悪役令嬢の娘は幸せになる夢を抱き、ヒロインの娘は運命を信じる。
「エリザベス、貴方はわたくしの誇りですわ」
母は何度もそう言っていた。
国王である父によく似た私の金色の髪を愛おしそうに撫ぜ、幸せそうな顔をする母の膝の上は温かい。
「わたくしのことを悪役令嬢だと失礼な物言いをしてくださったヒロインは無事に国外に追い払うことができたのも、エリザベスを身籠ったお陰ですのよ」
母は時々おかしい言葉を使う。
悪役令嬢、ヒロインと聞いたことのない言葉だ。母には意味のある言葉に聞こえているのだろう単語は私は好きではなかった。
「エリザベス。わたくしの愛おしい子」
自分自身のことを悪役令嬢と表現する母の顔は険しい。
「どうか、ヒロインに負けないで」
忙しい父とまともに会うこともない私には母だけだった。
母にとって、私は父の代わりでしかないのだと幼いながらにわかっていた。
* * *
「――お初にお目にかかります、エリザベス姫様」
淡い紫色の髪は国花である菫のようだった。
「ビオラ・オルコットと申します。短い期間ですが、よろしくお願いいたします」
父が招き入れた異国人の娘。
淡々とした挨拶は可愛げのないものだった。
「……ビオラ」
「はい。なんでしょうか」
「私は貴女なんて相手にしないわ」
私の遊び相手として抜擢されたとは思えないほどの強い目をしていた。母がこの娘を一目見た途端に声を荒げた気持ちも理解できる。
「お父様が気にかけているからといって調子に乗らないでちょうだい」
純粋無垢な子どものような眼をしている。
菫のような淡い紫の髪、雲一つない青空と同じ色の眼。
それは父が隠し持っている写真に写る女性と同じ色だった。
「姫様! どちらに向かわれるのですか?」
「貴女には関係がないわ」
「いいえ。わたしはお母様から姫様と一緒にいるように言われたのです! ご一緒させてください!」
数年前までは交友のなかった国の生まれだと言っていた。唯一の姫である私と交友関係を抱くことにより、少しでも国益を上げようと企んでいるのだろうか。
それならば、まだ可愛げがある。
私はビオラを無視して歩き始める。
この城は私の家。もっとも住み慣れた場所。
「ポール!」
今日、誰が訪れるのかもよく知っている。
母に忠誠を誓っているメイドたちが教えてくれる。
「私に会わずに帰ろうとするなんて許さないわよ」
母がお気に入りの庭師に手入れを任せている中庭の薔薇を見ていたポールは驚いたような顔をしている。
「申し訳ございません、姫様。今日は父の付き添いで来たものですから――」
ポールは私の婚約者だ。
私の初恋はポールだった。その恋は今も続いている。
「知っているわ。言ってみたかっただけよ」
この場にいる誰よりも私がポールのことを見てきたわ。
「……ポール」
私の知らない顔をしている。
私が見たことがない顔をしている。
どちらかと言えば、青白い肌をしているポールの頬は薔薇のように赤くなり、目の前にいる私よりも後ろに視線を向けている。露骨なまでに見開かれた目、信じられないと言わんばかりに何度も瞬きをしている。
「姫様、後ろにいらっしゃる女性は……?」
私がポールを見る目と一緒だ。
でも、ポールが見ているのは私ではなく、ビオラだった。
「ビオラ・オルコットよ。オルコット公国の公女様。公国は知っているでしょう? 十年前に認められたばかりの新興国よ」
「あの有名な公女様がなぜ王国にいらしているのですか?」
きっと、ポールは無自覚だった。
それを自覚してできるような人ではないことは、私が誰よりも知っている。
「気にかけることはないわ」
ポールの腕を掴む。
「姫様。人前でそのようなことをするのは許されませんよ」
今まで、私に何をされても拒むことがなかった。
それなのに、ポールは身体を引いた。初めてだった。
まるで正しいことを口にしているかのような言い方で私を拒絶したポールの視線は私に向けられていない。
* * *
今になって思い返せば、あの日が全ての始まりだった。
城のことはよく知っていた。私の家だった。
それ以外のことは何も知らずにいたのだと実感する。
国王である父は残虐な人だった。王位継承権を持っていた兄妹を殺害したり、国外追放をしたり、様々な手段を使い王位を手に入れた人だった。
母はそんな父のことを誇りに思っていた。
私は父を非難することは一度もなかった。きっと、父のやり方に反対をしていれば、私は愛するポールと婚約をすることもなく、死んでいたことだろう。
「……よく見えること」
古びた塔の窓格子を掴む。
外が見えるようになっているのは私に対する嫌がらせなのだとわかっていた。
見ても見なくてもいいと言い放った近衛兵の言葉には深い意味などないのだろう。
「お父様、お母様」
塔の下で行われているのは公開処刑。
処刑されるのは私の敬愛する両親だ。
「どうして、こうなったのかしら」
涙は枯れるほどに流れた。
オルコット公国による武力行為が引き金となって起きた戦争。戦争に勝ったのは公国だった。
そして、本来ならば王国の王位継承権は公国にあると言い切ったのはビオラだった。
ビオラの父は、私の父の弟だった。
父が殺すことを躊躇い、国外追放にすることで生かした男の娘だった。
「ポール」
私の婚約者だった。私の愛おしい人だった。
ポールは両親の公開処刑を指揮するビオラの隣に立っている。処刑の順番を待っているわけではない。
処刑をする側として生き残ることを選んだ男だった。
婚約者である私ではなく、公国の侵略者として訪れたビオラを選んだ。裏切り者だ。それなのに、幼い頃から抱いてきた恋心は簡単には消えてはくれない。
「ポール」
名を呼んでも応えはない。
塔の中に閉じ込められた私の声はポールには届かない。
「どうして、ビオラを選んだの」
母の話を思い出す。
悪役令嬢として生まれても、ヒロインに勝つことができるのだと何度も言っていた。愛を守り抜いたのだと言っていた。
母は父よりも先に首を撥ねられた。
血が飛び散る。首が落ちる。身体が崩れる。玩具の人形を壊すかのように母は命を奪われた。母の血を拭うこともなく、続いて父の首が撥ねられた。
両親の死を見つめることしかできなかった。
明日、あの場に立つのは私だ。
明日、ビオラの声で死刑執行が言い渡される。
明日、ポールが見守る中、私は殺される。
「最悪ね」
窓際から手を離す。
まともな拘束具も付けられていない。
私が逃げられないことを知っている相手が用意した古びた部屋だ。
亡命に手を貸すような人がいないことも、私に抗うような力がないことも知っているポールが手配したのだと言っていた。
「どうしようもないのよ」
公国の悲願を果たしたビオラのことを救国の聖女だと誰かが言っていた。
王国を継ぐべきなのは私ではなく、ビオラであるべきだと誰かが言っていた。
「きっと、ヒロインには、勝てないのよ。お母様」
ビオラによって拘束された母は、ビオラのことをヒロインの娘だと言っていた。
母の恐怖がよくわかる。
何度も何度も聞かされた物語の恐ろしさを実感する。
今日は眠ることはできないだろう。目を閉じてしまえば、塔に閉じ込められることになったあの日のことを夢に見そうだ。
ポールがビオラに心を奪われるきっかけとなった薔薇園は跡形もなくなっているだろう。それすらも、美談のように語られる日が来るのだろう。
古びた布を掴む。
これをかけて寒さを凌ぐなど考えたこともなかった。
それも、明日までの話だ。
明日、私は公国に逆らった敗戦国の姫として殺される。
きっと、死ぬ間際まで愛おしい婚約者のことを忘れられないだろう。
寝られないとわかっていながらも、私は目を閉じた。