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杪夏

 夏休みも残り数日というところで、翔太はようやく宿題を片付けることができた。去年までは早くても最終日までかかったので、これは人生で最速の記録である。最後に終えたのは自由研究だ。藤井に電話でアドバイスを貰いつつ、なんとかカブトムシの生態についてまとめた。実際に飼った経験談も、下手くそな字とレイアウトで模造紙に詰め込んだ。


「サナダマル、昨日宿題終わったぞ。ありがとうなー」


 朝、飼育ケースの中のサナダマルにお礼を言った。彼は今、枯れ葉に隠れて休んでいる。食欲がないのか、餌の昆虫ゼリーは少ししか減っていない。少し気になったが、とりあえず減った分の餌だけ補充をしておいた。


 翌朝、いつものようにサナダマルに話しかけた。


「サナダマル、ちゃんと飯食ってるかー?」


 そこで異変に気が付いた。餌が全く減っていない。サナダマルは昆虫マットの上でじっとしている。


「サナダマル……?」


 日中に活動しないのは普通のことだが、嫌な予感がした。そして、夜に確認してもサナダマルは動かなかった。


 結局夏休みの最終日になっても、餌が食べられたりサナダマルが動き出したりすることはなかった。


「そっかー、ついに死んじゃったか」


 翔太は観念してその事実を認めた。昨日両親に訊いたときも、きっと死んでしまったのだろうと言われた。サナダマルは、翔太の宿題が終わったのを見届けたかのようなタイミングで天国へ旅立ったのだ。


 優しい手付きでサナダマルを持ち上げ、顔の前に近づける。魂を失ったカブトムシは、生き物ではなく精巧な模型のように見えた。


「お疲れさま。折角だから標本にしてあげようかな……」


 独り言が妙にくっきりと、虚しく響く。部屋の壁が、いつもより深い空白に思える。翔太は自分が予想以上にショックを受けていることに気付いた。


 寂しくなり、無性に誰かと話したくなった。でも今日は両親が仕事で出かけていて誰もいない。仕方がないので、頭が真っ白な状態で昼食の冷凍スパゲッティを食べた。


 午後になってようやく、藤井に電話してみることを思い付いた。彼女の声が聞きたくなった。藤井の家に電話をかけると、藤井本人が出てくれた。


「もしもし」


「もしもし、山田ですけど」


「ああ、山田元気? 宿題は終わったの?」


「ああ、それは終わったんだけど……」


「どうしたの?」


 藤井も翔太の声色が普段と違うことにすぐ気付いたようだ。


「サナダマルが、死んじゃったんだ」


「そう、なんだ……」


「餌のゼリーが減ってなくて、サナダマルも動かなくなって、そしたら……」


「うん」


「自由研究のために飼ってたのに、なんか、標本にするとかそういう気分にもなれなくてさ……」


 そこで少し会話が途切れた。藤井が何かを考えている気配が受話器から伝わってくる。数秒後、彼女の方から切り出した。


「それなら、サナダマルのお墓を作ってあげようよ」


 意外な提案だ。動物ならともかく、すぐに死んでしまう虫のお墓を作るなんて藤井が言い出すとは思わなかった。


「そんな、小っちゃい子じゃないんだからさ」


「いいじゃない。カブトムシの研究してる時点でガキっぽいんだから、最後までガキっぽくいこうよ」


「……分かったよ」


 藤井に押し切られる形で翔太は了承した。二人はサナダマルを貰った林まで行って、彼を埋めてあげることにした。



 サナダマルの亡骸が入ったままの飼育ケースを自転車のカゴに載せ、待ち合わせ場所まで行った。本日も晴天、夏の暑さが和らぐ気配はまだない。


 藤井は先に着いていた。彼女の自転車のカゴには肩掛けバッグが入っている。翔太と飼育ケースを順番に見たあと、


「サナダマル、残念だったね」


 と、少し寂しそうに言ってくれた。翔太は頷いた。


「じゃあ、行こっか」


 藤井は声をいつもの調子に戻す。そして、二人は林に向かって走り出した。



 林の近くで自転車を停め、木々の間に向かって歩いていく。林の中をしばらく歩いたところで立ち止まり、二人でお墓を作り始めた。手のひらより大きくて平べったい石が転がっていたので、それを墓石に選ぶ。適当な木の下に穴を掘り、サナダマルの亡骸を入れ、丁寧に埋める。


「初めてのペットだったんだ」


 翔太は唐突にそう言って、墓石を立てた。藤井は花を添えるような静かな声で「うん」と頷く。それから二人はしゃがんだまま手を合わせた。


 弔いが終わると立ち上がり、藤井は翔太の背中を優しく叩いた。


「ほら、元気出して」


「別に、そこまで落ち込んでないよ。カブトムシが死んだくらいで」


 と言いながら、翔太の声はまだ沈んでいる。


「ねぇ、コンビニでアイスでも買っていかない? 新しいので食べたいやつがあるの。きっと美味しいよ」


「ああ、いいよ」


「やった」


 藤井は嬉しそうに小さくガッツポーズをすると、林の外に向かって歩き出した。翔太はその背中に向かって言った。


「藤井」


「何―?」


 藤井は振り返った。陽光が枝葉に遮られる林の中、彼女の姿が木漏れ日に照らされて微かに煌めいている。


「……ありがとう」


 翔太はようやく微笑むことができた。


「うん、いいよ」


 そう言って、藤井も控えめに笑い返した。



 再び自転車に乗り、辺鄙な道路沿いにあるコンビニへ行く。冷房の効いた店内に入ると気分も大分軽くなった。藤井は真っ先にアイスのショーケースへ向かい、中を物色する。


「あったわ、ギリギリ君の新しい味」


「何味?」


「ピーマンの肉詰め味」


「それはアイスじゃない状態で食べたいな」


「いいじゃん、一緒に食べてみようよ」


「まあ、藤井がそう言うなら」


 そもそも翔太はピーマン自体が苦手なのだが、物は試しだ。折角なので挑戦しようと思い、二人で一本ずつ買って外に出た。コンビニの前ですぐに袋を開ける。その棒アイスは、全体的には薄緑色なのに芯に近い部分に茶色や赤色が透けて見えるという、率直に言って気持ち悪いカラーリングであった。


 おぞましいアイスをおそるおそる食べ始める。何口か食べてから、藤井が訊いた。


「どう? 美味しい? ピーマンの肉詰め」


「普通にクソまずいな」


「そう? 私は全然いけるけど」


 美味しいそうに食べ続ける藤井。だが翔太は、人類が口にできるギリギリの味だと思った。それから露出した木製の棒部分を見て、恐ろしい事実に気が付いた。そこには「当」という文字が刻まれていた。「当たりじゃないよ」と続いてほしかったが、当然そんなことは起こらない。


「当たってしまった……」


「わぁ、おめでとう」


「このアイス、好きならあげるよ」


 藤井は嬉しそうに当たり棒を受け取った。


「えっ、いいの? ありがとう。じゃあ貰ってくるから待ってて」


 翔太は言われた通り、店の前でそのまま待った。すぐに戻って来ると思っていたが、予想より少し時間がかかった。それもそのはず、店から出てきた藤井はギリギリ君の他にチョコアイスも一本持っていた。


「どんだけアイス食いたいんだよ」


「違うわよ。こっちはアンタの分」


 藤井はチョコアイスの方を翔太に差し出す。


「えっ、いいの?」


「だって山田、チョコアイス好きだって言ってたじゃん」


「そうだけど、藤井に言ったっけ」


 翔太はとりあえずチョコアイスを受け取る。


「私、物覚えはいいの。本当に私のことが好きなのか確認したとき、チョコアイスが好きだって言ってた」


「何だそれ、まるで意味が分からんぞ」


「しょうがないじゃない、バカなんだから」


「じゃあ……しょうがないか」


 そのことについてはこれ以上考えないことにした。袋を開け、二人で黙々とアイスを口に運ぶ。二本目のギリギリ君を食べ終わると、藤井は恍惚とした顔になっていた。


「アイスを二本続けて食べるなんて、なんて贅沢! これぞ豪遊ね」


「そうだ、二本目のお金返すよ」


「いらないわ。アンタからは当たり棒貰ったんだから公平でしょ」


「ん? そういうことになるのか?」


「そういうことになるの」


「まあ藤井が言うなら、そうなんだろうな」


 翔太はまたしても考えることをやめた。実際には藤井の言う通りだが、翔太がアイスを一本プレゼントしたという事実も金銭的には帳消しになり、上手く言いくるめられてしまっていた。


 今日はこれで解散かと思ったが、藤井が再び提案した。


「まだ時間あるんでしょ? ちょっとサイクリングでもしようよ」


「サイクリング?」


「うん。自転車でその辺をぶらぶら」


「まあ、いいけど」


「じゃあ、私について来て」


 藤井が先頭になり、自転車でコンビニを発つ。この町は大きなショッピングモールがあるけれど、そこから少し遠ざかれば田畑が広がる郊外だ。畑の間に伸びる細い道路を二人であてもなく走って行った。


 陽が傾き始めた空の下、目の前にいる藤井をずっと追いかけている。矢島の言っていた、体育で走るときのフォームが好きというのはよく分からなかったが、自転車に乗り、夕暮れの風に髪を梳かしている後ろ姿は素敵だと思った。


 やがて藤井は大きな川沿いの土手で自転車から降りた。


「ちょっと来て」


 手招きをして、傾斜になっている芝生の上に腰を下ろす。


「どうしたの?」


 翔太も藤井の隣に座った。川の向こう側には、だだっ広い自然の風景が見える。


「今から私の宿題を完成させるから」


「えっ、宿題終わってたんじゃないの?」


 翔太が不思議そうな顔をすると、藤井は肩掛けバッグを開け、瓶で作ったスノードームを取り出した。藤井の家でも見せてもらった彼女の自由研究だ。空の国というのがモチーフになっている。


「これ、なんか物足りないと思ってたんだよねぇ」


 そう言って、ゆっくりとスノードームを夕陽にかざした。翔太も横からそれを覗き込む。そして、様変わりしたスノードームに息を吞んだ。


 瓶の中の背景が夕焼け空となり、そこに詰められた雲の世界が優しいオレンジ色に染まっていた。ラメパウダーに光が反射し、星屑の欠片となってゆらゆらと舞っている。


 スノードームの中の別世界に目を奪われ、無意識のうちに呟いた。


「なんか、天国みたいだな……」


 翔太はそれを眺めながら、サナダマルのことを思い出した。スノードームの中の天国にいるサナダマルを思い浮かべた。すると藤井も同じことを思ったらしく、


「サナダマルも天国に行ってるといいね」


 と、囁いた。彼女の優しさに胸の真ん中辺りがじんと温かくなる。


 そして藤井はもう片方の手で、バッグからまた何かを取り出した。


「ねぇ、お父さんのデジカメ持って来たの。私がスノードームを持ってるから、これで撮ってくれる?」


「……ああ、いいよ」


 翔太はデジタルカメラを受け取って構えた。藤井はスノードームを両手で持って支えている。スノードームを撮る前に、こっそり藤井の顔をズームアップしてみた。


「撮るのは私じゃなくて、スノードームだよ」


 なぜかバレた。藤井は頬を染めて膨れている。気を取り直し、ちゃんと夕陽がスノードームの中に入るようにしてシャッターのボタンを押した。


「撮れたよ」


 デジタルカメラを返すと、藤井は写真をチェックして満足気な表情を浮かべた。


「ありがとう、これで私の自由研究は完成したわ」


「それは良かった」


「山田と一緒に撮ったこと、他の誰にも言っちゃダメだよ?」


「なんで?」


「なんでも」


 それはそうと、翔太は自由研究という言葉を聞いて、一つ思い出した。


「そうだ、宿題終わったらデートしてもらえるんだった! いつ行く?」


「えっ、今日デートしたからもう終わりだよ」


 無慈悲な宣告に目が点になり、固まる翔太。数秒経ってから、ようやく声を発することができた。


「今日のってデートだったの!? 全然気付かなかった!」


「あら、デートってこういうのじゃないの? 一緒にアイス食べたし、サナダマルのお墓も作ったし」


「カブトムシのお墓を作るデートって何さ!?」


 諦めきれず、手を叩いて抗議し始める。


「もう一回! もう一回!」


「そんな、アンコールみたいに言われても……。そうねぇ、次は……」


 が、藤井は恋人でもないのに次のデートのことを考え始めている自分に気付き、ハッとした。


「って、何言ってんの! 次なんてないわよ!」


「そんなぁ、なぜか一回分損した気分……」


 しょんぼりする翔太。藤井は「バーカ」と言って、くすくす笑う。デジタルカメラで撮ることはできなかったが、夕陽に照らされる彼女の笑顔は翔太の恋心にしっかりと焼き付いていた。


 こうして少年は、夏の終わりにまた一歩、大人に近づいたのであった。

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