6.恋人=他人未満
来るはずがないと思っていた美里がそこにはいた。
そしてその様子が明らかにおかしい。
あんなことがあった後なのに、俺に対して怒りや悲しみといった負の感情をぶつけてくる気配が一切ない。
それどころか天使のような微笑みをこちらに向けてくる。
本来であれば、俺に罵声を浴びせてきてもおかしくはない。
罵声だけではなく手が出ることだってあり得る。
むしろそうでないことが異常なのだ。
一体どういうことだ?
あの時美里は泣いていたはず……。
これだとまるで何もなかったみたいじゃないか……。
「なんで……来たんだ?」
最初に口から出たのは謝罪ではなく、美里が俺の家に来たことへの問いだった。
「なに言ってるのカズくん。ご飯の時間だよ? 夕飯を食べに来たんだよ」
確かに普段ならこの時間は美里が夕飯を食べに来る。
しかし美里の答えには違和感を覚えてしまう。
「ねえ、カズくん。唇が切れてるけど、どうしたの?」
美里はそんなこと関係なしに、いきなり人差し指を俺の唇の端に当ててきた。
どうやら亮に殴られた時に少し切れてしまったらしい。
「ああ、これは亮――」
「渋沢が!? カズくん大丈夫!? 他に何かされなかった!?」
美里は慌てた様子で俺の全身をベタベタ触り、他に怪我がないか確認してくる。
ん? 亮のことを呼び捨てにしたような……。
『お~い、和也どうした? もしも~し』
スマホのスピーカーから亮の声が聞こえてきたことで、ふと我に返る。
そういえば、電話を切っていなかった。
一度電話を切るために、スマホを耳に当てようとした瞬間――
「渋沢! お前がやったのか!」
手にあったスマホは奪い取られ、美里の耳に当てられていた。
スマホを握る手には相当な力が入っているのか、スマホのバイブレーション機能が働いているみたいにブルブルと震えている。
「いいか! 私が付き合ってやるって言ったのは、お前みたいなクソゴミボケナスからカズくんを守るためだ! 勘違いするな!」
美里が俺を守る? 亮から? 何を?
……ああ、だめだ。
さっきまで、亮と話がまとまりかけていたのに訳がわからくなった。
美里はさきほどまでとは打って変わって、地獄の閻魔も驚愕するレベルの鬼と化した。
目はそのまま眼球が飛び出すのではないかと思えるほど見開かれており、瞳孔の回りには数えるのが馬鹿らしくなるほどの血管が浮き出て真っ赤っ赤になっている。
そして体は小刻みに震え、鼻息も荒い。
「ねえねえねえねえ?
なんでカズくんを傷つけたの?
どうして傷つけるの?
カズくんの友達なんだよね?
なんで?
なんでなんでなんでなんでなんで?
村山さんに最初にフラれた時も村山さんの友達に同じことしたよね?
なんでまた同じことするの?
平気でできてしまうの?
人の気持ちがわからないの?
どうしてわからないの?
カズくんが、『幼馴染』が、私にとってどれだけ大事かわからないの?」
同じことをした?
亮が誰かに暴力を振るったってことか?
俺は何も知らない。
もはや正気の沙汰とは思えなかった。
矢継ぎ早に問いかけられ、亮は答えることがてきないのか、スマホからはなんの音も聞こえてこない。
『……』
「二度とカズくんと私に近寄るな! 話しもするな! 視界にも入るな! そしたら恋人なんていう何の役にも立たない他人未満のゴミみたいな関係は続けてやる! わかったな!」
いや、流石に俺は同じクラスだし視界に入らないのは無理だろ……。
まるで他人事のようにそんなことを思ってしまった。
美里は亮の返事も聞かず、スマホから耳を離して電話を切った。
俺にはわからなかった。
美里が何を言っているのかも、俺が何をすればいいのかも。
ただ呆然としていることしかできなかった。
「あ、カズくんのスマホ勝手に使ってごめんね」
美里の鬼の形相が嘘だったかのように消え去り、また天使のような優しい顔に戻っていた。
そして美里は俺にスマホを渡してきて、受け取った手を両手で優しく包み込むように握る。
「大丈夫、私カズくんの気持ちわかってるから……。あの時カズくんが傍にいてくれたみたいに、私も傍にいるからね」
何故だろう……嬉しいはずの言葉なのに、それがとても恐ろしいものに聞こえて仕方がない。
「あ……あ、ありがとう。それより美里、腹減ってないか?」
俺はそんな間抜けなことしか言えなかった。
いろいろ聞きたいことはあった。
亮から俺を守るとは何なのか、美里にとっての恋人とは何なのか。
だが、考えがまとまらず声に出すことかできない。
さっきの出来事が頭の中をグルグルと回り続け、まともな思考ができなかった。
「うん、私お腹ペコペコだよ! 一緒にご飯食べよ!」
俺は亮との約束をさっそく破ってしまった。
二人でリビングに行くときに腕を掴まれ、とても一人で食べてくれとは言えなかった。
お互い無言のまま夕飯を食べる。
いつもなら学校で何があったかなどたわいもないこと話すのだが、今日はいろいろありすぎた。
そんな中、美里が口を開く
「そういえば私のスマホ壊れちゃったから、何かあるなら家に電話して欲しいな」
「そうか、わかったよ」
美里から返信がなかったのはそれが原因だったらしい。
そんなことはもうどうでもよかったのだか、理由が分かり少しだけスッキリした。
食事が終わり、俺は俺と美里の分の食器をまとめて台所に持っていこうとすると、その手を美里から止められた。
「私がやるよ」
「いいよ。俺がやっとくからTVでも見ててくれ」
「うふふ、ありがと」
台所の戸棚には包丁が仕舞ってあり、さっきの美里のことを考えると近寄らせたくなかった。
俺が食器を洗っている間、美里は笑顔のままじっとこちらを見ていた。
美里は俺が動くと、同じように動いた先へ顔を向ける。
方位磁針みたいに俺から視線を外すことはなかった。
美里は俺の母さんが帰ってくるまで俺の家に居た。
母さんが帰ってきてからも美里は俺の家に居続けようとした。
しかし夜も遅かったので、母さんから車で家に送ってもらうことになった。
結局、俺の家に亮は来ることはなかった。
美里が帰った後、亮にメッセージを送ったが反応はなく、電話をかけてもでることはなかった。
俺は精根尽き果て、その日は泥のように眠った。
そして次の日からだった。
美里が俺から片時も離れなくなったのは。




