦闘能力に大きな変化はないが、それを使う“在り方”が違う。萬の変化とはある意味全く逆方向の仕上がりだ。これと同様の変化が鈴に訪れるのであればと考えただけで身震いがするようだった。
さて、期待通りかそれ以上か。またムカつくのかねと思いつつ、萬はくっと、微かに唇の端を歪める。
彼には鈴が期待を裏切ることなど、ましてや彼女の心が折れる有り様など想像もつかなかった。
ぎゃりんと、弾き飛ばされた剣が宙を舞い、剣圧が斬りかかってきた人間を吹き飛ばす。絶え間なく迫る襲撃者達の合間を駆けめぐる疾風。それは数の差をものともせず全てをなぎ払う。
一閃にて5人。確実に数を減らし、消耗していく襲撃者。しかし一向に怯む様子はなく、振るわれる剣にも迷いはない。それらを示せばただ真っ先に隙をつかれるだけだと彼らは熟知しているのだ。だが奮戦虚しく、叢雲のごとくいた彼らの損耗は止められない。やがて、最後の一人が地に伏し、そこでやっと疾風が止んだ。
風を切って振られる刃。刃こぼれなく、曇りなく、輝きを失わないそれは滑らかに鞘へと収められる。
力尽く地に伏せ、その姿を見上げるしかない者達のかなり多数が、ぼんやりとこう思った。
恐ろしく、美しいと。
汗を振り払うその動作すらも、一枚の絵画のように映える。その寸前まで剣戟を演じていたとは思わせぬ優美な仕草。余裕、ではない。ただそうあるだけで見惚れる、心を引きつけるような妖艶なる魅力。完璧ではないが目を引いて止まない美がそこにはあった。
「それまでっ!」
雄々しく高らかに声が響き、魂を抜かれたように見惚れていた敗北者達は我に返った。瞬時に居住まいを正し、膝を付いて頭を垂れる。美しくも剣呑な剣姫に向かって。
『お見事でごさいましたっ!』
社交辞令でない心よりの賛美。百人以上で攻め掛かりこうも容易くあしらわれたのでは文句のつけようもない。声を揃えて讃える強者達に対し、双面の剣姫と謳われる女性はにっこりと笑みを浮かべて応えた。
「皆様こそ、大儀でありました。かような不作法に応えて頂き感謝極まりなく思います。此度のことは間違いなく我が血潮となり艱難辛苦を乗り越える力となりましょう。重ねて感謝を。皆様の心遣い、このリン・リーン・リリン決して忘れませぬ」
『有り難きお言葉っ!』
感極まり涙すら浮かべる戦士達を眼下にして、笑みを浮かべたままの剣姫は大きく頷く。その後わざわざ全員に、最後の一人に到るまで言葉をかけ労をねぎらい、修練場から追い出すころにはすっかり日が傾いていた。
「……いやはや、大分君主としても板についてまいりましたな。感服いたしました」
「面の皮が厚くなっただけだよう。……あ~、しんど」
背後から遠慮なくかけられた声に肩を落しながら振り向くのは、もちろん鈴・リーン・悠木その人。いつもの着物姿ではない、胴衣を纏ったその姿は先程まで王族に相応しい凛とした佇まいを見せていたのだが……今の彼女はどう見ても稽古疲れの学生にしか見えない。
彼女に声を掛けたのは異世界連合軍の将の一人、ドライド・イエロ。軍の強者達をかき集め、鈴にけしかけた張本人だ。もっともそうするように頼んだのは鈴なのだが。
半年前、己の力不足を実感した鈴は一端代表交渉役の職を辞して、生まれ故郷であるこの世界で鍛錬に明け暮れていた。あらゆる状況で、あらゆるもの相手に剣を振るう。ただそれだけをひたすら繰り返し技を研ぎ上げる。かねてからその剣技は人々を唸らせるものであったが、ここにきてさらにその鋭さは増していた。
しかし。
「して、いかがですかな仕上がりの方は」
「見ての通り上々……と言いたいところだけどねえ」
ドライドの言葉に不満げな様子で鼻を鳴らす鈴。確かに技量は上がった。だが、どれだけ鍛え上げても“到った”手応えが感じられない。ゼンや弦と同じ行き詰まり、彼女もまたそれを感じ取っていた。
これ以上はただ闇雲に鍛えても無駄だ。もう一段階上に到る突破口を開くには、何か別なきっかけが必要となるだろう。しかしそれはどうしたらいいものだか見当もつかない。ただ強者と相対するだけであればいくらでも融通が利くのだが。
「ふうむ。……なればいっそのこと我ら五将と死合ってみましょうか? 姫の技量に比肩するのであればそれくらいしか思い付きませぬが」
「いくらなんでも連合軍の重鎮にそんな真似はさせられないよ。みんな暇じゃないんだし。将軍だって結構無理してスケジュール合わせてくれてるんでしょ?」
「お気になされるな、仕事をサボる良い口実となっております」
きっぱりと言い放つ。その軽口に隠された気遣いを感じ取って鈴は有り難く思いながらもくすりと笑みを漏らす。
これで独身だったら放っておかないんだけどなあと、内心少し落胆する鈴。実は渋い年上が好みのタイプだったりする彼女の嗜好にぴたりと嵌るドライドは、こう見えてなかなかの愛妻家だったりする。まあこれ位いい男が放っておかれるはずもないのだけれどと、後ろ髪を引かれながらも思考を切り替える。
ただ戦闘能力でと見るのであればこの世界は不自由しない。鈴より腕が立つ人間も探せばごまんといるだろう。それこそドライドを含む五本指などは一人一人が一騎当千たる歴戦の強者だ。だが、それを乗り越えるだけではダメだと鈴の感覚は訴えていた。
足らないものは分かっている。それは“狂気”だ。
半年前に相対したあの漆黒を纏う敵軍の将。あれに匹敵する、狂気を内包する存在。それがこちらの世界には見あたらない。
ただ“堕ちた”だけの人間ならごまんといるだろう。しかしあの地獄そのものを内包したような、闘争を渇望する狂気。そんなものを持つ者などそう簡単に存在するはずもない。して貰っても困る。
あの狂気を前にしてそれに飲まれず冷静に、勝利のために剣を振るう自信。未だに鈴はそれを得ることができていない。目の前にしてしまえば愉しんでしまうのが目に見えている。それではヤツにはとどかない。もっとクールに剣を振るう心の在りよう、必要なのはそれだ。だがこの地でどれほど剣を振るっても、その領域に至れるような気がしなかった。
「……けれど剣の技そのものが廃れてしまった向こう側の世界では、こちら以上のものを求める術すらない」
口に出さずに呟く。
戦術そのものが根本的に違う向こう側――萬達の世界では、剣術を実戦レベルで使いこなす人間その物がほとんどおらず、存在している僅かな者達も裏社会や地下に潜ったりしてなかなか表に姿を現さない。そう言う人間はこちらと比べても劣らぬ強者ばかりであるが、接触する機会がほとんどないのでは話にならない。実の所接触する伝手がないではないのだが――
「ねえさま~!」
幼さを残した声が、鈴の思考を断ち切る。ふわりと鈴の眼前で風が舞い、そこからしみ出るように現れた人影は、容赦なく鈴に向かって飛び掛かった。
遠慮なく鈴に抱きついてきたのは、可愛らしいスモックドレスを纏った少女。ふわりとした柔らかな銀髪を持つ、どこかしら鈴に似た顔立ちのその少女は、満面の笑みで嬉しそうに語り掛けた。
「ねえさまねえさま、もう修行は終わったのでしょう? でしたらお暇がありますよね。夕食にはまだ時間がありますからフランにお話をして下さいませ。この間のお仲間の話、まだ途中でしたでしょう? もう続きが聞きたくて聞きたくて。ねえねえ、よろしいでしょう?」
きらきらと目を輝かせながらせがむその少女に対して、少し苦笑を浮かべながら答えを返した。
「そんなに慌てなくてもおねえちゃん逃げたりしないようフランちゃん。お話はしてあげるからちょっと待ってくれないかなあ。ほら、おねえちゃん汗かいちゃったからお風呂とか入っておきたいし」
「でしたらフランも一緒に入ってお背中を流します! そうと決まれば善は急げ! まいりましょうねえさま」
「そんなにぽんぽん転移魔法つかっちゃだめだってば。また魔力切れで倒れちゃうよ?」
鈴に懐き、奔放に振る舞うこの少女、名を【フランヴェルジュ・ヴィンド・アルダイト】といい、この世界の王であるアルダイト王の三女にして鈴の異母姉妹に当たる人物である。
王家の中では母たる亜衣斗に次いで鈴に近しい人間であり、彼女をもっとも慕っている人間でもある。武闘派でならしたアルダイト王の娘らしく彼女もまた容姿に似合わぬ強者であったが、父王や鈴達と違って魔道の技に長けていた。これは恐らく彼女の母親である王妃の血を濃く引いているからなのだろうが、生憎その技術はまだ成長途中で、時折魔法の使いすぎなどで倒れてしまう事があった。そういった事を除けば、年相応の少女であると言っていい。
くるくると周囲を踊るようにまとわりつく少女を苦笑しながらも愛おしく見る鈴。猫可愛がりと言うほどではないが、鈴もまんざらではない様子だ。こう言うところはやはり彼女も年相応の女性であるなあと、ドライドは微笑ましい目で見ていた。
「あ、それとシミュレーター30人斬りの話がもう一度聞きたいです! 立ち回り方がとっても参考になりますから!」
「うん、それもいいけれど……今日は実戦の時の話をしてあげるよ。何と今度は170機斬りに加えて強敵との一騎打ちだよ?」
「ほ、本当ですか!? 凄いです楽しみです!」
会話の内容は、とてもじゃないが普通の女の子とは言えなさそうだが。大きな汗を後頭部で流しながら、ドライドはとりあえず聞かなかった事にした。
「ゴメンね将軍、そういう事だから後まかせていい?」
「お任せを。姫もごゆるりと疲れを取り、英気を養ってくだされ」
はやくはやくとフランにせがまれ、引きずられるように修練場を後にする鈴。その姿はどこにでもいる年相応の女性のものだ。もしかしたらそれが彼女の本質なのかも知れないと、控えている部下達に指示を飛ばしながらドライドは思う。
「一人で何もかもを抱え込む必要はないと思うのだがな……」
やはり無理をしているのではないかと、時折思ってしまうのを止められない。代表交渉役などという大仕事を抱え、その上でこの世界と向こう側の繋がりを護るために剣を振るう。そんな役など大の男でも尻込みするというのに、彼女は進んでその道を選んだ。“そうでもしなければ自分の居場所などない”とでもいうかのように。
そのような大役を背負うには、彼女の背中はあまりにも小さく見えた。
その日酷く珍しい事に、夕食の席にて王の家族は一同に勢揃いする事となった。
王の方針により、ごく身内が揃うときには派手な装飾などを一切抑えた専用のリビングにて車座になって食事を取るようになっている。マナーなんぞは人目のあるところでしか役に立たないし、第一家族の前でしゃちほこばっているのは疲れて叶わない、というのが王の主張であった。それに異を唱えるものは家族の中には誰もいない。
「でねーとおさま、凄いんですよそのひと。乗ったばっかりの新型機で居並ぶ敵をばったばったとなぎ倒していったんですって!」
「うむうむ、それはなかなかの強者であるな。余も一度相見えてみたいものよ」
「ですよね! そうだ、戦争が一段落したら、一度交流の名目でこちらに招いてみたらどーですか? フランも是非ともあってみたいです」
「はははそれは良い考えよ。フランの心を引いて止まぬ存在……一度じっくりと懇切丁寧に話し合う必要があるのである。父親的に考えて」
上機嫌なフランを膝の上に乗せ、親馬鹿丸出しの表情で会話を弾ませているのは筋骨隆々の大男、アルダイト王【バルディッシュ・ガルフ・アルダイトⅣ世】。武王、剣闘王などと名高い武闘派の世界王である。
武によって世界を平定したアルダイトⅠ世の子孫にあたり、歴代の王にならい文武双方で辣腕を振るう生まれ持ってのチートキャラだ。しかし有能ではあるが人格的には多少問題があり、政に影響がない程度ではあるが好き勝手絶頂に振る舞い神出鬼没であちこちに出没するという困った悪癖を持っていた。
曰く執務席に座っているより闘技場に立っている時間のほうが長い。曰く城下の酒場で一般市民を巻き込み酒盛りをしていた。曰く法の目をかいくぐり悪事を働いたものの元に覆面を被って訪れ成敗していったなど逸話には事欠かさない。とまれその奔放な行動が市民に広く受け入れられ支持を集める要因ともなっており、表だって非難するものは少なかった。
「もう、合う前から親馬鹿丸出しでどうするのですか我が君。聞けばそのなんとかという人物ひとかどのもののふ、我らが一族に血を残して欲しいくらいではありませぬか」
しかし笑顔ながらも王をたしなめる数少ない人間がここに一人。
フランと同じ銀髪を揺らし、人差し指を立てて王にやんわりと釘を刺す少し垂れ目の女性。王妃であり正妻、フランの実母である【シルディ・ヴィンド・アルダイト】。鈴の義母にあたる人物である。
一見穏和で大人しそうに見える人物であるが、実際は世界でも指折りの大魔道士であり、かつて銀髪の魔女などと謳われた勇猛なる武将だった。王に輿入れしてからは完全に現場から退き王族としての責務のみを果たすに留まっているが、彼女の現役時代を知るものからは未だに現場復帰を望む声も多い。しかし彼女がその辣腕を再び振るうときがあるとすれば、それは多分この世界に窮地が訪れたときくらいであろう。そんなものは誰も望みはしない。
「娘を持つ男親とはそういうものなのである。横町のハンニバルさんもそう言っておった」
「また城下の居酒屋でよそさまの愚痴を聞いて回っておられたのですか? 仮にも王が町内会長並の気安さで出回るのはいかがなものかと思うのですけれど」
どこかの暴れん坊な将軍かと思わせる出没率らしい。実際中身も大して変わらない。周囲の人間はまたかと溜息を吐くかいつものことと流すかどちらかだ。シルディは大らかではあるが根が真面目なので前者の筆頭とも言える。
そしてこの場には、後者の筆頭とも言える人物も同席していた。
「ふふ、でもシルディ、これでこその旦那様だと思うわよ? 世の流れ、民の声、そう言ったものを己が直接感じ取りたいからこその行動。誉められたものではないかも知れないけれど、そこらの為政者にはできない事だと思わない?」
ほわんと柔らかい声。だが不思議と響くその発言の主は、ここでは場違いとも思える黒髪を結い上げた着物姿の女性。糸のように細い常に笑みの形に保たれた眼差しをもつその女性の名は【アイト・リリン】。かつて【悠木 亜衣斗】と名乗っていたアルダイト王の第二王妃にして鈴の実母である。
本来であれば凛と同じくリーンのミドルネームを名乗り新たな王家一族の始祖となるべき人物であるが、己の出自と立場を考慮しそれを頑なに拒絶して今に至る。その頑固さゆえに近年まで正式な王族とは認められていなかったのだが、紆余曲折を経て結局周囲が折れる形で、特例として王族として認められた歴代最高ランクの“問題児”であった。王などはそれもよかろうと鷹揚に全てを受け入れる形であったのだが、周囲としてはたまったものではない。そのような人物であるから正妃であるシルディとは色々と軋轢などあると思われたのだが。
「もう、アイトはいつも我が君を甘やかして。たまには厳しく言わないとこの方図に乗る一方ですよ?」
「その分シルディが厳しくしてくれるじゃない。それに何かあったら煽り立てるのは貴女のほうでしょ?」
「そ、そんなことは……あるかも、しれないけど。……いぢわる」
「だってそんな可愛い顔されたら、いぢりたくなるもの」
「…………もう、しょうがない人」
なんだかんだいってこの二人、異様なまでに仲がいい。かつて王の命を狙った暗殺者であるアイトと王の近衛師団長であったシルディは凄絶な死闘を繰り広げたのであるが、どうにもその時から互いを好敵手と認め合い奇妙な友情を育んでいたらしい。その後色々あって最終的に二人揃って王に娶られることなるが、その事実をすんなりあっさり受け入れるくらいにはうち解けていたようだ。立場上正妻と妾という形ではあるが、最低でも家族内でこの二人が区別される事などない。むしろ実の姉妹よりも仲がいいくらいであった。
この二人と王の間には、合わせて三人の子供がもうけられた。アイトとは次女に当たる鈴。シルディとの間には三女であるフランと、長女であるもう一人。
「何のかんの言って今更心を入れ替える父上ではありますまい。やるべき時にやることさえやって頂ければスピアは四の五の言いませぬ」
凛とした声で言うのは、シルディやフランと同じ銀髪をショートボブにした切れ長の目の女性。名を【スピア・ローテ・アルダイト】と言う。
王の長女であり王位継承権第二位を持つ彼女は、父王と比べても遜色ない覇気と武名、カリスマを持って市民から絶大な支持を得ている。婿を迎えローテという家名を頂き継承権こそ下がったが、その影響力から事実上の次期国王であると明言するものも少なくない。ただし――
「どちらにしろ我が愛しき良人に政の肝を握られているお飾りなのですからな。万が一の事があっても困らぬでしょう」
「いやそのスピア? そこまで言われるとさすがの余もちょっと傷付くのであるが?」
――最近すっかり旦那ラブで父親に対し結構厳しくなったのだが。
ちなみにその旦那は連合軍の五将、五本指のリーダーで、連合軍の総大将を務めており王位継承権第一位だったりするのだが、本筋には全く関わらないであろう。それはさておき。
ともかく以上が鈴の家族、現王家の面々である。多少の問題はあるかも知れないが、おおむね好人物と呼んで差し支えのない人達。鈴はこのどっかおかしいが暖かな家族が大好きだった。
代表交渉役という誰もやりたがらない役を引き受け、GOTUIの誘いに乗りTEIOWを駆って最前線に赴いていたのも全てはこの家族を、ひいては一家を支えてくれる民を、国を護らんがためだ。そのための努力は惜しまなかったし、いくらでも猫を被って見せた。気楽なふうを装っているのは、誰にも心配をかけたくはなかったから。努力や苦労をおくびにも出さず、鈴は澄ました顔で全てを飲み込み駆け抜けてきた。
だが、今思えばやはり中途半端だったのではなかろうか。そんな思いが微かに心の中に影を落す。
後一歩。その一歩に届かない原因は、全てを剣に賭けなかったから。“剣が駄目でも他の手段で補おうなどという甘えがあるから”。そんな思考が頭から離れない。
今更なのだ。今更全てを捨てて剣のみに生きられるはずもない。そうだとは分かっていても一度浮かんだ自身に対する不安と疑念は消えることはなかった。結局思考は堂々巡り。表面上で見るよりはるかに、鈴は煮詰まっていると言える。
「……なればやはり一度招いてみるがいいかと。鈴もそう思うであろう? 鈴?」
「ふぇ? ひょへふへやんふぇふふぁ?」
「とりあえず口の中のものを飲み込むがよい。家族のみとは言え少々はしたないぞ?」
しょうがない妹よなあとぶつくさ言いながらも、スピアはむぐむぐやっている鈴の口元を拭ってやる。なんのかんのいって頑張っているこの妹が彼女は可愛くて仕方がないのだ。無論それは他の家族にしても一緒。のらりくらりとしているようで努力家であるこの娘は家族全員から愛されていた。
だから実際、彼女の苦悩は全員に丸分かりだったりする。
はてさてどうしたものかと、ほぼ全員が同じ事を考えていた。王やシルディ、スピアにとって鈴の行き詰まりは大体理解できるが、こればっかりは他者がどうこう言っても解決するものではない。要は心の持ちようなのだから。
実力から考えれば鈴の力は十二分に過ぎる。ただその力に自信が持てなくなっているだけだ。解決方法は自身で悟るより他はない。下手な横槍は余分に迷いを生み出すだけだと彼らは自身の経験から判断し、手を出しあぐねていた。
ただ一人、アイトだけが何か考えているようだったが、彼女はやんわりと笑っているだけで多くは語らない。ただ静かに時期を待っているように見えた。そしてその時期はどうやらやっと訪れたらしい。娘達の様子をにこにこと笑って見守るだけのように見えていた彼女の口から小さく言葉が零れたのを、隣に座していた王は確かに聞き届けたのだから。
曰く、これは荒療治が必要よね、と。
「……シルディ、一つ頼まれてくれないかしら?」
「なんでしょう?」
「実はね……」
「……それ、本気ですか? というより正気ですか!?」
翌日、鈴の姿は再び修練場にあった。
その表情にははっきりと困惑の色が浮かんでいる。なぜならば彼女と対峙しているのは。
「ん~、こうやって死合うのも久しぶりよねえ」
思いっきり伸びをしながら木刀を弄んでいるのは、アイト。いつもの着物にたすき掛しただけの姿で凛と対峙している。
どういう風の吹き回しだろうかと鈴は訝しむ。鈴に剣を教え込んだのはアイトであるが、鈴がある程度の技術を習得するともう教えることはないと言い放って死合う事すらしなくなった。正直なところ途中で面倒くさくなったのではという疑念がないでもなかったが、実際鈴の飲み込みの速度は異常で、アイトと比肩しうる剣士として成っていたのは確かだし、剣を教えるときにも手を抜いている様子は一切なかった。ゆえにそのようなものだろうかと首を捻りつつも一応の納得を得ていたのであるが。
「……やっぱり、ばれてたのかな?」
「見え見えだったわよ?」
最近の苦悩はやはり見抜かれていたのだと、改めて思う。どことなく家族が気を使っているのは分かっていたが、自身でもはっきりと説明できない苦悩であったがためにそれを口にするのははばかられた。その事で痺れを切らせてしまったのだろう。
今一度、基礎から見直せと言うことなのだろうか。母親の考えを推測しながら鈴は構えを取る。その間替えは分からないでもないが果たしてそれで良いものか。心にわだかまるものを抱えたまま、思考を剣に集中する。
しかしまだまだ鈴は未熟だったと言うことなのだろう。アイトの思考は遙か斜め上にぶっ飛んでいた。
ゆらりとアイトの身体が揺らめき、次の瞬間。
「っ!?」
激しく音を立てて木刀同士が打ち合わされる。
「こ、この太刀筋は!?」
何が起きたのか一瞬分からなかった。太刀筋が見えない。“こんな太刀筋を鈴は知らない”。
速いのではない、重いのでもない。まるで死角に忍び込むように、するりと抵抗なく間合いに入ってくる剣。己の思考が読まれ、“行動の先に切っ先を差し入れられているような剣”。
「これ、まさかっ……“萬の”!?」
驚愕の声を上げる鈴。太刀筋に憶えはないが、このやり方は八戸出 萬との対峙を思い起こさせる。機先を制する、ただそれだけを突き詰めたような技。萬がもし剣士としての才があったならばきっとこのような剣を振るうであろうと思わせる技術。
「ふうん、そういう事。萬て子、こんなのが得意なわけね。納得納得」
「なんで、母様が萬の事を! 彼の技術を知っているの!?」
したり顔で頷く母に鈴は問い質す。あまりの驚愕に自分を取り繕う事すら忘れているようだった。そんな問いにアイトは飄々と答える。
「ん? 違うわよ? ただ単に今の剣技の“方向性”が萬て子のそれと同じだって事。要は“自分より力も技も上回っているものと相対するための剣”なのよこれ」
言ってる最中にもふっと木刀を持つ腕がかき消え、衝撃が奔る。実質以上に重く感じる剣を辛うじて受けながら、鈴はアイトの言葉に耳を傾けた。
「確かに鈴には教えられる事は教えたけど、“全てを教えたわけじゃない”のよ? この剣は鈴、貴女には向かない。だから教えなかった。……けれどそう言っている場合でもなさそうだし、少しスパルタでいくわよ。さあ、見切り、ものにしてみなさい」
「ぐっ!?」
一気に間合いが詰められて、今度は拳が飛んできた。間合いの違いに戸惑って掠る。慌てて間合いを取れば追撃はない。アイトは余裕を持って鈴を見据えていた。
「そうそう、あまり悠長に構えてちゃ駄目よ。あんまりのんびりしていると――」
言いながら、アイトは着物の胸元をはだける。その喉元に“あるもの”を見つけ、鈴は目を見開いた。
禍々しい気配を放つ、魔術回路の文様。魔道の技にも長けている鈴には分かる。あれは呪詛、しかもとびっきり凶悪なものだ。発動すれば間違いなく母親の命は食い尽くされてしまう。まさかそんなものを自身に仕込んだというのか。
あまりの事に声も出ない鈴に向かって、アイトはとびっきりの――“かつて悠木 亜衣斗と名乗っていた暗殺者の狂った微笑み”を向けて言い放つ。
「――母様、死んじゃうかも」